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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

五 銃後施設・戦時教育と県民

 銃後施設と県民

 開戦に決した明治三七年二月一〇日、政府は臨時地方長官会議を招集した。その席上桂首相は、「時局に際し最も急要なるものは軍費の調達で、国庫債券の募集は挙国一致の奉公の義心で応ぜんことを望む、その他、政府は戦時財政に関して別に企画するところあり、これは地方財源にも多少影響することあるべし、各位は主務大臣の指示に従い、此際、地方の事業、経済に関して宜しく緩急を稽査し、以て相当の措置を施さるべし」と訓示し、さらに出征軍人家族の擁護に努めることをはじめ、国民を各業務に精励させ、物価抑制を図ることなどを指示した。この戦争が大国ロシアを相手にする戦争だけに、日本にあっては国家の総力をあげて戦争を遂行する体制を作ることが緊要であった。
 こうした方針のもとに、政府は戦争遂行のため必要な諸政策を立案実行し、県においてはこの政府方針に即応して、戦時施設を推進したのであった。まず、軍事費徴達を背景に、政府は地方税に制限を加え、各府県に対し極力緊縮政策をとるよう指令した。県では土木費を中心として事業の中止、繰り延べ、補助金の削減を行い、緊縮を図った。また、勤倹貯蓄の美風養成の指示のもと、県はたびたび告諭を発して県民に貯蓄を勧奨するとともに、「勤倹貯蓄組合準則」を制定訓令して共同貯蓄を奨励した。そのほか、国債の応募については、郡長はじめ町村長や役場の吏員らが勧誘に努め、地租や所得税額を基準に割り当てた結果、予定額一二五万七、二〇〇円に対し二〇八万六、〇〇〇円の応募があり、予期した以上の成果を得た。
 勧業関係では、先の地方長官会議で清浦農相が訓示して、兵士の出征に伴う労力不足や肥料不足のなかで、農業生産力を維持し、また清国・韓国への貿易を発展させねばならないと説いた。県では、明治三七年五月一四日「愛媛県戦時農業督励規程」(資社経上 二七~二九)を告示し「上下協力斯業の改善発達を期し、以て農業者として奉公の誠を致し邦家の期待を空うするなからしめん」と告諭を発して農家を激励、督励に努める事業として、稲麦種子の塩水撰・害虫駆除予防・麦黒穂の防除・緑肥作の普及・堆肥改良の実行・普及を推進した。加えて、農家の副業として麦稈(ばっかん)及び経木真田(きょうぎさなだ)、畜牛の改良、耕地整理、蚕業などの奨励の推進に努めた。林業では、戦時の記念事業「戦役紀念林」の設置を学校や町村に求め、一郡八二町村一五二か所、九四九町六反歩が設置され、従来の実績に比し三倍の多きに及んだ(資近代3 三九六~三九八)。
 衛生関係では、開戦以来、戦闘地域が次第に拡張するのに従い、防疫上からみると病毒の内地に伝染する機会も多くなると考えられるところから、県は「戦時伝染病予防注意の告諭」(資近代3 五二二~五二三)を発し、県民一般に注意を促し、各自自衛の途を守るよう留意を求め、井水については衛生当局者をして検査をするとともに清潔法を励行して春秋二季には汚物掃除を行わせている。
 戦時にあって出征軍人の便益及びその家族の慰安には最も意が用いられた。出征軍隊の歓送迎は、県官公吏、学校職員生徒その他団体の有志などがこれに当たり、士気の振作に努めた。特に、凱旋部隊の歓迎については、留守第一一師団長の希望によって、「軍隊歓迎協定」が作られ、四国四県が同一歩調をとることとなった。本県では、知事を会長とする「愛媛県凱旋軍隊歓迎会」が組織されて、高浜港に上陸する松山・高知連隊の歓迎に当たり、盛大を極めた。
 傷病兵の慰問については、当初、香川県善通寺傷病兵士予備病院に、県官吏及び各種団体の代表者がたびたび慰問に訪れた。戦病死者の葬儀は、遺族を招いて営内(松山市堀之内)で神仏式による荘厳な祭式を行った後、遺骨、遺髪を遺族に交付し、その階級に応じて一定数の護衛兵を付してその郷里に送還させた。また、各自の郷里における葬儀の場合は「町村葬」とし、遺族が自葬を行う場合には町村吏員・兵事係が斡旋の労をとり、葬儀には県知事の弔辞、郡長以下町村吏員、公共団体、学校職員生徒が会葬した。松山市では、松山将校集会所が主催となり三回にわたって営内練兵場で合同葬儀を営んでいた。
 軍資金及び恤兵金品の献納寄附については、開戦以来、国民一般から報国意識高揚のなかで、とみに多数の申し出が寄せられた。当局はこれに対し、一般には国債に応募させる方針としたが、特志者に限りこれを受納することとし、海軍は経理局に恤兵官吏を置き、陸軍は各市町村長がこれを取り扱うこととした。

 諸団体の銃後活動

 政府は、「下士兵卒家族救助令」を発布し、県においては明治三七年五月六日施行細則を定めた。それによれば、出征兵士遺家族のうち、生業扶助・現品給与・施療・現金給与を受けようとする者は、願書を市町村長に提出することとし、その救助は各市町村内の「武揚会」または「兵事支会」が委嘱されて行うこととされた。
 兵事会は、有事の日にあたり郷党互いに救援し、出征者が後顧の憂いをなくすることを目的に、明治一七年県下各町村に設けられた「兵事集談会」に発するが、同二二年、改正して「兵事会」を各郡市に組織し、さらに同三六年規則を改正し、軍事思想のかん養に努めた。開戦後、先の県令施行により、軍人遺家族の扶助・生業・授産及び軍隊の歓送など、会務の内容を充実させた。
 一方、「武揚会」については、最も活躍したといわれる「松山武揚会」の活動実績を示すと次のようであった。同会は、明治三三年の創設で、その趣旨は「兵事会」と同様であった。創設当時、わずか会員二〇〇人余であったが、開戦とともに激増し、一、二〇〇人に達した。活動としては、戦時応召者及び出征軍人の慰労歓送、戦死将卒の弔祭・葬儀への参列、軍人遺家族への生活扶助・就業斡旋、軍需品(布団・病衣)の供給、軍用被服などの洗濯、軍隊残飯の払い受け、軍人遺家族に対する授産場の設置などであった。このうち、軍人遺家族に対する生活扶助としては、赤貧にして糊口に差し支える者に対し、一人一日大人五銭・小人三銭宛を給与し、その人員は一九六人、戸数一〇三戸を数えた。就業斡旋としては、俘虜収容所の委託による布団八、六六三枚、病衣一、〇〇〇枚の調整、軍用被服洗濯を同会が請け負い、三三人を従事させたほか、軍隊残飯の払い受け、転売の事業、帝国軍人後援会から三、〇〇〇円の寄附を受けて松山市豊坂町に授産場を設置、機業を開始するなど軍人家族や遺家族を就業させていた。
 婦人団体関係では、日本赤十字社篤志看護婦人会愛媛支会及び日本赤十字社救護班が、俘虜収容所附属病室や善通寺予備病院道後転地療養所において医官の補助に多大の協力をしたことが特筆されるほか、明治三六年創設の愛国婦人会愛媛支部が、遺家族及び戦傷者の救護に当たり、そのうち経木麦稈真田組み方事業に遺家族を従事させ、良好な成績を収めた。

 戦時下の教育

 開戦直後の二月一三日、県は訓令を発し、「今日ノ如ク振古未曽有ノ事変アルニ際シテハ、一層義勇公ニ報スルノ趣旨ヲ貫徹センコトヲ謀ルト共ニ、将卒従軍ノ艱苦辛酸甚容易ナラサルヲ想ヒテハ其ノ遺族ヲ慰安スヘキ道ヲ知ラシメ、又軍需ノ莫大ナルヲ察シテハ日常学用具ノ微モ亦質素節約ヲ主トシ、以テ国家ノ用ニ俟ツヘキ所ヲ知ラシムル等、凡テ非常ノ時ニ処スルノ心得ヲ誤ラシメス、苟クモ時艱ニ際シテハ少長国ニ殉スルノ愾アラシムヘキコト是レ今日ノ一大要務ナリトス」(資近代3 四四七~四四八)と指示した。こうした訓令を受けた県下の諸学校では、共にあげて戦時教育に取り組んだ。
 小学校では、教員は「奉公義勇会」を組織して勤倹貯蓄をし、国債募集に応じた。学校に奉公箱を設け、醵集(きょしゅう)金を恤兵献納にあて、梅干を集めて恤兵部に送ったり、餅を集めて出征家族に贈った。出征者に児童の製作品や慰問状を発し、職員生徒ともに出征兵士の家族を慰問し、家事や農作業の手伝いをする、戦時講話会を開いて戦況の周知徹底に努める、軍人の送迎、戦死者の葬儀に参列する、農事督励事務を助け、害虫駆除などに当たり、また、紀念学林や学校庭園を作って植樹活動なども行うという具合に多様な活動が展開された。
 師範学校では、毎日、校長が戦況と義勇奉公の事項を談話、修身の時間では忠君愛国、節倹、公徳、博愛、同情、規律、武勇の精神を教えた。松山中学校では、修身・歴史・地理その他の教科で時局の情勢を教え、日本軍が旅順などの重要地点を占領したときは、生徒を講堂に集めて、校長が宣戦の詔勅を奉読して一場の副諭を与え、出軍司令官に感謝の旨を打電することを慣例とした。松山高等女学校では、軍人の困苦欠乏に耐える事例及び留守をあずかる母と妻の嘉言善行を修身の教材にして、銃後の女性の道を教え、その他傷病軍人待遇の心得、恤兵資金の献納、赤十字事業拡張の必要性などを指導した。また、同校生徒は、松山の傷病兵士を慰問して挿花で病室を飾り、松山武揚会の委嘱を受け、布団五、〇〇〇枚を昼夜兼行で縫製した。県立商業学校では、日露戦争の起因、戦況、出征軍人の勇敢な行動、戦時生活の困難な状況、遺族及び留守家族の状況、殉難志士の顕彰、戦費の収支、勤倹貯蓄と各種寄附、義援金などの必要性を、新聞雑誌などを素材に活用し教授した。県立農業学校では、農具の改良、種子の交換・選良などの戦時農業督励事業に参与し、留守家族と遺族の農事の援助に努めた。
 青年団では、夜学や勤倹貯蓄の実施などによって、青年の智徳修養、風紀の改善などが強調され、軍人遺家族の手伝い、慰安・扶助などに努めた。一方、県は、一般に対して戦端を開くに至った事情並びに時局の要領を周知し、困難に際し挙国一致の実を挙げ、人心を作興して士気を旺盛にさせる趣旨で、明治三七年五月、郡市長に訓示を与え、管下学校職員にその趣旨を移して、講話会の開催及び戦局の掲示、祝捷(しゅくしょう)運動会の開催、紀念図書の縦覧所及び児童文庫の設置を奨励した。
 さらに、「時局に際し曠古(こうこ)の事変を永遠に紀念せしめ教育上其感化を長へに持続せしむ」との目的をもって、学校において施設経営させたものが少なくない(資近代3 四九六~五〇四)。その第一は、開戦紀念学校林及び代用学林基本財産の設置であった。県では、「開戦紀念学林設置規程」(資近代3 四四八~四五〇)。を発布し、将来にわたって学校経済基礎の確立を図ろうとした。訓令と同時に県は、直接郡市長・郡視学に訓示し、さらに学務当局者並びに林業技師などを県下各地に派遣し、町村当局者及び県民を集めて基本財産設置の必要と造林の利益を懇篤に説示していった。その結果、明治三九年三月末で、学林設置の町村一六六・四組合で、学校三一九校、面積一、九〇七町余を算するに至った。なお、このうちには従来の「学校植樹法」による樹栽地一三〇町歩余のうち、約五七町歩が紀念学林に加えられていた。また、学林の代用として金穀を蓄積するものは、六八か町村九組合・一一二学校であった。第二に、学校敷地内における紀念植樹については、「紀念学校園」を設置した学校数九三校、坪数で四、六六四坪(明治三八年度末)であった。第三の紀念図書縦覧所及び児童文庫の設置については、明治三八年度末で、文庫または簡易図書館が三二、図書縦覧所八、児童文庫二となっていた。そのほか、校費緊縮の結果、校舎はもちろん、備品などで不備なものについて、「紀念設備」と称した寄附・校費設備が、一四六か町村一七六校において行われていた。
 県内務部は、各学校・郡市から報告を受けた「戦時教育事蹟」(愛媛県立図書館蔵)をまとめ、明治三九年に『戦時ニ於ケル本県教育』の小冊子を刊行した(資近代3 四九〇~五二一)。