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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 後備歩兵第22連隊の戦闘

 編成及び出征

 連隊の出征した後の兵営には留守部隊が待命していたが、明治三七年六月八日、後備歩兵第22連隊の編成が、同第12・同第43連隊とともに下令された。初代連隊長には中佐香渡範三郎が任ぜられ、同二一日には連隊旗手が軍旗を受領して善通寺の留守師団司令部から帰着し、翌二二日、城北練兵場において「拝受式」を行った。連隊の編制は二個大隊という一回り小さいもので、占領地の警備などが本来の目的の部隊であった。出征までの四〇余日間、野戦訓練に励むかたわら、松山俘虜収容所の警備にも服務した。
 八月二~三日、高浜港から乗船征途につき、七日、柳樹屯に上陸し金州城外に露営した。上陸後連隊は、後備歩兵第12・同第43連隊とともに後備歩兵第11旅団(長・少将隠岐重節)の指揮に入り、第2軍の隷下にあって北進を開始した。

 遼陽会戦

 八月三〇日、わが軍は各方面から一斉に遼陽に対する総攻撃を開始した。旅団は当初、第2軍の総予備隊となっていたが、連隊は第3師団の予備隊となり、三一日、シヤオヤンスイ東方高地の戦闘に加入し、激戦の末同地を占領した。この時、第1大隊長水原少佐が戦死している。
 九月一日、遼陽を放棄した露軍を追って前進し、四日には太子河左岸に進出した。
 同月一八日、戦闘序列の改編で旅団は第4軍の総予備隊となった。一〇月一日には転出した香渡連隊長の後任に中佐河村光治が着任した。

 沙河の会戦と対陣

 同月九日、第4軍は奉天街道ぞいに露軍を圧迫すべく行動を開始した。一二日、旅団は第10師団長の指揮下に入り、三塊石山攻撃に参加し、軍旗とともに突撃してこれを占領、さらに丸山高地、摺鉢山高地も攻撃して一三日これを占領した。一四日、連隊は西溝山付近の戦闘に参加し、東山口に進出、同地北方高地を守備して夜を徹した。この一連の戦闘において連隊は百数十名の死傷者を出した。
 その後連隊は三角山付近の占領地の守備についていたが、一〇月二〇日になって再び軍の直轄に戻った。一一月一八日、新任連隊長中佐菅波允升が着任した。このころ連隊は軍左翼隊の予備隊となった。一二月八日には再び旅団長の隷下に復し第一線部隊となって北長岑子高地に、翌三八年一月二二日には守備地域の変更で川上堡塁より勝山西麓(東清鉄道沙河停車場の東方約四キロメートルで、奉天街道ぞい東側の地点)に陣地を占領し、以降厳冬期を迎えて沙河の対陣に入った。

 奉天会戦

 奉天に向かって戦機が動きはじめたのは三月一日。軍左翼隊(後備歩兵第3・同第11旅団・野戦砲兵第一旅団基幹)は大久保支隊と改称され、旅団(長・少将友安治延)は支隊の中央隊となり、川上堡塁に集結して攻撃を準備した。二日、連隊は第1大隊を第一線とし、桑藺子・後三道崗子の露軍に対し攻撃を開始したが、前面の歩砲火の猛襲を受け、第2大隊も戦線に投入したが戦局好転せず、敵前七~八〇〇メートルの氷結した土地に散兵壕を掘開して数昼夜を経過した。この間夜間を利用して露軍の鉄条網を破壊し、突撃の機をうかがっていたが、五日早朝より砲兵の支援射撃下に各隊一斉に攻撃前進を開始した。しかし露軍の砲火はなお衰えずわが連隊の左翼に戦闘加入を命じられた後備歩兵第18連隊第2大隊の如きは、躍進して連隊の左翼に展開したころには、その集中火を浴びてすでにその兵力の三分の一を失うという有り様であった。この日の攻撃前進は成功せず、夕刻になって中止され現状を維持するに止まった。七日夜、露軍陣内後方に火焔が上るのが望見された。露軍退却の兆しと判断した大久保支隊長は、翌払暁の攻撃予定を繰り上げ、八日〇〇三〇、隷下諸隊にこれを追撃せよとの命令を発した。連隊は桑林子を経て北上し、九日は中央隊の前衛となって前進していた。〇九一〇、前兵であった第1大隊は奉天南東六キロメートル、運河左岸の三岔子付近で歩砲兵に遭遇し、直ちに兵力を展開し、前衛砲兵の支援射撃を得てこれを潰走させた。連隊長は第2大隊を前兵の右翼に展開し、渾河の渡河点の偵察に努めた。この日は風塵高く舞い、偵察は困難であったが、遂に楊官屯西北の渡渉点を見出してこれを報告した。その後連隊は同地を守備して露軍を牽制し、友軍の渾河渡河を援護した。渡河は後備歩兵第18・同第12・同第43連隊の順序で夜間を利して行われたが、各所で抵抗に会い、混戦となった。この時、後備歩兵第12連隊が急を告げたので、連隊主力はこれを救援し、翌一〇日〇五五〇には奉天東側二キロメートルの上木廠にまで進出してその第四堡塁を占領した。つづいて連隊は中央隊の右側衛となり、退却する縦隊を急追したが、わが追撃諸隊は入り乱れ、競って先陣を争っていた。右側衛の先頭にあった第2大隊も他隊の行動区域に進入し、遂に本隊との連絡を失うに至った。連隊主力は改めて砲兵一個大隊を配属されて前衛となり、一七〇〇奉天東北東一〇キロメートルの王家溝東南高地に達し、放列を布いて退却縦隊を射撃し日没に至った。このころ奉天包囲に関する軍命令が伝達され、大久保支隊も一一日朝から大きく旋回し、南面して敗走する露軍に備えようと行動を開始した。しかし支隊長が二台子の高地に到着した夕刻には、退却縦隊はすでに包囲網外に脱出しており、この旋回運動を中止して諸隊を整理した。
 奉天会戦においても連隊は第一線に起用されて果敢によく戦ったが、八三九名の戦死傷を出した。

 駐留・凱旋

 支隊は三月一六日の友軍の鉄岑占領とともに北進を続け、五月五日には鉄岑西南方二〇キロメートルの英守屯に達し、ここで連隊ははじめて舎営に就いた。六月に入って大久保支隊の編成が解かれ、旅団は軍の直轄となり、一部の輜重(しちょう)隊を併せて後備混成第11旅団と呼ばれた。同月九日、戦闘序列が改編され、旅団は再び第4軍に編入され、さらに北方に移動して開原付近に駐留した。
 休戦、平和条約批准以降は凱旋を準備し、一一月六日宿営地を出発、鉄岑より大連まで汽車輸送、大連を一四・一六の両日出帆し、同月二〇日(第1大隊は先着)連隊主力は高浜に帰還上陸した。その日の午後、城北練兵場において軍旗に対し分列式を行い、連隊長の解散告別の辞があった。この時から旅団司令部の隷下を離れ、留守師団司令部の直轄となり、軍旗は留守隊に保管されて復員業務が開始された。一一月二七日、後備歩兵第22連隊の復員は完結した。
 明治四〇年四月三〇日、東京青山練兵場において挙行された陸軍凱旋観兵式には、旗手友田少尉以下一八名が連隊代表部隊として、軍旗を奉じて参列した。
※備考 文中、朝鮮・中国の地名はこの時代の表記・呼称によった。