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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 芸予連隊(要塞重砲兵)の配備

 芸予連隊の創設

 日清戦争以前に要塞砲兵は、横須賀の第1連隊、下関の第4連隊の設立が終わっていた。戦後の国際情勢の緊迫に伴い、急速に由良の第2連隊、呉の第3連隊、芸予連隊、佐世保連隊が、また函館・舞鶴・基隆(キールン)・澎湖島にはそれぞれ独立大隊が設立された。
 芸予連隊は芸予海峡の三原水道と来島海峡とを制圧し、瀬戸内海第二の関門としての防備をするものであった。明治三一年には調査測量を終え、築城本部忠海支部より係官が出張して、用地の買収を行った。翌三二年八月、陸軍省告示第八号で要塞地帯法第一九条による要塞地帯の区域が告示されている。
 告示の記事によれば、東水道については大久野(おおくの)島に砲台を設け、要塞区域は「広島県豊田郡忠海町に於ける水面」とあり、西水道については小島(おしま)に砲台を設け、その区域は「愛媛県越智郡波止浜村に於ける水面」と指定されている。
 小島における土木工事は同三二年五月に開始された。工事は請負に付され、広島の業者がこれに当たったが、地元の有力者山田元治郎もこれに介入し、労務者は広く陸地部からも参加して数百人に及んだ。土砂を運ぶには一定量の丸い竹篭が用いられ、山の切り崩しや地固めに精を出している。一日も早く工事を終えるため、今治城築城の故事木山音頭にならった小島砲台音頭が歌われ、賃金も効率に応じて増額されたため、その進ちょくは予定を上回り、翌三三年三月に土木工事は終了した。

 火砲の配備

 土木工事に引き続き、備砲の工事が着手されるが、この時は玄人の業者を避け、芸予要塞司令官と地元の山田元治郎と直接契約で行われた。これは軍の秘密保持から考慮されたものであった。契約書には「人夫職工供給請負人心得」があって、堡塁砲台の形状や工事の景況などを口外することを厳禁する条項や、これを犯した者に対する罰則の条項があり、厳格な誓約の下に行われている。また要塞には第一から第三までの地帯区分があり、それぞれ標石が立てられた。砲台は南部・中部・北部に分かれ、発電所の設備があって探照灯を備え、弾薬庫及び地下兵員壕も設けられていた。その砲種・数量・費用・起(竣)工年月は表2―109の通りである(東京湾要塞歴史 陸軍省)。
 この連隊は平素は忠海(ただのうみ)(広島県)に駐在し、小島には一部の兵員が警備に任じていた。
 これら築城には、ドイツから取り寄せたレンガが用いられ、弾薬庫の出入口や防湿床のアーチが築造されている。また無筋コンクリートのヴォールト(アーチをもとにした曲面天井)は、その上を蔽(おお)った大量の土圧に耐えて、今日でもゆるぎなく残っている。これら新技術も、軍の機密保持のため一般社会の技術進歩に被益することはなかった。

 二八センチ榴弾砲の移動

 二八センチ榴弾砲は明治二〇年、イタリヤのぺ・グリロー少佐の指導のもとに大阪砲兵工廠において国産された大口径要塞砲である。後の日露戦争に際し、難渋する旅順要塞攻撃に急きょ増援し、ベトン堡塁や湾内の艦艇砲撃に威力を発揮した。小島(おしま)中部砲台の六門もこの時ひそかに撤去され、うち二門は旅順の砲撃に参加した。他の四門は一度兵器廠に返納され、改めて澎湖島・大連湾・鎮海湾などに配置されることになる(兵器沿革史・第三輯 陸軍省)。

図2-31 芸予要塞地帯図

図2-31 芸予要塞地帯図


表2-109 芸予要塞の概要

表2-109 芸予要塞の概要