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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

1 私立中学校の出現

 中学校令と尋常中学校

 明治一九年四月、文部大臣森有礼は「中学校令」を公布して、中学校教育の刷新を図った。中学校に関する事項は教育令の中に包含されていたのを新たに別個の法令として独立させたので、ここに中学校制度の基礎が確立された。中学校令は九か条からなり、一つは中等国民の育成を、一つは高等の学校を志す人物の養成を企図した。この法令では、中学校教育の二重的性格を、先の中学校教則大綱よりいっそう明確に表現している。
 次に中学校を高等・尋常の二等級に分け、前者をすべて官立とし、その経費は国庫から支弁した。これに対し、尋常中学校については、地方税の支弁または補助にかかるものは各府県一か所に限ると規定し、区町村費で設立することを禁じた。これらの尋常中学校の設立に関する制限規定は、森有礼が当時の小学校の維持経営にさえ苦しむ地方財政の窮迫状態を考慮した結果であろう。六月に「尋常中学校ノ学科及其程度」が公布され、修学年限を五か年とし、入学は高等小学校第二学年終了者を原則としたが、課程を修め得る学力を有する者は、中学校の各年級に適宜編入を許可された。

 公立三中学校の廃止

 中学校令の施行によって、地方税の支弁による府県立校は一校に限定せられたために、全国の中学校数は明治一七年のおよそ三分の一に激減した。本県は、同一九年七月二八日に「第二・第三両中学校廃止ノ件」を布告して、八月限りで両校を廃止し、第一中学校を再編成することとなった(資近代2 三五〇)。ところが二か月後に開かれた臨時県会で、松山大可賀の津波、石手川などの氾濫による災害復旧費が多額にのぼり、県財政の非常時を乗り切るためには、思い切って中学校を廃止すべきであるとの論議が起こった。また中学校私立運営論の主張もあって、採決の結果、廃校に賛成するもの四〇名の多数で、第一~第三中学校の全廃止案が議決された。
 県では、公立中学校の廃止に伴う教育界の損失を憂慮して、なお存続について努力したが最終的には廃止を認めて、明治二〇年五月二三日付で告示した(資近代2 五二二~五二三)。この結果、一時的であったが、県から公立中学校が姿を消した。

 伊予教育義会の中学校経営

 中学校の消滅に対し、民間からこれを復興しようとする運動が起こった。特に第一中学校再建の兆しは、翌二〇年三月伊予教育義会の創立によって具体化した。同会では小林信近を会長に、長屋忠明・井手正光らが幹事となり、同校の卒業生及び一般県民に呼びかけ、私立中学校建設の基金を募集した。
 募金は順調に進ちょくしその額は八万余円に達した。そこで翌二一年に同会では、旧第一中学校の建物使用許可書と、私立伊予尋常中学校設立の申請書とを提出した。この時作られた「伊予教育義会設立法案」によると、会員は中学校設立維持の資金を義捐(ぎえん)し、これらの募金は毎年校費に寄付することとなっていた(愛媛県教育史 資料編八七~八八)。
 伊予尋常中学校は、八月三一日付でその設立が認可され、九月二〇日開校式を挙げた。待機の状況にあった旧第一中学校の生徒たちは続々入学したので、たちまち生徒数は三五〇人に達する盛況を示した。八月三一日付の「愛媛県伊予尋常中学校規則」は、総則、教則、試業規則、入学退学規則、生徒心得、通学生徒、寄宿舎規則、罰則、商議委員の九章に分けられ、六一か条からなっている。これらの条項の内容は先の中学校令に拠ったもので、大差はないけれども、入学試験の合格者が定員を超過する時は、伊予教育義会々員の子弟が同会定款の定める定員に限り、他の志願者に優先して入学を許可する規定に特色がある(愛媛県教育史 資料編九四~一〇四)。
 同校校長には山崎忠興が任命され、教職員は一三名で第一中学校の者が多く採用された。同校の明治二一年度の経費は二、八四二円で、寄付金と生徒授業料で賄われている。

 宇和教育義会と明倫館

 第三中学校の廃止によって、南予地区における中等教育機関が消滅したので、修学を志す青少年は全く途方に暮れる有り様であった。この窮状を打開するために、宇和四郡の有志によって宇和教育義会が組織され、中学校の復興計画が進められた。同二三年一二月に、「私立学校設立ノ議ニ付願」書を県知事に提出し、学校名を明倫館といい、宇和島町外七か村の共有地及びその建造物を借用した。
 「明倫館規則」は三五か条からなり、生徒の定員を一〇〇名とし、修業年限は本科三年・別科二年であった。後者は本科を卒業した者、またはこれと同等の学力を有し、直ちに実業に就く者を収容した。明倫館の運営には経済的困難を伴ったようで、同二六年には義会の資金も底をつき、県会に対し助成金を、また内務・大蔵の両大臣に対し地方税支出費目の増加を申請した。

 共立学校の変遷

 大洲中学校は同一七年六月限りで廃止となったが、喜多郡連合会では従来の中学準備金の利子と町村に賦課した経費を基金として、七月に復興された。ところが、同二一年に再び廃校となったのは、中学校令のなかで区町費による中学校の設立を認めなかったのによる。これに代わって出現したのが私立喜多学校であって、修業年限二年・生徒定員五〇名で、喜多郡共有金による補助と寄付金によって運営された。この学校は同二一年一〇月に設立を認可されたけれども、経営困難で同二四年一〇月に廃校となった。翌二五年五月に、喜多郡町村組合による共立学校が新谷地区の有志の手によって設立されたが、同二九年五月に廃止された。これに代わった私立共立学校も、翌三〇年三月に経営難のため廃校のやむなきに至った。

 私立松山女学校と松山夜学校の設立

 明治時代前期において、国民一般の女子教育に対する関心は極めて薄く、女子にとって小学校以上の教育は無用であり、有害であるとさえ考えるものも少なくなかった。この当時、女子の中等教育及び高等女学校に関する規定すらもない有り様で、当局もその振興を図る施策も皆無であった。
 明治一八年一月に松山キリスト教会が創立された時、牧師として来松した二宮邦次郎は、松山に中学校が存在するにもかかわらず、女子にこれに該当する教育機関がないのに同情し、出淵町の民家を借り、これを仮校舎として、九月に松山女学校を発足させた。同校には本科・予科・手芸科があり、本科は高等小学校第三学年の修了者が入学し、修業年限は三年であった。予科は小学校四年卒業者を対象とし、修業年限は二年であった。商議員には県学務課長・師範学校長・高等小学校長のほかに、長屋忠明・村井信夫らが当たった。
 同二三年五月に、二番町に敷地を購入して二階建の洋風校舎を新築した。さらに校則を改正して、本科三年・予科二年とした。
 松山女学校英語科教師の米人コルネリオ=ジャジソン(ジャドソンともいう)は、二宮・西村清雄らの協力を得て、同二四年一月に松山夜学校を松山二番町に創設した。
 同校は、昼間職業についているため勉学の機会に恵まれない青少年を対象とし、キリスト教の精神に基づいて教育した。同二七年五月に正式に夜学校としての認可を受け、永木町に校地を購入した。教科課程は尋常小学校程度を標準としたが、同三二年に従来の尋常科のほかに高等科を設置するに至った。同校では授業料を徴収しなかったばかりでなく、通学に不便を感ずる生徒のために寄宿舎を設置した。