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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 鉱業と在来工業の成長 ①

 鉱業の近代化

 愛媛の地質構造は多くの鉱床生成に好条件であり、近世以来別子銅山を中心に全国有数の鉱産国であった。特に幕末には、宇和島・小松など各藩ともに鉱山開発に力を入れ、直営または請負制により盛んに稼行した。鉱山は維新後は鉱山局、ついで明治三年に工部省の管轄となり、同六年には前年の「鉱山心得」の法制化である「日本坑法」によって、鉱山業者は五〇〇坪に一円の鉱(借)区税と一〇〇分の三~二〇の鉱産税を負担した。
 鉱業の近代化は県下では別子が常に先進的であり、明治初年には採鉱製錬の外排水、車道や築港工事も行った。政府の鉱山育成策や住友の動きにより、中小資本家の中にも借区願を出す者が続出し、明治一〇年代の末には隣区との間に紛議を起こした。政府は明治二三年の「鉱業条令」により鉱区税を一、〇〇〇坪三〇銭、鉱産税を一〇〇分の一と値下げし、鉱山の国有方針を自由先願主義に変更して鉱山熱を煽(あお)った。しかし県下では資本の弱体と道路の不便から十分な成果には至らず、中期以降は整理統合の方向に進んだ。
 銅山は明治末期に増加し、陶石も優良陶土の発見と陶磁製造の活況で、明治中期から多くの山が開発された。石灰石は幕末から農業用に広く使用され、小鉱山が開坑したが、明治中期には県外資本が入って、セメント用に量産された。マンガンは製鉄副原料として需要が伸び、建築・建設業の盛行により、土石採掘も各地で活発となった。石灰石やマンガンは、主として秩父古生層から産出される。
 明治二〇年代に基礎を固めた鉱業は、両戦役を通じて増々発展し、明治三〇年代以降の県下の従業者は約五、〇〇〇人となった。これは同期の男子鉱工業従業者の三割に当たり、女子の製糸・綿業に対して男子の最も重要な職種であった。また蒸気機関や電力の利用で、捲揚機、削岩機、動力ポンプなどが使用され、能率が著しく向上した。しかし生産の急増は過重労働や煙害を発生させ、新しい社会問題を引き起こすことになる。

 主要鉱山の稼行

 銅山は県下に広く分布するが、特に西宇和郡には数多くの中小鉱山がある。『愛媛県誌稿』では、同郡の忠城(ちゅうしろ)・梶谷・平磐(ひらばえ)・平岩・見上谷・九町(くちょう)・大峯・高浦・二見(ふたみ)の八鉱山について詳述しているが、これらは明治二三~二四年ころに各村民が発見し稼行したものである。採掘された鉱石は軌道か背負いで運ばれ、明治製煉㈱に販売され、郡内の童子ヶ鼻・女子(めっこ)岬・佐島の三製錬所で製錬されて大阪本社に送られた。佐島製錬所は、明治二六年五月に郡内鉱業者の出資で設立されたが、同四〇年四月に明治製煉㈱の所有となり、年間約五〇〇万貫の鉱石を熔解した。
 伊予郡でも日露戦争後の銅の暴騰で、鉱業に投資する者が多く、佐礼谷(されだに)村(現中山町内)だけで大谷・階上・佐礼谷ら六鉱山が出願された(「中山町誌」)。しかし同郡内でかなりの産銅をみたのは寺野・大瀬など数山であった。喜多郡では金山(かなやま)・出石(いずし)・大久喜(おおくき)鉱山が大きい。東予の西之川・佐々連(さざれ)・千原(ちはら)などの鉱山は、山間のため採鉱運搬ともに苦心した。
 世界的に大きいアンチモニーの結晶の産出で著名な市之川鉱山は、明治四年に小松藩藩営から石鐡(せきてつ)県有となり、同県は稼行を曽我部陸之助・同包助に委ねた。明治九年パリ博覧会に結晶を出品、同一〇年ごろから借区希望者が続出して紛糾したため、明治一七年に一時県直轄とした。同二三年一月、旧借区人と関係者五〇余名の共同経営とし、明治二六年六月から株式組織としたが、その後も紛糾した。最盛期は二、〇〇〇トンを産した明治一四~二四年で、西条本陣川河口の製錬所で製錬した。当時の従業者は約一、〇〇〇人で、山元では商店・料理屋・劇場と二階建の長屋の並ぶ鉱山町が賑った。同山は、明治八年から同三三、四年の間に一万六、〇〇〇トンを産したが、これは当時の日本のほとんど全部であり、また日本の生産は当時フランスに次いで世界二位であった(「市の川鉱山の話」)。明治三五年ごろから中国産の輸入で不況となり、同三八年に「市ノ川鉱山㈱」は解散した。しかしアンチモニーは、砲弾製造には不可欠のため再び活況となり、同四〇年に「市之川鉱業㈱」が再興された。
 小規模のアンチモニー鉱山では伊予郡の万年・横道、新居郡芝尾、北宇和郡日吉などがある。マンガンは一宝(いっぽう)・野村・蔵貫(くらぬき)・南山・明間など南予山間に多い。
 石灰岩は古生層の多い県下に広く産出するが、中心は越智郡関前(せきぜん)村と東宇和郡明浜(あけはま)町である。明治中期までは石灰製造、それ以降は築石やセメント原料として採石され、次第に企業化されて明治末年には約一、〇〇〇人が従事し、一、五〇〇万貫を産した。明浜町高山(たかやま)では、明治初年は三、四軒の業者が手掘りをしていたが、明治一五年から火薬使用が許可され、同二四年から焼成に若松炭を使用した。明治二六年高山セメント会社を設立し、同二九年一二月に石灰製造組合を結成した。販路ははじめ近隣や中国筋・宮崎方面であったが、明治中期からは二宮忠兵衛によって北陸市場が開拓され、夏期には一〇余隻の北前船が入港した。また高山の船持連は、台湾・朝鮮へも出荷している。盛期には八〇軒余の業者がいたが、原石の涸渇もあって大正中期から衰退した。
 関前村小大下(こおげ)島でも初期は個人の小規模な焼成で、原石としての需要は無かった。明治八~二二年ごろの生産高は肥料用四〇万貫、工事用一〇万貫、セメント用三万貫である(関前村役場統計)。明治末期の製造家は八、九戸あり、職工は約二〇〇名で、四阪島に大量に移出する外尼ヶ崎・岡山・堺など瀬戸内一円の工業都市に販売した。採石は鉱石を火薬で破砕し、更に金鎚で小片に粉砕し、丁場から満潮時に海面に落下し、干潮時に拾って船積みする方法であった。明治三一年大阪セメント㈱小大下出張所は、自社有の広運丸一〇隻の外阪神や広島地方、地元今治や弓削などからの用船により数百石ずつを積み出している(同社仕切書)。
 越智郡弓削村でも、明治一四、五年ごろから生産が増加し、同三一年に弓削石灰合資会社が設立された。明治四〇年ごろは二鉱区五町二反余に五作業場があって職工二〇人、人夫一五〇人が働き、二六〇万貫を産した(弓削村郷土誌)。同郡の宮窪村や弓削村豊島は良質の花崗岩を産し、島しょ部各村では石山(いしやま)稼が盛んで、香川県家島や山口県屋代島へも出かけた。宮窪村の大島石は、明治初年から本格的に採石されたが、当時の産量は二万トン内外であった。

 陶土と陶石

 伊予砥(いよと)として著名な県下の砥石は、伊予郡砥部(とべ)村から喜多郡上灘(かみなだ)村にかけての雲母安山岩の岩脈に産し、唐川(からかわ)・外山(とやま)・大角蔵(おおかくら)・鵜(う)ノ崎・両沢・川登(かわのぼり)などの丁場がある。これらの採石地は廃藩後に国有地となったが、採石は個人の借区により続けられた。初期は露天の手掘りであったが、原石の欠乏によって中期からは坑道掘りとなった。原石は駄馬で郡中港に運ばれ、煉瓦大に小割して阪神や広島に出荷した。移出は各業者の競争から値くずれを起こすこともあったので、明治二二年に外山砥業組合を結成し、大阪の問屋小山弥一郎と一手契約を結んだ。明治中期以降の生産は約一五万個で、七割を県外へ出した。
 陶土は、砥石原料でもある諸種の安山岩が、変成風化などで陶土化したもので、生産は砥部地区に集中する。近世来の川登石に続き明治八年に万年石、明治の中ころに鵜ノ崎石が発見され、大正元年三者の産出量は二四万五、〇〇〇貫であった。原石は約三〇軒の水車小屋で粉砕され、水簸後に砥部焼の原料となったが、耐熱性を欠くために中島町の中島石、瀬戸内島しょ部の長石、三重の木節粘土や硅砂などの補助原料を移入して焼成する。

 砥部焼の輸出

 砥部焼は、明治期に質量ともに大きく発展し、釉薬・製土・焼成などが近代化し、芸術的に優秀品が製作された。明治七年の県下陶磁器生産額は一万七、〇〇〇円で全国の二・七%、一〇位であるが、磁器のみでは岐阜、京都、愛知に次いで四位である。明治三三年では一九万円余となり全国の二・八%、六位となった(全国物産表)。県下の陶磁器生産の中心は砥部であるが、同地の技術改良は明治四年粘泥乾焼窯の考案、同七年絵具細粉砕器械の発明、型絵染付法の導入、同一三年京都から彩画描金西洋絵付法の導入、同二三年淡黄磁の焼成、同二八年機械轆轤(ろくろ)の使用などと革新的発展が相次いだ。生産高は明治一〇年ごろ五五〇万個で五万円、同一四、五年は六五〇万個で一〇万円、その後一時不況のあと明治二〇年以降は二〇万円となった。明治二八年では窯数は二〇基一七室、陶工二三一、画工一〇、女子型画工一一六、土漉三六、手伝い二〇〇、築窯師五、窯焚三二、焼道具師三〇、下男三〇、陶器撰師一八、荷造師二〇各人の大磁業地帯となっている(「砥部磁業史」)。このころ伊藤允譲の五松斎窯、向井和平の愛山窯、渡部久治の下向井窯などが、繊細幽雅な名品を生んだ。
 砥部焼は松前商人の帆船によって、瀬戸内から九州方面に売られたが、明治一八年にはじめて満州へ輸出し、続いて清国・インド・豪州・アフリカへと拡大された。輸出物は「伊予ボール」と総称される茶碗などの日用雑器である。明治三九年からは貿易商池田貫兵衛の力によって東洋市場を固め、さらに華僑の手で南方へ売られ、瀬戸や有田物と競争した(「砥部焼の歴史」)。砥部焼の窯は丘陵地を利用した長大な登り窯で、大量の赤松を燃料に使用した。明治二一年に「下浮穴伊予両郡陶器業組合」を設立したが、同三六年に下浮穴郡を分離して伊予陶磁器同業組合に改組した。同組合は明治三九年に陶工養成のため陶器補習学校を創立した。

 菊間瓦の生産

 明治七年の県下の窯業生産額は六万一、〇〇〇円で全国の二・九%、六位であった。しかし、瓦のみでは四万三、〇〇〇円で九・四%、京都に次いで全国二位である(全国物産表)。粘土瓦の産地は県下全域に分布し、地方の需要を賄うが、主産地は越智・温泉の二郡である。近世には二六株に制限された菊間浜村の瓦株は、明治四年に自由となり同六年に安永喜七郎・西原栄一郎ら五戸が創業した。その後も増えて明治一一年には一三軒の新規製造業者が「新株」を名乗って旧株に対抗した。
 明治初年の菊間瓦の販路は、民家の瓦葺(かわらぶき)解禁に伴う需要で近県沿岸の各村であった。しかし旧藩主や重臣らの斡旋で、兵営などへの大口納入を行って市価を高め、明治二〇年ごろには瀬戸内一円に拡大した。明治一六年の東京進出が契機となった皇居納入では、四三名の業者が「皇居御造営御用」の表札を掲げ、斎戒沐浴して製造に当たったという。ここで新旧の業者も融和し、同一九年一月に、瓦師と輸送の瓦船業者ら五四名で菊間製瓦組合を結成し、規格の統一や販路の拡大に努めた。
 明治二〇年代の菊間瓦の発展は近村を刺激して、亀岡村でも葉山、高城(こうじろ)、佐方(さかた)に瓦産地が形成され大井・小西両村でも明治四三年に業者一三、職工五〇余人がいて九〇万枚を産した(大井村誌 小西村誌)。風早郡粟井村では、明治初年には数戸であったが、明治四〇年には四〇戸、職工一六〇名にもなっている(「北条市誌」)。こうして明治二七年一二月には、より広域の業者の提携のため、越智郡波方村から温泉郡三津浜町までを含む「伊予製瓦組合」を結成し、粟井に支部を置いた。組合は旧習である三%の割り増し制″数え込み″を廃止し、職工の賃金を協定し、不況期には生産制限を行った。
 粘土瓦の生産は、戸外のだるま窯で行われるが、明治二三年から覆い屋根である狭屋(さや)が普及し、雨天時の作業や燃料節約に役立った。先進地である愛知・京都を見学して製品の改良に努め、明治三九年ごろから讃岐土や五味土を使用して、銀光沢をもつ改良瓦の生産を行った。しかし粘土拵(こしら)えや下地作りは、大正九年の土練機の導入までは、手作業の重労働であった。

 綿織物業の盛況

 愛媛県の工業生産は明治一〇年代の基盤整備期、資本準備期を経て明治二〇年代に入り、いよいよ拡大発展した。業種では軽工業、生産方法では手工業を主とするが、動力源を使用する工場生産もはじまる。交通機関や金融制度の整備は投資熱をあおり、商工業が農業に代わる経済活動の中心となった。しかしその一方では景気変動の波も次第に大きくなり、全国的には過剰な企業設立によって明治二三年の恐慌となり、日清戦争後の好況も同二九年末には破綻が現れ、同三三、四年にも恐慌となった。こうした試練のうち、日露戦争後の需要の伸びにより、繊維工業を中心とした第一次の産業革命が終了し、以後は造船や鉄工・機械などの重工業の確立へと向かうことになった。
 愛媛は全国有数の綿織物県である。織物は明治期を通じて工産額中の首位にあり、明治二九年の生産高は五九七万反で全国の三位、八・五%、生産額では明治三〇年代を通して五位であった。大阪府・埼玉県の急成長で全国比は低下したが、明治二七年の白木綿、同三二年の伊予絣、同三七年の綿ネル生産は全国二位の産額である(農商務省統計表)。明治四二年では移入原料のうち綿花・紡績糸・綿糸のすべてを大阪から移入し、その一部をさらに付近の小都市や広島・高知県などに移出している。
 従業者から織物生産をみると、その九九%は女子労働力である。零細な賃織職工や家内工業は減少し、力織機を備える工場数は増加するが、職工数はそれほど伸びず、小規模分工場の設立が目立つ。しかしまだまだ県下全域に多数の賃織業者が分布しており、織物生産の主力となっている。織物県としての愛媛は、和歌山と並んで織物中に綿織物の占める比重が九七・八%と高いこと、一〇人以下の機業では一戸当たり職工数が一・二人で全国最少であること、綿織物の種類の交替が激しいことが注目される。
 県下の綿織物は、地域的にも特色がある。明治末年では越智郡が生産の主力であり、力織機台数は県下の約七割を占め、近代化も進んでおり、同郡は綿ネルと白木綿の生産を特色とする。温泉郡と伊予郡は、問屋制家内工業(織元―賃織)の形態が一般的で、県下の絣の九九%を生産する。西北両宇和郡では、中小工場による縞と織色木綿の生産を主とする。

 今治綿業の確立

 一時不況となった今治地方の白木綿は、柳瀬誠三郎・田坂亀二郎らが積極的に紡績糸を使用し、明治二二年の「今治洋糸木綿大同組合」、「伊予木綿㈱」創立による品質向上への努力で、次第に生産を回復した。明治二四年からは郡内だけでなく、周桑郡や新居郡にも分工場を設け、織機を貸与して生産を伸ばした。また改良織機により能率を二倍とし、出機制から工場生産への転換も図っている。日清戦争では軍用包帯の特需もあったが、明治三六年の不況で伊予木綿㈱は解散し、同三七年四月創立の丸今綿布合資会社が、代わって苦境の賃織業者を吸収した。製品はほとんど大阪へ移出し、そこから各地へ手拭地(てぬぐいじ)や裏地として出荷され、約三割が輸出された。しかし時代が肌衣やシャツなど、広幅で染色や加工の容易な均質の布地を要求したため、コストは安いが均一製品の量産に欠ける手織製品は、次第に市場を失った。
 早くから白木綿の将来に不安を持つ矢野七三郎・熊野長太郎ら五名は、明治一八年一二月に、綿ネルの発祥地和歌山を見学した。ネルは布幅も倍以上あって、一般衣料に利用範囲も広い。七三郎は翌年三月、八台の織機により「興修舎」を創立し、同二一年には村上熊太郎が、白綾ネルを考案した。これは大阪や紀州の後晒しと異なり、豊富な伏流水を利用する先晒し・先染法である。手織機であるが大機(おおばた)を使い、純白の片面起毛の丈夫な布地が得られる。大機は農家の土間には大きすぎるため、一〇~二〇台を備える分工場が各地に出来て、賃織の白木綿織子を自然に吸収した。
 ついで明治三〇年代には英国製の力織機が入り、本社工場が数百の少女工を抱えるようになり、不要となった分工場は廃止されて機械生産に移行した。この間明治二四年から能率約二倍のバッタン機が移入され、広島・松山・熊本の兵営に納入して注目され、業者も増加した。明治二八年一二月、粗製と競争排除のため「伊予綿練組合」を結成し、同三〇年には業界の頂点に立つ「阿部合名会社」が設立された。日露戦争後は清国・ロシア・東南アジアへの市場が開け、大正期からの黄金期に至る。また工場生産の発展により、周辺農村から多数の人口が流入して、市街地が拡大した。
 明治二三年に綿ネル製織を始めた阿部平助は、大阪で織られているタオルに着目した。その将来性と今治の立地の良さを確信し、明治二七年一二月に打出織機四台を自宅に据え、翌年一〇台、同二九年は三〇台に増設した。明治三〇年代には数名がタオル業を開業したが、技術も未熟であり、日本手拭に比して高価なため不振であった。しかし能率的技法を研究していた麓(ふもと)常三郎は、明治四三年に二挺筬(おさ)バッタン機を考案した。これは白木綿製織機の改作であったため転業者が相次ぎ、タオル試作期を脱する大きな契機となった。

 伊予絣の発展

 伊予絣は、松山地方で産する平織先染の素朴な綿織物である。模様は自由奔放で、松山城や姫だるまなど地元の風物も織り込み、安価で丈夫なため普段衣・作業衣・学童用として、関東や九州地方の農村によく売れた。明治一〇年代に衰退した伊予縞(じま)に代わって発達し、同三二年には全国の絣の一七・二%で二位、同三七年は二六・五%で一位となった。この急成長の一因は先行した伊予縞の技術、販路の基盤にあった。特に明治一九年に徳島で開催された共進会で、創始者の鍵谷カナが農商務省より追賞された事も、転換への刺激となった。明治二〇年一月、松山と伊予・温泉など周辺五郡の業者・問屋・仲買らで結成された伊予織物改良組合には、一、五一九人もが加入した。
 伊予絣の歴史は、明治二〇~三九年の勃興期、同四〇年~大正四年の反動沈衰期、大正五~一〇年の黄金期と区分される(川崎三郎「伊予絣の沿革的経済的研究」)。はじめは自給的生産であったが、明治一〇年ごろから他地域へ少しずつ販売された。その結果、絵柄などが好評で、明治二〇年ごろから生産が急増して縞木綿を圧し、日清戦争後は一〇〇万反に達した。農村の購買力の向上や交通の発達による安価な遠隔地への輸送、組合や工業試験場の指導なども成長の要因である。明治三九年には二五〇万反にも達した。
 伊予絣の販路は、玉井重吉の努力によって明治一一、二年ごろに九州・名古屋、同二一年には北陸に拡大した。明治二九年に瀬川喜七・栗田卯三郎らの創立した松山織物㈱は、その他に東京市場を開拓した。また反物は軽くて高価なため最適の行商品であり、明治三〇年ごろには睦月(むつき)島(現中島町)の行商船「伊予船」によって、瀬戸内沿岸から九州・山陰にまで運ばれた。明治二五年松山紡績㈱の設立は、この発展する絣の原料糸供給を目的としたものである。
 伊予絣の生産の増加により、単なる販売協力や製品検査から一歩進めて、組合員の指導や取り締まりを行うため、明治三一年三月に伊予織物改良組合を解散し、同年六月に伊予織物改良同業組合を結成した。同組合は製造業者と卸小売商・仲買・綛糸(かせいと)商・梁染業の五部門六、六五九名の組合員を持ち、印度藍(あい)やインジゴなどの染料調査、丈幅商標の改正、織機や品質の改良、図柄の懸賞募集、染色講習所の設置などの事業を行った。こうして日露戦争後の好況が約一〇年続いたが、その反動の不況や濫造による不評、捺染絣や抜染絣の出現でやや不振となった。組合ではさらに指導改良を徹底し、不良品を出す職工の一時雇い入れ停止などの措置までとったが、休廃業者が続出して大正三年には組合員が半減した。
 伊予絣が安価であった理由は、その機業型態による。明治中期までの副業的家内工業では、各戸が原糸を買って紺屋に染めさせ、元拵(もとごしら)えをして織り、巡回して来る買子に売る。出機(でばた)制では織子と買屋の間に織元が入り、染色元拵えは全て用意するので織子は織るだけでよく、原糸購入の資金や製品の価格変動の不安から解放される。ともに織賃は安価であるが、ほぼ一〇日ごとに現金が入り、収入は時間に比例するので競争心を煽る形で生産が進められた。また絣の模様は多様で、地方による好みや流行もあるので、大工場による量産は不向きでもあった。問屋の中には、通いや住み込みの形で織子を抱え、技術を習得させる者もあった。一反の織賃は、明治末期で約二〇銭である。伊予絣も、明治末期には田内栄三郎らの努力による捺染絣への切り替えや染色法の改良・新製品の開発・足踏機・力織機などの技術革新があり、やがて第一次大戦により空前の好況を迎えた。

 南予の綿織物

 八幡浜を中心とする西北両宇和郡の縞木綿は「伊予縞」の名で、幕末から九州に販売されていた。しかし維新後は粗製となって評価を落としたため、明治二二年に布行寛・三好徳三郎らが織物改良組合を組織して品質向上に努めた。日清戦争後の好況から明治三一年にバッタン機、同三三年には小幅力織機が移入されて急速に普及し、九〇万反余を産したが再び粗製となり価格が低下した。ために明治三七年菊池竹三郎らが同業組合を設立し、同四二年に染色模範工場を建設した。そのころから安価な早川式広幅織機が移入されたため、西宇和地方の手織機に急激に減少した(「八幡浜織物資料」)。
 宇和島地方では、内陸では製糸が盛んなため、綿業は九島(くしま)など人口密度の高い沿岸島しょ部が盛んとなった。明治二二年に宇和島反物会社がバッタン機を導入して生産が増加し、明治二五年に二〇万反、同三五年は二五万反となった。その後化学染料が使用され、品質も向上して明治三九年に三五万反、同四〇年には四四万反と伸びた。明治末期には一、五〇〇戸約二、〇〇〇人の織子がいた。その後は次第に広幅の機械生産に転じ、ハワイや台湾などへ輸出を図った。大正三年には共同染色工場を設置し、合理化と製織の改良をすすめ、同七年には一五〇万反を産した。

 製紙業の地位

 紙の需要は、日清戦争前後の新聞や雑誌の発行熱で急増した。県下の生産額は、明治一九年には四〇万円であったが、一〇年後には約三倍、明治末期には五倍となった。この間生産は全国の約一割で、順位は高知県につぐ二位を保持した。明治三二年に教科書が洋紙となったため不況となったが、この期に宇摩郡では手漉紙の品質の均一化と、コスト低減のための機械化が進んだ。洋紙は明治初年の地券や新聞発行でまず必要となり、明治二二年にはパルプの原料化に成功した。産額は大正元年に和紙と並び、以降は和紙を上回った。和紙生産が盛んであった本県は、洋紙生産の出発が遅れた。
 大洲半紙は内子・五十崎(いかざき)を中心に生産されたが、生産は停滞している。明治四〇年に佐伯敬次郎らは大州産紙改良同業組合を結成し、宇摩郡の技師の指導をうけて改良に努め、製品検査を徹底した。出荷は、五十崎の場合、井上万太郎ら三、四名の問屋が大阪へ、栗田清十郎ら一〇名前後が行商で近郷へ販売した。仙貨(せんか)紙も洋紙の普及につれ好不況の波が激しくなり、改良と販路拡張のため、明治四二年三月に宇和紙業同業組合を結成した。製造家の七割は楮(こうぞ)も栽培したが自給には充たず、約八割を喜多郡や高知県から移入した。良質の水に恵まれる西条では、大阪の紙問屋小山卯三郎が明治三九年機械製紙を企画し、ほぼ同時期に西条製紙会社や越智郡の渡辺八郎による東予製紙会社などが設立されたが、いずれも永続しなかった(「西条市誌」)。宇摩郡では、三椏(みつまた)とパルプの使用でさらに生産が増加し、明治二七年の産額は県下の半分となり、副業から専業化への傾向を示した。好況時の明治末年には、米麦の産額を大きく上回った。しかし品質では土佐紙に比して差があるため研究を重ね、川之江町の篠原朔太郎が、高度の透かし技術を完成した。篠原はまた、大蔵省印刷局での経験を生かし、洋紙用の叩解機(ビーター)を明治三九年に和紙に転用し、同四〇年には回転式三角型蒸気乾燥機を考案して、作業能率を向上させた。同年、妻鳥(めんどり)村の近藤又太郎も、同型でより安価な乾燥器を発明し、明治四二年に篠原が考案した廃蒸気利用の蒸煮開放窯とともに急速に普及した。
 原料不足対策と紙質改良の面から、宇摩紙業に三椏を導入したのは上分(かみぶん)の石川高雄で、販路拡大には三島の住治平の努力があった。こうして生産・販売・原料供給の三者が充実し、その協力体制として明治四一年一月に伊予紙業同業組合が結成され、薦田篤平が組合長に就任した。なお紙加工業のうちの水引(みずひき)は明治初年、封筒は明治二四、五年、合羽加工用などの油紙生産は、同三二年に生産が開始された。

 木蠟の製造

 明治中期に愛媛県の製蠟業は最盛期に達した。明治三三年では生蠟・晒蠟ともに全国一位であり、特に晒蠟は全国の三分の一以上をしめる。県下では喜多郡が中心で明治二七年の生産は県の生蠟の二四%、晒蠟の五四・五%を産し、全国一の製蠟地帯となった。そのため明治二八年三月、大洲町が第一回全国木蠟業者大会の開催地となり、「大日本木蠟会」が発足したが、第二回大会も本県の内子で開かれた。当時内子では本芳我(はが)(弥三郎)、上芳我(弥衛美)、下芳我(数衛)、上浅野竹次郎ら二七軒の業者が、六日市から八日市にかけて蔵を並べていた(「内子町誌」)。明治二七年の本芳我家では、工場使用人六七名、年産一五〇万斤、二二万五、〇〇〇円を産している(パリ博出品資料)。
 内子は晒(さらし)蠟専業で、生蠟を他地区から移入し加工する。盛況の原因は生活の洋風化による需要増と輸出の伸びであった。糸の蠟引、木工具の艶出し、鋳型模型、クリームやポマード、靴墨や色鉛筆などが新しい用途である。喜多郡の輸出は、同郡新谷(にいや)出身の河内寅次郎・池田貫兵衛らが、神戸に商社「喜多組」を設立してから急増し、明治三九年の輸出量は全国の八分の一であった。しかし内子の晒蠟は、明治末期には伊予郡や西宇和郡、郡内では長浜地方に押されて、その地位はやや低下した。これは明治三八年の全国統計にも現れており、生蠟の生産は福岡県に次いで二位、晒蠟は数量は一位であったが、価格では佐賀・福岡県に次ぐ三位と低下した。その理由は内子が山間のため、日照時間や交通条件で不利な外に、櫨(はぜ)や生蠟など原料不足や値上がりによるものである。しかも大正中期以降は電灯の普及やパラフィンの生産で製蠟業そのものが急速に衰微し、企業家の意欲は製糸業に向けられる。

 醸造業

 米を経済の中心とした近世では、酒造業は酒株制によって幕府及び藩の厳しい統制をうけた。造酒の許可は庄屋や豪農層に限られ、酒造量は株高によらず、米の流通状況や豊凶によって常に半分とか三分の一と制限された。慶応四年(一八六八)五月、酒株制が廃止されて「酒造規則」が布達され、度々の改正を経て明治二九年の「酒造税法」による取り締まりとなった。また酒造税は国税負担の見地からも重要で、県では明治三〇年には地租をしのいでいる。酒造の近代化は比較的遅れ、酒造高も余り伸びないが、酒造家は市場開拓や合理化によって、政府の増税政策に対処した。
 明治八年八月県布達の「酒造営業人心得」によると、県は酒造取り締まりのため県下を一〇区分し、区ごとに主事一名を置き、三~七名の検査官が巡回を行っている(資近代1 三四三・七〇六)。三瓶地方では近世には酒造はなく、明治以降五軒が開業したが、残されている造石検査簿や醸造方法書届などをみるとその内容は詳細で、酒もと検査、もろみ検査は酒造期間中五回もの検査を受けるなど極めて厳正であった(「三瓶町誌」)。明治一七年の「商標条例」により、各酒銘が整理され、市場形成も進んだ。なお、菓子や醤油の製造販売に従事する者も各税則を守り、「営業人心得」に従って営業した(資近代2 三一〇~三一一)。
 県下の酒の生産は南予に多い。愛媛は酒の移出県で、明治四二年では産額の四一%を、南予は高知や九州、東予は主に広島へ販売した。酒造業者は品質の向上と販路拡大のために明治四一年八月、愛媛県酒造組合を結成した。醤油はほとんどの農家は自家製造であるが、市街地などには大規模な醸造家があり、県外へも移出した。愛媛は菜種は移入県であるが、菜種油の生産は明治七年で全国の六位であった。

 桜井漆器

 椀舟(わんぶね)行商が先行し、やがて漆器製造地帯となった桜井(現今治市桜井)には、浜桜井を中心に明治初年に一九人の船主と一二三人の売り子がいた。しかしこれらの人々は、明治中期には行商を止めて製造か卸売商に転じ、行商は在方部落か近村へ移った。初期には先進地に対抗するため製品を箱膳や広盆などに限り、堅牢安価を武器に九州を市場とした。しかし業者も一〇余戸となり、産地としての自信を強めて先進地の技術を導入し、明治末期からは全盛期を迎えた。
 まず明治九年、田村只八は輪島から沈金師高浜儀太郎を、同一一~一二年ごろに横田美代治が、紀州黒江から漆工宮崎藤蔵を招いた。ついで一八~一九年ごろ加賀山中の下岡松太郎、宮島の稲田政吉ら六~七名の轆轤師(ろくろし)を招いて丸物(まるもの)生産を開始した。明治二〇年には横田小十郎が黒江の製造家加藤文七と児玉久太郎を招き、両人は職工数十名とともに来住し、同じころ蒔絵師笠松金之助も来村して、品質も大いに向上した(「桜井町報」大正一二年二月号)。
 しかし日清戦争後の不況期には休業者が続出し、来住した職人の中には帰郷する者もいた。この時村上時次郎・笠原要吉ら二五名は、明治二九年一〇月に伊予国桜井漆器業組合を組織し、製品の改良に努めて渋地塗から精巧優美な堅地塗に転換した。また翌一一月には指物師養成工場を設置して三〇余名の徒弟を入れ、三年間を修業年限として、一人に年間二四円を支給した。販路は瀬戸内・九州を主としたが、明治一五、六年ごろから清国への輸出を開始、同三〇年以降は関東や東北へも進出し、台湾や朝鮮へも移出した。大正初年には関係業者千数百人となったが、原料の木材や漆などを全く産しない異色の漆器業地帯であった。なお、県下の漆器生産額は明治三三年約九万三、〇〇〇円で全国一六位、職工数は三五九名で一二位であった(「帝国統計年鑑」)。

表2-51 愛媛県鉱業の概況

表2-51 愛媛県鉱業の概況


表2-52 愛媛県の鉱産状況

表2-52 愛媛県の鉱産状況


表2-53 愛媛県鉱山の稼行年代

表2-53 愛媛県鉱山の稼行年代


表2-54 郡別鉱業概況

表2-54 郡別鉱業概況


表2-55 愛媛県の主要鉱山

表2-55 愛媛県の主要鉱山


表2-56 愛媛県の陶磁器生産

表2-56 愛媛県の陶磁器生産


表2-57 陶磁器主要生産県

表2-57 陶磁器主要生産県


表2-58 郡市別粘土瓦の生産

表2-58 郡市別粘土瓦の生産


表2-59 主要織物県の織物製造高

表2-59 主要織物県の織物製造高


表2-60 主要織物県の製造戸数と職工

表2-60 主要織物県の製造戸数と職工