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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 明治後期の国政選挙と県政界

 第一二回県会議員選挙

 愛媛県は明治三〇年一〇月一日から「府県制」を施行した。府県制の実施に伴い第一二回県会議員選挙の期日を一〇月一五日と定め、一〇月一日付で告示するとともに県会議員数を改めた。従来の議員定数は四八人で人口二万人に一人の算出方法であったのを、明治二四年六月の「府県会議員定数規則」に基づき二万五、〇〇〇人を基準に割り出し三五人に減員した。またこれまで温泉郡選挙区の中に含まれていた松山市を独立させて議員定数一人を割り当てた(資近代3 一七一~一七二)。
 府県制は間接選挙制を採用して、県会議員の選出方法を郡市会の互選によるとした。このため、一〇月一五日県内郡市で実施された県会議員選挙は従来の直接選挙とは様相を異にしていた。
 松山市は萱町二丁目の松山市公会堂で選挙会を開いた。選挙人である三一名の市会議員は午前一〇時に参集し、市長白川福儀が会長席について開会を告げ投票用紙の配布を命じた。投票は匿名で、被選挙人名を書き終えた選挙人は、着席の順序に従って会長の面前に進み用紙を投票函に投入した。投票終了後、会長は投票函を開票させ、一票ごとに被選挙者名を朗読させた。集票の内訳は、藤野政高一四点、山本盛信一三点、井手正光一点などで、藤野が当選者に決定した。喜多郡では、郡会議員二七名中二六名が出席して県会議員三名の選挙会を開いた。開票の結果、被選人名を確認できない一票を除いて他はすべて有効となり、井上要が二〇点、有友正親が一九点、近田綾次郎が一八点で当選した。喜多郡のように複数定員区では議員数に対応した連記式がとられたので、郡会市会を構成する議員の党派状況で県会党派の勢力が決定した。
 当選者は、藤野政高・武市庫太・玉井正興・赤松甲一郎(以上自由党)、井上要・有友正親・合田福太郎・池内信嘉・阿部光之助・清水隆徳(以上愛媛同志会)、檜垣伸(中立)らで、一〇月二一日に告示された(資近代3 一七二~一七三)。党派別には、これまで少数党であった進歩党系愛媛同志会が二一議席を確保して一三議席の自由党を圧倒した。郡市別にみると、愛媛同志会が宇摩・新居・越智・喜多・東宇和、自由党が周桑・伊予・北宇和の複数区で議席を独占しており、これらの郡の郡会勢力分野を推察できる。愛媛同志会は、松方内閣が派遣した進歩党所属の県知事室孝次郎の県政与党でありながら内閣が意図した地租増徴案に反対して地主層の支持を得、多くの郡会で勝利した。

 第五・六回衆議院議員選挙と憲政党愛媛支部の結成

 第二次松方内閣は、地租増徴問題などで進歩党と対立し、超党派で不信任案が可決されると国会を解散、その直後に総辞職した。第五回衆議院議員選挙は明治三一年三月一五日に第三次伊藤内閣の下で実施された。
 選挙に臨み、自由党と進歩党は各選挙区で候補者予選会を一月下旬から二月上旬にかけて開催した。一月二六日第一区自由党候補者予選会が海南新聞楼上に七〇〇余名が寒風雪の中出席して開かれた。藤野政高が発起人を代表して開会の趣旨を述べ、候補者選定の方法を諮(はか)って同意を求め、出席者の拍手による賛同を得た。この結果、七郡一市から五名ずつの選定委員が選ばれて階下の別室で協議、第一区の候補者として武市庫太と高須賀穣を推薦することにした。選定委員長の藤野政高は二人の候補者を略歴を含めて紹介、拍手の中、高須賀穣が登壇して「諸君に推されて候補者たり、今後誓って国家と自由党に尽さん」と挨拶、ついで武市庫太が「菲才(ひさい)浅学なりと雖とも国家と主義を思ふに於て敢へて人後に瞠若(どうじゃく)たるものにあらず、将来熱心なる諸君の尽力に依りて当選の栄を得は益々努力する処あらむ」と述べ、二候補とも満場の拍手に送られて降壇した。ついで夏井保四郎・岩崎一高・大久保雅彦・藤野政高がそれぞれ二候補推薦の弁や自由党の抱負などを演説して気勢をあげた。同じころ、進歩党でも一区候補者として鈴木重遠・森肇を選んだ。自由党から推された高須賀穣は当時三三歳の青年で、慶応元年三月松山市に生まれ、師範学校に入り同校卒業後一年有半小学校に奉職した後、東京に遊学、明治二〇年一月慶応義塾に入って理財学を修め、同二六年二月アメリカに留学、デポー及びウェストミンスター大学に学び、同二九年六月卒業して文学士の学位を受け、欧州諸国を漫遊すること半年、さらにインドなど東洋諸国を視察して同三〇年一月帰国したばかりであった。
 選挙の結果、一区は高須賀穣と武市庫太(自由党)が当選、二区野間豊五郎(自由党)、三区重岡薫五郎(自由党)、四区合田福太郎(進歩党)、五区清水静十郎(進歩党)、六区児島惟謙(これかた)(進歩党)がそれぞれ選出され、自由党四・進歩党三の比率となった。前回に引き続き再選されたのは重岡薫五郎のみで、高須賀をはじめ新人の台頭が目立った。その中で、明治二四年の大津事件で司法権の独立を守った大審院長児島惟謙は別格で、当時貴族院議員であったが、大隈重信や知己の井上要らの要望で郷里宇和島から出馬した。
 この年の六月には貴族院多額納税者議員の補欠互選会がもたれた。多額納税者議員の任期は七年で、第二回選挙会は明治三〇年六月一日に開かれ、二五名の互選で新居郡橘村(現西条市内)の地主久米唯次が当選した。今回の補欠選挙会は久米の辞職に伴うもので、新居郡中萩村の飯尾麒太郎が選ばれた。飯尾は県会議員を務めたことがある財界人で、第百四十一国立銀行・西条銀行頭取などを歴任していた。
 第五回総選挙後の議会で、自由党・進歩党は政府の増税案に反対して圧倒的多数で否決したので、伊藤首相は議会を解散した。この間、自由党・進歩党の民党大合同の動きが急速に高まり、明治三一年六月二一日両党は解党して、翌二二日新党結成式が挙行され憲政党が成立した。この動きに対応して県政界では、六月二三日井上要・藤野政高ら両派幹部が会合して愛媛同志会と自由党支部を合同することに決し、前者は二四日、後者は二九日にそれぞれ解散した。八月一日、代議士・県会議員ら三〇〇余名が参加して憲政党愛媛支部発会式が挙行された。冒頭、創立委員井上要が開会の趣旨と合同の顚末(てんまつ)を述べ、「中央に於ては如何の政変あり如何の分裂あるも、我県下の団体は之が為め頃日に至りて千載偶(たまた)ま得たる合同一致を放棄することなく、益々団結を鞏固(きょうこ)にして中央の政弊を矯め愛媛県の名をして天下に千均の重きをなさしめよ」と結んだ。ついで井上の指名で藤野政高が議長席に着いて、規約を討議決定し、井上・藤野・池内信嘉・夏井保四郎・柳原正之・天野義一郎らが幹事に選ばれた。さらに会は、「政党は其基礎を健全なる地方の団結に置かざるべからず、我支部は一切の歴史と感情を一洗し、闔(こう)県一致全力を尽して合同立党の目的を達せんことを期す」「完全なる大政党を樹立し立憲の大義に則りて政党内閣の妙用を実にするは我党の責任なり、我支部は大に内外の情実を打破して其団結の鞏固ならんことを期す」などの重点目標を可決して、児島惟謙らの祝辞があり、酒宴に移った(資近代3 三四五)。
 伊藤は後継首班に大隈・板垣を推挙して辞任、六月三〇日わが国初めての政党内閣隈板(わいはん)内閣が成立した。八月一〇日第六回衆議院議員選挙は憲政党内閣の下で実施された。この選挙は民党合同を反映して平穏裏に行われ、愛媛県でも各地区の憲政党郡市部会で候補者の予選があり無競争の態勢がとられた。予選は、第五回選挙から日時を経ていないこともあって前代議士が推挙されたが、第四区のみは中央政界で憲政党創立委員として活躍した鈴木重遠が合田福太郎に代わって選ばれた。鈴木は憲政党には入党せず、無所属のままで当選した。

 憲政党の分裂と海南政友会

 中央での憲政党は合同四か月にして一〇月早くも分裂した。愛媛政界では、藤野と井上らが中央政界を超越して両派の合同を存続する意向で、憲政党愛媛支部内に設けられていた社交団体愛媛倶楽部を海南政友会と称する政治団体に改組することにした。藤野・井上らは高須峯造・白川福儀・井手正光・玉井正興・池内信嘉・清水隆徳・柳原正之らを交えて一二月一日創立準備会を開き、挨拶状と趣意書を発して広く同志の賛同を呼びかけた。趣意書は、「吾人同志の士は憲政党の創立の始めより区々たる歴史感情を一洗し一大決心を以て合同一致の名実を全くし進んて之を擁護せんことを誓」ったにもかかわらず、「爾来(じらい)僅かに四閲月、不幸にして同党の多数は互に党援を引きて権勢を競ひ忽(たちま)ち立党の精神を捨てて紛擾は衝突となり遂に分離潰裂に終るに至る」と憲政党の分裂を痛憤し、「今日は政党変遷の過渡にして苟(いやしく)も将来に健全なる政党の大成を期せんと欲せば先づ地方の鞏固なる団結に頼らざるべからず」「地方は本にして中央は末なり、基本治らずして末盛なるは未だ嘗て之れあらず、真誠に国家を愛し憲政を思ふ者は枝葉を棄てて根底を鞏固にし、其名を後にして其実を先にすることを努めざるべからず、海南政友会を興すの趣旨全く是に在り」と結んだ。有友正親・堀部彦次郎らの元代議士もこれを支持したので、藤野・井上らは、明治三二年三月七日に松山市公会堂で海南政友会発会式を挙行した(資近代3 三四六~三四七)。
 岩崎一高・夏井保四郎らは、藤野に迫って旧自由党員を結集した憲政党愛媛支部の結成を促したが不調に終わったので、藤野一派を除外して明治三一年一二月一五日松山公会堂で憲政党愛媛支部の発会式を挙げた。幹事には岩崎・夏井・大久保雅彦・須山正夫が選ばれ、常議員には柳瀬春次郎・兼頭鶴太郎・山村豊次郎・今西幹一郎などのほか長屋忠明・坂義三らの長老も加わった。藤野と岩崎らの訣別を憂慮した長屋は、再三藤野らに憲政党復帰を懇請した。藤野はこれに応じなかったが、藤野の盟友白川・井手・柳原・大政・玉井らはこれを容れて、三月二九日海南政友会を離れた。ひとり藤野のみは井上要とともに海南政友会設立の趣旨を維持しようとした。しかし御手洗忠孝ら旧進歩派中堅は憲政党愛媛支部の動きに動揺し、井上に憲政本党系政社の結成を勧めたので、海南政友会は結成以来一か月足らずで四月一一日に解散することになった。藤野と井上は、二人で酒宴を開き、こと志と違ったことを憂い、「涙を呑んで袂(たもと)を分かつた」という。
 両人は「愛媛新報」明治三二年四月二二日付で「海南政友会の組織変更に付きて政友諸君に告く」を掲載、「生等先に政友諸君と共に海南政友会を組織し、爾来僅に数月、図らすも今日これか政社を解きて社交倶楽部と為ささるを得さるに至りたり、生等固(もとよ)り同会の忠僕を以て自ら任するもの其興廃に就ては責任の甚た軽らさるを知る、乃ち感慨自ら禁する能はさるものあり、敢て微衷を述へて高断を仰かんとす」と前置きして、民党の離合集散の歴史の中で、「生等は先つ地方の地盤を固めて主義政綱を同する政党を助け以て政党内閣の成立を速にし且つ之を擁護せんことを期せり」と海南政友会を起こした理由に論及、しかしながら「一方に憲政党を歓迎せんとし一方に非増租同盟会を組織するものありて」は「政友会の志業一時の蹉跌(さてつ)を来すに至り」「政友会起りて僅かに数月忽ち其組織変更を見るか如きは生等の実に予想せさる所にして不明の責自ら免るへからさるを知る」けれども、 「政友会の政社を解くに至りたるもの又た真に情勢の已むを得さるものに出つ」と、心情を訴えた。藤野は、四月二一日板垣退助来松に伴う憲政党愛媛支部大会を機に同党に復帰したが、役員就任は辞退した(資近代3 三四七)。
 隈板内閣に代わって成立した第二次山県内閣は、地租増徴を強行した。憲政本党は党員以外の人々や貴族院内の同志をも糾合して明治三一年一二月八日増租反対同盟会を結成した。同月二六日には、憲政本党系の代議士を中心に在京四国人士による四国地租増徴反対同盟会が組織され、愛媛関係では鈴木重遠・児島惟謙・合田福太郎・清水静十郎・飯尾麒太郎・村松恒一郎らがこれに加わった。四国地租増徴反対同盟会の大会は明治三二年四月一八日に琴平で開催され、谷干城・志賀重昻・鈴木重遠ら本部役員が出席した。本県の憲政本党系有志は、これを契機に愛媛地租増徴反対同盟会の結成を計画、四月二一日谷・志賀・鈴木を迎えて松山市公会堂で発会式を挙行した。大会は「地租の増徴は一大秕政(ひせい)なり、故に本会は極力之が排斥を務め以て国運の振興を期す」と決議、愛媛地租増徴反対同盟会の会則を定めた。同日夜、谷・志賀らを弁士とする非増租政談大演説会が三番町寿座で催され、三、〇〇〇余人の傍聴人を集めた。愛媛地租増徴反対同盟会は憲政本党系政社であったが、党派にとらわれず広く地主層の支持を得るために非増租派と略称して明治三二年九月の県会議員選挙に臨み、勝利した。

 政友会愛媛支部の結成

 明治三三年九月一五日伊藤博文を党首とする立憲政友会が正式に発足した。政友会には憲政党員を中心に代議士一五一名が入会して衆議院で過半数を制することになったので、山県は伊藤を後継首班に推挙して辞職、一〇月九日第四次伊藤内閣が成立した。愛媛県では、一〇月一〇日藤野政高らが政友会愛媛支部結成を協議し、翌三四年四月二五日松山市公会堂で発会式を挙行した。式典には、政友会本部の片岡健吉・尾崎行雄をはじめ二五〇名が出席した。
 井上要ら憲政本党系は、愛媛地租増徴反対同盟会を結成したり中国外交の強硬意見に同調して愛媛国民同盟会を組織したりしたが、憲政本党愛媛支部の結成は見合わせていた(資近代3 三四八)。海南新聞・愛媛新報はこの一派を″政友派″に対し″進歩派″と呼称した。

 第七・八回衆議院議員選挙

 明治三五年八月一〇日の第七回衆議院議員選挙は、短命で自滅した第四次伊藤内閣の後を受けた桂内閣の下で行われた。珍しく四年の任期満了による総選挙であった。この選挙から選挙資格を従来の納税額一五円以上を一〇円以上に引き下げ、被選挙資格の納税制限を撤廃した。また大選挙区・単記無記名投票制を採用、市はおおむね独立選挙区にしたので、愛媛県の定員は松山市一名・郡部七名となった。
 独立選挙区松山市では、商工業者の意思を代弁する適格な候補者を選定支援するため黒田此太郎・山本盛信らの提唱で明治三五年六月松山商工同志会を組織した。推薦候補の選定に当たり、黒田らは森肇を山本らは仲田傳之□(長に公)を推し、選定委員会を開催して第一候補として仲田を選んだが、仲田は固辞して受けなかった。この結果、黒田らは森を候補者に決定しようとしたので、山本らは松山公友会を組織して五十二銀行頭取藤野漸を推すことにした。こうして松山市は、森と藤野の対立となり、憲政本党員であった森は、同党を脱して無所属を喧伝し、政友会愛媛支部と一部進歩派の支援を受け有利に選挙戦を展開した。郡部では、政友派が渡邊修・重岡薫五郎・大久保雅彦、進歩派が井上要・合田福太郎・武内作平を候補者とし、このほか無所属の伊達武四郎を進歩派が推薦、政友会に反発して帝国党に加入していた前代議士武市庫太や鈴木重遠の後継を任ずる大西良實らが立った。政友派と進歩派は、それぞれ候補者の地盤割りをして選挙運動を展開した。選挙の結果、市部は森肇(無所属)、郡部は伊達武四郎(無所属)、井上要・合田福太郎・武内作平(以上憲政本党)、重岡薫五郎・大久保雅彦・渡邊修(以上政友会)が当選した。当選者の党派別内訳は、政友会三、憲政本党三、無所属二で、再選は重岡のみであった。当選者の職業は、森が伊予日々新聞社長、井上が伊予鉄道社長で、重岡・大久保・武内は弁護士であった。森・井上も以前弁護士を開業しており、この時期政治家は弁護士が多かった。伊達は旧藩主の子弟であり、渡邊は官僚出身であった。
 桂内閣は、衆議院での多数派政友会と地租増徴継続案で対立して、明治三六年一二月衆議院を解散した。第八回衆議院議員総選挙は、明治三七年三月一日に実施されることになった。県内の政党と後援会は前代議士を中心に候補者選考を進めた。政友会は、松山市で松山商工同志会・実業奨励会とともに無所属の森肇を推薦し、郡部で重岡薫五郎・大久保雅彦・渡邊修の前代議士を候補者に定めた。進歩派は、松山市で山本盛信を立て、郡部で井上要・合田福太郎・武内作平を候補者とした。伊達武四郎は前回同様無所属で立ち、政友・進歩両派から推薦を受けた。武市庫太は帝国党から再び立ち、伊予温泉郡有志と県下中立団体などの後援を集めた。選挙の結果、松山市では山本盛信が一三五票、森肇が一二五票とわずか一〇票差で山本が勝利、郡部は大久保が落選して武市が返り咲いたほかは前回と変わらなかった。

 愛媛進歩党の結成

 進歩派は明治三六年九月の県会議員選挙で一議席差の勝利を得たものの一県議が脱退して政友会に走ったことで、政友会に県会多数派を奪われた。組織の弱さをつかれた進歩派は、この際非増租同盟会を明確な政治団体に改組して同志の団結を図ることにした。井上要ら同派幹部は、明治三六年一一月二八日に愛媛地租増徴反対同盟会の解散と愛媛進歩党の結成式を挙行することにした。このため数日前から「愛媛新報」紙上に「本会年来ノ主張ニ係ル地租増徴反対ノ義モ首尾能ク目的ヲ達シ候ニ就テハ此際一先ツ本会解散仕リ、更ニ今後ノ方針ニ関シ御熟議旁、来二十八日午後三時ヨリ松山三番町明治楼ニ懇親会ヲ開ク、同志諸君来会アレ」の特別広告を掲載し、同志の参集を求めた。
 当日、午後四時から井上要を座長として開催された懇親会には、非増租同盟会の幹事・評議員・県郡市会議員ら一〇〇余名が出席した。まず御手洗忠孝が愛媛地租増徴反対同盟会解散の辞を述べた。ついで井上座長は、「既に愛媛地租反対同盟会解散せられたる以上は更に県下同志の士を糾合する団体なかるべからず」として愛媛進歩党結成を提案、満場の同意を得た。ついで、「憲法を擁護し憲政の完美を期す」「既成政党刷新の機を促かし剛正廉潔なる大政党の成立を期す」などの綱領と、「第一条 本党は本県同志を以て組織し愛媛進歩党と称す、第二条 本党は本部を松山市に置き支部を各郡市に設置す」などの党則案を提示して承認された。幹事には井上要・清水隆徳・清水義彰・御手洗忠孝・重見番五郎が選ばれた。井上は幹事を代表して、「茲に愛媛進歩党を組織せらるることは最も時宜に適したるものと言はざる可からず、而して或るものは地方団体は小党分裂の地歩をなすものとなりとなせども、余の考ふる所にては純潔なる地方団体を以て中央政界の堕落を戒飭(かいちょく)し純潔剛正なる大政党樹立の動機となるは極めて快心必要のことなりと信ず」と挨拶した。愛媛進歩党は、中央政界での憲政本党―国民党と結託して、政友会・同支部との対決を強めた。

 第九回衆議院議員選挙

 明治三六年一二月、桂内閣は政府弾劾上奏文問題の取り扱いに窮して衆議院を解散した。明治三七年三月一日第九回総選挙が実施された。折から日露戦争中であったので、選挙戦も自粛して平穏のうちに進められた。本県の選挙の結果は、市部で政友会に入党して雪辱を期した森肇が前代議士山本盛信を一九票の少差で破った。郡部では長谷部倉蔵・重岡薫五郎・渡邊修(以上政友会)、井上要・合田福太郎・清水隆徳(以上憲政本党)、武市庫太(帝国党)が当選し、前代議士の武市作平が次点に終わった。国会議員初当選の長谷部倉蔵は、小松町長・周桑郡選出県会議員として活躍するかたわら西條銀行取締役の要職にあった。当選者のうち、明治三九年六月重岡薫五郎が病死した。七月二〇日の補欠選挙には、愛媛進歩党が先に惜敗した武内作平を立て、政友会愛媛支部は宇和島地方の政財界で名望の高い弁護士山村豊次郎を推した。開票の結果、山村は八、一七八票を得て六、八一一票の武内に勝った。
 明治三七年六月一日には、第三回貴族院多額納税者議員選挙が行われた。県当局は、各郡長から提出された五〇〇円以上の多額納税者を集計して、廣瀬満正・小西荘三郎・矢部嘉太郎以下一五名を互選人に指定した。互選人の投票で議員に選ばれた加藤正恵は、多喜浜村長を務め、地租一、七八七円を納める大地主であった。

 政友会県支部の内紛・分裂

 明治三七年九月三〇日付「海南新聞」は「立憲政友会ヲ脱ス 藤野政高」の特別広告を掲載、同じ紙面で「政友会首領を以て目され居りたる藤野政高氏は本日広告欄に見ゆるが如く今回同党を脱したり、今や内治外交共に多端政界益々多事なるの時に於て氏の脱会は痛惜に禁(た)へず」と論じた。藤野脱会の原因は、三津浜町民の要望をいれて高浜築港を阻止しようとする藤野の思惑を無視して、大原正延ら参事会員が高浜軍用道路の開通を進めたことにあった。進歩派の機関紙「愛媛新報」は、藤野と県参事会員の衝突を大々的に報道し、ついで犬寄峠道路改修の入札に県参事会員の一部が介入したと暴露した。土木事業に関する相次ぐ醜聞は政友会員に動揺を与え、県会副議長松井健三、県参事会員赤松甲一郎をはじめ青野岩平ら一二県会議員が一一月三〇日集団で脱会届を提出するという事件に発展した。一二県議は「脱会の理由」を海南新聞に掲載して、一部県参事会員の行動に対する痛憤を脱会の理由としていた。しかし真の原因は、参事会員の地位をめぐる内紛にあり、現参事会員が一年で交代という約束をほごにしたための脱会であった。一二県議は、藤野政高を幹事に推戴し、一二月一日「憲政の完美を期し県治の刷新を計るを以て目的」とした愛媛同志倶楽部を結成した。長谷部倉蔵ら政友会の代議士は再三の調停を試み、事態を重視した本部は幹事長長谷部純孝を派遣して裁定に乗り出した。両派の感情的対立は容易に解けなかったが、参事会員更迭問題は後日支部評議員会を開いて話し合うという案を両派が受け入れ、藤野・松井・赤松らは明治三九年四月末に政友会に復帰した。
 一年余の内紛・分裂で動揺を続けた政友会愛媛支部は、明治三九年六月一二日支部総会を開催して、藤野政高を支部長に、夏井保四郎・岩崎一高・柳原正之らを幹事に選んだ。引き続き開かれた評議員会では、懸案の参事会員更迭問題が議題となり、協議の末幹事に一任することに決し、藤野が別室での幹事会議の結果次期県議選まで参事会員は現職が留任することになったと報告した。また評議会は、戦後経営の重点目標として県下全体にわたる土木計画を企て交通機関の整備を図ることを申し合わせて取り調べに着手、やがて三津浜築港を含めた土木計画調査案をまとめて安藤知事に提出した。こうして安藤知事と政友会の結託による二二か年継続土木事業が推進され、井上要ら愛媛進歩党とその機関紙「愛媛新報」はこれに強く反発して激しい非難を繰り返した。

 第一〇回衆議院議員選挙

 任期満了による明治四一年五月一五日の第一〇回衆議院議員選挙は、明治三九年一月に成立した西園寺内閣の下で実施された。内務大臣原敬は総選挙を前にして地方長官の更迭を断行し政友会系の知事を多くして選挙戦を有利に導いたので、選挙の結果政友会は一八八名の絶対多数を確保した。愛媛県では、郡部で夏井保四郎・高山長幸・渡邊修・武市庫太・森肇(以上政友会)、才賀藤吉・田坂初太郎・村松恒一郎(以上憲政本党)が立候補し、市部では政友・進歩両党の推薦で加藤恒忠が立った。このうち、前代議士は渡邊・武市・森の三名であった。武市は先の選挙では帝国党に所属していたが、明治四〇年三月に政友会に復帰していた。
 立候補者のうち注目される人物は加藤恒忠と才賀藤吉であった。加藤は松山藩の儒者大原観山の子で正岡子規の叔父にあたり、明治一六年パリに留学、同二四年帰朝後外務省参事官、書記官を勤め、その間フランス・ベルギー公使館に勤務し、西園寺公望・原敬ら政界首脳とも親しかった。加藤は外交官を辞して「大阪新報」の社長になっていたが、池内信嘉に政界進出の意向を漏らしたことから、政友会愛媛支部・愛媛進歩党ともに自派の市部候補者として勧誘合戦を始めた。政友会では、加藤の知己白川福儀がその斡旋に当たったが、入党を条件としたため不調に終わった。ついで進歩党の井上要が再三交渉を行い、松山実業同志会の田内栄三郎らがこれを支援して加藤はついに出馬を決意した。ただし加藤の立候補は、選挙に際していずれの党派にも属さず、当選後の行動も政治上の拘束を加えないという条件であったので、井上は白川らと協議し、松山市の政治・経済団体が一致して推薦することにした。四月一三日松山に帰省した加藤は、松山実業同志会・松山実業奨励会の有志に立候補の所信を語り、「幸に自分の政見を認め無条件にて実業家等の団体より推薦せらるることなれば快く承諾して候補たるに躊躇(ちゅうちょ)しない、即ち自分は中立にて現時の政党には何れにも偏せず、又如何に入党を勧誘せらるるも承諾することは出来ぬけれども、自分の此の意見を諒せられ、政党の有志よりも推薦せらるることなれば猶更幸いとするところである」とした。
 愛媛進歩党は加藤の「当選後の行動は少しも拘束せず全然一人の自由に任ずる」要望を確認し、政友会愛媛支部もまた市部候補者に予定していた森肇を郡部にまわして推薦を決定したので、加藤は一四日朝松山を離れて大阪に帰った。加藤はこれらの推移を、「余と彼地(松山市)の有権者の間には互に請托の片影だにも留めず、一枚の名刺も送らず一字の広告もせぬ候補者に対して、有権者が能くその誠意を諒し、着々推選の実を挙げたるは誠に選挙界の一美事にして松山市民の選挙行動は天下の模範なりといひ得べき」と評して、代表の原理が貫かれたことに満足の意を表した。
 才賀藤吉は大阪に生まれた立志伝中の技術者で、日露戦争前後の経済発展に乗じて各地に設立した五一社の電力関係会社を傘下とする才賀商会を経営し、明治三五年一一月に開業した伊豫水力電気会社にも資本を提供していた。この才賀を井上要は自らが立候補を辞退して推挙し愛媛県から国会に送ろうとした。井上は「愛媛新報」明治四一年五月二日付で、「我が国政界の大問題は実に財政問題である、此の時に於いて才賀君の如き多年自ら大事業を経営し甘いも辛いも民間経営の事情に通じて剛毅なる精神と勇敢なる胆識を有し、財政上定見ある紳士が候補者となられたるは実に適材を得たるものにて、余の如きものよりも以上に同志が尽力しまた選挙人が歓迎せんことを期待するものである、余が才賀君を候補に得て自ら辞退したる所以は、自己の地位と職分に忠実にして且つ一層政治上に尽瘁(じんすい)せんと欲する微衷に外ならぬことを諒せられたし」と、才賀藤吉推薦と候補辞退の理由を投稿した。
 憲政本党の三新人中、田坂初太郎は弓削島出身で海運業に従事して石炭運搬で富を築き、因島船渠を経営、ついで日本ペイント会社社長などになった。同じく新人の村松恒一郎は政友会前代議士山村豊次郎の兄で、末廣重恭の「関西日報」入社以来「朝日新聞」などで言論人として活躍、日露戦争後には講和反対運動の先頭に立って河野広中・島田三郎らと政界革新会を起こすかたわら、憲政本党評議員を務めていた。
 これら三候補を政友派の「海南新聞」は、「才賀藤吉氏―大山師、田坂初太郎氏―俄分限者、村松恒一郎氏―演説者」と罵倒、「金さえあれば旦那様と云ふ主義を以て県下の選挙民を愚弄せんとすること」は憤慨に堪えないと、進歩派を誹謗した。しかし政友会も先に死去した重岡薫五郎の後継者に大洲出身で三井銀行長崎支店長などを歴任しやがて大日本精糖専務となる高山長幸を推挙していた。今回の選挙は、こうした実業界関係の候補者が全国的に輩出したところに特色があり、資本主義社会の要請であるとともに選挙に多額の資金を要するようになったことを示していた。
 八名の候補者と支持団体・有志は、松山市部の加藤恒忠を除き、二万人の有権者を対象に選挙運動を展開した。進歩派は田坂東予、才賀中予、村松南予の地盤割り当てを行った。政友会でも五候補に郡単位の地区割りをしていたが、進歩派三候補の強さに比し一人落選が予想されたので、五月一五日の投票日が迫るにつれて、地区協定が崩れて同志打ちの傾向が生まれた。最も地盤を荒らされたのは郡部に基盤をもたない森肇で、このため支持者は急きょ無風地帯の松山市部での森推薦を声明し森も内諾したので松山市はにわかに混乱した。理想選挙を掲げていた加藤恒忠も一三日やむなく帰郷し、選挙戦の渦中に身を投じた。
 市部選挙の結果は、四三〇票対一五一票で加藤が当選した。森は郡部でも二、三六一票しか得られず落選した。五月二一日、森肇は松山地方裁判所検事局に自己を含めて政友会幹部連の選挙法違反の罪状を訴え出るに及んで、「森自首事件」として世間の耳目を集めることになった。森が検事局に訴えるまでに、政友会愛媛支部では藤野政高ら幹部が慰撫につとめ、森の告発後は大政章津・野本半三郎が支部を代表して従来の行き違いを陳謝して和解を申し入れたが、森の受けるところとならなかった。松山地方裁判所検事局では、藤野・柳原正之・岩崎一高ら支部幹部や深見寅之助・門田晋・久松定夫ら県会議員を召喚審問して取り調べ、六月一〇日に至り不起訴処分とした。森肇は政友会本部に脱会届を出し受理された。ところが明治四二年二月、田坂初太郎が自己の経営する因島船渠の船舶買収不正問題が刑事事件に発展する状況になって衆議院議員を辞職したため、三月六日次点者森肇が繰り上げ当選に決定した。「海南新聞」三月六日付は、森の補欠当選を簡単に報じ、同時に「森肇は先に脱会届を提出したるにより本部に既に党籍を削り居るを以て左様了承あれ」の政友会愛媛支部広告を掲載した。

 第一一回衆議院議員選挙

 明治四五年五月一五日、任期満了に伴う第一一回衆議院議員選挙が西園寺内閣の下で実施された。本県の政友派は、渡邊修・武市庫太の前代議士と西宇和郡川之石出身で明治製煉会社社長の矢野荘三郎、雑誌「東京」を主宰する成田栄信、周桑郡の元県会議員青野岩平を郡部候補者とした。進歩派は、郡部で才賀藤吉・村松恒一郎の両代議士と武内作平・清水隆徳の元代議士及び新居郡の同派長老高橋秀臣を立候補させた。愛媛進歩党の上部組織であった憲政本党は、明治四三年三月に小会派と合同して立憲国民党に改称していたから、才賀・村松らの代議士は中央政界では国民党に所属し、愛媛進歩党はその支部の役割を果たしていた。市部では、無所属中立を堅持し続けた加藤恒忠が、「松山人の希望する候補とは相い距る事遠く、たとへ再出致し候ても毫(すこし)も地方のためにも国家のためにもならず、去迚(さりとて)自分の利益もこれなく候」と立候補辞退を申し入れていたので、進歩派は東京で弁護士を営む松山市出身の高野金重を、政友派はやはり松山市出身で静岡県選出の前代議士八束可海をそれぞれ推した。
 選挙の結果、市部では高野金重(中立)、郡部では渡邊修・矢野荘三郎・成田栄信・武市庫太(以上政友会)、才賀藤吉・武内作平・清水隆徳(以上国民党)が当選した。選挙当初政友会は三津浜疑獄事件による藤野政高らの逮捕と県議選の敗北や南予での渡邊・成田の地盤調整の失敗などで不利が伝えられていたが、四議席を得て国民党に一議席差の勝利を収めた。しかし市部の高野金重は進歩派の推薦と支持を受けていたので、実際には政進同じ当選者数といってよかった。ところが、選挙終了直後成田栄信は贈収賄の選挙違反容疑で逮捕されやがて刑が確定して失格したので、大正元年一二月二七日次点であった村松恒一郎が繰り上げ当選して議席を回復した。この結果、進歩派は五名の代議士を擁することになった。なお、明治四五年六月一〇日、七年の任期終了に伴う第四回貴族院多額納税者議員選挙が一五名の互選者(資近代3 三七七~三八四)の手で行われ、新居郡の廣瀬満正が当選した。

 第一三~一六回県会議員選挙

 明治三二年三月一六日「府県制」が全面的に改正された。府県会議員は従来の郡市会議員による間接選挙から公民の直接選挙になった。府県会議員は四年ごとに全員改選、選挙権は二五歳以上の男子戸主で二年以上その市町村に居住して直接国税年額三円以上を納める者、被選挙権は選挙人同様の市町村公民で直接国税年額一〇円以上を納める者といった内容であった。愛媛県は、八月二五日付県布達で九月二五日に県会議員選挙実施を告示し、各郡市の選挙定数を示した。議員総数は三五名で前回の県議選と変わらなかった。
 今回の選挙は、選挙資格が直接国税五円から三円に引き下げられた結果、選挙人は人口比で二・四%から三・五%に増加、単記無記名の直接選挙と相まって、より広い選挙人の自由意志による投票が行われ、従来の買収・脅迫などの弊害が少なくなると期待された。府県制には立候補に関する規定はなかったが、各選挙区で党派別の議員候補者が選定され、その推薦広告が選挙前の新聞紙上を賑すようになった。
 選挙の結果を有権者数・立候補者得票数とともに示すと表2―2のようになる。憲政本党系非増租派二一、憲政党一一、中立三の党派別内訳であったが、松山市の山本盛信と上浮穴郡の二宮篤三郎は実際には憲政本党系であったから非増租派の圧倒的勝利といってよかった。憲政党は、周桑郡で二議席を独占したのみで、従来の地盤であった新居郡・伊予郡・北宇和郡などで非増租派の進出を許し、温泉郡で藤野政高、北宇和郡で今西幹一郎が落選するなどの惨敗を被った。憲政党愛媛支部は、支部結成をめぐる藤野と岩崎らの内紛が組織統一に支障をきたし、中央政界で憲政党が山県内閣に同調して地租増徴の賛成派に転じたことが非増租派の格好の攻撃材料となって、地主層が大半を占める選挙民の支持を失い、前回の県議選に続いてその退潮傾向を一層強めることになり、非増租派と自称して地租増徴反対にしぼった憲政本党系に名をなさしめた。
 県会議員当選者の住所と氏名は、明治三二年一〇月四日の県達で公示された(資近代3 一八五)。新議員の住所・族籍・職業・地租・生年月日を示すと表2―3のようになる。このうち、前議員で再選された者は井上要・村上五郎・文野昇二・阿部光之助(以上非増租派)の四名、元議員は合田福太郎・村上紋四郎・村上長次郎・清水新三(以上非増租派)、大原正延・兼頭鶴太郎・赤松甲一郎(以上憲政党)の七名に過ぎず、三五名中二四名が新人であった。また明治生まれが一二名を数え、愛媛新報が新県会を論じて″明治議会″と評しているように、愛媛県会は新旧交代の時期を迎えた。
 明治三六年九月二五日、四年ごとの改選期に当たるので第一四回県会議員選挙が実施された。政友・進歩両派とも候補者を九月上旬に決定、機関紙「海南新聞」「愛媛新報」紙上に推薦広告を掲載した。候補者選考にあたり混乱したのは宇摩郡であった。この地域の前県議は、進歩派の宮崎虎一・村上五郎と政友会派の薦田唯二郎であったが、進歩派は支持者の意思に基づき宮崎と安藤正楽を推挙することにした。これに外れた村上は中立で立候補し、政友派も薦田と新人の石川昭五郎を立てたので、県下最大の激戦地となった。これに対し、三月の補欠選挙で夏井保四郎(政友会)と天野義一郎(進歩派)との間で激しい接戦を演じた松山市は、天野が立候補を辞退したため夏井ただ一人という無風選挙区となった。伊予郡では、政友派の岩崎一高が帝国党代議士武市庫太との提携を背景に出馬、これに反発して伊藤建夫は中立を標榜して立ち、進歩派の阿部倍太良、都築三喜太郎の二人を相手に二議席を争った。
 選挙の結果、宇摩郡では薦田・安藤・宮崎が当選、伊予郡は政友派の内紛に助けられて阿部と都築が勝利、進歩派が二議席を独占した。県全体の党派別は進歩派一八・政友会一七と、進歩派がわずか一議席を上回った(資近代3 二〇二~二〇三)。激戦区であった宇摩郡や伊予郡では、開票をめぐり有権者から異議申し立てがあった。宇摩郡は開票確認にあたり郡長が立会人の開票を拒み、伊予郡の場合は、投票中「ツ」の一字ないしこれに類する文字を記した疑問票六〇余票があり、これを無効とする申し立てであったが、いずれも県当局は実情を調査して却下した。
 伊予郡で異議申し立ての対象となった都築三喜太郎は、議長など役員選挙のための組織県会直前に進歩派を脱退して中立を表明、役員選挙では政友会の候補者に票を投じた。この結果、議長の夏井保四郎をはじめ政友会が役員を独占した。都築も県参事会員に選ばれ、ほどなく政友会に入党した。多数派から少数派に脱落して憤慨した進歩派は、「都築三喜太郎の不義不徳」「都築三喜太郎の変質」などの記事を愛媛新報に掲げて都築の行動を激しく非難した。ついには、一二月八日明治楼における知事招待議員懇談会の席上、清水義彰・永易三千彦・村上紋四郎が都築を殴打して検挙されるという事件を起こした(資近代3 三四八~三四九)。
 明治四〇年九月二五日の第一五回県会議員選挙は、土木問題をめぐっての政友・進歩両派の激しい対決の中で実施された。政友会・進歩党ともに各郡市候補者予選会を八月中旬に行い、それぞれの候補者名を「海南新聞」「愛媛新報」に掲載して有権者の支持を求めた。両党派の候補者数は、議員定数三六名に対して政友会二八名・進歩党二一名であった。激戦区は松山市で、政友派が海南新聞編集長の大政章津を立て藤野政高・夏井保四郎らが積極的に応援すれば、進歩派は松山実業同志会の推薦を受けた村瀬正敬を後援し、山本盛信が選挙事務長をつとめた。政友派が定員数の候補者を立てて議席独占をねらい進歩派もこれに対抗して有力者を推した西宇和・東宇和・北宇和・上浮穴・伊予郡などでも激しい選挙戦を展開した。逆に無風地区は進歩派が立候補を見送った周桑郡であった。海南・愛媛の両紙は九月に入ると連日県会議員選挙記事を掲載して、反対候補を誹謗し自党候補の優勢を喧伝した。
 選挙の結果は政友会二三、進歩党一三で、政友会が絶対優勢を確保した。県当局は当選者の住所氏名を一〇月二日の県達で告示した(資近代3 三七三~三七四)。政友派は選挙後の組織県会で役員を独占、議長に赤松甲一郎、参事会員に青野岩平・辻與三右衛門らを充て、先に県参事会員の更迭を望んで果たさず分派活動に走った人々への配慮がなされていた。安藤県政の与党として盤石の布陣を整えた政友会は、二二か年土木事業計画案を可決して実現に移した。
 第一六回県会議員選挙は明治四四年九月二五日に実施された。議員定数は三六名と変わらなかったが、松山市が一名増して二名となり、逆に上浮穴郡が二名から一名を減じた(資近代3 三八五)。
 伊澤知事による三津浜築港疑獄の摘発などで窮地に立った政友派であったが、県会多数派を維持するために二四名の候補者を公認した。しかし、東宇和郡では別宮周三郎らが政友会を脱会して革新会と称する団体をつくり三好春善を立てるなど組織の動揺が続いた。早くから県会議員選挙に焦点をあてて言論活動を続けていた愛媛進歩党の攻勢はすさまじく、前回立候補を見送った周桑郡で白石小平を出馬させ、松山市では天野義一郎・御手洗忠孝による二議席独占を企図し、宇摩・新居・越智・喜多郡など複数区で過半数の当選をねらうなど、政友会と同数の二四名の候補者を立てた。政友派は完全に守勢となり、上浮穴郡で正岡慶三が選挙戦途中で立候補を辞退するなど苦戦を強いられた。正岡辞退の条件を入れて進歩派の都築九平は中立を表示したが、「愛媛新報」の広告には選挙日直前まで愛媛進歩党の候補者に加えていた。
 東予市の市史編さん室には、周桑郡で立った一色耕平の事務長の筆になる「運動日誌」が収められている。これにより、当時の選挙運動の様子を概観してみよう。八月一七日丹原で候補者予選会が執行され、一色耕平は越智茂登太とともに候補者に選ばれた。翌一八日、一色耕平の支持者六二名が集まって今後の運動方針を協議、二〇日には一色と越智茂登太が幹部運動員二名とともに前県議青野岩平・黒田廣治の立ち会いで会合、地区割を調整した。その結果、一色には地元の壬生川町一一七票をはじめ三芳・楠河・国安・吉岡・庄内・多賀・吉井・周布の各村一町八か村九九二票が割り当てられた。周桑郡の有権者は二、一四四人であり、一色の割り当て票が越智の票より少ないのは、越智の地盤中川村とその周辺は山村で棄権者を予想し、また進歩派の白石小平が田野村出身であったので相当の票が奪われるのを見越しての結果であった。二四日一色耕平は各村を回って有志者に出馬挨拶をするとともに、各村の運動責任者を決定して、いよいよ選挙運動に入った。二五日午前七時三〇分事務所開き、二七日支持者三〇数名による各町村受け持ち区域分担その他運動方法の協議会開催、二九日各町村有権者へ推薦状配布、以後連日連夜運動と報告打ち合わせ作戦会合が続けられた。九月一一日、国安本妙寺で代議士夏井保四郎・前県議青野岩平らを応援弁士とした一色耕平政談演説会を開催、演説会は応援弁士を替えて一九日まで各所で実施されている。二〇日以後は運動員が午前七時に事務所に参集して打ち合わせの後各地に散らばって戸別に請願、投票を依頼して回った。選挙日前日の二四日は各方面の状況を分析して徹夜で運動を展開、当日の二五日も朝早くから各受け持ち部落への選挙状況視察のため運動員は出動して最後のお願いを展開した。二六日丹原郡役所で開票執行、一色耕平は越智茂登太と同数の六二七票を得て当選した。次点の進歩派候補白石小平は五二三票であった。
 こうして周桑郡で二議席を独占するなど落日の政友会も根強い地盤を生かして踏みとどまり、選挙の結果は進歩派と同数の一七名の議席を得た。しかし中立の都築九平は進歩党系であり、東宇和郡の三好春善も後に進歩派と提携したから、実際は愛媛進歩党の勝利であった。「愛媛新報」九月二八日付は、「ああ、正義は終に勝たざる可らず、進歩党は終に勝てり、夜は終に明けざる可らず、混沌たりし県政正に之より曙光を見ん、吾人は実に本県の前途を想ふて、無上の欣快の、湧然として胸底にみなぎるを覚ゆ」と勝利宣言をし、久し振りの県政与党・多数派確保を祝福した。当選者名は一〇月三日の県達で告示された(資近代3 三八五~三八六)。その後、進歩派に同調して県参事会員にも選ばれた三好春善が大正元年九月に死去、一〇月二二日に施行された補欠選挙では政友会の緒方陸朗が当選した。この結果、県会における政友・進歩両派は同数となり、進歩党の議長村上紋四郎以下の議会運営は不安定なものとなった。

表2-2 第13回県会議員選挙の立候補者一覧

表2-2 第13回県会議員選挙の立候補者一覧


表2-3 第13回県会議員選挙当選者の履歴と地租

表2-3 第13回県会議員選挙当選者の履歴と地租