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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 明治中期の国政選挙と県政界

 第一回衆議院議員選挙

 明治二二年二月一一日、大日本帝国憲法発布と同時に定められた「衆議院議員選挙法」は、二五歳以上の男子で同一府県内に満一年以上本籍を定めて直接国税一五円以上を納める者に選挙権を、選挙府県内で直接国税一五円以上を納める満三〇歳以上の男子に議員資格を与えた。当時の県内人口は九三万三、三六八人、有権者は七、〇〇四人であったから、総人口の〇・八%しか選挙権を持たなかった。選挙区は小選挙区で、愛媛県は六区に分割された。
 大同派と改進党は、明治二二年三月に宇和島の大同派が末廣重恭を第六区の候補者に決定したのを最初に、各地区の候補者選定を進めた。第一区(松山市・温泉郡・風早郡・和気郡・久米郡・下浮穴郡・伊予郡)では、大同派の藤野政高と鈴木重遠、改進党の小林信近の出馬が早くから内定していたが、大同派が分裂した段階で改進党は加藤彰を追加公認した。第二区(越智郡・野間郡・周布郡・桑村郡)では、改進党は高須峯造が第四区に移って石原信樹が候補者となり、大同派は周桑地方を地盤とする近藤春静を立てた。第三区(上浮穴郡・喜多郡)は有友正親が改進党から立候補し、大同派は当時郷里に隠退していた香渡晋(こうどすすむ)に出馬を要請した。第四区(宇摩郡・新居郡)は改進党が高須、大同派は地元に有力者がいないとして鈴木重遠を推挙した。第五区(東宇和郡・西宇和郡)は改進党が清水静十郎、大同派が牧野純蔵を立てた。第六区(北宇和郡・南宇和郡)では、大同派が末廣を早くから候補者としていた。改進党は末廣に対抗できる人物として大阪財界に活躍する土居通夫に立候補を要請したが断られたので、南宇和郡の網元浦和盛三郎を立てた。
 七月三日選挙が行われ、開票の結果、一区藤野政高(愛国)・鈴木重遠(大同)、二区石原信樹(改進)、三区有友正親(改進)、四区鈴木重遠(大同)、五区牧野純蔵(大同)、六区末廣重恭(大同)が当選した。当選者のうち、鈴木は第一区と第四区から選出されたから、どちらかの区の辞退を迫られた。藤野は長屋忠明の当選を期するため鈴木に善処を求めた。当時、中央政界で大同三派合同の機運が動いていたから、鈴木はこれをいれ両選挙区の関係者の協議でどちらの区を辞してもよいと返答した。そこで、両区大同派・愛国派混合の協議が行われ、鈴木は第一区を辞退することにした。第一区の再選挙は、愛国派の長屋忠明と改進党の小林信近が立った。七月二七日、開票の結果、長屋が一、五二九票を得、小林の一、一〇〇票を抑えて当選した。
 衆議院とともに国会を構成する貴族院の議員は、皇族・華族・勅選・学者・多額納税者の各方面の代表者から選ばれた。このうち多額納税者議員は、各府県多額納税者一五人の中から互選された。第一回互選会は、明治二三年六月一〇日に実施され、新居郡の大地主村上桂策が選ばれた。
 第二区から当選した有友正親の第一回帝国議会開会中の「在京日誌」が大洲市菅田町の有友家に保存されている。この日誌から有友の上京と国会開会中の在京の様子を紹介しよう。
 明治二三年九月二五日、有友代議士出京の前日、菅田村々民は有友のために送別会を開いた。会席は有友宅を充てて庭園に一大アーチを造り、有友君万歳の額を掲げ、夜になって軒下に数個の球灯をつるして午後一〇時まで宴を張った。二六日午前一〇時有友が門を出ると煙花高く空中に開いてその出立を祝した。数多の小学生徒は肱川の両岸に整列敬礼して正親を送った。一〇時一〇分菅田村を出船して午後二時大洲に着いた。午後四時地方有志者が一大送別会を為罐楼で開いた。会する者一七六名、郡長下井小太郎らが祝詞を述べ、有友代議士が一場の演説を行い午後一〇時閉会した。

 此日相撲アリ、煙火アリ、肱川ノ川原ハ幾千ノ人何レモ口々万歳ノ声ヲ揚ケ、其音ヤ山川ヲ響キテ恰(あたか)モ山川草木共々万歳ノ声ヲ発ストノ思アリ、宜ナル哉、吾四千万同胞ノ永年一日千秋ノ思ヲ為シテ俟(ま)チ恋レタル帝国議会ハ近キヲ期シテ開会セラレントス、有友代議士ノ議会ニ出立スル目出度今日ニ於テヲヤ、夜ニ入レハ為罐楼ノ内外及川原ニ於テ数百ノ球燈輝テ恰モ昼ノ如キ観アリタリキ、

と日誌は記述している。
 二七日午前一〇時数発の花火を合図に有友は船に乗り、五艘の舟とともに流れに沿って肱川を下った。川沿いの村々は村長・有志者が出て正親を送り、「有友代議士万歳」の旗が飄々として所々に翻った。午後一時、長浜港に着くと花火が空中に飛び有友の着浜を祝した。長浜で歓迎されて一泊、二八日午前八時「送衆議院議員有友正親君之上京」と大書きした五色の吹き流しを立てた見送りの中第二肱川丸に乗船、三津浜港に向かった。松山に二泊して、三〇日有友は小林信近・井上要らと離杯を傾けて船上の人となり、午後二時三津浜港を出帆した。一〇月一日午前九時神戸着、午後五時五〇分三ノ宮発の列車で翌二日午後一時四五分東京新橋に着いた。井ノ口正直・池田忠愛が有友を出迎え、両名同道して日本橋の中田ツル方に投宿した。大洲菅田を出立してすでに七日を経過していた。
 東京では、五日旧藩知事加藤家に挨拶に出向き、七日には赤坂に家を借りて引っ越した。改進党の議員集会や在京予讃出身者の懇親会に出席したり、洋服店で燕尾服・礼帽などを整えたり、東京各所や鎌倉・江の島を見物したり、島田三郎・肥塚龍・石原信樹らの政友を訪ねたりしているうちに、一一月二五日の帝国議会開会式を迎えた。日誌はこの日の様子を次のように記している。

 今日吾四千万同胞か一日千秋の思ひて永年待ち恋れたる帝国議会の開化なれバ道路老幼の区別なく萬歳の声高く、所々に翻る国旗ハ自然勢ありて立憲君主政体の目出度きを表せり、此日万里一点の雲だになく、平和の太陽照り微風だにあらざれば、天地も共に開会を祝すならん、

 その後は、衆議院登院を日課に、祝宴に出たり、小西甚之助・藤野政高・田中正造・牧野純蔵ら政友・政敵の区別なく交遊し、上京した小林信近・久保田佳長ら郷里の知友の来訪を受けている。一二月、年末も近づき葉書六〇〇枚を購入して選挙人・政友知己に賀状をしたためるうちに一二月二九日「ハハキトクカエレ」の電報に接し、三〇日急ぎ東京を後にして列車に投じた。三一日神戸で「キトクナシユルユルカエレ」の電文を受け取り安堵しながら一月二日帰郷した。年始行事を済ませて六日郷里を発し八日東京に着き、直ちに国会に赴く。登院の日々が過ぎるうちに一月二〇日漏電で議事堂焼失、「彼の美麗極まる国会議事堂、彼の宏大なる構造、我国三千九百万の人民の希望の満し宿座も烏有に帰する」に至った。このため両院は一〇日間休会、東京女学校(元工部大学)の講堂を仮議場にして一月二九日審議再開、三月一〇日ようやく閉会式となった。
 三月一一日有友は随員と芝の勧工場へ赴いて郷里の人々への数々のみやげ物を買い求め、翌日から友人知己に帰国の挨拶巡りを続けた。三月一五日東京出発、一七日三津浜港着、伊予鉄道で松山に赴き駅で小林信近の出迎えを受け、国会で「徹頭徹尾硬派」を貫いたことをほめられた。この日道後で一泊、一八日午後蒸気船に乗って長浜着、町長らの出迎えを受けて一泊、一九日長浜から人力車で大洲に向かい、途中井上要・森井千代丸らの出迎えで一六台の人力車を随えて大洲為罐楼に到着、「有友君万歳万歳」の声が満ちる中を凱旋した。

 愛媛合同倶楽部

 総選挙での予想以上の勝利で大同各派は合同して九月一五日自由党が復活した。愛媛政界では、中央政局とは別に改進派と大同分派の愛国派が結託して、明治二三年一〇月八日愛媛合同倶楽部を組織した。両派合同の起因は、七月二五日に公布された「集会及び政社法」で愛媛倶楽部・伊予倶楽部ともに解散を命じられ、官憲の取り締まり強化に危機感を強めたこと、議員選挙に要する膨大な労力と費用の乱用を避けること、父子の対立など政党軋轢(あつれき)の弊害を是正することにあった。設立趣意書は次のようであった。

 彼ノ自由ト云ヒ改進ト云ヒ僅カニ文字ノ相違ノミ、文字ノ争ヒハ固是レ歴史上感情的ニ出ツ、歴史的感情ノ争ヒハ小事ナリ、斯ル小事ヲ以テ国家ノ大義ヲ誤ルハ忠実ナル国民ノ最モ慚(は)ツヘキ所ナリ、故ニ吾人ハ今ヤ愛媛合同倶楽部ヲ設立シ汎ク同志ヲ糾合シ全国進歩派合同ノ大成ヲ期セントス、

常議員には小林信近・森恒太郎・井上要・元吉秀三郎・高須峯造・池内信嘉(以上改進派)、藤野政高・白川福儀・井手正光・玉井正興(以上愛国派)が選ばれ、白川・池内・森を幹事に任じた。同倶楽部に所属した会員は一〇〇名内外といわれるが、その組織範囲は松山とその周辺が主体であった。
 鈴木重遠ら大同派は、「愛媛合同倶楽部ノ如キ烏合ノ団体ニハ暫ク加盟ヲ見合ス積リナリ」と傍観の態度をとり、宇和四郡では改進派と愛国派の合同による同倶楽部加入の協議が不調であったから、愛媛合同倶楽部の前途は多難であった。このなかで、合同倶楽部に結集した改進派と愛国派は、一一月二〇日の県会正副議長選挙で議長を小林信近、副議長を井手正光が分け合うなど一応の成果を挙げたが、その蜜月も長くは続かなかった。中央政界で自由党土佐派と同調して政府と妥協した藤野政高・長屋忠明の政治姿勢に不満を示した高須峯造・森恒太郎らが同倶楽部を退会するにおよび、両派の感情的しこりが表面化した。それに資金難も重なり、同二四年一〇月一一日に愛媛合同倶楽部はあえなく解散した(資近代3 一五四~一五五)。

 第二回衆議院議員選挙

 明治二四年一二月、松方正義内閣は衆議院を解散、内務大臣品川弥二郎と前愛媛県知事であった次官白根専一らが全国的に選挙干渉を行った。このため高知県では流血の選挙戦が展開されたが、愛媛県では県知事勝間田稔が各署長あての訓令で「警察官ハ不偏不党公平無私ノ位置ニ立チ厳然職務ヲ執行スルノ覚悟ナカルヘカラス」と警察官の自粛を促し、表面的には選挙介入を戒めた。
 愛媛の民党を形成する自由党と改進党は、解散前の両党提携を反映して話し合いで候補者を立て競争を避けようとした。第一区は一二月二七日に自由・改進両党の主な人々が海南新聞社に会合、井上要が議事取りまとめをして藤野政高・長屋忠明の前議員を民党候補者として再選することに決し、県下の同志にこの意を通ずるため御手洗忠孝・森恒太郎が起草者となって愛媛新報と海南新聞紙上に掲載した。ところが翌新年早々山本盛信が御手洗忠孝と謀って小林信近を推挙する運動を開始、二月初旬に至り小林は支持者の要望断ち難く進退極まることになったので成り行きに任すと愛媛新報紙上に広告して、事実上の立候補を宣言した。この結果、藤野・長屋の再選を期す自由党と小林を推す改進党に分かれて激しい選挙戦が展開され、藤野政高(自由党)が、一、九一〇票、小林信近(改進党)が一、五五九票を得て当選した。二区は当初一区の見返りとして石原信樹(改進)を民党候補者として自由・改進両派が推挙再選の線で進めていたところ石原が急逝、柳原正之・井上要が今治に赴き候補者一本化を図ったがまとまらず、改進党は高須峯造、自由党は柳瀬春次郎を立てて争った結果、高須が勝利した。三区は有友正親(改進)を民党候補者として敵なき状態であったが、一区の協定崩れを反映して自由党は急拠重岡薫五郎を立てた。しかし、重岡はわずか一〇日の運動期間しかなかったので有友に五四票差で敗れた。四区・五区は牧野純蔵(自由)・鈴木重遠(自由)が民党候補として再選された。六区は末廣重恭が自由党を脱して吏党協同倶楽部に投じたため人気を失い、自由党と改進党の一部で構成された南豫倶楽部の推す堀部彦次郎が、末廣と組んで堀部の票を奪うことを目標に立った玉井安蔵を破り当選した。

 自由党愛媛支部の結成

 明治二五年三月の県会議員半数改選に勝利した自由党藤野派は鈴木派を除外して自由党愛媛支部の結成準備を進め、明治二六年六月一九日にその発会式を松山公会堂で挙行した。当日、松山市と周辺の党員一〇〇余名が出席、幹事に藤野政高と白川福儀、常議員に井手正光・玉井正興・吉田唯光・武市庫太・長屋忠明・森恒太郎・岩崎一高・宮内治三郎・松下信光・大森盛直を選んだ。自由党主流から疎外された鈴木重遠はやがて同党を離れ、明治二七年二月九日高橋恒麿・大西良實らと伊豫民会を結成した(資近代3 一五五)。

 第三・四回衆議院議員選挙

 第二次伊藤内閣は明治二六年一二月三〇日に国会を解散したが、第三回選挙は翌二七年三月一日であったので運動期間が長く戦いは次第に激しくなった。″大砲事件″で知られる五区の清水隆徳と古谷周道の暴力選挙戦はこの時の出来事であった。古谷派が土佐の自由党壮士を多数雇い入れ東宇和郡伊延山でしきりに小銃を放ち卯之町八幡浜間の交通を遮断して清水派を圧迫したので、清水派の青年運動員成田栄信は政治の神聖と尊厳のために彼らを放逐すべしと称して、自ら先頭に立ち大砲一門、小銃一干挺を携えて伊延山に進撃した。県警察部は武装警官多数を現地に派遣し、さらに県知事の要請で大阪・広島の両憲兵司令部から憲兵一四人が来県し、ものものしい警戒の中で両派の壮士に解散を命じ、流血の惨事を免れたといわれる。
 選挙の結果、一区藤野政高(自由党)・鈴木重遠(革新党)、二区柳瀬春次郎(自由党)、三区重岡薫五郎(自由党)、四区工藤干城(自由党)、五区清水隆徳(革新党)、六区玉井安蔵(自由党)が当選、小林信近・高須峯造・有友正親(以上改進党)の前議員と自由党を離れて無所属で立候補した末廣重恭らが落選した。当選者のうち、重岡薫五郎は喜多郡内子町出身、帝国大学(現東京大学)法学部卒業後フランスにも留学したエリート官吏で、第二回選挙に自由党の要請を受けて立候補したが有友に敗れ、今回その雪辱を果たした。鈴木・清水の所属する立憲革新党は、代議士三七名が集まって五月三日に結成した新党であった。
 伊藤内閣は、内閣弾劾決議案が可決されると六月二日衆議院を解散した。したがって第四回総選挙は前回からわずか半年後の九月一日に実施された。藤野政高・玉井安蔵は運動資金の欠乏などを理由に出馬を固辞、再選されたのは一区の鈴木重遠と三区の重岡薫五郎のみであった。一区は鈴木のほか宮内治三郎(自由党)、二区は村上芳太郎(改進党)、四区は藤田達芳(革新党)、五区は兵頭昌隆(自由党)、六区は末廣重恭(革新党)が当選した。末廣は久し振りの返り咲きであったが、明治二九年死去した(資近代3 一五六)。党派別では前回五議席の自由党が柳瀬春次郎・工藤干城の前議員が落選して二議席を失い、立憲革新党は五区で清水隆徳が落選したが、鈴木と藤田達芳に末廣重恭を加えて三議席を獲得して健闘、改進党は一議席を奪回した。

 進歩党愛媛支部の結成

 日清戦争後、伊藤内閣は自由党と提携、板垣退助を内務大臣に迎え入れた。改進党・革新党の反政府派は危機感を強め、明治二九年三月一日に合同して進歩党を結成した。本県革新党の代表者鈴木重遠も同日進歩党に加入、同党は七二名を擁する政党に発展した。中央で進歩党が結成されたことに伴い、六月一二日進歩党愛媛支部発会式が松山市公会堂で開催された。ついで七月一七日の役員選挙で、支部長に鈴木重遠、幹事に井上要・大西良實・多賀恒信が選ばれ、高須峯造・池内信嘉・近田綾次郎・村上芳太郎・有友正親・天野義一郎・浅井記博・清水隆徳・清水静十郎・御手洗忠孝らが常議員となった(資近代3 一五六)。
 明治二九年八月伊藤内閣は総辞職、後継は松方内閣で外務大臣に大隈重信が入閣した。政府与党となった進歩党幹部は、大石正巳の農商務次官を筆頭に局長・参事官の官職を得、愛媛県知事に就任した室孝次郎など知事に就任する者もいた。
 こうした猟官運動に、本県支部長鈴木重遠は、藩閥内閣の積弊を除こうとする民党主義に反するとして憤慨、村上芳太郎・藤田達芳ら国会議員同志と図って翌三〇年四月進歩党を脱党した。池内信嘉・井上要ら県内進歩派の領袖も鈴木らの行動を認め、五月一三日進歩党愛媛支部を解散して愛媛同志会を結成した。会長は鈴木重遠、幹事は村上芳太郎・池内信嘉・天野義一郎・白石節雄らであった(資近代3 三四四)。

 第九~一一回県会議員選挙

 明治二〇年代の県会議員選挙は二年ごとの半数改選が続いていた。明治二五年三月一〇日、第九回県会議員選挙が実施された。議員中半数の満期者二三名の退任に伴う改選であり、大原正延・植松暢美(のぶみ)・森糾・宮内治三郎・青木正穀(以上自由党)、武田徳太郎・清水隆徳(以上改進党)が再選、白川福儀・佐伯惟吉・西園寺源透・小西荘三郎(以上自由党)、阿部光之助・都築温太郎・尾崎増蔵(以上改進党)らが新しく選ばれた(資近代3 一五~一六)。当選者の党派内訳は、自由党一四人・改進党九人で、非改選議員を合わせると、自由党三二・改進党一三となり、自由党が圧倒的優位を確立した。
 明治二七年三月一五日第一〇回県会議員選挙が実施された。当選者は、青野岩助・大森盛直・玉井正興・武市庫太・赤松甲一郎・二神深蔵(以上自由党)、合田福太郎・亀岡哲夫・近田綾次郎(以上改進党)、大西良實・飯尾麒太郎(きたろう)(伊予民会)らで(資近代3 二七)、自由党が依然優勢であった。
 第一一回県会議員選挙は明治二九年三月二日に実施された。この選挙で前議員中再選されたのは阿部光之助・門屋秀一郎・二宮唯次郎の三名のみで、越智茂登太・石原實太郎・重見番五郎・赤松泰苞ら多くの新人が進出した(資近代3 三五)。党派別に見ると、新居郡で改選前自由党が占めていた三議席を奪取するなど進歩党の攻勢が顕著であり、改選議員二二名中半数の一一名の議席を得た。こうした新人進出と進歩党の攻勢の外に、久しく県会から遠ざかっていた藤野政高と高須峯造が議席を得て、藤野は選挙後の県会で議長に選ばれた。