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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 町村制の推進

 町村合併〈北宇和郡の例〉

 町村制は数個の町村を包括した地域を行政区域として設立することを前提としていたから、明治二二年から二三年にわたって町村合併が全国で施行された。新町村は三〇〇戸から五〇〇戸を標準として従来の習慣に従い民情に反しないようにという注意が明治二二年六月の内務省訓令の中に記されている。愛媛県は、この「町村合併標準」に従って町村合併を推進、同年一一月一一日付県令六四号で新町村区域と名称を公表した。その結果、明治一八年に一七四町九九九村あった町村は四分の一に減じて一二町二八四村になった。
 町村合併は日常の生活圏を拡大する行政処分であるため住民の抵抗や反対運動も予想されたので、一年前から合併の準備が行われた。実際に各地域で合併計画を作りこれを推進したのは郡長であった。郡長は、「大凡ソ三百戸以上」を標準に戸長役場管轄区域の継承を原則とし地形・人情を参考にして町村合併の原案を練り、これを各町村の戸長・議会や名望家に諮問して意見を徴し調整のうえ県知事に上申した。
 北宇和郡長竹場好明は明治二一年一一月八日に郡内の「町村合併調書」(愛媛県宇和島地方局蔵)を県知事白根専一に進達して、旧戸長役場区域三五を基準に三四の新町村を設立する予定で、それぞれの町村合併理由・町村名称理由・行政区域沿革を記して報告した。この調書による新旧町村を比較すると表2―1のようである。
 表の備考で示した○印の町村は郡長の諮問を受けて、「此数ヶ村ニ於テハ各独立スルノ資力ナク現今一戸長役場ノ所轄ニ属シ自ラ一団体ヲ為スモノニシテ、此合併ニ於テハ戸長及議員或ハ名望アルモノ等亦挙テ賛成ヲ表」した地域であった。これに対して×印の町村は何らかの理由で諮問に反対しており、二、三の例を挙げると以下のようである。
 吉田町は旧城下町の遺風を留めており、商人街の三町が士族居住地の三小路との合併に反対して、両地区は業体・人情を異にすること、租税賦課法などで意見が合わないこと、地理上でも河川の境界で隔てられていること、小学校舎を新築したことなどを理由に、三か町人民集会協議の総意をもって総代二一名の連名で県知事に請願した。隣村の奥南村(現吉田町内)は奥浦と南君浦の合村であるが、従来の戸長役場位置が南君浦にあったのを奥浦に移そうとする案であったため南君浦の住民が反発、同浦内朝川浦への役場位置変更を求め、郡役所が拒否すると分村運動を始めた。
 二名村(現三間町内)は音地村・大内村など一一か村が合併構成する予定であったが、「此十一ヶ村ニ於テハ各独立スルノ資力ニ乏シク現今一戸長所轄ニ属シ自ラ一団体ヲ為ス」との趣旨による郡長の合併諮問に対し、中野中村・波岡村・田川村・金銅村の総代八名が連署して、田川村から音地村までの里程は三里余りで風土や人情が異なることなどを理由に分村を願い出た。二名村の隣村好藤村(現広見町内)でも、合併予定の九か村が三間川を隔てているので出水の節往復などの不便があるとして、内深田村など五か村と国遠村など四か村の分離を申述する意見もあった。同じく鬼北に位置する泉村(現広見町内)でも興野々村が、明治村(現松野町内)では目黒村がそれぞれ村会議員ら名望家連名による独立意見書を提出していた。
 このように各地で不平不満がくすぶり、抵抗が続けられる中で町村合併は強行されるが、無理な合併が多くの摩擦を生じ分村問題にまで発展するのが、北宇和郡では南部に位置する津島郷の各村であった。
 町村合併はまた地域になじまない村名を生んだ。「町村合併標準」では、大町村に小町村を合併する時は大町村の名称を付け、数多の小村合併の時は各村の旧名称を折衷するなどと表記例を示した。北宇和郡の各町村中、宇和島町・吉田町は旧藩名、喜佐方・成妙・三間・好藤・来村・清満・津島の各村は古来の郷・組名、八幡村と三島村は神社名、日吉村は山の名に由来し、吉野生村・奥南村・高光村は旧村の合わせ名であった。愛治村・明治村は「数村ニ渉ルヲ以テ冠字等ヲ所用スル能ハスシテ村民ノ望ム所」の村名を付した。泉村は「泉貨紙ヲ製スルト田地干魃ノ憂ナキヲ豫メ祝スルトノ故ヲ以テ″泉″ノ字」を用いた。苦肉の策の村名が「二名」で、この地には岡本城と称する河野氏の城跡があったので「岡本」と名乗ることにしたが、河野氏の所領外の地域から不平が出たので、戸長・総代が協議して「此ノ合併村ハ都合十一ケ村ナルヲ以テ十一を土字ノ一字ニ縮メ和合スル十一ヶ村ト云フノ意」をもって「和土」と称することにした。しかし何やらしっくりしないとして、結局二つの名が候補に上がっただけの理由で「二名」村と称することにした。

 分村の請願〈津島郷各村の分合〉

 岩松を中心とする地方を古く津島郷と呼び宇和島藩の領域内で津島組を構成していた村々が、町村制施行に際して津島・清満・北灘・下灘・畑地の五村となったが、明治二八年七月、津島村が岩松村と高近村に分離した。また同三二年一〇月、地理的な関係から清満村のうち御内・槇川が分離し御槇村の成立を見た。
 津島村は旧藩時代の宇和島領岩松六一〇石、高田一、二七八石、近家三二五石の三村が合併した村であるが、明治二五年五月、まだその基礎が固まらないうちに各村々惣代から分村嘆願書が県へ提出された。嘆願書には、二十三年以来旧岩松・高田・近家の三村を一自治区として合併したが共に不便不利に耐えない、即ち高田・岩松の中央に岩松川が貫流して、一朝出水の折は人馬の往来絶え公私の用務に不便であるのみならず、高田・近家は農業を以て今日の生計を維持し岩松の地は商業を以て職業とする、人心また差違あって彼我の人情和せず、年ごとに調和を欠き、合村が不利であると信じて、合村創始に当たり合村が非であることを挙げ之を拒絶したけれども、当時係官が頻りに行政負担が重いことを説明し、高田・近家は意を屈して合村したけれども、以来その感情は村民の心底から脱することができず、常に円満な運行を妨げているとあったが、これに対し県では一応静観主義をとって村民の動静を監視していた。岩松村は岩松川の河口に沿って街村を形成している津島五村の主村で、物資の集散地ではあるが港口が浅瀬で船の碇泊には不便であった。海岸よりの近家には海上発展の余地があり、農業生産は旧高田村が多いので、この二村が手を組んで高近村を新設しようとして岩松を敬遠した形であった。
 分村後における戸口は岩松村が四二二戸二、一一〇人、高近村が四一五戸二、〇七五人とほぼ同数であった。従って新村名については岩松・高近を二村とし、旧村名の津島村を解散するというのが双方村民間の総意であった。しかし県では内務部長の名をもって、津島村の名称を廃し高近村に変更するときは今日までの調査済の部分が総て更正を要し不都合につき村名を改めぬよう取計らわれたいと郡長に照会した。これに対し村長は、津島郷は旧藩時代一〇か村の総称で津島の名称は紛わしいと抗弁し、結局明治二八年三月二八日に「北宇和郡津島村大字岩松ヲ分割シテ岩松村ヲ置キ、大字高田、近家ヲ分割シテ高近村ヲ置クノ件、町村制四条ニ依リ許可ス」と決定した(資近代3 二八~三〇)。
 御槇村は明治二一年一一月時の郡長諮問案で提示されていたが、県の査定段階で三〇〇戸に満たないとして認められなかったので、町村合併告示では御内・槇川の両村は清満村に含まれた。しかし両地区の人々は役場への交通不便を理由に分村をかねてから願い出ており、明治三二年になってこれが認められて御槇村として分離独立した。

 〈魚島の分村〉 明治二三年一一月九日、新村発足の余韻がさめないとき、越智郡弓削村から魚島・高井神島・江ノ島・三島の分村嘆願書が提出された。村会の意見書によれば「魚島ハ海上往復七里ノ航路ニシテ村会開設ニ際シ当日ニ至ルモ議員風波ノタメ渡海不能ヲ以テ来会議員空シク散会スル事屢々ナリ、平常至急ヲ要スル公用アリ ト雖、風波ニヨリ数日間航海ヲナシ能ハズ」とある。石原郡長の副申書には魚島地区は不便な土地である他、戸数二〇〇戸に満たず、寸尺の田もなくわずかに畑八町歩のみ、住民はほとんど漁業を営んでおり貧民多く、もとより他町村と比肩する見込みなく村内有志の意見をいれ弓削村に合わせたのに分村を希望するのは軽率も甚だしいと説諭したが承服しなかったと述べている。
 同じころ弓削村の一部には広島県へ転属を希望して書類を内務大臣に提出するなど、てんやわんやの姿となった。魚島は新居浜の北二〇キロメートル余、燧灘の中央にあって本島のほか東西両翼四キロメートルほど離れて高井神・江ノ島を属島とし、一時鯛網の漁業で栄えた村で、同二八年二月六日付二保郡長の答申書には「大字魚島ハ弓削村ヲ去ル三里余之海上ニ在ル魚島・高井神島・江ノ島ノ三孤島ニシテ、耕宅地山林雑種地等併セテ弐百五拾町余、人口千六十余ナリ、土地荒瘠ニシテ島民多クハ漁業船稼ヲナシ、閑農業及ビ土地ニ産スル石灰石採取ニ従事スル者等ナリ、概シテ貧民多シ、然レドモ此島ニ於テハ往古ヨリ春期鯛漁ノ候ニ至レバ近海ノ漁獲ノ総テ此地ノ魚市ニ拠リ始テ各地ヘ発売スルノ事アリ、即チ魚島ノ名アル所以ニシテ此季間ハ稍繁盛ナリトス」とあり、明治二八年九月一二日を以て待望の新生魚島村が誕生した(資近代3 三二~三四)。この時の魚島村は二二八戸一、〇六五人、弓削村は一、〇一九戸四、六八七人(明治二六年一二月末)となっている。

 〈満崎村の分村〉 明治二四年七月一五日、施行後一年半で宇摩郡満崎(まさき)村村民代表から同村分離についての嘆願書が知事宛に提出された。満崎村というのは天満村と蕪崎(かぶらさき)村の合併したものであるが、文面によると「当初自治区ヲ組織スルニ必要ナル条件ニ就テ精密ナル観察ヲ下サズ、皮相ナル考ニヨリ単純ニ合併ノ利ヲ唱ヘテ合村シタリ、今日ニ至リ軽挙事ヲ誤リタルヲ大イニ悔ユル所ナリ」とあり、また村会が提出した意見書によると、天満は山林に富み蕪崎は皆無、水利も天満は溜池に富むが蕪崎には挙ぐべきものがない、天満は農業によって生計を立てるものが多く、商業及び他の産業は農閑をもって行うにとどまるが、蕪崎は商業によって維持され農業は商暇をもって営むにすぎない、天満は山に沿って農家散在し、蕪崎は平地に家屋が接している、天満は人馬の往来少なく彼我の事情を伝播し難く個々に分立し易いのに対して、蕪崎は朝夕往来繁く事あれば同心協力する所がある、このような両者が団結して一自治行政機関を円満に運転させることは求むべからざることであると述べている。また郡長綾野宗蔵の意見書には両部落の反目が日を追って激化する傾向があること、分村後においても両村の自治独立に支障がないことを述べている。
 明治二五年一月二二日県内務部長は郡長あてに「人民総代参庁親シク知事ニ面謁陳述ノ次第モ之レアリ、知事ヨリモ懇ニ説諭相成候」と村民総代が県庁に陳情した模様を伝え、満崎村は元一戸長所轄区域であって明治二二年の町村合併の時も表面上甚だしい異議もなかったのに、今日「分離ノ得策ナルヲ認メタリトテ一日片時モ措クベカラサル焦眉ノ急トシテ騒擾スル程ノ特殊ノ事情ヲ生ジタル義ニモ之レアリ間敷、其処分ノ急速ヲ欲シ騒擾スルガ如キハ自治制下ノ人民ニアルベカラザル所為」であって「ソノ処分ノ即決ヲ迫ルガ如キハ法律上許スべキニアラズ」と県の意志を示達した。郡長からは折り返し、特別に分離すべき事情が発生したのではないが、両部落間の感情に融和し難いものもあるから、到底円満な結果を望めないとして、暗に分村に協力されたい旨申達したが、県としてはここでも黙殺した。
 同年一一月に至り土居・関川・小富士など近隣一〇か村の代表から、事態はますます急を告げこれ以上隣村の紛擾を黙視するに忍びないとの建白書が県に提出され、翌二六年一月、村から三度目の請願書が提出されたが県の方針は動かず、また一年半を空費した。同二七年一二月二五日に至り県知事は内務大臣あてに分村の止むなき事情を具申し、翌二八年一月をもって満崎村分村は認められた(資近代3 二八~三一)。

 〈分村認可〉 内務大臣より分村の許可を得て、知事は明治二八年七月一日より宇摩郡満崎村を分けて蕪崎と天満の二村とし、北宇和郡津島村を分割して岩松と高近の二村とする旨を四月六日付で告示し、ついで一二月一日より越智郡弓削村を分割して魚島村を置く旨を九月一九日付で告示した。前者は旧村を廃して新村を設けたのであるが、後者は弓削村は存置して魚島村が独立したことになったのである。

 町村長・町村会議員の選出

 町村合併なった新町村では、おおむね一月四、五日に町村会議員選挙を実施した。北宇和郡宇和島町では郡役所で選挙会を開き一級・二級各一二名計二四名の議員を選出した。同郡吉田町は聚楽場、三間村は宮野下尋常小学校を会場に選挙会を開き、それぞれ一二名の議員を選んだ。温泉郡雄群(おぐり)村では、二級に須山正夫・五百木豊信ら六名、一級に徳本仲蔵・松友儀兵衛ら六名、和気郡三津浜町は二級に今井保忠・宮崎張義ら九名、一級に近藤貞次郎・石崎平八郎ら九名、久米郡久米村では二級に乃万政次郎ら六名、一級に武智傳一郎ら六名がそれぞれ選出された。下浮穴郡拝志村では、四日の選挙会場で一級資格者が意外に少数であるとして上林の選挙民有志が嫌疑を呈し、選挙名簿の見直し加除のため選挙会を暫時中止した(海南新聞 明治二三・一・七~八付)。
 越智郡菊間村では、二級議員六名の選挙会を一月四日に遍照院で開設、午前九時開会午後三時投票函を閉鎖、午後八時開票を終了して、大内嘉吉(一二四点)・長野栄十郎(一〇五点)・清水漸古(一〇四点)・倉瀬五郎次(一〇〇点)・在間茂一郎(九八点)・本宮経名(九七点)が当選した。翌五日同じ場所で一級選挙会が開かれ、午後三時四〇分に選挙会事務が結了した。一級選挙の当選者は田房重矩(三〇点)・猪野傳九郎(二九点)・石山熊次郎(二七点)・石山類次(二一点)・岡田熊五郎(一七点)であった。
 一月二七日、一二名の当選議員が出席して菊間村会が開催された。冒頭、元戸長在間茂一郎が番外席に進み出て、「本日ハ本会開設初回ニテ町村制第五十三条ニ依リ村長助役ノ撰挙及昨年県令第七十六号ノ旨ニ依リ当村小学校校数種別位置諮問ノ二件ニシテ、各員寒気且雨中ノ労ヲ厭ハス出席ナリタルヲ謝シ併シテ速ニ議事ノ結了ヲ希望スル旨」を演べた。村長選挙は年長議員岡田熊五郎が仮議長となって議事を進め、在間茂一郎が一〇点の圧倒的多数の票を得て選ばれた。しかし在間は一身上の都合で村長就任を辞退の意志を表明したため、二月一二日緊急に村会を招集して、在間茂一郎の村長選挙辞退の採否が諮られた。在間が退席して開かれた同会では、田房重矩の「在間茂一郎村長撰挙ヲ辞退スルハ情実不得止モノト認ム」の発議で、村会は在間の辞退を認めた。ついで、村会は在間茂一郎も加えて後任村長の選任を協議、田房議員の発議で村長を有給吏員にすることに決して「有給村長條例」を制定、具体的人選に入って水田卯之助が九点で当選した。水田はこれを受けて初代村長に就任、同二九年まで在職した。助役は水田卯平が選ばれていたがかねて辞意を申し出ていたので、これも有給吏員として六月一二日に清水改三を選任した(菊間村会議事録)。
 町村長・助役は町村制では名誉職を建て前としたが、辞退者が続出したため、菊間村のように有給制を採用するところも少なくなかった。また名誉職町村長の場合も報酬を出して労に報ゆる町村が多かった。南宇和郡一本松村では明治二三年五月四日の村会で報酬問題が協議された。村会は、議長を務める村長田中長太郎の退席を求め年長議員中尾半蔵が仮議長になって議事を進めた。まず岩村善太郎が村長の報酬五〇円・実費弁償合わせて七三円の支給を提案した。原案に対して、宮本才一郎が目下民費が繁多である上に町村制実費のため多額の村費を要する時であるから、名誉職の建て前で辛抱してもらって報酬四五円・実費弁償一五円の計六〇円が適当であると修正案を出した。この減額案は吉良麟太郎の名誉職の本質から妥当であるとの賛成意見で議題となった。原案提案者の岩村は名誉職というけれども当人にとって職務も大切だが家の経済を度外視して役目は果たし難い、名誉職なるが故にただ減額するのではあまりに気の毒であると述べ、吉良は当人の家計までも無視せよというのではない、ただ名誉職の栄誉に照らしてできるだけ清節小額に甘んじて欲しいのであると反論するなど、名誉職論議がしばらく続いた。採決の結果、原案賛成者四名、修正案賛成者六名で、報酬年額六〇円に決した(明治二三年「一本松村村会議事録」)。

 村政の展開

 『広見町誌』(昭和六〇年刊)は、今日の広見町を形成する旭村(昭和一六年町制施行、近永町と改名)・好藤村・愛治村・三島村・泉村の村政について、各村長単位に詳細かつ具体的な記述がなされている。同誌からこれらの村々の村政を引用して、明治期の一般的な村政を概観しよう。
 広見町の中心である旭村は、町村制発足時旧奈良村外六か村戸長役場であった大字奈良村小串の武田茂一郎宅の一棟を借り受けて役場とした。初代村長は河野収蔵で、助役今西豊・収入役渡辺忠一の外に書記一人・使丁一人を置いて村政事務に当たった。河野村長は就任後四か月で辞任したので、今西助役が村会選挙で二代目村長に就任した。
 当時の村にとっての大事業は小学校の建築であった。明治二五年五月、郡長から尋常小学校二校の設置と位置の諮問を受け、村会はこの案どおり可決して旭尋常小学校の建築予算を審議した。この時役場庁舎も建築しようとの意見が多く、事業費五〇三円九六銭で小学校と役場を新築することになった。ところが小串の小学校位置については一部落から通学上不便の理由で苦情が出て紛糾、このため今西村長は辞表を提出して信任投票を求める騒ぎとなった。通学問題は結局橋を架けることで落着して同二六年八月旭小学校は完工した。ところが、成川尋常小学校は位置をめぐって成川・北川両部落の間で紛争が続いた。村当局も解決に苦しみ、ついに郡書記の出張を求めて意見を調整、校地を成川から北川に変更して明治三〇年に至りようやく校舎を新築した。また明治二五年一一月の村会で成川尋常小学校教員給を五円としたが、県は七円支給を指令した。村会は負担に堪えられないとこれを拒否して陳情委員を松山に送ろうとしたが、郡長から「本村ノ如キ理由薄弱ノ町村ハ出松ノ必要ナシ」と叱責され、やむなく七円を認める追加予算を可決した。
 明治二七年夏、赤痢が流行、四二人が発病し九人が死亡した。村では防疫に六四円を要し二七年度経常費総額六四〇円の一割に相当する費用を支出した。翌二八年一月の村会で、この伝染病蔓延を反省し「旭村衛生組合規約」を制定、患者発生時の届け出報告義務、患家並びに周辺の消毒協力体制、清掃の励行などを規定した。また県の勧奨もあって二八年の村会で避病舎の設置を審議し、大字奈良中組に建設することに決した。
 今西村長は再選を重ねて九年四か月村政を担当、明治三二年七月助役の渡邊幸一郎が後任に選ばれた。渡邊村長は有給吏員として事務を執り、学校の整備、市越溜池工事の完成、村財政確立のための手数料条例の拡充と基本財産の蓄積に努めた。明治三六年九月には助役の川添久吉が村長となり、県道吉野生線の改修負担や里道改修など道路の整備を進めた。また日露戦争時には部落共有地売上金で戦時国債に応募、日露開戦記念林を設置した。しかし戦時施策による村税の制限が村財政を圧迫、加えて明治三九年赤痢が流行したので、窮した村当局は初めて村債を起した。
 明治四一年八月井谷喜久馬が村長に就任したが、二年一か月の任期途中で辞任した。明治四三年一〇月の村会は後任村長に助役の富永惣四郎を選んだが、富永は二七歳で被選挙権がなく無効となった。このため村会は次点の今西雄馬を推挙したが、翌四四年一月末になっても知事の認可がなく、村長選挙をやり直さねばならなかった。明治四四年二月、村会は前村長辞任後六か月目にようやく村長選挙を行った。同会では、名誉職村長としての適任者がなく有給職として他村より招きたいとの意見があり、採決の結果可否同数となり、富永議長の裁断で村長選挙を実施、隣村吉野生村の川添周太郎が当選した。しかし川添村長は六か月で辞任したので、明治四四年一一月村会は再度村長選挙を行い、旭村出身で明治尋常高等小学校訓導の桂安恵を選んだ。
 桂村長は就任以来、村百年の大計を樹立するには部落有財産を統一し基本財産を造成するにありと主張、賛否両論のなか日夜村民と話し合って趣旨の徹底に努めてようやく反対派を納得させ、大正元年一〇月村会を招集、部落有財産の統合を実現した。また千馬ヶ峠線・牛野川線・北川線・奈良線・中野川線・石山線の「旭村里道維持規則」を設け常設工夫を雇用して維持管理に努めた。この積極的な村政は村民の支持を受け、桂はその後村長を一〇年六か月務め、県会議員にも選出された。
 好藤村では、初代村長に河野通倫が選ばれ、五〇円を積み立てて村基本財産を設定した。二代村長山崎儀蔵は、東仲・国遠両尋常小学校を改築して学校造りに励んだ。三代村長赤松政民は、毎年の剰余金を基本財産として蓄積することを村会に提案して自治の基礎を固め、明治二八年には赤痢流行を契機に避病舎を建設した。四代村長鈴木庄治は、明治三〇年「区長配置及び職務権限規程」「伝染病患者入院規程」「村医設置規程」、同三四年害虫駆除予防委員の設置、同三五年「基本財産蓄積条例」を制定するなど村政の整備に努め、同三一年には役場を新築した。また村道の全面改修を計画して、同三九年三月「村道改修規程」を設けた。五代市長今西幹一郎は、鈴木村長の後を引き継ぎ里道改修に尽力した。また四一年には「貧民救助蓄積条例」を設け篤志者の寄付を受けて孤独の貧者の救助や貧民子弟の義務教育費の補助を行うことにした。
 愛治村では、初代村長田中信康が一期四か年間務め、二代村長玉井卓一・三代村長清家与十郎・四代村長市川安行がそれぞれ短期間で退任した後、明治二九年宇和島出身の野本直明が迎えられて五代村長に就任、同四一年九月まで三期一二年間連続して村政を担当した。野本村長は、村役場を新築、「行政事務検閲規程」「文書保有規程」「村会会議細則」などを制定して役場事務の整備充実を実施した。行政施策では、愛治村の発展は道路の改良にあると主張して、同二九年道路改良臨時調査委員会、同三三年里道改修調査委員会を設置し、改修方針の策定、測量の後、同四〇年から里道工事に着工した。また明治三三年生田・清水・畔屋・西野々の各小学校を統合して愛治尋常小学校を設置、同三九年から高等科を置いた。
 明治四二年一月、三三歳の若さで第八代村長に就任した古谷義正は、村政運営の基本方針を(1)村民の和合を図ること、(2)前村長時代に計画した小学校校舎増築工事を実施すること、(3)村内里道の改修計画を樹立し実行に移すこと、(4)請願電信工事を実施すること、(5)産業組合を設立すること、(6)耕地整理を逐次実施すること、(7)部落有財産を統一して植林事業を実施し村の基本財産を造成することと定めて、実行に着手した。このうち古谷村政最大の施策は部落有財産の統一であった。明治四三年九月村長は村会に部落有財産を愛治村基本財産に無償譲渡の件を提案した。その骨子は生田部落は二〇〇町歩を村に譲渡すること、その外の四部落は現金一、〇〇〇円ずつ村に納入することを内容としていた。村会は激論の末原案どおり可決した。村長は直ちに郡参事会に申請し、知事の認可手続をとることになった。かねて全面反対の態度を示していた生田部落の人々は全員連署をもって北宇和郡長に反対陳情運動を起こし、村内は賛否二派に分かれていわゆる統一事件と称せられる大紛争事態に陥った。県はこの事態を憂慮、伊澤知事の要請で代議士渡邊修が調停に当たった。その結果、ようやく双方が歩み寄り、生田部落は七〇町歩を村に譲渡する、その外の四部落は現金七〇〇円を納めて基本財産積立金とする修正案をもって基本財産造成事業は解決した。古谷村長は苦難の事業の達成を見て引責辞職した。
 三島村は、明治二三年一月四、五日第一回の村会議員選挙を行い、一二名の議員が当選した。第一回村会は一月二〇日開会、下大野村外五か村の戸長であった斯波腆(あつし)が村長に選ばれた。第二回の村会は一月二四日に招集、議事細則を定めた後、小学校の数と設置場所の諮問案を審議して簡易校三校案を清詰に尋常校一校と川上に分教場を置くことに修正答申した。第三回目の村会は二月一四日に開いて、大字川上の分村願いの取り扱いを協議した。第四回村会は三月六日招集、三日間会議を続けて村長報酬を五円五〇銭とし、戸別財産等級仕組みを審議、小学校の経費は各部落負担とするなどを決めた。以後、この年一一回の村会を開き、一〇月四日の村会では斯波村長の病気による辞職願いを承認した。
 斯波村長の後任には赤松祐正が就任、一二年間村政を担当、同三七年からは清家伝が村長となり一〇年間この職にあった。両村長により、農会の設立、日吉線改修の促進、学校統合と新校舎建設、村有林の造営、学校基本財産の蓄積、貧困児童の就学奨励、避病舎・火葬場の建設などが推進された。
 泉村では、初代・三代村長高田清信が泉仙貨紙の普及に努力、二代村長渡邊綱吉は避病舎建設に取り組み、四代村長青木能逸は節倹法を発して村民啓発に努め、五代村長渡邊教基は郡道日吉線改修に際して泉線の確保運動を展開、六代高田美敬は日露戦争時の銃後奉公に当たり、七代村長赤松勝馬は「青年百則」などを配布して青年教化を進め、また村に専任養蚕教師を置いて技術の改良普及を図るなど、それぞれ事績を残した。
 以上、広見郷五か村の例で示したように、明治二〇~三〇年代前半は学校造りと環境衛生の整備、同三〇年代後半~四〇年代は道路改修や部落有財産の統一などが県内各村でほぼ共通して実行された。
 明治四〇年代、内務省は地方改良運動を推進し、地方治績の著しい団体や市町村長を表彰するようになった。明治四二年本県では内務省通牒に基づき、温泉郡正岡村、伊予郡岡田村、温泉郡余土村、新居郡氷見町などの町村や周桑郡中川村長越智茂登太ら町村長を地方改良事業功労表彰候補として順位をつけて具申した。その結果、正岡村が団体の部で三等の表彰を受けた。正岡村では、村民の風紀改善や貯畜組合の契励、農会・婦人会・青年会の活動促進、道路改修、耕地整理、教育の振興などを積極的に推進しており、それらの治績が顕著であるとして表彰の対象となった。明治末期から大正期にかけて県内町村では優良町村に準じて地方改良を展開した。

表2-1 北宇和郡新旧町村 1

表2-1 北宇和郡新旧町村 1


表2-1 北宇和郡新旧町村 2

表2-1 北宇和郡新旧町村 2


図2-1 北宇和郡の新町村地図

図2-1 北宇和郡の新町村地図