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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 徴兵制の開始

 明治初年の軍隊

 明治元年、朝廷は職制を定め、太政官に海陸軍務課を置いた。翌二年の官制改革で、これは兵部省と改められる。同三年二月、太政官は国内治安のため、新たに統一した常備兵を各藩ごとに保持するよう指示した。これら県兵とも呼ぶべき部隊は、歩兵隊と砲隊とをもって編成する諸隊編制員数に従ったが、装備訓練は各隊各様で、例えばその長を、松山藩では連隊長、吉田藩では軍務隊長と呼んでいた。翌四年一二月には、再びこれら県兵を廃止し、順次解散すべき通達があった。松山藩は久万山一揆の鎮圧の任務などがあり、その廃止を翌年まで延期するよう申請している。石鐡・神山両県とも、翌五年になってこれら部隊を廃止し、逐次解散した。
 これより先明治四年二月には、薩長土の三藩兵約一万名をもって御親兵が設置された。この御親兵は、同年七月に断行された廃藩置県の陰の推進力となったが、このころはまだ天皇の私兵的な性格の兵力であった。
 廃藩置県と同時に、新たに鎮台条例が制定されて、東京・大阪・東北・鎮西の四鎮台が置かれ、旧藩士の一部がこれら鎮台の兵力として残された。年末には御親兵を除く鎮台兵力は一万四、〇〇〇人に達し、兵部省が管轄し、初めて天皇の統帥下に入った。
 翌五年二月には、兵部省が廃され、新たに陸軍省・海軍省が設立された。
 四鎮台が設置された時、四国では高松城内に大阪鎮台第2分営が置かれた。その兵力は名東(みょうとう)(徳島)県二個小隊、岡山県二個小隊であったが、翌五年一月には宇和島県の二個小隊を加え計六個小隊となり、16番大隊と称した。この時の小隊兵員数は六〇人で編成されていた。同年五月には5・6番小隊が松山に分遣され、松山城三の丸に駐留することになった。兵力は士官以下一五二名であった。
 このころ県は「兵隊にて料理店等へ立入禁止の件」ほか一件を布達し、軍律を厳正にするとともに、民間人もこれに協力するよう呼びかけている(資近代1 50)。
 また同五年三月、松山県で召集された二個小隊は大阪の10番大隊に入隊した。この大隊は後に歩兵第8連隊に改編されるが、後述の西南の役に際し、同連隊所属の県人戦死者があるのは、この時の兵員がなお在隊していたことによる(『歩兵第8連隊史』)。

 徴兵制の実施

 明治二年、兵部大輔に就任した大村益次郎は、長州藩の奇兵隊の戦例から一般より徴募訓練された兵士の戦力を高く評価し、徴兵論を主張していた。彼の死後、その遺志を継いだ山県有朋は、西欧先進諸国の軍政を視察し、軍備の優先と徴兵の必要性を痛感、同五年一二月に徴兵の告諭を、翌六年一月には徴兵令を発布するに至った。
 徴兵令はその後幾度も改正されたが、当初は病人や罪人を除き満一七歳から四〇歳までの日本男子すべてに適用された。兵役に現役(陸軍は三年海軍は四年)、予備役(陸軍は四年海軍は三年)、後備兵役、補充兵役、国民兵役に分かれ、満二〇歳になると徴兵検査が行われた。体格や健康度に応じ、甲・乙・丙・丁・戊種の基準に分類され、原則として甲種から現役兵を徴集し、必要に応じて乙種以下からも、また予備役や後備役の兵の召集も行われた。
 昭和二年にはこれが「兵役法」になり、同二〇年一一月廃止された。
 本県においても、明治六年五月、徴兵令を管内に配布し、区長・戸長に命じて詔書及び告諭の趣旨を住民に告知させた。しかし血税騒動の県下への波及もあって、この年はその延期を陸軍省に申請した(資近代1 一五七)。このためその年の検査は行われなかった。
 翌七年、初めて徴兵検査が実施され、九月には合格者七九九名が丸亀営所に入営して、新しく一個大隊を編成した。さらにこの年には別に二個大隊徴兵の通達があって、九月に検査を行ったが、一一月には再びこの徴募を取り止める旨の通達があるなど、当初はかなりの混乱があったことがうかがわれる。
 明治八年度分徴兵相当者が常備一一八名・補充三八名、翌九年度分徴兵相当者が常備一九三名・補充二二四名であったと『愛媛県紀』に見られる(資近代1 二九〇)。この数字は、当時条例の改正により計画されつつあった編制定数とは、余りにもかけ離れて少ないものであった。

 血税騒動と徴兵の忌避

 徴兵令が発布されると、全国的にこれに反対する騒動が発生した。これは明治六年から七年にかけて全国で一六件を数えている。この騒動の原因は、「徴兵告諭」の″血税″という語句をとらえて、民衆が徴兵の意味を生身から血を絞りとって税とすることと誤解したことによるものであったといわれている。
 明治六年五月、西讃岐地方に発生した一揆の衆徒数は一万数千に膨れ上がり、高松分営の出動によって鎮圧された。この騒動は県下にも波及し、東予郡村(周布・桑村)と南予宇和・吉田にも蜂起の形勢が見られた。県当局では、六月二八日に告諭(資近代1 一五七)を発したが誤解を緩和するに至らず、両地に西園寺公成ら県幹部を派遣し百方説諭を加えて鎮静化を図った。この時流言を放って人心を惑わせた者は、その後杖刑に処せられた。
 明治六年の徴兵制に対しては、血税騒動のほかにも、様々な手段を用いて徴兵に反対し、それから免れようとする者が少なくなかった。その最大の要因は施行された徴兵令の中の「常備兵免役概則」の規定にあった。それには身体条件のほかに、官吏、一定の官立上級学校卒業者、洋行修業の者、医業を学ぶ者、一家の戸主や嗣子などが兵役を免除されている。さらにその「雑則」では代人料として二七〇円を上納する者についても免除の制度が認められていた。この一部有産階層を別扱いする代人制度は、その後世論に抗しきれず、同一六年の改正によって廃止されたが、これら免役条項が身分に上下なしとする国民皆兵論の理想に反し、庶民に誤解を与える結果となった。さらに一家の生計に寄与していた若者を突然失うこと、前借金を得て年季奉公に出ていた者の返済方法など至る所に戸惑いが見られた。政府も庶民に分かり易い平仮名主体の広報文書を流したが、徴兵のがれの風潮は民衆の間にかえって拡大した。庶民の編み出した手段は、絶家をさがしこれを継いで戸主になる方法、年齢が満たないのに養子縁組みして扶養義務者になる方法、戸主ではないが一家の生計を支えていることを陳情する方法、医師の診断書を添えて健康に障害があることを訴える方法などが用いられた。さらに期日が押し迫って提出されたこれら願書と入れ違いに徴兵令書が送達されるなどのことも随所に生じて混乱に輪をかけた。
 この結果、明治九年度の第5軍管区(広島)における壮丁数四万九、七八二人のうち、免役該当者が三万八、七七五人と、七八%弱にも達していた(陸軍省第一年報)。免役の内訳は、嗣子及び承祖の孫が最も多く二万四、四八〇人、次いで戸主が一万〇、一二三人、身幹定尺未満者が二、九三一人、代人料上納者はわずか一人であった。
 この大部分の国民の徴兵忌避の気風は、西南の役後もなお根強く残り、明治一〇年代後半になってようやく改善の兆しが見え始めた。