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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 四国新道の開さく

 新道の開さく実現への動き

 関愛媛県令はじめ高知・徳島の四国三県県令は、国家的要請を背景に県と県とを連結する主幹道路の開さくを企画した。「讃岐国那珂郡丸亀港ト同国多度郡多度津港ヨリ起リ、那珂郡金蔵寺ニ於テ両源線連結シ、夫ヨリ同郡琴平ヲ経、三野郡財田上ノ村ヨリ徳島県ヲ経高知県ニ達スルモノト、高知ヨリ起リ伊予国上浮穴郡久万町駅ヲ経テ同国松山ニ達ス」る道程であり、これを「四国新道」と呼んだ。現在の国道三二号線と国道三三号線のVルートである。
 四国新道の構想が具体化しはじめたのは明治一七年であった。三野豊田郡役所の勧業係をしていた大久保諶之丞が「四国新道」を提唱したのがこの年であり、時を同じくして、高知県では愛媛県へ通ずる一大道路の開さく計画を練っていた。また上浮穴郡長檜垣伸は、予土国境の高岡郡長から高知県の計画を伝えられ、「予土横断道路」の開さくを県当局に陳情しようと沿道各村戸長の動員を始めていた。
 こうした情勢に動かされた愛媛県令関新平と高知県令田辺良顕が会談、久万山経由の「予土横断道路」開さく事業の着工を約した。しかし事業に要する膨大な費用を県費だけで賄うことはできなかったので、六月二八日両県令連署でもって工事費予定額五四万円の半額にあたる二七万円の国庫補助を内務卿山県有朋に申請した。七月一二日内務卿から工事目論見書を整備して費用の支出方法及び工事年期などの具体案を作成提出した上でなければ起工認可や国庫補助の支給を審議することはできないとする回答が届いた。
 山県の指令に基づき、関・田辺両県令は係官吏を派遣して予定道程を実地検査させた。また、大久保ら「四国新道期成同盟会」の提出した「高知県ヨリ徳島県ヲ経テ愛媛県多度津丸亀(現香川県)両港ニ達スル道路開発ニ付テノ願」を検討した。その結果、当初の「予土横断道路」開さく計画を拡大して多度津・丸亀路線を入れ、徳島県令酒井明にも働きかけて「四国新道」の実現を図ることにした。徳島県では、新道が阿波国西端の三好郡を通過するだけだから他の郡村には十分な便宜を与えないし、近年の不況と暴風雨による被害のため危機にひんした藍産業の救済に苦しんでいる状態なので、新道開さく費用の負担はできないとしてこの計画参加を渋ったが、愛媛・高知両県令の勧誘によってようやく承諾した。
 明治一八年二月一三日、高知県一等属日比重明・愛媛県二等属津田顕孝・徳島県一等属岩本晴之が一堂に会して実務者協議会を開いた。この会では、工事分担範囲・道幅・橋梁幅・道路勾配などを協議して、道幅三間以上並木敷両側一間宛、橋梁は内法幅二間以上などと基準を決め、「目論見予算図面等ハ総テ本年十月迄ニ県会ノ決議ヲ経テ其主務省ヘ進達ニ至ラシムル事」と申し合わせた。工事目論見書は、五月の参議院議官森有礼による四国地方視察に供するため予定より早く作成し、七月二〇日三県令連署による「四国新道開鑿(かいさく)費御補助之儀ニ付禀申(りんしん)」の名で内務省に提出した。上申書は、新道開さくの理由として、「運輸ノ道ヲ開キ、殖産通商ノ利便ヲ図ルハ目下地方ノ一大急務タル」ことを強調し、管内の人民は直接間接にこの事業に賛成しているので、県会でたとえ多少の非論者がいてもあるいはこれを否決しても、本省の指揮を得て断然これを決行する精神であると不退転の決意を示していた。工事概算は八七万四、一四三円九四銭八厘で、そのうち国庫補助を愛媛・高知両県負担分の三分の一、徳島県負担分の三分の二、合わせて三五万四、五〇〇余円を要求した。
 九月八日、山県内務卿から「書面ノ趣特別ヲ以テ聞キ届ク」と認可指令が送られ、工費補助のため予算高の三分の一、八万五、六一八円を一八~二二年度の五か年度に割り当て、一か年度一万七、一二三円六〇銭ずつを下げ渡す国庫補助額・支給方法も決定した。
 この認可書を得た関県令は工事着手の準備にかかり、再度係官をして実地測量及び工事の目論見を細目にわたり調整させた結果、工事費に四〇万円を要することが判明した。この金額では、先に内務卿に提出した概算金二五万円と大きな誤差を生ずることになるが、県令は四国においては未曽有の大工事であって経験の乏しき故費額の不足は他日の論議に譲るとの考え方を示し、とりあえず一里一万円を基準にして二五万六、八五四円を工事費と定め、国庫補助金・地方税・寄附金で支弁することにした。このため、県下旧藩主及び琴平宮々司・住友吉左衛門・藤田傳四郎などに多額の寄附を依頼し、県官のうち令・書記官は月俸三か月分、月俸二五円以上の者は二か月分、二〇~一二円の者は一か月分の寄附を義務づけた。また、新道開さくにより利益を受ける度合いを酌量して各郡に割り当て、広く有志の寄附を募ることにして、郡長に命じて学校教員・病院の職員などに諭示したところ義援金の申し出が予想を上回った。住友一、五〇〇円の大口をはじめ七万三、〇〇〇円の基金がたちまち集まったので、将来を楽観した関県令は「四国新道」開さく工事の承認とその予算案の審議を求めるために明治一八年一一月臨時県会を召集した(資近代2 三二六~三三三)。

 県会の新道開さく論議

 県会では、物産興起をはじめとする四国の発展には早急にこれを推進しなければならないという議員と今日の困窮に際し人民負担を強化する新道開さくの大工事は時期尚早であるとして議案廃棄を求める議員との間に、一一月一六、一七日の二日間にわたって賛否の激論が展開された。
 常に大弁舌を振るって県会の名物的存在になっていた小西甚之助(寒川郡)は、四国は一つにすべきである、県治上の立場からみれば狭い四国は一県が理想であるし、兵備上からみれば海を隔てた広島に鎮台があるのでは一朝変がある際には不便極まることであり不安であるから四国に一鎮台を置くべきであるし、教育上から考えて大学校・商業学校・農学校とも四国は一校で十分である、また条約が改正されると、外国の物品が四国にどんどん入ってくることが予想される、その競争に耐えるためには、四国は一体となって農工商の発展を図らねばならないから、四国に一大産業組合を設けることも必要となる、これらのことは四国が一つになってはじめて実現するのであり、そのためには道路の開さくが是非とも必要であると熱弁を振るった。議長を務める小林信近(温泉郡)は一議員として発言を求め、四国の地はいずれも山谷が多いため、その山間に埋没する物産は非常に多いとして、その実例に久万山の薪炭、三好郡の藍、讃岐砂糖などを挙げて供給者の利益と需要者の要求を満たしていない事実を指摘し、物産の振興を望むならば運輸の途を講じなければならず、運搬を盛んにするには道路を開かねばならないと主張した。ついで、いかにも今日は経済的に衰退を極めていることは間違いない、しかし今日の事態が百事退守を求める場合とは考えられない、新道開さくは、本県の全体にとってはそれほど驚くほどの工事でもないし、工事費は口を極めて論議すべきほどの金高でもない、この程度のことを実行しなければ一国の福祉を進めることはできない、四国の発展のためには一時の苦痛を忍ばねばならないと述べて、各議員に原案の同意を求めた。このほか、加藤彰(温泉郡)・豊田七郎(風早郡)・堀田幸持(香川郡)らが、新道開さくの推進を論じた。
 これに対して県会の論客高須峯造(越智郡)が反論した。高須は、およそ道路開さく・鉄道敷設・学校建築などはその事業自体は必要なことであり美挙であるに相違ない、しかし時と場合を考えないと不急の土木事業となって一国の滅亡や一揆騒動の原因ともなる、現在は不急の時期というべきである、と口火をきった。その現在の悪条件として、高須は小学校の施設の不備、昨年の暴風雨による家屋崩壊、堤防の決壊などの民間の惨状を例示した後、松方デフレ政策による地方税負担の増加に触れ、政府は去る一三年四一号布告をもって監獄費や県庁建築修繕費の国庫負担を廃して地方税負担にした、また、同じ年の二一号布告で備荒儲蓄令を発布し、土地所有者に数百万円の負担が課せられた。さらに、米仲買や醤油菓子にも国税が課せられるという状態で地方に幾千幾万の負担がかかっている今日である、このうえ、工事費の金額を追徴しても諸君は意に介さないのか、情において忍びないではないか、この道路開さくはただ在来の道程を改良するだけではないか、したがって、にわかに物資交通が増し生産が活発化するとは考えられない、利害からいっても時期からいっても、今日の事業は決して是認できない、と述べた。有友正親(喜多郡)は、地元の惨状に触れて、わが喜多郡は未開の土地で、人民は租税を納めなければ土地に居られないと信じ、いかに困窮を極め尽くしていても納税の義務を怠ることがない風習があるが、それでも昨年は不納者は一、〇四○人にものぼった、わが村の戸長役場には、貧民が鍋や釜の類を持ってきて納むべき金がないゆえこれで取り替えておいてくれという有り様である。聞くも哀れ、見れば涙の出るがごとき場合に、新道開さくは有益とか無益とかの論をなすべき時でもなかろう、と議員の反省を促した。このほか、村上桂策(新居郡)・河原田新(野間郡)・石原信樹(越智郡)・渡辺隆(北宇和郡)らがそれぞれの立場で議案廃棄説を主張した。
 二日間にわたる論議の後、議案の是非を巡って起立採決が求められ、採用説二六名・廃棄説二三名で、新道開さく案は過半数にわずか一票を超えて採択された。高須・有友議員をはじめ平塚義敬(喜多郡)らは、工事費審議の過程で、新道開さくは人民の負担に堪えない、倒れて後に止んだのでは遅いと議案廃棄を主張するが大勢を動かすことはできず、原案に継続年度支出方法の修正がなされて、新道開さくはその工事費とともに可決確定事項となった。閉会式で関県令は、「道路新開工事ノ如キハ独リ本県ノミナラス、高知徳島両県ニ係リ未曽有ノ大事業ニ之レアリ、各員夙(つと)ニ看ル所アリテ以テ奮進讜(どう)論ヲ尽シ好結果ヲ得ルニ至リタレハ、工事落成ノ日ニ於テハ期シテ知ル、衆庶来往益(々)其親睦ヲ厚シ、且物産交通其繁殖ヲ極メ、唯内国ノ需用ニ充ルノミナラス、汎(ひろ)ク海外輸出ノ品ヲ盛大ナラシメ、以テ富強ノ術ヲ挙ケ、随テ愈(いよいよ)文明ノ極ニ達スルヲ得ヘシ、本官欣喜ノ至ニ堪ヘス」と挨拶して、満足の意を表した。

 新道開さく工事の進行

 臨時県会の議決した明治一八~二二年度地方税土木費中道路新開費予算は、「五ヶ年継続道路新開ノ工費県会決議ノ義ニ付伺」として、一一月二八日関県令から山県内務大臣に提出された。翌一九年二月一九日「書面伺ノ趣認可侯事」の指令が届いたので、愛媛県は三月六日四国新道開さく工事の内容を県民に公表した。
 工事に先立って「新道開鑿工費概算」・「工事分担区分」・「人足使役法」などの関係書類が作成された。工事概算によると、愛媛県分の新道は旧街道の里程二七里三〇町余(うち伊予分一七里一八町)を二四里二七町(うち伊予分一五里)に短縮することにし、道幅は平地で四間、山間部で三~三間半、勾配は三坂峠で二七分の一とされたから、旧街道二里半の急坂が四里のややゆるやかな坂に変貌することになった。工事費は二五万六、八〇〇円(伊予分一七万八、〇〇〇円)の予算を、一里につき平地で七、〇〇〇~八、〇〇〇円、山間部で九、〇〇〇~一万円、重信川橋梁九、〇〇〇円、久万川橋梁四か所一万四、〇〇〇円と内訳された。また、工事区域は六区に分けられ、一九年五、六月着工の予定で、使役職工・人夫数などの割り当ても決定した。このほか、人足の労働時間は一〇時間で三〇分の休息三回、債金は月給九円以内、人足は県人を雇うこと、常雇には帽子とハッピを支給することなども決められた(資近代2 三三三~三三四)。
 こうして準備が整い、明治一九年四月七日讃岐国琴平宮で愛媛・高知・徳島の三県令をはじめ五、〇〇〇余名の人々が参列して盛大な起工式が挙行された。愛媛県令関新平は、「夫れ国家の繁盛を図らんと欲せば、其策少なからずと雖も四国に在ては道路を開通し運輸を便にするにしくはなし、茲に於て三県相謀り四州を貫通するの一大通路を開鑿(かいさく)するに至る、此工事たるや一挙にして有益相生じ、独啻三県下人民の幸福のみならず、則本邦の鴻益と云はざるを得んや」と演説した。やがて、三発ののろしを合図に工夫三〇名が開さくすべき新道に当たる山の岩石を火薬で破壊して儀式を飾り、起工式は終了した。
 新道開さくは、五月中旬下浮穴郡宮内村の道路など各工区でそれぞれ着工した。しかしこの年は台風災害で工事がはかどらないだけでなく、県会では風水害で欠損した道路橋梁堤防の修繕費さえ賄えない今日、新道を開さくする余財などない筈だ、いかに着手中のものとはいえこれを中止するのは当然のことであるといった浅井記博(西宇和郡)らの「新道開鑿ヲ中止スルノ建議」が予想外の賛成を集めるなどして、新道開さくの前途多難を思わせた。
 明治二〇年三月関知事は「四国新道」の竣工を見ずして死去したが、同年九月には三坂峠の開さくが一応完成した。三坂峠の工事には久万郷の人々が人夫として働いた。この時に上浮穴郡長檜垣伸が作詞した「新道開さくかぞえ歌」は、工事の目的や願望をよく歌いこんでいる。

一ツトセ 人の知りたる伊予土佐の 通路は山また山ばかり ソレ開さくセー
ニツトセ ふだんの運輸(はこび)も戦時にも 通行使利か第一よ ソレ国のためー
三ツトセ 道は馬車道四間幅 一間三寸勾配に ヨク測量セー
四ツトセ よもだたのみじゃ出来はせぬ 前代未聞大事業(いままできかないおおしごと)ミナ熱心セー
五ツトセ 岩も掘割れ山もぬけ 往来(ゆきき)に不自由のないように ソレ破裂薬
六ツトセ むつかしうても三年の 月日のうちには仕上げたい コノ開さくを
七ツトセ 難所の工事は久万 三坂 黒岩 黒川 大身槍 ソレ突キ通セー
ハツトセ 約束極めし村々の 出し夫は一村に百人余 ソレ精ヲ出セー
九ツトセ 工事のつもりは三十万 官金ばかりを当にせず ミナ負担せよ
十トセ 通りぞめには賑やかに 開通式をばしてみたい 土予国境で

図1-15 四国新道の略図

図1-15 四国新道の略図


図1-16 四国新道開さくの戯画

図1-16 四国新道開さくの戯画