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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 町村統制と町村会

 区町村会法の制定と町村会

 本県では明治八年以来町村会が開設されていたが、政府が町村会を公認するのは三新法施行以後であった。まず「三新法施行順序」によって開設が許可され、明治一三年四月の「区町村会法」によってその規則の大綱が定められた。区町村会法は「其区町村ノ公共ニ関スル事件及ヒ其経費ノ支出徴収方法ヲ議定ス」(第一条)と町村会の役割を定め、町村会の評決は戸長が施行するが、郡長は町村会を監督して法に背くことがあるときには中止し、その評決を不適当とする時にはその施行を止めて府知事県令の指揮を受け、府知事・県令は区町村会を解散して改選させることができるとした。
 区町村会法は、議員や選挙資格などを具体的に定めず、区町村会の規則はその区町村の便宜に従って設定し府知事・県令の裁定を受けることと各府県庁官の自由裁量に任せた。愛媛県は、岩村県令在任中の明治一二年一月「町村会規則」を発布して、町村会の性格・開会月日・議事・選挙・議会運営などについて規定、各町村ではこの規則に準じてそれぞれの町村名を冠した町村会規則と議事細則を作成して県に届け出た。三新法施行にあたり、本県独自の地方民会として創設した町村会を、町村協議費収支の議決機関に位置づけようとする岩村県令の開明策であったが、区町村会法が実施されると町村会規則との関連が問題になった。
 明治一三年五月二八日、愛媛県は各郡町村からの伺いに答える形で「町村会法実施ニ付取扱手続」を布達、町村会の規則は戸長が従前設置の町村会議決を得て作成、連合町村会の規則はその連合部内の戸長が従前設置の連合町村会の議決を経て作成、両者とも郡長を経て本庁に上申することを指示した(資近代2 七~九)。明治一三、一四年の町村「公文留」「諸届留」などに町村会規則が綴られているのは、町村が新たに町村会の規則を県に提出したからである。
 明治一三年七月に認可された野間郡浜村(現越智郡菊間町内)の村会規則は「村会ハ村内公共ニ関スル事件及経費ノ支出ノ方法并ニ水利土功等ノ利害ヲ議定ス」(第一条)に始まり、会期を定めず事件により戸長が日数三日以内で開閉する、議決事件は一〇日内に郡長を経て県庁に報告する、議員数は二五名とする、選挙権は二〇歳以上、議員資格は二五歳以上の男子で村内に六か月以上居住する不動産所有者、議員任期は二年で毎年半数改選、議長副議長は互選するなど総則五か条・選挙九か条・議則八か条について規定している。
 明治一四年三月に県に提出された宇摩郡山田井村(現川之江市内)の村会規則は二六か条からなり、「村会ハ当村ノ公共に関スル事件及ヒ其経費ヲ支出徴収方法ヲ議定ス」(第一条)以下、村会を通常会と臨時会に分ける、議案はすべて戸長が出す、村会の決議は戸長が承認すると直ちにこれを施行し閉会後一〇日内に郡長を経て県令に報告する、村会議員は一〇〇戸ごとに五名の基準で一五名とする、議員報酬は無給であるが、弁当料として一日二〇銭を給す、議員資格は選挙人と同様二〇歳以上の男子で村内に本籍を定め六か月以上居住して不動産を所有する者に限る、議員の任期は三年とし二か年ごとに半数を改選する、村会は毎年一月・四月・七月・一〇月の四度開会するなどと定めていた。県は議員資格を二五歳以上、任期を二年に改めるという条件をつけて、六月にこれを認めた。
 北宇和郡丸穂村(現宇和島市内)の村会規則は、明治一四年八月、県に提出された。第一条の「村会ハ其村ノ協議費ヲ以テ支弁スヘキ事件及ヒ経費ノ予算並ニ其徴収ノ方法ヲ議定スルモノニシテ、其会議ハ毎年四度即チ二月、五月、八月、十一月ニ於テ之ヲ開クモノトス」以下三七条まで明治一二年の「町村会規則」の条文に忠実に従っていた。県は「町村会法実施ニ付取扱手続」に示した項目に準じて第一条「協議費ヲ以テ支弁スヘキ」を「公共ニ関スル」と改め、第八条「会議ニ於テ議事スル事件ハ戸長之ヲ施行シ後ニ県令ニ報告スルモノトス」の「後ニ」を「閉会後十日限郡長ヲ経テ」と訂正させるなどして九月これを認可した。
 三村の村会規則の例で示したように、町村会規則はそれぞれの町村ごとに若干の差異があったが、審議要項や議員資格・選挙人条件などは県の指示で統制された。県の指示は明治一二年一月の町村会規則を踏襲しながらも一部町村会法取扱手続に基づいた内容であることは丸穂村村会規則の取り扱いで明らかである。
 風早郡大浦村(現温泉郡中島町内)の明治一三年「村会決議報告」を見ると、二六名の議員が村の飢饉に備える「救荒予備米貯蓄規則」について取り扱い人員・種類・募集法・平年詰め替え・非常貸し付け方法などを審議し、村立集成学校を維持するために村から二五〇円を寄附すること、衛生委員・学務委員の日当・旅費・弁当料を支給することを議決している。大浦村の隣村小浜村の「本郡へ進達書類控」によると、同村の村会は二五名の議員で構成され、被選挙者が七九人、選挙権者が一八五人である。当時の小浜村の人口一、一二五人の内二〇歳以上の男は三五二人であるから三一・二%が選挙権を所持していたことになる。この大浦村・小浜村など風早郡島方一七か村は明治一三年一二月連合会設置願を各村戸長連名で願い出て翌一四年二月認可された。この連合会は共有物件取り扱い金穀の貸借協議費収支その他利害の数村に係る事を議定することを目的としていた。越智郡島しょ部の宮浦・野々江・台(うてな)村など八か村(現大三島町内)でも明治一四年七月に連合会規則を届け出て認可されている。同連合会は、衛生通信に係る費金の予算並びにその課賦徴収の方法及び利害得失に関する事を議定するために設け、議案は各町村戸長が協議して発布する、戸長の中から委員を選んで事務を担任する、議員は町村会議員中より公選する、議長副議長は議員中より公選する、会は定期とせず必要に応じて開閉するといった内容である。同連合会は、野々江村戸長と台村戸長が世話役となって各村から一名ずつの議員の参集を求め九月一日宮浦村大通寺で第一回会合を開いている。

 行政町村の編成と戸長官選

 「郡区町村編制法」による町村行政は、明治一二年早々に新戸長が公選され町村会も開かれて始まった。この段階では戸長役場もすでに開設していたが、行政町村の編成組み合わせは、明治一三年五月四日に「愛媛県郡町村名称及組合」を布達して、二五七町一、三五四村二一島を単独か又は組み合わせで、九〇六(うち伊予国五八一)戸長役場からなる行政町村名を公表した(資近代2 一~七)。その後、明治一五年に松山・高松市域や西宇和郡などで町村組合の一部手直しが実施され、行政区画の分割戸長役場が増設されて、戸長役場は一挙に九九八(うち伊予国六四二)に増大した。
 戸長は町村民の公選であったが、明治一六年一〇月四日県当局は明治一一年の「戸長公撰規則」を廃して「戸長撰挙規則」を定めた。戸長の選挙権・被選挙権資格は満二〇歳・二五歳以上で町村内に不動産を所有する男子であることに変更はなかったが、従来多数の得票者を当選人としていたのを選挙で戸長候補者三名を選び県令が郡長の開申を参考に適当と認める人物を選抜任用することに改めて、準官選としたのであった。
 県下の町村では公選による戸長の辞退が相次いでおり、かなりの町村ですでに官選による戸長が就任していた。たとえば、富岡村上家地村(現北宇和郡松野町)では、公選が行われないままに明治一二年三月旧庄屋・組頭の杉本伝吉が官選で戸長を拝命したが胸病を理由に辞退、四月郡役所から跡役を規則どおり公選して投票を持参するよう指示されたが四名の両村惣代は官選を出願した。四月二八日宇和島士族二宮義一が官選で戸長を拝命、富岡村事務所に赴任したが、一〇月病気になり辞職、同一三年二月杉本伝吉が臨時に戸長を命ぜられ同一四年四月に至り戸長用掛役平井弥八郎が戸長に就任して同一六年辞職、後任は宇和島士族西田芳時が官選着任するといった記録が「杉本家文書」に見られる。こうした現実に即して、戸長の選挙制に官民合選を採用したのであろう。
 明治一七年五月七日太政官は、戸長は府知事・県令が選任せよ、但し町村人民が三~五人を選任させて府知事・県令がこの中から選任してもよいと布告、愛媛県は同年一二月二五日「町村戸長自今県令ニ於テ撰任ス」(資近代2 二六七)と宣言して完全な官選制に踏み切った。また戸長役場の所轄区域は五町村五〇〇戸を基準とするとの内務卿訓令に基づき、戸長官選布告と同じ日の一二月二五日に明治一八年一月一五日限り従前の町村戸長役場を廃し更に町村戸長役場管轄の区域及び役場の位置別紙の通り定めると布達した(資近代2 二六二~二六六)。表1―107は再三にわたる行政町村の編成替えに伴い、戸長役場数を比較して挙げたものであり、明治一六年時の戸長役場数九九八は一挙に四六一に統廃合されて、ほぼ一・六町村ごとに置かれていた戸長役場は平均三・五町村に拡大した。これにより生活共同体を越えたより広い地域が行政の末端単位となり、後の町村合併の先がけをなすものであった。官選町村戸長の顔ぶれについては、県庁文書の中にその命令録が収められていたので、表示すると表1―108のようである。戸長や郡吏経験を積んだ事務能力のある名望家が選ばれているようである。戸長官選の実施は戸長役場官轄区域の拡大とあいまって、戸長の行政遂行者としての側面を一層強化することになり、県令―郡長―戸長の地方統治系列が進んだ。

 町村会の規制強化

 明治一七年五月七日「区町村会法」が改正された。明治一三年に定められた区町村会法は極めて大まかなもので細かい点は各町村の自主的な決定に任せたのに対し、この改正で詳細な規定を定めて町村会を政府・県の規制下に置こうとした。まず、町村会の議決事項は、改正前の「其町村ノ公共ニ関スル事件」が削除されて町村費をもって支弁すべき事件及びその経費の支出徴収方法に限定された。選挙・被選挙権者は今までの不動産所有という漠然とした資格を改めて地租納入者に限った。議長は今まで議員の互選によるのを改めて戸長が務めることとした。また、町村会の召集・解散・停止・議案の発案・決議の執行などに関する広い権限が戸長に与えられた。町村会は官選の戸長によって完全に掌握されたのである。町村会の規則については、従来の規定が「其町村ノ便宜ニ従ヒ之ヲ取除キ、県令ノ裁定ヲ受クヘシ」となっていたのを「町村会ノ会期、議員ノ員数、任期改撰及其他ノ規則ハ県令之ヲ定ム」と県で規則を定めることにした。
 県はこの第二条に基づき、七月一〇日に「町村会規則」を定めた。同規則は二七条からなり、通常会と臨時会の別、議員定数、選挙手続、議則などについて規定、通常会は毎年五月に七日以内の会期で開き臨時会は至急評決を要すべき事件に限り戸長が開会を決める、連合町村会の会期は五日以内で議員数は毎町村同数選出などと定めていた(資近代2 二六〇~二六二)。町村会の議事細則は戸長が草定するとこの規則は定めていたので、各町村はそれぞれ各町村会の議事細則を作成して県に提出した。九月に関県令から認可された周布郡今在家村(現東予市内)村会議事細則は、「凡会議ハ午前第八時ニ始リ午后第三時ニ終リ、時宜ニ依リ之ヲ伸縮スルハ議長ノ意見ニ限ル」(第一条)「議事ノ始終ハ議長口達ヲ以テ之ヲ報ス」(第二条)など一八か条にわたり議会運営と議員心得を定めていた。
 県はこれら議事細則が不統一であったのにかんがみ、明治一八年二月六日「町村会議事細則」を布達して、「凡会議ハ午前第九時ニ始リ午後第四時ニ終ル、但時宜ニ依リ議長之ヲ伸縮スルコトアルヘシ」(第一条)、「議事ノ始終ハ各町村ニ於テ適宜其方法ヲ設ケ各議員ニ報道スヘシ」(第二条)など、議事を三六か条にわたり規制した(資近代2 二七七~二七九)。
 こうして町村会は画一化され、官選戸長の支配下に地主中心の議員で運営されるようになった。なお、町村会規則と町村会議事細則は明治二〇年八月一三日に改正され、会議の時間や議事の始終などは議長である戸長に委ねるなど県統制を一部緩和した(資近代2 四〇二~四〇四)。

表1-107 戸長役場数の変遷―その1

表1-107 戸長役場数の変遷―その1


表1-107 戸長役場数の変遷―その2

表1-107 戸長役場数の変遷―その2


表1-108 愛媛県内の町村戸長名 1

表1-108 愛媛県内の町村戸長名 1


表1-108 愛媛県内の町村戸長名 2

表1-108 愛媛県内の町村戸長名 2


表1-108 愛媛県内の町村戸長名 3

表1-108 愛媛県内の町村戸長名 3


表1-108 愛媛県内の町村戸長名 4

表1-108 愛媛県内の町村戸長名 4