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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 関県政と県会

 関県令の着任と県官・郡長の更迭

 岩村高俊に代わって愛媛県令となり、明治一三年三月二三日に着任した関新平は、肥前藩(長崎県)士族で、戊辰戦争時奥羽鎮府総督使役、明治五年茨城県権参事、同六年同県参事を務め、同八年東京裁判所判事に転じて以後司法官として同九年浦和裁判所々長、同一〇年熊谷裁判所々長、同一二年大審院詰判事を歴任した。本県に着任した当時三八歳であった(資近代1 六九一~六九二)。「海南新聞」明治一三年三月二六日付は、政府は「岩村君カ今日迄ノ施政ノ法アキタラザル所アツテ」更迭したのであるから、「新令ハ其主義必ズ旧令ト相反スベシト思ハザルヲ得ズ、且勉メテ反対ノ針向ヲ取ラルヽナシト云フヘカラズ」と予想した。
 関県令は着任早々の七月に県官を更迭した。大書記官赤川戇助、勧業課長藤野漸、庶務課長南挺三、学務課長内藤素行、衛生課長伊佐庭如矢ら岩村県政を推進した人々は県庁を去った。その後任には、関が東京から招いた書記官湯川彰(山口県士族)、庶務課長渡楫雄(東京府士族)、勧業課長島忠之(東京府士族)、本局長原田明善(茨城県士族)などが県政の中枢を担当した。また太政官から府県官中に警部長を置くことが指示されると、同一五年一月二五日付で同郷の友人真崎秀郡を任命した。真崎は長崎県士族で愛知県二等警部を経て司法官に採用され、判事補などを経て明治一三年六月愛媛県二等属となり、同年八月以後警察本署長に就任していた。
 県官更迭に際し、県学務課長から文部省に転出、東京に移住した内藤素行は、そのいきさつを『鳴雪自叙伝』の中で、次のように述懐している。

 最初、其頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられて居たのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、又民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のやうに思って居たのであるが、其後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、又文部省雑誌といって西洋の新しい論説を載せたものを読んで、段々と独逸の国家主義を知る事になったから、余りに突飛な民権主義は同意せられないやうになって来た。そんな事で、草間時福氏が変則中学校に拠って福沢風の民権主義を唱ふるに至っても、私は学務の当局者でありながら、夫れ程熱心に賛成しない。さうして岩村県令に対しても、左程遠ざかるといふでもないが、他の同郷人の或る者程には親しくないやうになった。それが新来の関県令には聞こえて居たので、貴公は其の儘学務課長に居てもよいといふやうな内諭があった。けれども、今迄の同僚で、殊に同郷人は多く東京へ行くし、又椅子を並べる課長等は新顔も多くなるといふ事になっては、何んだか、其儘落着いて居る気もしないので、終に東京へ転任したいといふ事を答へた。然し他の同郷人は岩村氏の転任した内務省へ幸と採用されたのだから、官等は其儘で行く事が出来たが、私は学務課長で転任するなら文部省である、文部省は私に対して何等の縁故も無いから、来るなら今迄の二等属を四等属に下げねばあき場がないといふ事であった。そこで私も少し困ったが、何しろ今迄の儘では居たくないので、終に決心して四等属を甘んじて、愈々文部省へ転任する事になった。丁度此年(一三年)の七月であった。大書記官の赤川戇助氏、これは長州人で別に民権主義でもなかったが、長官が代るに其儘居るのも難儀だと思ったものか、転任させて貰ふことになって、此転任先は忘れたが、兎に角家族を連れて当地を発して東京へ赴かるゝので、私も家族を連れて夫れと同行した。此航海は神戸からは三菱会社の船の東京丸といふに乗った。それから東京へ着いては兼て願って置いたので、日本橋区浜町二丁目の旧藩主久松伯爵邸の御長屋へ住むことになった。
 関県令は、県官の更迭と同時に郡長の異動に着手し、まず和気温泉久米郡長小林信近と香川郡長松本貫四郎の相互交代を発令した。小林はこれに反発して直ちに郡長を辞職し、和気温泉久米郡長に転じた松本もほどなく退任した。ついで八月には野間風早郡長長屋忠明もその地位を去った。長屋に先立って同郡書記を退いた井手正光は自伝『逐年随録』の中で、「昨十二年来中央政府に於て施政の方針一変し干渉束縛甚しく、殊に吾県に於ては岩村県令去りて圧制家の名を得たる関新平君来りて其跡を継ぎ、頻(しき)りに吾野(間)風(早)の郡治に関し干渉せる処あるより、吾輩等が曽(かつ)て期待せるが如き所信の主義目的を郡治の上に達し得べき望なきに至る、茲に於て吾輩は断然辞去し野にありて計画する処あるべしと郡長長屋君に其意見を開陳し君の同意を得て去りたり」と記述している。
 さらに明治一四年九月一三日、県会の建議を認めた形で郡役所の廃合を実施、郡長の異動を発令した(表1―105)。これら郡長のうち引き続き郡長の職に留まった者は木村・森・山田・三橋・石原・肝付・檜垣・西川・下井・長尾・物部であり、新任郡長の前歴は豊田が県会議員であったほかは県官であった。郡長のその後の異動を伊予国のみに限定して挙げると、東宇和郡長物部醒満が明治一七年九月に退任して西宇和郡長長尾信敬が横すべりし、西宇和郡長には大内寒川三木郡長の木村浩蔵が移ったが、同一八年一二月山下興作に代わった。また新居周布桑村郡長は明治一八年一二月近藤縮往に交代した。

 明治一〇年代の県会

 関県令就任初年度の明治一三年通常県会は、県庁構内に新築された議事堂で六月一一日に開会され、会期四八日間、七月二八日に閉会した。この議会では、明治一三年度地方税収支予算案と営業税雑種税種目課額議案及び県会議員数改正案などを審議した。明治一四年通常県会は五月一〇日に開会、会期五一日を要して六月二九日に閉会した。議会は一四年度予算審議の過程で瀬戸内海警備のための水上警察の設置と経費節約の策としての郡役所廃合を建議した。これにこたえて関県令は水上警察費を追加上程、郡役所は二一を一六に減じた。両年の議会とも県の原案がほぼ議会の同意を得、県当局と県会は協調関係で結ばれていた。
 明治一五年通常県会は三月二〇日に開会された。議会は各費目にわたり慎重な審議を重ね、「一昨年以来政府ハ頻リニ国庫ノ下附ヲ廃サレ、為メニ地方税ノ増加スルニ於テハ人民其途ニ安ンセサルモノアラン」、「民費ノ年々増額スルヲ思ヘハ本年ノ処ハ忍ンテ減額ニ従ハレタシ)といった民力休養の立場から予算額を軽減ないし削除する主張が続いた。このため原案維持説も含めて諸説が分かれて容易に過半数の意見に達せず、地方税支出予算の審議に三〇数日を費やすことになった。このほかの議案でも熱心な審議が続き、その間に郡長公選、車税と五〇石未満船税の国税免除、汽船切符売りさばき所特許廃止などの建議が有志議員から提案された。この結果、この年の通常県会は八〇日間という異例の長期議会となった。ようやく議事に馴れた議員が地方税収支予算と関係議案の審議や建議に各自各様の意見発表を展開したための会期延長であった。また郡長公選の建議が四〇名の多数で可決されたこと、平塚義敬(喜多郡)らによる汽船切符売りさばき所特許廃止の建議が船舶航行の自由を奪い乗客に不便迷惑を与えている様子を詳細に調査して、多度津・三津浜港での汽船切符売りさばき所を指定した関県令に「閣下モ亦其責メニ任セサルヲ得ス」と正面から失政ときめつけ内務卿に裁定を求めたことなどは、民権思想が県会議員の間に浸透しはじめたことを示していた。これは、従来の従順な議会を期待した関県令以下の県理事者には予想しなかった事態であり、議会攻勢と内務省指令で指定汽船切符売りさばき所を廃止しなければならなかった。
 明治一五年九月二七日、県会議員改選後の正副議長・常置委員選挙のための臨時県会が開かれ、議長に小林信近(温泉郡)が当選した。この議会で、県は明治一五年度地方税収支のうち更正議案の承認を求めた。これは、通常県会の議決を経て布達した明治一五年地方税収支予算中税収の地租割金額に大きな誤謬(ごびゅう)を犯して公布し、この誤りの金額を県民に割り当て徴収して一万七、〇〇〇余の不正収入を得たので、この増収分を予備費に充当させようとする内容であった。この年愛媛県は六月と八月の二度にわたる暴風雨に遭遇し堤防・道路・橋梁(りょう)などが災害を受けていたから、その補修費用にあてることを条件に議会はやむなくこれを認めたが、誤写布達は議会の決議に違反し重税に苦しむ県民にいわれのない負担を課したとして関県令の反省を促す建議を可決した。建議は、「誤謬(ごびゅう)ノ原因ヲ尋ネ其失錯ノ本素ヲ穿(うがち)テハ…閣下カ議案ヲ発スルニ当リ、深思セス熟案セス、匆々(そうそう)ニ頒附セシモノ実ニ之レヲ致セリ」と県令の監査不行届きを追及し、「議会ニ妄信ヲ与フルノ害アルノミナラス、管下ノ人民ハ之レカ為メ如何ナル患難ニ陥ルヘキヤ知ルヘカラサルモノアリ」と迫った。これは県当局の大きな失策であり、県令は主任官を処罰したが、議会にはこれについての釈明をしなかった。この県令の態度が議員の憤りを助長し、「県令末タ悔恨セス」「地元官ノ為ニ惜ムヘシ」といった批判が相次いだ。
 協調から対決に転じた県当局と県会の関係は、この年の通常県会開会を前に一つの事件を起こした。前年度通常県会が議事の錯雑で長期の会期を要したことを反省した小林議長以下の有志議員は、議会開会に先立って議案の旨趣を理解するための勉強会を開いた。関県令はただちに「県会開場前ニ議場内ヘ議員集合シ、私ニ会議候儀ハ相成ラス」と議事堂を使用しての集会を差し止めた。これに対し、小林議長は「御差支ノ理由詳細御明示相成リ度」と公開質問状を発した。
 こうした波乱含みの中で三月三〇日、明治一六年通常県会は開会した。県当局は不況下の経済情勢を考慮し、前年度より一二万余円を減じた緊縮予算を起案して議会に上程したが、議会は県政の重要案件である水上警察・巡回訓導などに関する予算を削除し、甲種医学校案を簡易乙種医学校に改めるとして、地方税支出予算の各費目にわたり削減を加えた。
 地方税支出予算の審議が終わったところで、議会は三野豊田郡六議員招集問題を取り上げた。当時の議会は病気や事故のため常に一〇数名の議員が欠席していたが、不参の理由を書面に記してあらかじめ議長に提出する定めになっていた。今回の通常会は、讃岐側五名・伊予側四名計九名の県議が不参届を提出していたが、無届不参者も八名を数えていた。その無届者のすべてが讃岐国出身の議員であり、なかでも伊藤一郎など三野郡、岩山常彦など豊田郡選出の議員が一人も参加していないのが目立った。小林議長は書簡でもって不参議員に問い合わせたところ、彼らのもとには議員招集状がいまだ届いていないことが判明した。四月九日、小林信近は議長職権で議員招集状遷延(せんえん)の原因を詰問し、県民の代表すべてが出席していない議会の決議は無効ではないかとただした。一七日関県令はこの伺いの回答を議会によせ、議員の招集状は三月一七日各郡内に送付したが、三野豊田郡で郡役所往復係がこれを紛失したことが判明したので関係者を厳しく処分した、なお不参の議員があってもすでに議決した事項はすべて有効であるとした。この県令回答を県議たちは誠意なしと受け止め議事審議を中断して協議した結果、四月二三日「議員招集漏脱ノ件ニ付県令ヘ忠告建議」を決議した。建議は、「愛媛県会満場ノ決議ニ由リ不肖信近慨然トシテ悲ミ愀(しゅう)然トシテ歎キ爰ニ敢テ閣下ニ建議セスンハアラサルモノアリ、是レ他ニ非ス、本年本会ノ開場ニ当タリ三野豊田二郡六名ノ議員ニ限リ閣下ノ招集漏脱セシモノ是レナリ」に始まり、「嗚呼、愛媛県会ハ何ソ一ニ不完全ナルヤ、嗚呼、前文ノ二郡人民ハ何ソ一ニ不幸ナルヤ」「嗚呼、賢明ナル閣下ヨ、冀(こいねがわ)クハ前陳議会ノ不完全ナリシト二郡人民ノ不幸極マルヘキトヲ深察シ、向来復タ斯カル過誤ナキニ懇到注慮スル所アランコトヲ」と、二度にわたる県令の失態に強い反省を求めた。
 この日、関県令は警察費と教育費の再議を指令した。議場では、石原信樹(越智郡)が「県令ニハ県会ノ意見アリテ議案ヨリ増スコトモアルヘキ、亦々減スルコトモアルヘシ、(再議)演説書ニ拠レハ、寧(むし)ロ之レヲ議セスシテ議員ニ斯々(かくかく)ニスルソト云フニ止ラサルヲ得ス」、小西甚之助(寒川郡)が「我愛媛県令関新平様ハ何ニテモヨク干渉セラルル御丁寧ノ御方様ナルニアラスヤ、然ラハ左モアルヘキ次第ニシテ斯ク再議セシメラレテコソ我関県令様ノ県令様タル所以ナリ」とひぼうするなどこれに反発した。
 折から議会は都崎秀太郎(阿野郡)の提案になる「車ノ国税免除ノ儀ニ付建議」を審議していた。建議の趣旨は、本県内の道路橋梁は他府県にその例が見られないほど険悪なものであり、そのうえ近年は車数が増加して道路の損壊がはなはだしい、それを改良修繕するにしても、国庫補助費は明治一三年度より廃されたし、地方税でまかなうにも民力の堪えるものではない、そこで道路橋梁を最もよく破損する車への賦課国税を免除してもらってそれを改修費にあてることを要請する次第である、といった内容であった。この建議の採否にあたり、県官は都崎議員の建議は大政に関することと認められるので議長はこれを採択しないようにと忠告したが、小林は都崎議員の建議は本県限り車の国税を免除されたいと建議するのであって、すべての府県の車税免除を要請するのではないとして審議の続行を促し、採決を強行した。その結果、採用賛成二三名の過半数で建議案採択が決議され、都崎と小西甚之助・綾野宗蔵の三議員が起草委員に選ばれた。
 四月二四日関県令は、「本会ニ於テ国税ニ相関スル車税免除ヲ議スルハ、規則ヲ犯スニ当ル義ニ付会議中止致スベシ」と命令し、臨場県官を増員して議場を威圧した。議員は激昻し、小林議長の発議で県令の議事審議中止指令は議会の建議権限を犯していると考えられるので、参事院に裁定を乞うことを議決して、小林・石原・堀田幸持(香川郡)を議員総代出京委員に選んだ。小林らは翌二五日出京の申告をしたが、「県会何時開会命セラルルモ計リ難キヲ以テ、追テ何分ノ指令之レアル迄ハ施行致シ難シ」と認可されなかった。四日間の休会後議会は再開され、再議を命ぜられた警察費と教育費の審議を行った。議員は先に議決した修正案を再び可決して抵抗の姿勢を示し、関県令は原案執行の大権を発動してこれに報復した。
 県会閉会後、五月下旬、小林ら議員総代は上京して「県令ト法律ノ見解ヲ異ニスル件」につき参事院の裁定を求めた。参事院の係官は、具状書は県令を経て差し出す手順になっているから、正式の手続きを経て裁定を仰ぐべしと指示、県会総代と認めない関県令には県会より本院の裁定を乞うために差し出された具状書は理非の如何にかかわらず却下してはならない、成規にしたがって取りまとめ進達いたすようにと指令した。帰県した小林らは具状書を県庁に提出、参事院は県から送付された具状書を受理した。六月下旬、参事院から小林らに呼び出しがあったので上京したところ、「具状書裁定ノ限リニアラス」と却下する旨の口達があった。
 県と議会が激しく対立した明治一六年県会の後、翌一七年県会からは両者間で妥協の姿勢が見られた。高須峯造(越智郡)の「県会ト雖トモ権利ノミヲ主張セスシテ、時アツテハ一歩ヲ退テ議会ノ徳義ヲ守ラサルヲ得サルコトアリ」といった発言は議員一般の意思を代弁しており、関県令も議会の議決内容のままを執行するなど県会の立場を尊重した。明治一八年三月の通常県会では、農民の課税対象とする地租割が過徴状態にあるとして営業税・雑種税の増税を要求する平塚義敬(喜多郡)ら地主代表とこれに反対する加藤彰(温泉郡)ら都市議員間で論争が展開されるなど出身基盤の利害対立が見られた。
 この時期、松方デフレによる不況が深刻化して県民は困窮していた。こうした非常時に関県政は四国新道開さくの大土木事業を計画した。一一月開さく工事の承認とその予算案審議のため臨時県会が召集された。議会は、四国新道が物産と運輸発展の基であるとする開さく推進論者と膨大な工費で県民の負担に耐えられないとする非開さく論者の対立で紛糾したが、新道開さく予算はわずかの差で可決された。新道開さくのための臨時県会に続いてこの年二度目の通常県会が開かれた。この年から会計年度は四月~翌年三月の周期に改められたので、一九年度地方税収支予算が審議された。この会計年度改定に伴い、通常県会は以後一一~一二月に開会された。
 明治一九年本県ではコレラ・赤痢が流行、続いて暴風雨の被害が相次いだ。このため防疫と災害復旧に臨時支出を要し非常事態となった。さらにこの年「学校令」が公布されて学校の再編成と充実を図らねばならなくなった。明治一九年度地方税支出中土木費追加と教育費更正などを審議内容として一〇月二五日臨時県会が開かれた。議会は土木費原案を減じ・民間疲弊と地方財政窮迫を理由に災害復旧費の全額国庫金支弁を要請する建議を満場一致で決議した。教育費更正は、学校令制定に伴い愛媛県師範学校と第一(松山)中学校を尋常師範学校と尋常中学校に再編成し、第二(高松)・第三(宇和島)中学校と医学校の廃止を企図したものであった。議場では、平塚義敬・藤野政高・高須峯造らの論客が県費節減と中等教育への干渉排除などを理由とする県立中学校廃止論を述べ、圧倒的多数で第一中学校を含めて中等学校を全廃することを決議した。引き続いて開かれた通常県会でも尋常中学校費を削除したほか、松山・高松病院費の地方税支出を停止し、県会諸費・郡吏員給料旅費及び庁中諸費・勧業費などを節減して、原案を大幅に減じた。関知事は尋常中学校の廃止を認めたが、他は原案執行を実施した。

 第二回~第六回県会議員選挙

 県会議員選挙は「府県会規則」第二二条で二年ごとの半数改選としていたので、明治一三年九月第二回目の選挙会が開かれた。退任者は明治一三年七月の通常県会で議案審議終了後抽籤を行い決定していたから、その後任として三四名の新議員が選出された。この選挙は郡役所単位で実施され、和気温泉久米郡・野間風早郡などでは連合郡を選挙区としていた。ところが一一月に至り法制局から各府県に「数郡ヲ聯合シテ一郡庁ヲ置クモ、議員ハ其各郡ヨリ五人以下ヲ撰フヘキモノトス」との通達があった。連合郡から選出された新議員は単独郡選出議員とともに一一月臨時県会に出席していたが、県は明治一四年一月三一日に郡単位の議員定数をあらためて布達するとともに連合郡から選出された議員を解任する旨を明らかにした。この結果、門屋長平・五百木豊信(和気温泉久米郡)、田房重矩・仙波縄(ただし)(野間風早郡)ら八連合郡選出の一六名が解任され、二月二〇日までに郡単位のやり直し選挙が実施された。田房重矩(野間郡)らは再び当選したが、温泉郡では小林信近、和気郡では西山徴がそれぞれ新しく選出された。
 第三回県会議員選挙つまり第二回目の半数改選は、綾野宗蔵(香川郡)・石崎保一郎(温泉郡)・平塚義敬(喜多郡)・都築温太郎(西宇和郡)・牧野純蔵(東宇和郡)ら四年の任期を終えた三四名が退任して、明治一五年八月中旬に実施された。選挙の結果、綾野・平塚・都築・牧野ら一五名が再選され、小西甚之助(寒川郡)・菊池武凞(ひろ)(香川郡)・加藤彰(温泉郡)ら一五名が新しく選ばれた。この選挙で選ばれた議員に留任議員を加えた議員数は六八名であるが、そのうち六一名の財産並履歴が「明治十六年議事例規」(愛媛県議会事務局蔵)に収録されている。それを表示すると表1―106のようであり、議員平均年齢は四〇歳である。士族一三、平民四八の階層内訳は一見して地主議会といえるが、士族が郡長・郡書記などの経験者、平民の多くが戸長などを歴任していることから、県政財政にかなりの知識を持っていたものと考えられる。
 第四回県会議員選挙は明治一七年五月に実施された。この選挙で小林信近(温泉郡)・窪田節二郎(伊予郡)・石原信樹(越智郡)らが再選され、有友正親(喜多郡)らが新議員となったが、次の改選期の一九年三月までに辞職者が二一名もあった。ちなみに前回の改選明治一五年九月から一七年五月までの間の議員交代は二八名にのぼっており、この時期県会議員は簡単に辞職し繁雑な異動をくり返した。
 第五回県会議員選挙は明治一九年三月に実施された。改選議員は三四名で、再選は小西甚之助(寒川郡)・堀田幸持(香川郡)・三井荘三郎(那珂郡)・平塚義敬(喜多郡)・都築温太郎(西宇和郡)ら、新議員は藤野政高(温泉郡)・玉井正興(久米郡)・堀部彦次郎(北宇和郡)らであった。この選挙における議員資格者は二万四、〇八六人、有権者数は四万七、二三八人で全人口の三・二%であった。
 第六回県会議員選挙は明治二一年三月に実施され、四月二一日に当選者氏名が告示された。再選は石原信樹・高須峯造(越智郡)・窪田節二郎(伊予郡)・有友正親(喜多郡)ら、新当選者は池内信嘉(野間郡)・長屋忠明(風早郡)・鈴木重遠(温泉郡)・清水隆徳(西宇和郡)・清水新三(北宇和郡)らであった。長屋・鈴木ら政治運動の中心人物が先の藤野・堀部らに続いて県会に進出したことは注目される。県会は政治家の活動場としての性格を帯び、県会議員選挙は政党勢力拡張の好機として選挙運動が展開されるようになった。

 地方官官制と県行政組織の改革

 明治一九年七月一二日「地方官官制」が制定され、従来府知事・県令と呼ばれていた地方長官の呼称が知事に統一されるとともに、府県庁は第一部・第二部・収税部・警察本部に分かれ、各課を設けて事務を分掌することにした。愛媛県は八月四日県庁機構を改め、第一部に議事課・文書課・農商課・庶務課、第二部に土木課・兵事課・学務課・監獄課・衛生課・会計課、収税部に賦税課・徴収課・徴税費課・検税課、警察本部に第一課・第二課・第三課・第四課を配置した(資近代2 二九一)。
 これにより、関県令は県知事と呼称され、内務大臣から任命される奏任官待遇の部長には、藤尾伍鹿(第一部長)・野村政明(第二部長)・荒木利定(収税長)・真崎秀郡(警察本部長)がそれぞれ就任した。藤尾は高知県平民で、高知・静岡・福井県官吏を経て内務省県治局第二部長などを務め、明治一九年七月愛媛県書記官に任命された。野村は鹿児島県士族で、慶応義塾などで英学を修め、同一六~一八年郷里の県会議員、私立共立学舎々長などを務め、明治一九年一二月愛媛県書記官になった。その後、鹿児島県内務部長を経て、鳥取・宮城・石川・愛知の各知事を歴任した。関知事と真崎警察本部長は長崎県士族であったから、県主脳は肥前・薩摩・土佐の藩閥出身者で占められた。
 県庁機構の改革に伴い八月二五日県官の大異動が行われ、郡長も交代した。郡長のうち留任したのは上浮穴郡長檜垣伸・喜多郡長下井小太郎・北宇和南宇和郡長竹場好明・西宇和郡長山下興作の四名で、下浮穴伊予郡長西川武久が東宇和郡長、宇摩郡長薬師寺篤好が新居周布桑村郡長に異動、宇摩郡長綾野宗蔵・越智郡野間郡長二保今朝松・風早和気温泉郡長土屋正蒙が新任であった。下浮穴伊予郡長は一年間土屋正蒙が兼任した後明治二〇年九月に越智野間郡長であった黒川通成が就任した。

 関知事の死去

 関知事は在任中、勧業・養蚕・士族授産などの殖産興業策を推進、また四国新道の開さくを県令在任中の最重要事業と自負しその着工に全力をあげた。新道開さくが開始された明治一九年は、不況による収入減と政策予算のための支出増で地方財政が窮迫している上に、夏の干ばつと秋の三度にわたる暴風雨被害、さらにはコレラと赤痢の流行で県内に患者を五、〇〇〇人以上・死者三、〇〇〇人以上という非常事態を呈した。関知事は、一〇月に上京して一か月にわたり災害救済を関係官庁に陳情し、ようやく四万五、七〇〇円の国庫補助を得ることができた。
 明治二〇年三月七日、関知事は本県知事の現職のまま四五歳で死亡した。「海南新聞」明治二一年三月三日付は、岩村高俊と関新平を比較して、「岩村高俊氏の本県に長官たるや当時百般の事皆な幼稚なりしを以て専ら人心を振起することに注意せられ、概して自由主義の政略を執られたりと雖も、同氏の内務省に転任せらるゝや関新平氏判事より出て其後任を襲ひ本県へ赴任せらる、当時政論の囂々(ごうごう)たりし時なるを以て同氏は専ら之が鎮静に尽力せられ、従て百般の事にも自から圧制の主義に傾くの勢いなりしが故に先づ岩村氏の政略とは反対の政略を執られたりと云ふべき歟」と評した。
 関新平は赴任当初から死去するまで常に前県令岩村高俊と対比され、当時の新聞や内藤素行の『鳴雪自叙伝』、井手政光の『逐年随録』などの回顧談で圧政家・干渉家の印象が強い。明治一六年に四国九州各県を巡察した参事議官山尾庸三は、その復命書の中で、愛媛県令関新平は赴任以来「勉励治ヲ図ルノ心頗(すこぶ)ル切ナル」をもって管下施政の施設順序は大いに整とんされたようである。しかし「剛強敢為(かんい)」な処置が時として厳格に過ぎ、加えて親しく県下を巡視することが少なく、郡役所所在の地でいまだ赴いてない所があるといった民情視察への無関心が「上下ノ情融然相通スルノ便ヲ欠ク」ことになっていると指摘、さらに関県令の不人気は、「前官(岩村高俊)ノ放任主義ヲ以テ人望ヲ博シタル後ヲ承ケタ」ことと「讃岐人士ノ分県ヲ企望シ及近来政党政社ニ奔走スルモノ務メテ県治ニ抵抗スル事情」が原因しており、にわかには「其施政ノ如何ニ帰スヘカラサルモノアリ」と報告している(資近代2 三五~三六)。
 関新平の愛媛県令在任の時期には、三新法体制下で政府の統制が次第に強くなり、地方長官の創意による施策権限の幅が狭まった。また大蔵卿松方正義のデフレ政策で多くの事業が地方税負担に転嫁され、各府県は不況下にもかかわらず地方税の増徴を図らねばならなかった。中央規制と不況下の増税は府県会・県民の不満と憤りをつのらせ、自由民権運動が地方に広がる要因となった。この時期多くの府県で地方長官は苦境に立たされた。福島県令三島通庸に代表される果断な治政をもって圧政家の批判を受ける県令が少なくなかった。関県令もまた岩村前県令との対比による剛直な人柄に讃岐分県運動・政治運動などの県政攻撃が加わって、不人気を一身に受けたといえよう。
 明治一九年四月四国新道が着工したが、この膨大な工事費に加えてこの年の伝染病と干ばつ・台風の災害対策に関知事(明治一九年七月県令を改称)の疲労が重なった。開さくが進む三坂峠を越えて久万路の視察に訪れた関新平は、県境近く久主村大谷(現上浮穴郡柳谷村)で五丈余の瀑布を道路沿いに眺めてしばし休息、これを新道開さく″紀念之瀧″と命名、ほどなく発病死去した。四国新道開さく完成後、この地域の有志が関知事に感謝して顕彰碑の建立を計画、時の知事小牧昌業はこれに協賛して″紀念之瀧″の碑題を関の同郷佐野常民に依頼、小牧自身が関の顕彰文と瀧命名の由来を記した碑文を書き、明治二九年九月建立した。碑文には、「故愛媛県知事関新平在任ノ日、偶(あいはか)ツテ四国新道ヲ開ク、四国ヲ貫通シテ一大土工ト為(な)ル、其ノ高知自(よ)リ松山ニ達スル、中間久万ヲ経テ、山険道通ジ、行旅商販大ニ其ノ利便ニ趣ク、久万ノ士、君カ斯(こ)ノ挙ヲ喜ブ(以下略)」とある。

表1-105 明治一四年連合郡・郡役所々在地と郡内人口

表1-105 明治一四年連合郡・郡役所々在地と郡内人口


表1-106 愛媛県会議員財産・履歴 1

表1-106 愛媛県会議員財産・履歴 1


表1-106 愛媛県会議員財産・履歴 2

表1-106 愛媛県会議員財産・履歴 2