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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 無役地事件

 庄屋無役地の廃止と復活

 無役地(むやくち)事件というのは、宇和島藩・吉田藩の庄屋役に与えられていた無役地の所有権を巡って、明治初年より同三〇年代にわたって展開された農民闘争である。
 宇和島藩での無役地の設定は、寛文一二年(一六七二)の検地後の鬮持制実施の時である。吉田藩でも宇和島にならって無役地が置かれたが、両藩ともに江戸時代には無役地が紛争の種になることはなかった。
 御一新後、明治三年三月~五月の野村騒動・三間騒動などの世直し一揆の中で、農民たちは村役人の公選や庄屋の特権廃止とともに、庄屋無役地を制限せよと要求しはじめた。特に三間騒動では、「十ケ村ニ一庄屋ヲ立テ一ケ村ニ役人一名ヲ置ク、尤各村入札ニテ選用致シタク、且庄屋役人ノ役地ハ各村ノ中地ニ致サレタク願フ」と、庄屋無役地の共有地化を求めていた。農民側からすれば、村役人の無役地は特権地ではなくて本来一村共有地であるという認識と自治財源を確保する目的が含まれていた。これに対し藩当局は吉田限りの事だけではないので容易に聞き届け難しとしながらも、村役人の公選についてはこれを認め、無役地の共有地化については「銘々役儀相勤メ候所ヲ以テ相考へ具申スヘキ事」と即答を避けた。
 宇和島藩では、野村騒動後の明治三年五月三日民政局が、「従前庄屋無役地ノ高夫々御取調早々申出ヘキ候事」と庄屋無役地の調査を命じた。翌四年三月一〇日「今般吟味合之レアリ、庄屋家督田畑引揚申付候事」と庄屋無役地の引き揚げを指令したが、同月一三日に至り「難渋ノ者モ之レアルニ付、格別ノ吟味合ヲ以テ」無役地面積の四分(四〇%)を旧庄屋に返還した。引き揚げ地については村役人の管理下に置いて小作経営させ、六月の布達で差配役(出張民事掛)の役給に充当することにした。
 廃藩置県を経て、明治四年一〇月宇和島県庁は一時廃止していた庄屋制を復活、旧慣通りの庄屋無役地を支給した。この時点では、まだ旧庄屋無役地の四〇%は私有地、六〇%は役地とされたが、このような庄屋制と庄屋無役地の復活がもたらされるまでには旧庄屋層の猛烈な無役地返還の要求運動があった。旧庄屋層の無役地確保の運動は、明治四年一月宇和島藩が庄屋無役地の調査を指示すると同時に始まった。一月六、七日庄屋は郷組単位に集会、無役地は藩から下付されたものでなく本来私有地であるという共通の認識を前提として無役地返還運動を展開することにした。いろいろな村政改革を試みたものの旧庄屋層の協力がなければ農民支配を貫徹できないことを悟った宇和島県当局は、旧庄屋層の要望をいれ、庄屋制と庄屋無役地を復活させた。
 自信を回復した庄屋層は、明治五年二月宇和島県権令間島冬道に庄屋役地は「全ク官有地ニ在スシテ私共ノ民有地」であるので、旧宇和島藩に出願したところ「四歩通リ御返シ下サレ」たが、「六歩ノ地所未タ県庁エ御引揚ケ相成居候」の状態であるので「右地所私共エ支配御任セ成シ下サレ度」と、無役地の私有を主張し残りの六分の返還を歎願した。県当局はこれをいれて四月四日「持分ノ田畑近年六歩通旧県ニ於テ取揚置候分吟味ノ上今般返シ遣候事」と、六歩の無役地も返還され、無役地は庄屋私有地であることが公認された。しかし庄屋制の復活によって旧庄屋層のすべてが庄屋役に返り咲いたわけではなかったので、新旧庄屋が存する場合は旧庄屋は新庄屋に対して無役地の半分の作徳米を支給しなければならなかった。神山県も、旧宇和島県の方針を踏襲し、明治五年七月一八日「旧庄屋故有テ他人相勤候分ハ、先ツ当分其家ヨリ相応ニ給与致スヘシト相心得事」と指令している。神山県は愛媛県に移管する直前の明治六年二月庄屋を廃して戸長を設置したが、私有を認めた無役地を再び取り上げることはしなかった。
 愛媛県は、明治七年五月七日の番外達で、旧石鐡県下の庄屋抜地(無役地)についてはその私有を裏付ける証拠文書が存在しないことを前提として、村内で農民協議の上「村方故障之レ無キ分」は旧庄屋の私有地「村方故障之レ有ル分」は一村共有地とせよとしている。この愛媛県の方針ならば旧神山県の庄屋無役地も一村共有地となるはずであるが、番外達は宇和郡には適用されず、旧神山県の処置が愛媛県当局にも踏襲された。宇和島・吉田両藩の庄屋無役地の私有地化のみが認められたことは宇和郡の農民に一層の不満と憤りをつのらせ、勝訴を信じていわゆる「無役地事件」と称する裁判闘争を展開する要因となったのである。

 庄屋無役地返還訴訟

 無役地事件は、明治六年六月宇和郡皆江浦(現西宇和郡三瓶町内)の村民総代が県庁に出頭して無役地の旧庄屋私有に関して異議を申し立てたのが発端とされている。翌七年には宮内村(現西宇和郡保内町内)の佐々木恭三を代表として旧庄屋都築温太郎の私有地となっている旧庄屋無役地を村民に返還するよう愛媛県に提訴、県は翌八年四月に都築を喚問したりしたが訴えは却下した。同じころ、真土(まつち)村(現東宇和郡宇和町内)で旧庄屋給田所有の帰属について紛争が起こり村民総代が連署して県に訴えたが、県は和議を勧め、明治九年に旧庄屋亀甲理平は「其方様ノ地所ニ相違御座無ク、右御引取成下サルヘシ、以後ニ於テ子々孫々ニ至ル迄一言ノ申分御座無ク候、仍テ後証ノ為一札件ノ如シ」の百姓中連名証書を受け取る代わりに米二〇俵を農民に渡した。明治九年には野田・平地村(現大洲市内)の村民が旧庄屋無役地の返還を県に歎願したので、大区長山下氏潜が出張して説諭している記録もある。こうして明治七~九年に旧庄屋無役地の返還運動が宇和郡の各地に起こっているのは、藩県ともに無役地の所有権に対して一貫した態度をとっていなかったことに強い不満を持っていた一般農民が、(1)明治七年五月に出された私有の確証なき旧組頭無役地は以後すべて村持とするという県布達で旧庄屋無役地の返還に希望を持ったこと、(2)旧庄屋無役地が旧庄屋の私有地とされたことは村吏の俸給の出所がなくなりその財源としての地方税・民費の賦課は村民にとって二重の課徴となることが現実に理解されるようになったこと、(3)地租改正の前に無役地を村共有地としておくことが有利であると判断喧伝(けんでん)されたことなどが挙げられよう。
 こうした旧無役地の返還を求める動きを宇和郡内全域の組織的な農民運動にまで高めたのは、市村敏麿・二宮新吉らであった。市村敏麿は、天保一〇年(一八三九)二月に古市村(現東宇和郡城川町内)庄屋の長男に生まれ、一六歳にして庄屋役についた。同村は土佐街道の要地を占めていたので、土佐藩の勤王論の影響を受けた敏麿はやがて庄屋の家督を譲って脱藩、吉村寅太郎らの天誅組の変に加わろうとしたが挙兵失敗を知ると長州に走り三田尻の忠勇隊に通じた。長州征伐のころは松山に隠れ、慶応年間伊達宗城が藩政改革に際して人材を登用すると、敏麿もこれに応じ宇和島藩士に登用され、朝敵松山藩の動向などを探索した。明治維新の一時期新政府に仕え、父の病気見舞で帰省中藩の信頼を受けて野村騒動鎮静の説得に当たり、ついで民事掛大属に就任したのを機に大参事徳弘五郎左衛門に建議して無役地をはじめとする庄屋の特権を廃止させた。かつて自ら庄屋を務めて庄屋無役地など特権の不当性を経験し野村騒動など世直し一揆の原因が庄屋にあることを知った市村敏麿ならではの改革要請であった。したがって明治五年四月無役地が旧庄屋に完全に返還されたことは大きな衝撃であった。二宮新吉は、天保三年(一八三二)宮内村の酒造家に生まれ、一八歳の時豊後日田の広瀬淡窓の塾に入門、その学識が宇和島藩にも聞こえ、呼び出されて伊達宗城の江戸入りに随行、昌平黌に入った。やがて尊王論に目覚めて京都に遊び岩倉具視の知遇を受けて草奔の志士として活躍、一時幕府の忌諱に触れて投獄され、宇和島藩より仕官を勧められたが応せず、維新後は郷里で悠々自適の生活を送っていた。市村と二宮らは市村宅に寄食していた宇和島士族で東京朝野新聞の上村信強に勧められて無役地の共有地復活運動を決断、明治八年ころから村民の結束に奔走しはじめた。
 「(無)役地事件一夜記」(『市村敏麿翁の面影』)によれば、市村などを中心に一村ごとに一~四、五名の総代を選挙し、県庁に向かって共有の証拠をあげて処分の改正を求めたが、いずれも不採用となった。この請願運動を通じて宇和郡各村浦農民に連帯意識が芽生え、明治九年七月下泊浦・和泉村・宮内村・下松葉村・小原村・坂戸村・杢所(もくしょ)村・真土村・西山田村・山田村・岡山村・伊延(いのべ)村・野村・阿下村・鎌田村などの農民総代が連署して、組織的に結束して動くこと、運動費は自分たち農民で賄うことを約定した証書を取り交わした。第一〇、一一、一二大区の一部の村々(現西宇和郡保内町・三瓶町の内、東宇和郡宇和町・野村町の内)ではあるが、連合して運動するきずなが生まれたのである。
 明治一〇年六月二〇日、東多田村(現東宇和郡宇和町の内)に住居を移した市村敏麿が原告となり、愛媛県権令岩村高俊を被告としての「庄屋給地処分不服之訴状」を大阪上等裁判所に提出、東多田村の旧庄屋無役地の田反別五町七反五畝九歩(高六二石四斗二升二合)・畑反別一町七反八畝一一歩(高九石五斗四升)についてその所有権の返還を求めた。「訴状」及び「追申書」の中で、市村敏麿は宇和島藩の寛文検地によって庄屋制が確立された際に村地が庄屋無役地に充当された歴史を述べ、ついで組頭無役地と庄屋無役地が同一の性格であるにもかかわらず、一方は引き揚げられ他方は私有とされた不当性をつき、区費負担のために旧庄屋無役地を一村共有にせよと主張した。一〇月、大阪上等裁判所は市村敏麿の提訴を「原告提供ノ証拠物ハ旧庄屋役ニ附帯セシ証徴ヲ見ルノミニシテ之ヲ共有地ニ帰入スベキノ証ヲ見ズ」と却下した。
 宇和郡農民の団結と大阪上等裁判所への上告は旧庄屋層の危機感を強め、農民の動きに対抗して連合しはじめた。東多田村の訴訟審理を観察するため宇和両組から堀内清士・牧野純蔵が上阪、その運動資金一、五〇〇円を大村三〇円・中村二〇円・小村一〇円と区分して各村旧庄屋が拠出した。一一月、市村が帰県すると、八幡浜の浅井公平は宇和郡真土村の古谷太門に手紙を出し、「市村ナルモノモ到底勝利ナキハ知リ及テモ人民ニ対シ或ル丈ノ手ヲ尽サヽルヲ得サルノ場合ニ押移リ居候故今一応上告マテヤリテ見テ」と楽観しながらも、「彼等ノ姦計ニ陥ラサル様精々尽力之レ有リ度」と注意を促し、その旨を宇和両組・津島組・城下組・川原淵組・御庄組の庄屋に大至急通知するよう依頼した。帰郷した堀内と牧野は一一月五日卯之町の清水の別荘に古谷周道ら旧庄屋を集めて報告会を開き、さらに一二月には堀内・牧野と土居完・亀甲勘一郎ら旧庄屋一一人を社員とする結社を組織した。牧野らは八幡浜浦の浅井公平や宮内村の都築温太郎らとも常に情報を交換、一二月には浅井らから宇和島での集会通知と運動資金の割当額が示され、金員を持参して旧庄屋父子共々の参集が求められた。都築温太郎の依頼を受けた北宇和郡長都築温が市村敏麿を買収しようとして失敗したという噂が広がったのもこの時期であった。
 旧庄屋層の防禦に対して市村敏麿と二宮新吉は、農民の総代に「吾等本年三月十八日ヲ以テ三ヶ年間累積ノ葛藤(かっとう)ヲ解キ一己ノ私ヲ排ヒ公平至当ヲ要シ更ニ誓盟締約ヲ為セシヲ以テ、小魚膠漆(こうしつ)ニ還ルノミナラス、仮令同日ニ生セスト雖モ同日同枕ニ死センノ意志ヲ含蓄シ異体同心ノ間柄ナル」ことを誓い合ったことを強調し、「今ヤ将ニ大事成ラントスルニ向ハントシ、各村浦惣代中親睦ナルヤ敵視スルヤヲ顧慮シ、向后ハ取分ケ謹慎警戒ヲ欲シ、一封ノ忠告ヲ飛スハ所謂用心ノ縄索転躓(てんち)前ノ杖筇(じょうきょう)ナルモノニ之レアリ候条、大至急惣代中ヘ心得向御申聞ノ上懇和ヲ結ハシメ玉フヘシ」と慎重に敵味方を判別して用心し、組織の強化を訴えた。東多田村農民訴訟の大審院への上告は実行されなかったが、明治一一年三月舌間浦(したまうら)(現八幡浜市内)農民が市村と萩森安治・岡軌光を総代として大阪上等裁判所に提訴、つづいて宮内村(現西宇和郡保内町内)農民も市村敏麿と二宮新吉を総代として訴訟を起こした。
 宮内村農民たちに頼られた市村と二宮の両名は、六月「該両訴成功ノ上ハ其他ハ更ニ官裁ヲ煩ハサスシテ地所悉皆共有ニ復スヘシ、而シテ其世ニ徴勲皆共有ニ復スヘシ、而シテ其世ニ徴勲アル単独ノ力ニ成ルニ非スシテ戮(りく)力並心ノ労ニ成ルモノトス」と勝訴への協力を誓い合った。また七月五日二宮新吉が同志に出した書簡には「吾輩今日ノ経営スル所義挙ニ非サルハ無キナリ、故ニ其成功ニ至ルヤ名モ亦随テ朽サラムトス」「家産ヲ傾ケテ以テ該件ノ費用ニ給シ宇和郡内十万余戸ノ人民ヲ救ハサル僕ノ意蓋シ此ノ如シ」と、死を賭し家産を投げ出しての覚悟を披瀝(ひれき)している。こうした原告側の意気込みにもかかわらず、大阪上等裁判所は、農民の一村共有地の主張は証拠文書では確証できないこと、明治四年の無役地処分の際にも農民はその処分の変更を要求していないことの二か条を挙げ、「右ノ理由ナルヲ以テ旧宇和島藩旧宇和島県ニ於テ適宜ノ処分ヲナシタルモノナラハ今日ニ至リ被告ノ処分不当ナリトノ原告申立相立サル事」と訴えを却下した。
 明治一三年四月、市村敏麿と二宮新吉は、大阪上等裁判所の判決を不当として大審院へ上告した。この上告書は東京の代言人星亨や長谷川陳らの検閲を得て提出されたが、「本訴ハ上等裁判所ヨリ政府へ申禀協議ノ上判決ヲ与ヘタルモノナレハ去ル六年本院創立ノ時ノ内訓ニ遵由シ其裁判当否ニ関セス棄却スル」と却下された。市村らは太政官に「内訓」の取り消しを求め、司法官にも訴えたが、その目的を達せなかった。裁判訴訟に成功しなかった市村と二宮は内務省への直接訴願を計画、七月末市村・二宮のほかに宇和郡七三か村惣代中より選出された藤岡米吉・得能彦次郎・尾崎幸治郎・末廣寅吉・谷岡実ら一〇名の委員が上京して内務省に出頭、無役地処分の改正を歎願した。内務省は、九月二日「歎願の趣き県令へ照会の上、追て何分の指令に及ぶべく候条、総代の内一名相残り其他は帰国の上農業怠るまじく候事」と口達したので、市村敏麿を残して一同東京を引き揚げた。
 内務省の照会を受けた愛媛県は、県令関新平名で「抑(そもそ)も此歎願は真純の願意に非ず、二三奸悪の輩己れが私利を謀らん為に無智の小民を煽動し、今日の様相を演せり、若し願意を容れらるゝに於ては将来県治上大なる障害を来たし、為に公安妨害の悪結果を見ん、請う速に棄却あらんことを」と上申した。これを受けて、内務卿松方正義は明治一四年四月六日「其県下伊予国宇和郡の内七十三村人民総代より旧村吏役地処分改正の儀歎願の趣き聞届難く候条、書類及証拠物却下候」と指令した。県は郡長・戸長らに「本件は人民に於て其利なきものなれば断念すべきものなり」と懇諭させ、警官を諸方に派して尾崎幸治郎・末廣寅吉・谷岡実らの上京委員をはじめ運動員を続々と拘置留檻してその数三八名におよんだ。二宮新吉は、同志が拘留されて数か月を経ても解放されない事態に責任を感じ、無役地返還運動の成功期待し難いと、明治一四年一一月二日「慟哭(どうこく)の余り銃に火し咽喉を貫きて」自殺した。

 無役地事件裁判の進展と挫折

 市村敏麿と並ぶ指導者であった二宮新吉の自決は農民に不安と動揺を与えたが、松方デフレ下の深刻な農村不況の進行の中で無役地の返還を求める裁判闘争は継続された。明治一五年九月、東宇和郡予子林(よこばやし)村(現野村町内)農民一三〇名・北宇和郡保田村(現宇和島市内)農民八五名・北宇和郡清水村(現広見町内)農民六〇名はそれぞれの村の旧庄屋予子林村大野常一郎(代人岩木村牧野純蔵)・保田村赤松忠次郎(代人寄松村都築秀二)・清水村玉井安蔵を相手どって宇和島始審裁判所に旧村吏役地共有権回復の訴訟を起こした。この裁判は四回の対審の後一二月二五日に「共有権回復ヲ訟求スルノ権利ナキモノナリ」と判決、原告の敗訴に終わった。裁判言渡しの当日は強風雨下であったが少しも厭うことなく遠近の熱心家およそ一、三〇〇名傍聴出頭し、法廷は勿論門内立錐(すい)の余地ない状態で、裁判所は巡査数十名に法廷内外を警備させていたが、原告敗訴の申し渡しを聞くや血気粗暴の者数人が琉璃(はり)窓を破砕、出門すると同時にしきりに発声して憤怒の状をあらわにするといった様相となり、裁判所を破壊しようとする激発の動きが生じたので、市村敏麿らは三日二夜の間懸命にその鎮静に努めた。
 宇和島始審裁判所で敗訴した宇和三村の農民たちは、明治一六年一月個々の村ごとに大阪控訴裁判所に控訴した。予子林村訴訟の原告は、農民総代役の大阪府寄留千葉県平民海保志郎と大阪の代言人岡見東九郎、被告は大野常一郎代人牧野純蔵であった。保田村は同村総代の京下宮吾が元結掛(もとゆいぎ)(現宇和島市内)平民谷岡実や海保志郎と共に原告に名を連ね、被告は愛媛県の代言人曽根一真、清水村原告は同村の末廣寅吉と元結掛士族兵頭弘・市村敏麿で、被告は別宮周三郎であった。判決は同年一一月、原告の申立は却下された。控訴審で敗訴した原告は判決を不当として明治一七年二月一四日大審院に上告した。原告は清水村市村敏麿・予子林村海保志郎・保田村京下宮吾に東京都の代言人長谷川陳が加わり原告を構成したが、審問五回の後、愛媛県令関新平の従弟にあたる判事原田種成は無役地返還闘争は公安妨害であるとの批判を加えて九月二五日訴えを却下した。
 明治一五~一七年の東宇和郡予子林村など三村の訴訟には海保志郎・岡見東九郎・長谷川陳など無役地に直接利害関係のない他県の人々が参加し、東京自由新聞は大審院での敗訴の直後明治一七年一一月三日から五日付の紙上で無役地事件の経過を全国に報道した。しかし長い裁判闘争の運動費負担に疲れ勝訴の見通しがなくなる中で組織は動揺し団結が崩れ、市村らは前途を心配しはじめた。大審院敗訴により証拠書類が押収されて戻されないままに、東宇和郡長谷村(現野村町内)有志の萩尾武十郎・得能彦三郎らは市村に依頼して訴訟を起こそうとするが、市村は証拠物件の戻らないうちに訴訟するも詮なしと自重を促したことから、新しく証拠物件を集めて裁判闘争を継続しようとする農民指導者と別れて運動することになった。
 明治一九年三月、萩尾武十郎ら長谷村農民二一人の旧庄屋門脇盛豊の役料地共有権回復訴訟に対する松山始審裁判所宇和島支庁の判決があり、原告の提訴を却下した。長谷村農民はただちに大阪控訴院に訴えたが、結果は同じ棄却であった。長谷村の有志は、町村合併で渓筋(たにすじ)村になった後も、明治二三年一二月町村制実施を機会に村費の財源として庄屋無役地を村有地とする行政処置を県知事勝間田稔に要求した。翌年一月「本件ノ如キハ受理スルノ限リニアラス」と一蹴されると、勝間田知事を相手取って行政裁判所に訴え九回の審問で無役地をめぐり県と論争を展開したが、同二五年三月の裁判言い渡しで敗訴した。
 長谷村訴訟に参加しなかった市村敏麿は、資金調達のため上阪して奔走したが、庄屋層と縁故のある土居通夫・末廣重恭らにはばまれて意のごとくならず大阪で満ち足りない日々を過ごしている内に大井憲太郎を知り急速に接触を深めた。明治二四年五月二五日市村の案内で大井ら一行が宇和島に来訪、演説会で無役地事件に勝算ありと論じたことから、東宇和郡中川村清沢の農民有志は市村を介して大井憲太郎を代言人に依頼、六月訴訟を起こした。松山地裁宇和島支部は一二月判決を下し農民側の訴えを却下した。清沢の農民三二人はなおも大井を訴訟代理人として旧庄屋辻隆市(代理人清水新三)を相手取り大阪控訴院に控訴したが、同二五年六月棄却された。このほか西宇和郡双岩村・北宇和郡二名(にみょう)村波岡・同郡三島村川上でも農民有志による無役地返還訴訟の動きがあったが、いずれも村長に阻止されて裁判所に提訴するまでに至らなかった。
 無役地事件裁判闘争は、明治二四年の東宇和郡渓筋村長谷農民の行政裁判所への提訴、中川村清沢農民の大阪控訴院への上告がいずれも敗訴したことにより、もはや農民側の勝利は望めなかった。しかし、その後も宇和郡農民有志による無役地返還訴訟は粘り強く続けられ、確認できる裁判の最後は明治三八年の東宇和郡笠置村岩木(現宇和町内)農民の訴訟である。
 無役地事件は、無役地の所有権をめぐる旧庄屋・村役人層と一般農民の対立から生じた事件である。農民による無役地返還の訴えは自由民権運動の展開の時期に闘われた。自由民権運動を国会開設・立憲政治の確立を目指す政治運動の側面からだけ把握する場合、愛媛県の民権家と称せられる人々で無役地事件裁判闘争において農民を援護した者はいなかった。無役地事件が展開された宇和郡にあって、末廣重恭は一貫して地主階級の立場に立ち、宇和島の代言人清水新三は被告旧庄屋の代理人を務め、三大建白署名者の別宮周三郎・古谷周道・都築秀二・清水常紀らは被告に列された旧庄屋であった。このことから南予における自由民権運動は、地域農民の生活に根ざした要求や人権思想を結集したものとならず、体制側的立場から部分的・観念的に展開されたに過ぎなかったといえよう。これは愛媛の自由民権運動の共通した限界であり、福島事件・秩父事件のように民権運動と農民闘争が結びつくことはなかった。

 旧松山藩領の庄屋抜地訴訟

 南予の宇和郡で無役地をめぐる裁判闘争が展開された明治一〇年代には、愛媛県の東・中予地方、特に旧松山藩の支配領域で、「庄屋抜地」と呼ばれる旧庄屋地をめぐって多くの訴訟が提起され、旧庄屋層と村民との間でその帰属が争われた。旧庄屋側は庄屋抜地は庄屋の私有地であると主張したのに対し、村民たちはこれを村方の共有地であると主張した。
 庄屋(里正)の廃止に伴い、庄屋抜地が村持ちか旧庄屋私有地かの帰属をめぐる申し立てが相次いだので、愛媛県は明治七年五月七日の番外達でその処置を指示した。布達では、旧石鐡管下各郡村庄屋抜地と唱える田畑は村持か旧里正私有地かの区別及びその原由などの申し立ての趣もあるけれども、多くは臆断に属し判断確証とすべき書類はない、したがって今より旧庄屋の私有地と定めても村方に「故障」がない場合は庄屋私有地とするが、村方に「故障」がある場合には一村共有地とする、但し明確な証拠が存する場合にはそれに従うべきであるという方針を示した(資近代1 一三〇~一三一)。この五月七日の布達は多くの混乱を招いたようであり、愛媛県は同七年六月二二日の番外達で「往々その旨趣を誤解居候者も有之哉に相聞不都合の事に候」として、「各郡庄屋抜地処分条件」八か条を改めて示した。この中で、県は「旧里正の私産を以て抜地役地等に相充たる事確実の明証あるもの」は旧庄屋私有地(第一条)、「旧里正私産たる明証なきもの」は村共有地である(第二条)との判定を下した。但し、一村の共有地であっても村民がその全部か一部を割いて旧里正に付与するのは妨げない(第三条)、所属をめぐって議論の分かれる場合は区戸長立合いの上投票などで衆議の多きに従え(第四条)などと分割・和議をすすめた。また共有地と定められた土地の取り扱いについては、私有化することなく「或は堤防営繕の充るか、或は子弟教育の資に供するか」、永遠に人民の公益となるべき事に用いるよう求めている。
 明治七年の両度にわたる布達は、かえって庄屋抜地をめぐる紛争を引き起こした。愛媛県は、明治九年二月七日付で温泉郡富久村(現松山市内)の紛争訴訟について内務省に伺い出た。伺いでは、庄屋抜地は旧松山藩の慣例をもって従来庄屋役が所有し庄屋転免ある時はこれを新任の庄屋に授付してきたが、明治五年庄屋役が廃されて以後その所有が落着しなくなったと解説、富久村では、庄屋抜地二町五反二畝一五歩の田畑につき、旧庄屋は自家あるいは前住庄屋の私産物より成立したものと称し、村民は一村共有物より成立したものだとしてついに訴訟に及んだ、裁判所は双方の申し立て共に確証がなく判定しがたいと裁決した、このため右の地所は行政権をもって一応官有地に編入し一般入札払下げの上、新らたに所有者を定めてよいかと内務省の裁定を仰いでいた。この伺いに対して、内務省は三月四日付で「書面伺之通」処置してよい、この地所従来の直作人か小作人が居ればその者へ相当の代価で払い下げるつもりで取り調べよと指令した。この伺・指令からは、庄屋抜地をめぐって多くの紛争が生まれ、そのうちあるものは法廷に持ち込まれたことがうかがえる。
 旧松山藩領などの庄屋抜地をめぐる訴訟は、松山地方裁判所蔵の『判決原本』によると、明治一二~一七年間に一二件を数える。係争対象地の所在村は、(1)越智郡甘崎村(現上浦町内)、(2)久米郡久米村(現松山市内)、(3)伊予郡横田村(現松前町内)、(4)(5)越智郡徳重村(現今治市内)、(6)風早郡米野々村(現北条市内)、(7)周布郡関屋村(現周桑郡丹原町内)、(8)野間郡波方村(現越智郡波方町)、(9)伊予郡徳丸村(現松前町内)、(10)越智郡八幡村(現玉川町内)、(11)越智郡三反地村(現玉川町内)、(12)下浮穴郡津吉村(現松山市内)、である((4)(5)(10)(11)は今治領)。そのほとんどは大阪上等裁判所に控訴され、甘崎村・久米村・横田村・波方村の四件は大審院まで上告されている。これらの訴訟の第一審(松山地方裁判所)の原告はいずれも旧庄屋であり、被告は村民となっている。このしかけられた訴えに対し村民は結束をして立ち上がった。甘崎村では二三四名、久米村では六七名、横田村では六〇名、波方村では四二七名の村民が上告審原告に名を連らねており、惣百姓的な闘いの様相を呈した。
 庄屋抜地の訴訟が多くなった明治一二年、愛媛県は一一月四日付第二〇一号で、「旧庄屋抜地処分之義ニ付明治七年五月七日付及ヒ同年六月二十二日ヲ以テ布達ニ及ヒ置候処、詮義ノ次第有之、今般更ニ取消候」と、越智・野間・風早・和気・温泉・久米・上下浮穴・伊予郡に向けて布達した。明治七年の二つの番外達が村民の側からの有力な授証として持ち出されたので、県としては旧庄屋と村民の争いの渦中に巻き込まれることを回避し、紛争の収拾を裁判所の判断に委ねる態度をとったのであろう。訴訟の判決結果を村民側から見ると、第一審(松山地方裁判所)八勝三敗、控訴審(大阪上等裁判所など)二勝六敗一分け、上告審(大審院)三勝一敗となっており、村民勝訴・旧庄屋敗訴の例が多い。訴訟が越った村の多くは、明治七~九年ごろに県の勧告に従い村民と旧庄屋の間で庄屋抜地をめぐる和解契約が結ばれており、これが村民側を勝たせた有効な根拠となった。
 庄屋抜地をめぐる紛争が大規模な裁判闘争に発展したという点では無役地事件と共通していた。しかし農民の訴えがことごとく退けられた無役地事件に対し、庄屋抜地訴訟の方は農民側勝訴の例が少なくない。両事件に対する県の対処の仕方が裁判所の判決に影響を与えたようである(矢野達雄「共用体的所有解体期の裁判闘争」―旧松山藩領における庄屋抜地訴訟を中心に―)。