データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

四 中学校の創設と整備

 洋学校設立の動き

 明治五年八月に頒布された学制では、「中学」について第二九章に「中学ハ小学ヲ経タル生徒ニ普通ノ教科ヲ教ル所ナリ、分テ上下二等トス、二等ノ外工業学校、商業学校、通弁学校、農業学校、諸民学校アリ、(下略)」と規定し、教科目を提示している。また学制第三〇章に「当今中学ノ書器未タ備ラス、此際在来ノ書ニヨリテ之ヲ教ルモノ、或ハ学業ノ順席ヲ踏マスシテ洋語ヲ教へ、又ハ医術ヲ教ルモノ通シテ変則中学校ト称スヘシ」としている。さらに文部省は九月に「中学教則略」を頒布し、中学には上下二等ヲ設け、全体を一二級に分け、一級を六か月の課程とし、生徒の在学期間は上下二級を通じて六か年とした。
 翌六年二月に石鐡県と神山県とが合併して、新たに愛媛県が誕生した。九月に県は「中小学区分画之儀ニ付御届」によると、県下を郡単位に分け、六中学区に分割した(資近代1 二一〇~二一一)。ところが、翌七年六月にこれを改正し、二~三大区単位に二九番~三四番までの六中学区を策定した。
 これら中学校の位置については、松山・西条・今治・大洲・宇和島の旧城下町と、伊予郡の中枢であった郡中町(現伊予市)とを選んだ。しかし、これらの地に中学校を設置することは、全く机上の空論であった。そのころ文部省自身が義務教育の奨励、師範教育の充実などに忙殺され、具体的な中学校の建設についてはほとんど無関心であった。このことは学制頒布と同時に既存の中学校に対して一挙にその廃止を命じたまま、しばらくこれに関する法規が積極的に制度化されなかったことによって明らかであろう。したがって、中等教育に関する限り、地方では歴史的・地域的条件に基づく自発的な教育活動が行われた。

 〈英学舎の設立〉 このような雰囲気のなかで、同六年三月に第三中学区七番学校(勝山学校)のうちに併置されていた洋学科が独立して、英学舎となったことは注目される。この洋学科は旧藩校のなかの一部分を形成したものであったから、いわば旧松山学校(明教館の後身)の系譜につながるものと考えてよいであろう。
 この時公布された「英学舎規則及ヒ布告」によると、同舎の経営は生徒の授業料と寄付金のほかに、県費によって賄われた(資近代1 二〇七)。ここに英学舎は不完全な組織であったけれども、松山地区における中等学校としての地位を保持していた。

 〈第一中学区変則中学校〉 これより先、西条地区において旧藩士族の有志が、旧藩校の建物を利用して、西条洋学校設置の計画をしたが成功しなかった。同六年六月に、西条社(洋学会社ともいう)が結成され、地区の有志一一〇余名の拠金を基礎として、洋学校設立の願書を県に提出した。県ではこの地区が第一中学区内の中学校建設の予定地であったから、八月にその設立を許可して、これを第一中学区変則中学校と改称させた。九月に開校式を挙げたが、地区の有志の熱心な勧誘にもかかわらず、入学した生徒は三〇余名に過ぎなかった。そこで同地区出身者で松山の英学舎に就学中の生徒を転校させて人員の拡充を図ろうとしたが、不成功に終わった。この変則中学校は翌七年にいったん廃止された。

 〈不棄学校〉 同六年一月に、宇和島第一本校(小学校)のなかに英学舎が付設されて、名称を不棄学校とよんだ。福沢諭吉の推薦により、英語の教師として慶応義塾出身の中上川(なかかみがわ)彦次郎・四屋純三郎が赴任した。中上川は同校で制度・規則をはじめ、学校運営の指導を行い、滞在すること七か月で責任を果たして帰京した。しかし、この学校も九月に廃止された。

 〈大洲英学校〉 同五年一〇月に、大洲の有志が企画して英学校が設立された。設立者の下井小太郎は旧大洲藩士で、維新以後に慶応義塾で英語・経済学を学んだ人物であった。入学者は五〇名あり、校舎狭小のため旧支庁跡へ移転した。また宇和島にいた四屋・中上川も当地へ出張して教授に当たった。
 しかし、同六年一一月に県の諸学校に対する実費の保護廃止方針によって、補助金を打ち切られた。そこで、同校は独力で経営が困難なため一二月に廃止の運命となった。

 愛媛県英学所の設置

 同八年八月一三日に、愛媛県は旧明教館のうちに英学所を設置した。これは英学舎を発展させたもので、学制による小学校が次第に整備して、その卒業者が増加して来たのに対処しようとする配慮があったと思われる。この時、公布された「英学所仮規則」は一四条からなり、その第一条に「英学所ハ当分変則ヲ以テ授業」すると規定し、入学志願者には年齢の制限はないが、小学普通の教科を終了したものであること、授業料は一か月一〇銭とすること、六か月を一期とし期ごとに大試験を行い五~一級までの生徒の等級を定めること、毎月末に小試験を行い、生徒の席順を決定することなどを規定した。第八条に「課業表」が掲げられていて、その当時使用された書物には、ウィルソンの第一・第二リーダー、ピネヲの文典(以上第五級)、カッケンボス=ジュニアの米国史、ウィルソンの第三リーダー、ミッチルの地理書、バァーレの万国史、カッケンボスの窮理書(第四級)、マルカムの英国史、ヤングの政体書、グードリッチの万国史と仏国史、ウェランド=ジュニアの経済書(第三級)、チャンベルの経済書、ウェランド=ジュニアの修身論、ホワイトの万国史、スマイルスの自助論(第二級)、スチュデントの羅馬(ローマ)史、同法律書、スマイルスの品行論(第一級)などの二七書に及んだ(資近代1 三五一~三五三)。その教科の内容は、程度の高いものであった。
 この英学所が開設された時、愛媛県権令であった岩村高俊は、慶応義塾出身で京都府士族の草間時福(ときよし)を教官として迎え、同所の経営に当たらせた。
 この時交わされた岩村と草間の契約書によると、給料は一か月四〇円に加えて宿代として二円、赴任帰国旅費五〇円などを支給することにしていた。契約書はこのほかに、雇い入れの期限は明治八年七月一六日~同九年七月一五日までの一年とすること、学校諸規則はじめ教授の順序などは学務課官吏と協議して取り調べの権を与えるが、その施行は地方長官の専決とすること、事故あって自ら解約を乞う時は翌日より給料・旅費とも渡さないこと、校則を破り懶惰(らんだ)・遊蕩(とう)など生徒の師標たるにふさわしくない行為があれば期限中であっても雇を止め、翌日より給料・旅費を支払わないこと、雇用中病にかかり三〇日を過ぎると月給は三分の一しか給せず、九〇日過ぎても全癒しない場合は解約すること、商売に等しい所業はしないことなどの条件を示している。
 草間を迎えて、愛媛県英学所は明治八年九月五日に開業式をあげた。岩村権令は「抑(そもそも)萬国ノ交際日ニ篤ク月ニ盛ナルノ時ニ際シ萬国ノ言語文章ニ於ル固ク以テ講習セサルヘカラス、茲ニ西京ノ人草間時福ヲ招キ以テ夫ノ欧学教智ノ事ヲ委任ス、該校ノ生徒各自奮発、日就リ月将ミ以テ萬国ノ言語ヲ能シ、以テ萬国ノ文章ニ富ミ以テ此校ノ盛大ニ至ランコト是余カ信シテ疑ハサル処ナリ」と祝辞を述べた。永江為政『四十年前の恩師草間先生』によると、草間は所長と教頭を兼ね、助教を拓植武憲・村井保固・三輪俶載が務めた。明教館の講堂の三隅に設置した円卓を囲んで、最上級組を草間が担当、課外席を草間と拓植が受け持ち、勝山学校から転入した三〇余名の児童をそのころの上級生であった村井・三輪が指導した。
 学生は英書を学ぶ以外に月に二、三回定期の演説会・討論会を開いた。この時は明教館の講堂の中央を議場のように大円形に造りテーブルを置き直して正面に演壇を据え、先生も生徒も交り合って対陣して席に着き、演説討論を戦わせた。岩村権令もよく臨席して正面の演壇から居並ぶ生徒を凝視して「銘々が立身の目的如何」と各人を指名して演説を求めたりしたという。

 南予変則中学校

 宇和島にあった不棄学校は閉校のままであったが、明治九年三月に同地区の有志の努力によって再興されることになった。これには旧藩主伊達宗徳が五、〇〇〇円を寄付したことによって具体化し、慶応義塾出身の細川瀏が月給四○円で教官として迎えられた。在来の鶴島学校(小学課程)に付設された課外席の生徒、および英語を専攻しようとするものを収容し、その教科の内容は変則中学校の課程をとった。
 県では校名を南予変則中学校とよんだ。文部省に提出された伺書によると、生徒の定員を一五〇名とし、書籍・器械費・営繕費の総計一か年四二〇円と計上している。総教・司教・助教ら職員の給料は一、〇〇〇円と見積っている。これらの経費は、県税と学区積立金の利子とで賄われた。九月九日に県は、「南予変則中学校則」を選定した。教科では原書科と訳書科とに分かれていたが、生徒には両科のいずれかを選択履修させた(資近代1 五三六~五三七)。
 南予変則中学校は明治九年五月一二日に開業、翌一〇年八月に開校式を挙行した。この時、学校掛の都築温が述べた式辞によると、明治九年の区会で三か年間補助金を下付されることになっているが、永続的に学校運営資金を確保するために大区会からの助成が決定したので、公立として基礎が確立した旨を明らかにしている。同中学校ははじめ宇和島堀端通の鶴島学校のなかに併置されていたが、不便が多かったので、同校前の空地一、二〇〇余坪の払い下げを受けてこの地に移った。

 北予変則中学校

 明治九年六月に、松山の英学所では教育内容を充実して、中学校としての形態に近づけようとした。そこで、従来の英学所と勝山学校課外席をいったん廃止し、両者を合同して新たに中学校とする計画が立てられた。課外席は小学課程を修業したもの及び年齢のうえで小学校で勉学するに不適当と思われるものを収容していた。いわば中学校の予備的性格を持ったものと考えられる。英学所は英語科を中心とした中学的な学校であったから、両者の合同によってはじめて変則中学校としての構想を持つことになった。八月一七日付で判定された「変則中学校仮規則」によると、入学希望者のうち一四歳から一六歳までは少年科に、一六歳以上のものは成年科に入ること、両科ともそれぞれ三か年を修業年限とする、両科とも漢書・洋書・洋算を学ぶことを原則とする、成年科では第一種と第二種とに分けて、その業を専修させる、一か年を三分して四月ごとに大試験を行い、その結果によって生徒の等級を定め、毎月末に小試験を行い席順を決定することなどが規定されている。次に教科内容を見ると、両科とも課業は第六級(第一年前半期)から第一級(第三年後半期)に至り、今までの原書本位のものからその範囲を拡大し、国史・東洋史・西欧諸国の歴史・経済学・法制・数学・生理学にわたっていた(資近代1 三六〇~三六三)。
 この変則中学校は九月一日から開業したが、その設立の願書を提出するに当たって、校名を決定する必要が生じ、北予変則中学校と称することにした(資近代1 五三六)。これは宇和島の分を南予変則中学校といったのに対して、北予の名称を選んだことが、文部省へ提出した伺書によって知られる。生徒はおよそ二〇〇名を定員とし、学校の経費は職員の俸給を除き五四〇円であって、県税及び学区積立金の金利で賄われた。同校の開校式は九月一日に権令らの臨席のもとに、厳粛に挙げられた。翌一〇年八月に「変則中学校職制」を公布し、学校に総教・総教副・司教・助教・事務掛らが置かれた(資近代1 五七一)。同一二年一二月にこの職制が改革され、はじめて校長の名がみえ、校長は一切の校務を提督し、諸職員を指揮し、その進退を具状することと規定されていた。
 北予中学校の校長には草間時福が契約を延長して任じられた。これまでの英学所から中学校に発展したのに加えて草間の人格を慕って県内各地から入校したから、生徒数は一三〇名に膨れた。このため二階建ての教場と寄宿舎が新築され、教員も西河通徹・村井保固など一一名になった。草間は明治一二年七月に任期満ちて東京に帰るが、この時の生徒数は二一三名に増えていた。七月二四日、草間は岩村県令はじめ二〇〇余名の知友・生徒に送られて松山を去った。大正一一年六月草間はかつての門下生の招待を受けて来松歓迎された(永江為政編『四十年前の恩師草間先生』)。

 松山・南予・共済中学校

 〈松山中学校〉 文部省では、正規の過程を踏まない中学校を変則中学校と称して来たが、同一一年五月に中学校の性格を規定した「中学校教則略」が廃止された。そこで中学校に関する法規が全くなくなり、また県でも中学校は必ずしも教則を一定すべきでないとの見地から、中学校の上に冠せられた変則の二字を削除することを決め、六月二四日にその旨を布達した。
 北予変則中学校は、六月二七日から校名を松山中学校と改称し、同時に規則を改正して「改正松山中学校規則」が公布された。この新しい規則は通則・教則・舎則・懲則に分かれていた。まず入学資格は「普通教学全科」を修了したもの、および一般の一四歳以上のものと定め、教科課程を甲・乙の二科に分け、前者の修業年限を五か年、後者のそれを三か年とし、甲科では「専ラ高尚ヲ旨トシ学識ヲ遠大暢達スル」ことを目標とし、履習教科は英書科・漢書科は毎日二時間、数学科同一時間、文章科と口授科とはそれぞれ週一時間とした。乙科の教科は「普通ヲ以テ目的トシ、前略高尚ノ学科ヲ学フニ隙ナキ者」のためのいわゆる速成科であって、漢書科は毎日三時間、数学科同一時間、文章科週一時間、習字科同三時間、口授科同一時間となっていた。この甲乙科とは別に英学(洋書)専修科が設けられ、週一二時間の授業を行った。また各科を通じて、毎月二・四の土曜日は正課の授業を休み、演説会を開き、生徒に弁舌を練磨させ知識の暢達を図らせた(資近代1 七七八~七八五)。
 授業の状況を見ると、入学する生徒の学力に差異があるため、従来洋・漢・数の三科の各種の組合せの学級をつくり、生徒の学力に応じた級に編入させた。この授業編成により生徒の学力差が少なくなったこと、このままでは多数の教員を必要とすることなどによって、教則の改正を機に生徒の学級編成を固定させることになった。生徒の入学時期については、入学期を一定しないで、毎週の月曜日とした。同一一年四月現在の生徒総数は一三九名で、甲科一一四、乙科二一、洋書専修科三であった。松山中学校の土地は四〇四・六坪、建物は二六八坪であった。同一一年後期(一一年九月より一二年二月まで)の経費は、給料・書籍費・器械費・営繕費・消耗雑費などの合計総出費が九八六円四九銭九厘に対し、授業料収入一〇五円五〇銭であって、差別支出高は八八〇円九四銭九厘であり、これを生徒数一八八名で除すると、一名の費用が四円六八銭五厘九毛弱となっている(明治十二年 愛媛県学事年報)。

 〈南予中学校〉 南予変則中学校は、同一一年六月に南予中学校と改称した。同校の運営については北宇和郡・南宇和郡の両郡から経費の援助を受けたが、同一三年以降は北宇和郡単独でその維持管理に当たった。
 同校には予科と本科があり、本科の修業年限は四か年であって、生徒は漢書・英書・洋算の三科を兼修し、漢書・英書が毎日それぞれ二時間、洋算を一時間の割で履習した。本科を八級に分け、一期を半か年とした。予科は中学校の課程を修得するうえで学力不十分な生徒を収容して勉学させた。別に在学の期限を定めることなく、本科に入学する準備教育機関とした(明治十二年 愛媛県学事年報)。

 〈共済中学校〉 大洲英学校が閉鎖された後、中学校建設の計画はあったが、実現しなかった。同一一年三月に第一六大区会(喜多・浮穴・宇和郡のうち)が毎年五〇〇円の補助金の下付を県に申請した。県では大洲の地が松山・宇和島への交通不便であることを考慮しこれを認め、八月に旧大洲藩庁の倉庫を使用して開校した。
 本校でも甲・乙の二科を置き、甲科は修業年限四か年であって、文章・漢書・数学・英書の四科を兼修することとした。乙科の生徒は希望によって一科あるいは二科を欠くものであった。このほかに南予中学校に見られたように、予科が置かれた(明治十二年 愛媛県学事年報)。

 〈地方税規則と県立学校〉 明治一一年七月に、三新法の一つである地方税規則が発布され、府県立学校及び小学校補助費は地方税から支弁されることになった。そのために、区限り及び町村限りの入費は、その区内・町村内の人民の協議にまかせ、地方税外のものとした。
 この当時公立と見なされていた南予・共済・高松の三中学校には、同一一年に補助金として五〇〇円ずつ支給された。ところが、地方税規則の施行によって翌一二年から県立校でない以上、地方税から助成金の下付ができないことになった。そこで、県では同年六月に「中学校名義ニ付達ノ件」によって、これらの中学校を県立校としたが、それらの学校の所有物については地方民所有のものもあり、これらをすべて県有物とするのは実情に合わないから、その善後措置を図るように指示した。さらに県では南予・共済・高松の各中学校に対して、県立校とするから、所有財産について県有・民有の区分を明らかにして報告するよう伝達した。

 県立八中学校拡充計画

 明治一〇年代に入ると、小学校教育の発達に伴い、小学校卒業生のなかには進んで中等学校に入って、高尚の学科を修めようと希望するものが次第に増加した。県ではかねて公布された学制を基として、県下の一〇中学区(讃岐国分を含む)にそれぞれ中学校を順次設置する方針であった。ことに本県の地形が偏長であり、かつ山がちで各区域に分割されやすい条件を持っていたから、各地区の要望に応じて中学校をつくり、中等教育の振興を図る必要があった。
 しかし、当時の県の財政面からすると、一挙にこの理想案の実現を図ることは、とうてい不可能であった。そこで、まず必要度の高い地区から学校を設置する方法をとることとした。中学校を新設するにしても、県単独で遂行することは、経済上からできなかったので、県会に働きかけて建設の機運を醸成したり、また中学未設置の地区では建設の運動が起こると、それを助成して学校をつくらせ、その後で県立に移管する方針をとった。同一二年の時点で県の計画は、既設の松山・高松・南予・共済の各中学校の外に、伊予国では西条・越智の両中学校、讃岐国では亀山(丸亀)中学校を新設して、合計七中学校を設置する方針であった。なお同年度中に既設の四中学校に対して、県からそれぞれ五〇〇円の中学校費が補助された。
 翌一三年に西条及び亀山の両中学校が設置されたので、県下における中学校数の合計は六校となった。さらに県は、これに未設の越智中学と讃岐分の飯山中学校を加え、八中学校の実現を期待した。この計画案は同一四年に入ってようやく具体化した。伊予分の松山・南予・共済・西条・越智の各中学校の概要を見よう。

 〈松山中学校〉 明治一四年における在籍生徒数は一二〇人(八級編成)で、八級四七人・七級二八人・六級一五人・五級一五人・四級九人・三級三人・二級三人であった。教員は同人社(中村正直の私塾)卒業の者をはじめとして一〇人おり、学科別にみると修身科一人、英学科三人、和漢文科一人、算術科二人、図画科一人であった(明治十四年 愛媛県学事年報)。
 正岡常規(子規)は明治一三年に入学してこの時期の松山中学校に在籍、柳原正之(極堂)らと親交を持って詩歌や演説に熱中するが、同一六年に中途退学して上京した。

 〈南予中学校〉 同一四年における在籍生徒数は、予科一二人を加えて一三二人(一〇学級編成)であり、前年に比較すると一五人の減少である。教員は旧宇和島藩校教授、慶応義塾出身者をはじめ一一人であって、漢学科四人、英学科三人、数学科三人、漢数英兼掌者一人からなっていた。また同校では従来使用していた校舎が腐朽して、その維持が困難となったので、南予地域の有志の間で寄付金を募集して、新校舎の建設に着手し、翌一五年に竣工した(明治十四年 愛媛県学事年報)。

 〈共済中学校〉 同一一年七月に大洲に設置された共済中学校は、県の拡充計画によって、同一三年七月に正式に県立の中学校となった。教員は官立師範学校卒業生をはじめ五人であり、漢文科三人、英語科二人からなっていた。数学科の教員には、漢文科教師一人と英語科教師一人が兼務した。同一四年における在籍生徒数は四七人であって、そのうち予科二人・八級四人・七級四人・六級一六人・五級六人・四級六人・三級六人・一級三人で、卒業生は三人であった(明治十四年 愛媛県学事年報)。

 〈西条中学校の再興〉 一時廃校となっていた西条中学校は、同一三年二月付の新居郡長和田義綱の「中学校開設ニ付届」によると、地方有志の請願に基づき、明屋敷の教員養成所のなかに再興され、同月二〇日から授業を開始した。算術・漢籍の二科が設けられ、教則は松山中学校則をそのまま準用した。同年七月に同校は正式の県立中学校となり、その運営には地方税の下付を受けた。
 同校は講習所と同居していたので、授業上の不便が少なくなかった。そこで同一五年一〇月に、有志の寄付金によって新校舎を建築した。同一四年における教員は修身・読書科二人、英語・算術科一人の合計三人で、そのうち慶応義塾出身者が一人いた。同年における在籍生徒数は五七人であって、八級二一人・七級一七人・六級一四人・五級五人であった(明治十四年 愛媛県学事年報)。

 〈越智中学校の新設〉 越智・野間郡長であった黒川通成は、同一三年に私財を投じて今治の旧城郭内に中学校をつくった。この時校名を越智中学校と呼び、『今治市誌』によると郡立として誕生し、校長に渡辺渉が任ぜられている。県ではかねてから今治に中学校を設立する意図があったので、翌一四年六月に県立校とした。これによって県の八中学校設置案が完全に実現するに至った。同一四年の在籍生徒数は八級八人・七級八人・六級一六人・五級四人の合計三六人であった。職員は文章科四人(そのうち読書・修身・博物科を兼務、歴史・習字を兼務、物理・地理・経済を兼務するものがある)・算術科二人からなっていた。学校の経費は地方税七〇〇円、協議費八〇〇円及び有志の寄付金・授業科などによって賄われた(明治十四年 愛媛県学事年報)。

 教育令と愛媛県中学校教則の公布

 中学校制度の変遷を見ると、ただ一つの規定であった「中学校教則略」が同一一年五月に廃止されたので、中学校を規制する法令もなくなり、全く自由放任の状態となった。
 翌一二年九月に学制も廃止され、これに代わって新たに「教育令」が発布された。教育令は、「中学校ハ高等ナル普通教科ヲ授クル所」として、学校の性格を明瞭にした。翌一三年一二月に教育令の改正が断行され、中学校のほかに農学校・商業学校・職工学校に関する規程が定められた。第八条に「農学校ハ農耕ノ学業ヲ授クル所トス、商業学校ハ商売ノ学業ヲ授クル所トス、職工学校ハ百工ノ職芸ヲ授クル所トス、」と定義した。教育令には、中学校についてはこれ以上の規定がなく、学校の種類・年限・教科課程・施設などに関する新しい規定は示されなかった。
 翌一四年七月に、文部省は「中学校教則大綱」を判定して、各府県に通達した。これによって中学校の性格を明示するとともに、教則に国家的基準を設けたので、ここに学校運営の基礎が確立された。この大綱は、中学校の目的は「中人以上ノ業務ニ就ク」ものに対して必要な準備教育を施すことと、「高等ノ学校ニ入ル」ものに対して必須の基礎教育を与えることにある旨を力説している。要するに、中学校における教育上の目的を二つに分け、その一つは中人以上の業務に就くための教育を施し、他の一つは高等の学校に入るために必要な学科を授け、上級学校進学者のための教育機関とした。このように中学校はその目的において二重の性格を保有したことで「中学科ヲ分チ初等高等ノ二科」とし、初等中学科・高等中学科の教科課程と学科配当表が示された。次に中学校の入学志願者の資格を、初等中学科を修めようとする生徒は小学中等科卒業の学力ある者とし、中学校の修業年限について初等科を四か年、高等科を二か年と定めた。
 愛媛県は、一一月に「中学教則大綱並課程」を布達した。その内容は文部省の布達と同文のところが多いが、学科配当表に県独自の立場で、教科内容を具体的に指示していることは、県の中等教育に対する関心の深さを示している。たとえば修身科に「嘉言善行」、和漢文に「読書―日本文法・近易ノ漢文」「作文―仮名交リ文・書牘文(しょとくぶん)」と注記している。ついで翌一五年二月に、県は、中学校の職制を布達したが、これは同一二年一月の中学校職制を改正したものであった。職員組織を見ると、その名称が校長・教諭・助教諭・事務掛・助手・事務掛補と変更された(資近代2 一六六)。また中学校の経営は、地方税のみでは維持できないために、民間の資力に負うところが少なくなかったので、当分の間中学校の事務をその学校所在の郡長に委託した。同年六月付で出された一五年の中学校費についての布達によると、県会の決議を経て地方税が下付され、西条・越智・共済の三中学校にはそれぞれ七〇〇円、松山・南予の両中学校には一、三〇〇円となっている。
 県では中学校教則大綱の実施に伴い、教科課程についてさらに詳細な規定をつくって指導する必要があった。そこで同一五年六月に「愛媛県中学校教則」を作成して文部省に伺い出たが、一部の字句を修正したうえ、一〇月にその許可を得ることができたので、一一月一三日に県令関新平の名で各中学校に布達した。
 この教則は三二か条からなり、教旨・教科・修業年限・学期及学級・授業の日時数・休日・教授要旨などに分けられ、末尾に各級教科課程表と中学校教科用書表がつけられている(資近代2 一九五~二〇〇)。これらのうち授業の日時数までは、先の文部省の教則大綱と同文であるが、教授要旨及教科課程表、教科用書表などは、県独自で作成したものである。特に教科要旨については綿密に教授内容を明示し、ここに中学校における教科の要旨が画一化されたことは、一つの大きい進歩と考えてよいであろう。教則の末尾に、各教科別に教科書名・出版年月日・著者名などを列記しているが、算術・代数・幾何・図画は「姑(しば)ラク用書ヲ定メス、教師ノ見込ヲ以テ教授セシメ置、追テ用書撰定ノ上ハ開申スヘシ」と付記していた(資近代2 一九四~二〇〇)。

 高等中学科の設置と愛媛県中学校規則

 前述したように、県は八中学校の経営に当たっていたが、県費から支出する地方税のみでは運営費が不足したので、それら地元町村の協議費、あるいはその地区の民有の中学準備金の利子などに頼るところが多かった。また県としても財政上の負担が多いにもかかわらず、一校当たりの費用が限定されるために、自然に規模・構想が小さくなり、施設の完全な中学校が一校も存在しない状況であった。
 県は、中学校教則大綱及び愛媛県中学校教則の布達に従い、県下の中学校に対して、抜本的な改革を加えることにした。まず同一五年から松山・南予・高松の三中学校に高等中学科を併設して、内容の充実を図った。他の五中学校は、そのまま初等科のみとした。これが県として中学校に対する第一次の改革であった。
 翌一六年二月五日、県は「愛媛県中学校規則」を布達した。この規則は四七か条からなり、第一章入学退学・第二章試業・第三章生徒心得・第四章通学・第五章寄宿舎・第六章禁条及罰科に分けられ、これらの項目について詳細な規定が明示された(資近代2 二〇一~二〇五)。この規則は前述の中学校教則で扱っていない分野に触れていて、中学校に関する規定が順次に整備されていく過程に現れたものであった。

 中学校通則の制定と三中学校の再発足

 翌一七年一月に、文部省は「中学校通則」を制定して、内容の整備と学科・教員・施設における資質の向上を図った。この通則は八か条からなり、特に「忠孝彝倫(いりん)ノ道ヲ本トシテ、高等ノ普通学科ヲ授ク」ところとしたのは、当時の皇道思想に基づく徳育振興の影響と考えられる。また中学校の設備・教員・施設・経費などについて規定し、従来放任されていた中学校の整備・向上を企図した。その結果、既設の中学校のなかには、設備・教員組織・経費の問題から整理統合され、あるいは各種学校に転換するものもあった。
 この中学校通則に従って、八中学校を整備するには莫大な経費を要するので、県は中学校を削減する方針をとらなければならなかった。そこで同一七年の通常県会に整理案を提出した。その時の県理事者の説明によると、校数が多いため相当の経費を支出するにもかかわらず、教育的効果はあがらず、かつ郷土の中学校を中途退学して上京するものが多い、中学校通則の公布を機に、五中学校すなわち大洲・西条・越智(以上伊予分)と亀山・飯山(以上讃岐分)の中学校を廃止し、松山・高松・宇和島の三中学の充実を期したいとしていた。
 この中学校整理案が県会で承認された結果、五月二三日付の布達で六月限り八中学校を廃止し、翌七月に三中学の校名を第一~第三と改称して、新発足させることになった(資近代2 三四二)。第一中学校は旧松山中学校で、初等・高等の両科を具備し、第二中学校は旧高松中学校、第三中学校は旧南予中学校であって、ともに初等科のみであった。これは七月に中学校教則大綱中に改正がなされ、初等中学科のみを置く中学校が公然と許されたことによるものであった。県では第一中学校に四、二四八円、第二・三中学校に一、五七六円ずつを支出した。県立の学校である以上、経営費の全額を地方税で支出すべきであるが、不足額を授業科・中学資金の利子及び寄付金で補充した。これが中等教育に対する第二次の改革であった。
 再出発した三中学校のうち、第一中学校の概要を記しておこう。同一八年末における生徒の総在籍数は二四九人であって、職員は校長一・教諭四・助教諭七・書記四・教諭試補一・助教諭試補五人であり、文学士・理学士・小学師範科卒業生・体操伝習所卒業生それぞれ一人であり、その他は博物・物理・化学・漢学・英語・算術・画学の諸科専門の教員歴を有するものであった。同校に関する同年の予算決算額は四、八六三円、書籍一、六九六部、機械一、一二六箇あり、積立金は一万二、一〇三円余であった(明治十八年 愛媛県学事年報)。