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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 教育令下の小学校

 教育令と教育の地方管理

 明治一二年九月二九日、政府は「学制」を廃止して「教育令」を公布した。教育令の基本方策は中央統制による画一的な教育を改めて教育行政の一部を地方に委任することであった。このような方策は三新法体制や自由民権運動などの思想とも関連があるとみられ、自由教育令という世評を受けた。
 愛媛県は、岩村県令の方針もあって郡長に教育行政事務を委任し学務管理をさせた。明治一一年一二月一六日学区取締を廃止して郡長に学務事項を委任するとともに同日の「郡長委任条款・事務条目」で小学校補助金処分、校舎修築の認可、授業料・教員俸給の決定、教員講習所・教員会議の開催、小学幹事・授業生の任免などの教育委任事務を具体的に示した(資近代1 六七〇~六七四・七八五~七八六)。さらに同一二年一月二五日には小学校則・教則は各郡役所でその地域の状況を熟察して、努めて人民の要望に適し、かつ生徒の成長を図るよう適宜それぞれ編制し施行することを指示した(資近代1 七九一)。郡単位に小学校則・教則を編成することになったので、県は「自今以後生徒ノ学歩ハ愈々(いよいよ)実際ニ適切ナル課程上ヨリ進ミ、父兄ヲシテ教育ニ感孚(かんぶ)セシムルコト更ニ前日ヨリ著キヲ見ントス」といった見通しを持っていた(明治十一年 愛媛県学事年報)。
 この県指令により、各郡役所は校則・教則を判定公布した。明治一二年六月「和気温泉久米郡小学教則」、一〇月「越智郡上下等小学教則」がそれぞれ文部省の認可を受け、九月には小学校則・上等小学教則・下等小学教則からなる「野間風早郡小学校規則」が定められた。野間風早郡の小学校則は、普通則・入学規定・生徒心得・罰則からなり、小学教則は上下等とも上級学校進学者用の上科と多年就学できなかった子女のために下科を設定、両教則の選定は小学校に任せた。越智郡は下等小学教則を第一・第二・第三種に分かち、三種の選択は学校に任せたが、上等小学に進学するものは第一種を履修することが必要とされた。
 郡単位の教則・校則の編成方式は、公立小学校の校則・教則は学務委員が主任となって戸長や教員と協議の上、編成し町村会の協議を経て伺い出るべきことという明治一三年一〇月二〇日の県布達でいっそう自由化され、各町村・学校単位で設定することになった(資近代2 一三五)東予市の国安小学校に保管されている同校の前身白水小学校規則はこの時の校則で、通則・試験規則・入学規則・生徒心得・上等下等小学教授課程表からなっている。明治一三、一四年時には各学校で独自の校則が作成されたが、「学業ノ適否ヲ顧ミス濫リニ教則ヲ左右スルヲ以テ、其学科或ハ卑近ニ失シ或ハ高尚ニ過キ」(明治十四年 愛媛県学事年報)普通教育の趣旨にたがう傾向は免れなかった。
 
 町村民の教員雇用と就学率の停滞

 自由教育令の下での教員取り扱いについても、県は急進的な改革を試みた。明治一三年四月一五日「公立小学校教員委嘱規則」を定め、従来の教員を全部罷免して、新しく「公立小学校教員及教員補ハ其町村人民ヨリ契約ヲ以テ委嘱スルモノ」とした。委嘱雇用に際しては、学務委員がその町村人民を代表して契約条自を定め、被嘱人が承諾するとその条目に教員の履歴書を付けて郡長を経て県令に開申するとしており、契約書式の基準を例示した(資近代2 一二九~一三〇)。
 これによって各町村の学務委員は人民に代わって教員に委嘱すべき人物と契約書を取り交わした。宇摩郡下分(しもぶん)村(現川之江市金生町)では、戸長星川喜一郎の長男實が徳島の私塾で漢学・洋算を修業し明治九、一〇年松山師範学校漸成生徒として教授法を学んでいたので、同村業精学校教員に委嘱することにして、二人の学務委員と雇用契約をした。契約内容は明治一三年七月二五日より明治一四年七月二五日まで公立業精学校教員の任を委嘱する事、被嘱人の給料は一か月金六円渡すべき事、被嘱人が自己の疾病か父母の看病などで欠勤する時は向こう一〇日間は給料全額を渡し、更に一〇日間は給料の半額を渡しその後欠勤する場合は渡さない事、契約期限中学校の都合により解約する時はその償いとして被嘱人へ二円を渡すべき事、満期解約のときは酬労として被嘱人へ金二円を渡すべき事、被嘱人欠勤連続六〇日以上に及ぶ時はこの約束を廃すべき事、もし県令より中途解約の達しを受ける時はこの契約は無効となる事、といったものであった。野間郡濱村(現菊間町)でも二人の学務委員と風早郡辻村士族竹田重行との間で同形式の契約書が交わされている。竹田の給料は月五円であるが一か年皆勤の時は月給一か月分五円を渡し、欠勤連続一五日以上に及ぶ時は中途解約するなど先の星川の場合と若干の相違が見られる。北宇和郡沖村・河内村(現吉田町内)連合喜佐方小学校教員村田平章の契約は給料五円、年間皆勤の節は月給の半額、連続欠勤五〇日間を過ぎた場合は解約となっている。
 町村民による教員雇用制度が実施されたのは県令関新平着任時であったが、前任者岩村県令の在任中に具体化されていたことは、「明治十三年県政事務引継書」の学事の項で「今日ノ状況ヲ察スレハ人民ヲシテ自ラ契約聘招セシムルノ益多キニ如カサルヲ知リ得タリ」と報告されているのによって明らかである。しかしこれが「従来ノ公立小学校職員一同廃止候」という変事を伴ったので現場の教員に動揺を与えた。さらに新規雇用にあたり町村が五円程度の安い給料で契約しようとしたため従前一〇円近くの給料を得ていた師範学校卒業教員五〇人以上が退職した。ここに「有カノ教員ハ往々其職ヲ去リ、其職ニアル者ハ其任ヲ怠ル」という憂うべき現象が生じた。この結果、関県政下の理事者は、「明治十二年教育令ノ発行ヨリ従来ノ干渉ヲ解キ専ラ町村人民ニ放任シ、教則ハ各学校之ヲ編制シ、教員ハ各町村人民之ヲ委嘱スルノ制」としたことが本来、学事をいとう人民は政府が意あって教育の振興を図っていることを認識せず、益々その頑固な考えを強くして、教育の盛衰は町村の自由であり、学校の興廃も人民の自由であるかのごとく考えていく傾向を助長したと分析、表1―100に見られる就学率の停滞とあいまって町村当局に対する就学督責などの規制を強化する必要を強調した(明治十四年 愛媛県学事年報)。

 教育令改正と小学校諸規則の制定

 文部省は、地方教育の実情にかんがみ、明治一三年一二月二八日に「教育令」を改正、地方長官などから要求されていた規制強化にこたえようとした。この改正で、学校設置や就学督責をはじめ小学校教育一般の規則は府知事・県令が定めることになり、教則については文部省の綱領に基づき府知事県令が編成し文部卿の認可を経て管内に施行するとされた。
 愛媛県は、明治一五年時に小学校関係の諸規則を次々と布達して、県内小学校教育の画一化を進めた。まず一月二八日「町村立私立学校設置廃止規則・就学督責規則・小学校教則」を一括して布達した。設置廃止規則では、町村立学校を「町村人民公共ノ資財ヲ以テ設置スルモノトス」と定義づけ、設置すべき区域及び校数については、県令が民力の強弱や通学の便宜などを図り一町村独立か数町村連合で設置を指示するとした(資近代2 一四三~一四五)。小学校の区画並びに校数は、明治一四年一〇月三一日に県内に告示された。学区の設定は一町村または行政組合村単位を原則としているが、学区内で少なくても学齢児童の六割以上を教育できる施設・教員などの準備が整うだけの財力があり、児童の通学距離は遠くても一里を過ぎないことを限度(明治十五年 愛媛県学事年報)としたので、必ずしも行政町村と一致しないところもあった。また一学区一本校主義を原則としたため、同一学区に二、三の学校を設けているところは一校を除いて他を分校にし、学区内に分校しかないところはこれを本校に昇格させるなどの修正がなされた。県は、県内に小学校数が多すぎるのは地勢上止むを得ないことだけれども、これを改善しなければ、教育の進歩は到底期すことはできないであろう(明治十六年 愛媛県学事年報)と考え、この際乱立ぎみの学校整理を意図して既設校の統合や分校への転換を指示したので、学校の編成替えを終わった明治一六年には本校は六三校減少し分校が一六九校増加した。各学区の町村・組合町村は設置廃止規則の書式に従った学校創設伺いを県に提出した。この伺いは、設置目的・位置・名称・学齢人員・学校経費の外学校敷地及び建物の図面が付されており、これら伺いを郡単位で綴った『明治十五年~十七年小学校』(愛媛県立図書館蔵)で当時の各小学校の概況を知ることができる。
 校舎建築についても、県は明治一五年三月二八日の「小学校建築心得」で、地所選択の条件や校舎の型の基準を示した(資近代2 一七〇~一七三)。東宇和郡宇和町卯之町の開明学校は光教寺に接した高燥の地に校地を求め、二二五人の有志から寄付を集めて、建築心得の校舎型に従い明治一五年に新築された学校で、この時期の学校建築をしのぶ文化財である。
 小学校教則は、明治一四年五月の文部省達「小学校教則綱領」に準じており、小学科三年・中等科三年・高等科二年に分けて各学科の教授要旨を定め教科課程・教科用図を表示した(資近代2 一四五~一五三)。就学督責規則は、同一四年一月の文部省達「就学督責規則起章心得」に基づき、郡長・学務委員を中心に就学督責事務を規定した(資近代2 一四九~一五三)。郡長や学務委員はこの規則をよりどころに就学勧誘に励み、表1―101に見られるように明治一六、一七年時の就学率を上昇させた。しかし就学者の中には長欠児童が一割以上も含まれていて、「就学人員ハ如何ニ増加スルモ将タ何ノ効力アラン」(明治十六年 愛媛県学事年報)と県当局を嘆かせていた。就学率そのものも、明治一八年以後松方デフレ政策による経済不況の影響を受けて就学督責の効もなく下降線をたどり始めた。
 明治一五年二月四日には、県は「小学校則」を定めて、中学校の校則は各学校で定めることが原則であるが、区々になっては不都合の点もあるとして、その基準となる入退学・休業・生徒心得・罰則・参観について一五か条にわたる条項を示した。児童入学のときは父母後見人が児童の族籍姓名年齢を記載した書面で願い出ること、学問は徳を修め智を開き身を立て家を治めるためにするものであるので、生徒は父母教師の教諭を守り、行状を正し傲慢不遜(ごうまんふそん)の事なく礼謙を守って長上につかえ、親睦を旨として朋友に交り、学業を勉励して将来の幸福を求めるべきである、生徒心得の条項に再三違反した時は罪の軽重に従い授業時間外二時間以内の留置か一時間以内の直立の罰を課するなどが内容であった(資近代2 一五三~一五四)。従来校則の中に含まれていた試験規則については文部省の指示で別個に設定、二月一六日に「小学校生徒試験規則」を布達して、試験を月次・卒業・臨時の三種に分け、各科の試問及び採点法の基準を示した(資近代2 一六一~一六三)。
 教員資格や職務についても種々規則を設けた。これらを概観すると、明治一五年二月四日の「学校教員品行検定規則」、二月七日の「小学校職制」、二月一〇日の「学校教員免許状授与規則」、二月一三日の「学校幼稚園書籍館諸職員任用規則」、二月二二日の「県立町村立学校職員等級月俸並旅費規則」、三月一三日の「小学校教員任用目的」、五月二〇日の「学校職員心得」などがある(資近代2 一五五~一七七)。
 教員は、町村民の契約による委嘱が廃され、任用規則に基づき学務委員が郡長を経て県令に申請、任免された。職制では、校長・訓導・准訓導・授業生に分かれ、訓導は師範学校卒業生または教員免許状を有する者、准訓導は一教科もしくは数教科の免許状取得者、授業生は上の資格を持たない者から任命された。明治一五年時の教員は二、三四八人(訓導七二〇、准訓導二、授業生一、六二六)、同一八年時二、九六四人(訓導一、一四三、准訓導五、授業生一、八一六)で、次第に師範学校卒業生の訓導の任用が増えているが、まだ授業生が過半数を占めている。雇用主の町村は高給取りの師範学校卒業生の雇用を避ける傾向にあり、同一八年までの愛媛県師範学校出身者三二〇人のうち教壇に立っている者は二〇二人に過ぎなかった。県は、町村が民力困弊の影響により教員の雇用をひかえているため、愛媛県師範学校卒業生のうち空しく彷徨(ほうこう)している者も多い(明治一八年 愛媛県学事年報)と文部省に報告している。教員の職務については、学校職員心得で「各学校教員ハ生徒ノ模範トナリ智徳ヲ陶冶養成スルノ職タレハ其品行ヲ善良ニシ学術ヲ研究シ……」と指示していた。
 こうして教育令改正と文部省達に従って、本県でも明治一五年以後小学校教育の規制画一化が進められた。

 学務委員巡回訓導

 教育令では「町村内ノ学務事務ヲ幹理」するため学務委員を設け、その職務権限の規定は地方官に委任した。愛媛県は、明治一三年四月一五日に「学務委員心得及選挙規則」を定めてその職務内容及び選挙方法を明らかにし、これまで町村内の学校事務を担当してした学区世話掛を廃止した。これによると、学務委員は教育令の趣旨を奉じ、県令・郡長の監督を受けて、その町村の人民に代わって学校事務を管理し、かつその町村内全体の教育に意を払うべき者であるとされ、その職責は学校教員の委嘱、学校資金の管理、教員に関する町村会議案の起草、学齢児童の就学勧誘などで、職務遂行にあたっては町村行政の担当者である戸長との協議を必要とした。学務委員の選挙は公選制を採用、町村内に本籍住居を持つ二〇歳以上の男子が選挙・被選挙人で、その定数・任期・酬労金などは町村で決定するとした(資近代2 一二七~一二八)。越智郡宗方村(現大三島町)では学務委員の定員を三名、任期を二年とし隔年ごとに改選、酬労金は当分支給せずと村会で議決、風早郡小浜村(現中島町)では定員を三名、任期を三年、酬労金を無給と決めて、それぞれ戸長が県令に届け出ている。学務委員には旧学区世話掛や戸長などを務めた地域の有力者や名望家が選ばれたが、「人物ノ適否ヲ顧ミス徒ニ該員ノ多数ヲ望ムノ弊ナシトセス」、「大ニ其職分ヲ蔑視スルノ弊アリテ有名無実ノ嘆ヲ免レス」(明治一五年 愛媛県学事年報)とあるように、学務委員は期待した活動をしなかった。
 改正教育令では、教育令下の学務委員制度の欠陥を克服するため、学務委員は府知事県令の監督に属し、学区ごとに設置して児童の就学と学校の設置保護を図ると規定し、委員には戸長を加えることなどを指示、さらに薦挙規則起草心得で選挙制を画一化した。
 これに基づき、愛媛県は、従来の選挙規則を廃止して明治一四年一〇月一五日に「学務委員薦挙(せんきょ)規則」を定め、一学区内に学務委員を置いて戸長をその中に加えるとともに、定員及び給料・旅費・職務取扱諸費などは一学区内の町村会で評決して郡長を経て県令の認可を受けること、学務委員の資格はその学区内に本籍住居を定めた不動産を所有する二〇歳以上の男子であること、選挙人は学区内各町村会議員を充てること、委員の任期は四年とし、二人以上を置く学区は二年ごとに半数改選すること、選挙は郡長が主査し、投票の多い者から順次定員の三倍を検出審査し、意見書を添えて県令に進達する、委員の任免は県令から辞令書を交付するとした(資近代2 一三九~一四〇)。
 この選挙規則に従って、県内各地の町村会・連合町村会で学務委員の定員・給料などが決議された。風早郡小浜村は、同一五年四月の村会で学務委員を二名とし一名は戸長を充てる、給料は年給二〇円とする、旅費は日当三〇銭を給しほかに交通費実費を支払うなどを決議して県に伺った。この結果、明治一五年時に専任一、三三五人、戸長兼務九四一人合わせて二、二七六人の新しい学務委員が任命された。学務委員の職務は、選挙規則と同じ県布達の「学務委員事務要項」(資近代2 一三九~一四二)や同一五年五月の「学務委員事務取扱心得」で示された。
 こうして学務委員制度は改められたが、「全般ノ大勢ニ就テ概言スレハ町村其人ニ乏ク未タ以テ当路者ニ満足ヲ与フルコト能ハス」(明治一六年 愛媛県学事年報)といった状況で適任者を得ることは難しく、公選制の時代に比べて顕著な進歩は見られなかった。また、戸長と学務委員との関係についての不明確さは依然続いていたから、文部省は明治一八年八月の教育令改正で学務委員の廃止に踏み切った。愛媛県は九月二二日に学務委員を廃止し、町村教育事務は戸長が担当することを県内に布達した(資近代2 三四六)。
 学制期の愛媛県には、派駐訓導と聯区監視が置かれて教員の教授面での指導監督に従事していたが、派駐訓導は文部省補助金の減額に伴い明治一二年三月に廃止された。聯区監視については明治一三年五月三日に小学聯伍監視と改称し、「小学聯伍監視規則」(資近代2 一三三~一三四)を定めて自由教育令下の教授法監視官としたが、改正教育令に抵触するとして明治一五年三月に廃止された。
 この結果、愛媛県には小学校教則を普及徹底させ教員の教授法を指導監督する者が法制上からも実質的にも存在しなくなった。明治一五年六月、本県の学事状況を視察した文部省大書記官西村茂樹が、「愛媛県ハ一郡毎ニ多少其(学事)状況ヲ異ニセリ、……郡役所ニ学事ヲ放任スルニ因リテ此差異ヲ生シタルモノナルヘシ」と指摘したことが反省の契機となって、県は派駐訓導を復活して巡回訓導と称し、同年九月の臨時県会に七名の巡回訓導費を計上して承認を求めた。しかし県会は七名の訓導で巡回しても効果は薄いとしてこれを否決、翌一六年四月の通常県会でも再度否決したので、関県令は内務省の認可を得て強権をもって巡回訓導を置いた。
 明治一六年八月二〇日「巡回訓導設置規則及職務心得月俸旅費規則」が布達された。これによると、巡回訓導は県内小学校の事務を監督指導し改良を図るために設けられるもので、師範学校の卒業証書を持つ者を充て、交代で郡役所に派駐した。その職務は学校風儀の善悪、教員の勤惰、教員授業の巧拙、教則の適否、生徒学業の進否、学校管理の可否などの監督すべき事項、授業法、管理法、教育学の講習などであった(資近代2 二〇六~二〇七)。
 巡回訓導は、明治一七年四月二八日文部省の指示で小学督業と改称、同一八年七月一〇日には「小学督業規程及講習規則巡視規則」を定めた(資近代2 三四四~三四六)。その後も小学督業無用論が強く、明治一九年一一月の通常県会でこの費用を否決した。県もこれを認めて同二〇年三月一二日に小学督業の廃止を告示した。

 学事集会と教務研究会

 改正教育令下、県は学務の徹底を意図して明治一五年三月三一日「郡役所学事集会条項」を定め、学事に関する布告・布達などの実施方法、生徒就学奨励方法、校内清潔方法、生徒試験方法、学資金増殖方法などの論議すべき要項を示し、規則は郡長が定めて認可を受けるべきものとした(資近代2 一七五~一七六)。これに従って、越智野間郡長黒川通成は同一六年六月一八日に「越智野間郡役所学事集会規則」を布達、学務委員と校長・首席教員で会を構成し、年に一、二回三日程度の日程で開会することにした。第一回学事集会はこの年七月一二~一四日の三日間越智郡室屋町大雄寺(だいおうじ)(現今治市室屋町)で開かれ、小学聯区研究会規則、小学授業生月俸・旅費交付方法、学務雑報作成の件などの議案を審議している。
 また県は、明治一五年三月一四日に「小学聯区研究会設置規則」を定めて小学教育上の便益を図るために数学区連合の教務研究会開設を指示した。郡共通の規則を設定した越智郡野間郡の小学聯区教務研究会規則によると、研究会は毎月第一週の土曜日に開設するものとし、会場は聯区内各小学校を輪番で使用、開催時間は二日六時間以上とするなどとしている。その後、県は明治一七年二月二日に県内共通の「小学聯区教務研究会規則・設置規則」を定めて、教務研究会の開設を強制するとともに目的内容を画一化した(資近代2 三四二)。


表1-100 明治12~14年度小学校の就学率

表1-100 明治12~14年度小学校の就学率


図1-12 開明学校平面図

図1-12 開明学校平面図


表1-101 明治15~19年度小学校の就学率

表1-101 明治15~19年度小学校の就学率