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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 学制と小学校の設立

 学制の制定と学区

 明治五年八月三日、わが国最初の総合的教育法規である「学制」が公布された。学制が目指す教育理念については、同月二日の「学事奨励に関する被仰出書」で明らかである。「被仰出書」では、学問は各自が身を立て、智をひらき、産をつくるものという個人主義的立身出世主義を唱えた後、「自今以後、一般ノ人民必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン事」を期待した。学制は全文一〇九章からなり、学区・教員・生徒及び試業・学費などについて規定した。
 学制はそのはじめに学区について定めた。これによると、石鐡県と神山県は広島県を本部とする第五大学区に属しており、両県が合併して愛媛県となった後の明治六年四月における大学区改正の際は第四大学区に入った。中学区・小学区については、地方官が土地の広狭と人口の疎密を考慮して適宜に設けるよう指示されていた。石鐡県は、明治五年九月に三、四郡単位に三つの中学区を仮定して文部卿に届けた後、翌六年二月三〇日に第一中学区一~六大区(宇摩・新居・周布・桑村郡)、第二中学区七~一一大区(越智・野間・風早郡)、第三中学区一二~一八大区(風早郡島方・和気・温泉・久米・浮穴郡)の中学区域届を提出した。小学区については、同五年一〇月二日文部省に小学区は戸籍区分の小区ごとに一か所を設けて二一二小学区としたい、と伺いをたて認可された。このように石鐡県の中学区は五、六大区を組合わせて設定し、小学区は小区で代用した(資近代1 三七~四〇)。
 神山県は、明治五年管内を三中学区に仮区分しているが、小学区関係の文書が見当たらない。同県の行政区大区小区制も愛媛県統合直前の明治六年二月に設定されるなど、遅れた状態にあったから、学区割は実施されなかったのではなかろうか。
 明治六年二月愛媛県が誕生すると、県の庶務課学制掛が主体となって学区制の整備にとりかかり、中学区は大区にとらわれず学制に規定されている人口一三万を基準にほぼ郡単位に分割して県内六中学区を設定し、小学区中学制の示す六〇〇人を定則に町村ないし連合町村単位に設定する計画を立て、文部省の認可を受けた。こうして学区は行政区画である大区・小区にこだわらず文部省の指示する基準で設定したが、小学校設立は行政担当者である区長戸長にゆだねられたので、事務上の混乱を引き起こした。県当局は、明治七年五月の大区小区改変を機に従来郡単位に区分されていた中学区画を大区単位に編成替えした。しかし小学区については小区をもって該当させることは不都合であり、人口六〇〇をもって一小学区の基準とすると学制の示す人口六〇〇にこだわったため、学区は依然として形式的なものにとどまり、「実地ニ学校ヲ設立シ保存ノ法ヲ議スルニ及テ往々不便」(明治十年 愛媛県学事年報)を免れなかった。

 学務課の設置

 愛媛県庁内に学務課が設置されたのは明治八年四月二四日であり、それ以前は庶務課学制掛が担当していた。石鐡県は、明治五年九月に大属斎藤利敬・権大属服部嘉陳・少属深井寛を学制掛に任じた旨を文部省に届け出、同じころ神山県でも大属肝付兼弘に学務専任を命じた。両県合併後の愛媛県は、同六年四月二三日の「庶務課章程」の中で、中小学を監督し、課金の法を設け、教官以下の勤惰を察し、社寺神官僧侶の事を掌(つかさど)ると学制掛事務章程を規定し、庶務課長赤川戇助(こうすけ)の下で肝付兼弘外二名が専務することになった。「県治条例改正」によって庶務課学制掛から昇格した学務課は、明治八年一一月の「愛媛県事務章程」で、学事書類の上申下達、学区取締教員の勤惰の監督と進退、各区々戸長学区取締と学事進行のための協議勧諭、学校寄付献金などの取り調べ、学校設立維持方法の注意、学資金の増殖、学事諸帳簿の整斉などの事務概目が示された(資近代1 二七三~二七四)。
 新設の学務課の初代課長には、神山県以来学制掛の責任者であった権大属肝付兼弘(鹿児島県士族)が就任し、課長心得には松山とその周辺の一五大区学区取締であった内藤素行(愛媛県士族)が岩村の意に投じて課長心得に抜擢(ばってき)された。

 学区取締

 内藤素行が就任していた学区取締は学制で誕生した学務担当者で、一中学区内に一〇~一二、三名を置き、一名に小学区二〇~三〇程度を分担させ、就学の督励、学校の設立、学校の保護、学務経費のことなどに従事することを職務としていた。
 石鐡県は、旧藩校教授を主体に学区取締を人選し、第一中学区に尾崎山人・石黒未能・青山操、第二中学区に石原浅次郎・小原吉文・丹下量平、第三中学区に中堀真道・十河景従・内藤素行・友近載・相田義和の一一名を配置した(資近代1 三七)。明治六年二月にはさらに学区取締は減員されて第一中学区青山操・第二中学区丹下量平・第三中学区内藤素行各一名を残して他を罷免した。減員の理由について、学制掛は、学制では学区取締一人が三〇校ほどを管轄するようになっているが、只今のところ管内の小学校はわずか四〇校位であるのに取締が一一人もいる、これでは規則に合わないのみならず入用費も少なくないので一中学区に一人と定めたと、参事本山茂任に報告している。
 学区取締の職務について、石鐡県は明治五年九月に「学区取締規条」を定め、二二か条にわたって学区取締の事務心得を示した。規条は、一小学区ごとに一小学校を設立するよう尽力しなければならないが、土地村落の状況によって二区に一校を設けることも妨げない、就学者を調査して名簿を作り、就学勧誘を行い、不就学の者はその理由をただしてその父兄の証書を学務官に送って処分を請う、教科内容は書籍器機など整わない場合には適宜変則教科の方法を立てて学務官に稟議(りんぎ)することなどを列挙していて、おおむね学制の規定を具体化した。
 この規定に従って、学区取締は小学校設立・就学勧誘に尽力した。内藤素行は学区取締の苦労を『鳴雪自叙伝』の中で、「松山では士族仲間に従来子弟を学問させた習慣もあるので別に八釜(やかま)しい事はなかったが、それも町家となり、更に郡部の農家となると、僅かに習字を教へる寺子屋位の外学問をさせるという例がないので、全く余計の干渉をして農商業の妨げをすると思ひ、随分不平を述べた、それを大区や小区の役員と共に私は説諭を加へて、是非とも学制の如く小学校を創設し、児童を就学せしめねばならぬのだから骨が折れる訳なのだ、学区取締の方から、何とか小学校を其所に置かせて呉れ、児童を暫(しばら)く貸して教へをさせて呉れと、手を合はさん許りに頼むのだから可笑しい、小学校を設けるといっても別に家屋はないから、多くは寺の本堂とか神社の拝殿とか、或は旧庄屋屋敷などを借り受けたものである」と述懐している。
 愛媛県が誕生した後、学区取締は元石鐡県三名・元神山県三名の定員が継承されて、第一番中学区を青山操、第二番中学区を丹下量平(後、萩森方綱に交代)、第三番中学区を内藤素行、第四番中学区を武市英俊、第五番中学区を戸名正路、第六番中学区を町田亘(後、山下興作に交代)が受け持った。県は、明治六年一一月区戸長に対し、管轄内の学務は其大小役所に委任するから、学区取締と協議しこれまで設立した学校の保護は勿論、教育を普及させるよう尽力する事(資近代1 二一一)と布達して、学区取締との協力関係を強調した。
 こうして区戸長が実質的に学事に関係することになったので、同七年九月には学区取締を一挙に二七名に増員して、一三名の専任学区取締を小学校の多い大区に常駐させるとともに、一四名を区長兼務として各大区の区長すべてを学区取締に任じた。この結果、学務に関する事務は一般行政の中に包含され、学制の精神である教育行政独立の原則は実質的に破棄された。学区取締の数は小学校の増加に対応してその後も増員された。明治九年には讃岐国併合に伴い専任の者二五人(正一二・副一三)、兼務の者一三九人(正一七・副一二二)、同一〇年には専任の者三二人(正二一・副一一)、兼務の者一四一人(正一九・副一二二)であった。
 学区取締の職務は、同九年一月一二日「学区取締事務仮章程」(資近代1 三五四~三五五)を定めて、人民を勧励鼓舞して向学の風を興す事など第一七章の条項を示したが、同年一一月一六日に仮章程を廃して「学区取締職務章程・事務取扱規則」を布達した。これには、学区取締は上(かみ)学制及び県庁の規則を遵奉し、下(しも)人民の方向情態を観察し、管轄内教育一切の事務を管掌し、かつ教育を拡張隆盛にすることを職とするとその職責を総括した後、学校の設置を普及させ保護の方法を図ること、学齢男女は勿論一般不学の者を勧誘して就学させることをはじめ教員の進退取り扱い、学費の決定と学校の動産不動産の処理、学校諸規則の遵守、派駐訓導・小学聯(れん)区監視の監督、学事諸調査の励行など三七章にわたって職務内容を示した。また事務取扱規則で、学校の設立合併廃止など県庁の決裁を必要とする上款一七か条と学校名称の改定など専決処分のできる下款二五か条に分けて事務取り扱いの要領を列挙した(資近代1 五五二~五五六)。

 石鐡県の学校設置と大区小学校規則・教則

 学制が公布されると、各府県では小学校の設立と就学督励に着手した。石鐡県は、明治五年一〇月に取りあえず県内一大区ごとに小学校二~五校を設立する予定で、学区取締に命じて学校設置予定場所を届け出させて調整し、一二月までに三六校の小学校を設立することができた。その後に設けた学校を加え、翌六年二月一八日石鐡県参事本山茂任は四一校の設立届を文部卿大木喬任(たかとう)あてに提出した(資近代1 四三~四四)。学校名と設置場所を表示すると、表1―94のようである。
 小学校の校舎のほとんどは寺院・神社と旧会所・陣屋などを使用しており、旧寺子屋を小学校に引き直したものも見られる。第一中学区七番小学校(旧西条藩校)同区十番小学校(旧小松藩校)、第二中学区三番小学校(旧今治藩校)、第三中学区七番小学校(旧松山藩校)は、武家子弟の教育機関でその設備も整っていたから地方の模範となるべき小学校であった。
 石鐡県は、小区ごとに一校を設立するのを理想として小区単位の小学校設立予定場所を学区取締に報告させたりしていたが、資金難のため同六年二月までに四一校しか開設することができなかった。学制掛では学費資金調達の方法として、小学校設立営繕費は富豪層から、教育給費用は各戸に割り当てて捻出(ねんしゅつ)する方策を立案して本山参事に提出したが、実施に至らなかった。資金に窮した同県は、「当県ノ如キハ南海ノ陬(すみ)ニ偏シ、土地窮乏富戸ノ者ナク、畢竟(ひっきょう)要スルニ民俗頑陋(がんろう)未タ学業ノ我身ニ大益アル事ヲ知ラス、能ク財ヲ出シテ会社ヲ結ヒ学校ヲ設立スルノ目的モ之レ無ク、生徒ノ学業料スラ納メ候目的モ相立ズ、若シ強テ之ヲ反別戸口ニ課シテ学費ヲ弁セント欲セハ、頑陋ノ人民物議洶々(きょうきょう)ノ憂(うれい)顕然(けんぜん)ノ儀ニ付」と民家が教育に理解を示さない状況下にあって、学費弁給の難しさを文部省に訴え学費支弁を求めたが、拒絶された。苦慮した県学制掛は、米会社三か所の税・料理屋揚屋の税・猟銃税による収入を学費に支出してほしいと訴えたが、出納課の拒否にあって実現しなかった。このため学制掛は学区取締を減員するなどして教育費を緊縮し、各学校では少額の授業料で校費を賄わねばならなかった。
 こうして学費に苦しみながらも小学校を開校し、校則を住民に示して子弟の就学を促した。内藤素行らが作成した松山地区の「第一五大区小学校規則」を挙げると、小学校の場所は追って増加するが、当分元明教館など五か所に開校する、小学校課業習得済の後もなお修業したい者は中学校ができるまでは第一校(元明教館)の課外席に出校すること、ただし課外席は一足の課業なく、書籍通読質問算術など望みに任せて授ける、一三歳以上であっても小学課業を習いたい者は小学校通常席へ出校してもよい、入学するには第一校内旧属役所の学区取締まで子弟の戸主が願い出ること、学校内では袴着用に及ばない、書籍と習字用具は自分持ちであること、修業刻限は朝八時から一一時まで午後一時から四時までとすること、午飯には帰宅しても弁当持参しても勝手次第、一年のうち休日は毎月一・六日、七節句、天長節、神武天皇祭日、城下三祭日、一二月二一日より一月一〇日までとする、三日以上欠席の者はその訳を教授方まで申し出ること、転校の場合はこれまでの学校の教授方から送り状を受け取ること、修業人は、行儀を正し貴賤長幼仲良くして上達に励むこと、教授方をはじめすべて目上の者の指図に背かないこと、学校出入の際は教授方と同輩に挨拶すること、学校内の道具に落書きしまたは断りなしに他人の品物を取り扱わないこと、修業中無用の雑談をしないこと、学校内はもちろん登下校の途中であっても無益な振る舞いを一切しないこと、傘・履物などを乱雑に扱わないこと、といった内容であった。
 教科内容について、文部省は明治五年九月八日に「小学教則」を判定した。これによると、上下二等の小学を各八級に分け、下等八級(九歳)から上等一級(一三歳)に至る毎級の期間を六か月、毎週日曜日を除いて一日五時間・一週三〇時間を課題とし、学制の示す教科を各学級に配当して教授方法の大要を示した。石鐡県は、各大区の学区取締が明治五年一〇~一一月に「小学教課規則」「小学課業」を作成提出したが、教科内容は各地域で異なり、必ずしも文部省の教則に添っていない。しかし県当局としては各区で異なる教則をそのまま黙認することはできず、少しでも文部省の教則に近づける必要もあったので、明治六年二月一七日に「下等小学校教科変則課程」を定めた。またかねて要望のあった教科用書籍を学制掛で一括して取り寄せることを学区取締に通達した。各大区ごとの教課と石鐡県が一応の基準を示した教則を最低学年第八級で比較したのが表1―95である。しかし教員も揃わず書籍も整わない状況下で教則通りの授業の実施は難しかった。

 神山県の小学規則と就学奨励

 神山県は明治五年九月に「小学規則」を制定し、区長・戸長に配布して差し向き変則小学の例にしたがって二本校と三支校を設けるから、士農工商女子の別なく規則に基づいて一〇月二五日までに学校諸掌へ入学を申し出ることと布達した。規則は一六章からなり、小学は本校支校の二等に区別し、第一本校を宇和島、第二本校を大洲に設ける、支校はその土地の情況を察して漸次各所に設ける、支校は男女六歳以上一三歳以下の者を入学させる、教科は綴字・習字・単語読方・読本解意・修身口授・書牘(しょとく)(書簡)解意・算術からなり、一〇歳以上の女子にはこの外に縫針の道を教える、本校は男女一四歳以上の者及び支校の学科を成業した者を入学させ、修身講義・文章・算術・洋学初歩・代数学・幾何学・地学・窮理学・史学・博物学・化学・生理学・経済学・史学・政治学の各大意を教えるとした。この本科には原書を用いる教科もあって小学校としては程度が高かった。ついで同規則では、小学校のない地域は近傍の支校本校に学齢児童を入学させる、小学校のある土地は六歳~一三歳の男女を必ず支校に入学させる、不就学者の父兄はその理由を学区取締に届け出る、一四歳以上で故障のない者は本校へ入学させるなど就学について督励した。授業料については「入学ノ者ハ家産ニ応シ毎月相当ノ授業料を納メシム」として、上産六銭・中産四銭・下産二銭と規定、授業料を納めることができない者は父兄親族が学校に申し出て許可を受けるとした(資近代1 一〇二~一〇三)。
 小学校の学資金捻出方法については、小学規則に付随して、小学校所在地の積金・寄進金・毎戸集金・生徒授業料で保護の目的を立てること、士族は家禄四〇俵以上五〇銭、三〇俵以上二五銭、二五俵以下は一二銭ずつを毎年学校諸掌に納めることなどを指示した(資近代1 一〇三)。
 神山県では学費捻出を士族に依存しようとした。このため、明治五年一〇月士族に対し「勧学告諭」を発し、県内士族の状態を観察すると、学業も修めず、生計を営まず、「酒食耽酒(たんしゅ)シ放蕩懶惰(ほうとうらんだ)」をもって足れりとする者がいる、士族の名でもって若干の俸禄を受けながらその行為は平民の下にある状態で恥ずべきことである、願わくば今後は上朝廷の御主旨を奉体し、下は一身一家の計を思い独立自主の人となるよう考慮せよ、と士族の奮励興起を促し、翌一一月、俸禄に応じた規定の拠出を翌六年一月一八日から二八日までに第一・第二本校に上納するように命じた(資近代1 一〇四~一〇五)。さらに学区取締を通じて、各地の富農や商人に懇請したところ、数十人の有志が一〇〇円以上の私費を献金したので、これに新谷旧藩主加藤泰令の寄付金五〇〇円、大阪府の商人井上市兵衛の一、〇〇〇円を加えて士族拠金と組物と称する積金に合わせた。これを資金にして、同県は、愛媛県に引き渡すまでに二八校の小学校を設けた。県当局としては予想以上の寄付金が集まったので、同六年二月一五日に「学費寄附ノ告諭」を出して、このたび当県管内有志の四民早々に時世を知り各所に学校を設け教育の道を開こうとすることは真にその志神妙というべきであると褒め、ついで学問は人民に恩恵を与えるものであるから、人民のうち少しでも余裕のある者は酒肴(しゅこう)を倹約し、一枚の衣装を省いて学費に寄付せよと諭した(資近代1 一〇五~一〇六)。

 学校維持方法

 明治六年二月に誕生した愛媛県は学校設立維持にあたって旧県同様に苦しまねばならなかった。県は四月二五日に「学校保護ノ義ニ付諭達」を出して、政府が補助金を委託するのは専ら民力の十分でない所を助け、教育を普及させようとする主意であり、また有志が寄付をすることは「人間交際ノ道」に基づき協力して人民全体の利益を図ろうと欲しているためである、人民たるものは政府の至恩に報い有志の厚意に奮発して、学校保護のため貧富に応じた毎戸出金の法を設け、篤(とく)と諭言三則の旨を了解し、無益の費用を省き、当然の用を達するようにせよと告諭した。「諭言三則」とは、従来遍路巡礼に米金財物を恵んでいた習慣を廃して教育費用に支弁すること、たばこなどの冗費を節約して学費に充てること、雛(ひな)・幟(のぼり)など五節句のための無益の所為に消費する類を廃してその幾分かを学校に納めることを説いていた(資近代1 二〇八~二〇九)。
 このように県は県民に対し出金の方法を立てるよう告諭したものの、疲弊困窮し教育の必要性を認識していない一般人民から多額の学費を得ることの難しさから、富農商層や士族に依頼しなければならなかった。先の諭達と同じ月の四月二〇日、県は学区取締に土地の有力者・名望家の取り調べを命じ、一一月七日には正副区戸長に対し、いまだに自立の方法が立っていない学校は有志や富豪に寄付を募集し、すみやかに学校の自立に保護を加えるよう力を尽くすべしと布達して、学校の保護は富豪に頼るよう指示した。また士族に対しては旧神山県が家禄に応じて学費を賦課していた方法を九月には旧石鐡県貫属士族にも適用して、俸米一石に付き毎年二銭五厘を負担させることにした(資近代1 二〇九~二一一)。松山の第七小学校(後の勝山学校)などはこの士族集金と生徒授業料で維持された。この七番学校以外の松山市街の小学校、つまり第八番(後の巽)・第九番(後の智環)・第十番(後の啓蒙)・第十一番(後の清水)・第十二番(後の開通)の各学校の維持については木村庸・仲田傳之□(長に公)・藤岡勘左衛門・堀内胖治郎・粟田與三の五豪商がそれぞれ一校ずつ引き受けた。
 農村の学校設立維持は富農に頼らねばならなかった。第二一大区一小区喜多郡内ノ子村は、同村の富農河村源四郎・二宮在衛・芳我(はが)弥三衛らが各五〇円、重岡嘉平が三〇円、芳我弥衛美・高橋重修・久保清渡らが各二五円を拠金、他は一般村民から貧富の度合いに応じて二〇円~三円を課して七〇円余の寄付を集め、その上に旧藩主加藤泰秋から三〇〇円の御下金を受けて学校設立願を明治六年九月に提出した。内ノ子村は富農をはじめとする村民の協力で学校が円滑に設立された例であるが、経済的に余裕のない地域では村民の協力を得るのは容易でなかった。第二三大区三小区宇和郡三崎浦は、戸長・副戸長の奔走にもかかわらず富者・有志の者からは八〇円ほどの拠金しか得られず、苦肉の策として三崎の岬官山一帯を払い下げた売却金で学校設立を図ろうと県に伺ったが認可されず、明治七年四月に至って海藻売上益金の積み立てと一戸五厘あての賦課金でようやく学校を設けた。
 「僻地の人心古を慕ひ新を疑ふの情、絶ず説諭上よく感伏する如くに候共、実際何分相運び兼ね恐縮至極に御座候」と同浦の正副戸長は学校設立の遅延を弁解しているが、これが当時の農山村における一般的な現象であった。このため、旧石鐡県から四一、旧神山県から二八の学校を引き継いだ愛媛県は、明治六年一二月までにわずか八校しか新規の学校を開校することができなかった。
 学校造りが進まないことを憂慮した県当局は、明治七年二月一九日付で、独り士族のみに毎戸集金する方法は行いがたい事情もあるので、各区長・戸長・学区取締は熟議して、四民一般協力同心して学校保護方法の見込みを立てるよう布達した。また三月一四日には、地方により目下学区ごとに建校の運び整えがたい情実もあるので、当分のうち数区を連合して一学校を設け、子弟の往還不便な場所には合校を設け、本校教員が時々出張して生徒を誘導し、または家塾をもって仮に学校に代えるなど便宜に任せると指令して、学校設立維持につき柔軟な姿勢を示した(資近代1 二一二~二一三)。
 これを受けて、二大区(新居郡)・四大区(越智郡)・一六大区(温泉郡和気郡久米郡風早郡浮穴郡伊予郡の内)などは住民に賦課する学費積み立て方法を採用した。このうち、一六大区では戸数割二歩・旧高割四歩・物成割四歩の率で住民に賦課、この課金を地元学校に還元して計六〇校の設立維持策を計画している。また南予の宇和郡では無役地と称する旧組頭・横目の家督田畑や村の共有山林を売り払って学校設立資金に充て、その余剰を積金として富豪や町村役場に預け、その利子で学校を経営する方法がとられた。例えば宇和郡藤江浦(現宇和島市内)は、無役地を売却してその代金四一二円のうち校舎造営料二〇円などを引いた残金三一七円を積金とし利息三八円四銭で教員給料と書籍器械営繕を賄っている。また菊川村(現南宇和郡御荘町内)では、一か年の学校費三四円八〇銭を旧藩時代以来の積金利子一〇円と無役地売却代金の利子二四円八〇銭で支弁しようとしていた。宇和郡卯之町開明学校には富豪・町役場との間に取り交わされた「校債金銭預り簿」が残っている。
 「明治七年愛媛県学事年報」によると、小学校学費は二九万余円であるが、その財源は寄付金・学区内集金・諸入金・積金利子が七七%を占め、中でも不動産売り上げなどによる諸入金や名望家の寄付金の比率が高い。

 学校数の増加

 本県では、寄付金・学区内集金・諸入金に依存することによって、明治八年には五六五校の小学校を設けることができた。この年は岩村権令の創意によって町村会が開かれ、「学校ヲ設立廃止シ及ヒ其資金ヲ弁給スル等必ス民撰議会ニ付シテ之ヲ決セシム」(明治十年 愛媛県学事年報)ことになったので、学校数は急速に伸びたのであった。明治九年七月に県内学校の景況を視察した文部省の中督学野村素介は、「公私立小学既ニ六百八十余ノ多キニ及ヘリ、年数ヲ経スシテ校数ノ多キ此ニ至ル者ハ勧誘ノ功ニ因ル」(第五大学区巡視功程)と県当局と町村学事関係者の努力を評価した。
 ところで、明治八年には文部省の指示によって各府県とも公立小学校一覧を提出し、それが文部省第三年報に収録されている。この表により校名・設立年・校舎・教員数が判明する。学校数五六五校(うち分校一四〇)を郡別に設立年の順序で配列すると表1―96のようになり、大部分は明治七、八年に設立されていることが知られる。また校舎を分類すると表1―97のようになり、新築すなわち本来校舎として建てられたものは極めて少なく、多くは民家または寺院を公有にするか借用して校舎に代用している。
 校名については、学制頒布当時に設立された学校は番号で呼称されていた。文部省は明治六年四月に番号を廃して地名・人名などにちなんだ校名を付けるよう指示したので、愛媛県当局は同七年八月五日に「各区内小学校名称の儀何番学校の名目相廃し、更に校名相設地名人名等を用いるも妨なし本月三十日限取調届出へし」と布達した。喜多郡新谷町では戸長と教員が協議して八月二六日に「令教校但旧君御名ノ一字ヲ冠セシム」と校名届を学区取締に提出した。明治八年の小学校一覧を見ると、大部分の校名は、地名を付けたもの(泉川、浅海、北條、湯山、久万、三机、岩松、平城など)、その土地の象徴となるべき山川や城の名称をとったもの(城山、勝山、高縄、神山、肱南、鶴島など)、漢籍から啓蒙的な熟語を借りたもの(啓蒙、開知、開明、修道、立身、啓己、知新、智環、智成、光明、協和、明道、明誠など)の三種類のうちのどれかに該当する。なかでも儒教的校名が最も多く、新居郡西条町と東宇和郡卯之町で「開明」を使用しているのをはじめ「日新」「勧善」「啓蒙」などを数校が採用している。
 教員生徒数をみると、旧藩校を引き継いだ学校を例外として、大部分の学校は教員一人・生徒一〇〇人未満であり、そのうち生徒六〇人以下の学校は全体の約七割を占めており、近代的な学校とは名ばかりで寺子屋と大差ない規模であった。(明治八年と同一〇年の小学校一覧表は、『愛媛県教育史』第一巻三三~三八五ページと『愛媛県史』 資料編近代1 五七五~六〇五ぺージにそれぞれ掲載している。)

 教員の任用

 学制では、教員資格を年齢二〇歳以上で師範学校卒業免状を持つ男女と規定していた。しかし愛媛県に師範学校が創立されるのは明治九年であり、その卒業生が教職につくのは明治一〇年代であったから、小学校の設立当時は士族・旧村役人・僧侶・神官あるいは寺子屋の師匠を教員に任用する臨時的な措置がとられた。明治六年一一月愛媛県が文部省に提出した七七小学校の設立届から、教員の族籍を郡別に表示すると表1―98のようになり、士族出身の教員が圧倒的に多い。
 学制期には教員の呼称も数回改められた。石鐡県では一等~四等教授、神山県では大・中・小助教などと呼称していたが、愛媛県になって明治六年七月に一等~五等教官に統一され、同八年八月四日に一等~四等訓導(月給一五円~八円)と一等~五等授業生(月給七円~三円)及び試補(月給二円)に分けた。訓導には師範学校卒業免状所有者または子弟教育上特別に功労ある者が任命された(資近代1 三五一)。教員の任免進退や月給額は、明治九年一一月一八日の「小学校教員取扱規則」で学区取締が区戸長と協議して決定し県に具状するよう指示された(資近代1 五五五)。教員の職務については、明治九年二月一九日の「小学訓導及授業生事務仮章程」で、教員は「教則ヲ循守シテ生徒ヲ誘掖(ゆうえき)勧励シ及ヒ生徒ノ徳性品行ヲ良善ニスル事」を第一の義務とし、校則を執行しその細則を選定する生徒の入学退学転学を許可する、生徒に試験を執行し卒業証書を付与する、書籍器機を管理する、毎日の生徒登校を取り調べ学区取締に報告する、重要な事は学区取締と協議するなどとした(資近代1 三五五~三五六)。
 学制期は教員養成機関を整えないままに教員を速成したので、新しい教授法を会得している者はほとんどなく、教育者としての信念や学校に対する愛着も薄かった。宇和郡卯之町の開明学校は教員数二~四名のところ五年間で一六名も転免していて、教員定着度の低さを示していた。また教員の多くは「読書算術習字等学科を練達せしむれば足る」と考えていたと、後に松山外側尋常小学校・松山高等小学校の校長などを歴任する井手正光が手記『逐年随録』で述べている。県学務課も、『明治十三年県政事務引継書』の中で、師範学校卒業生が少ないことと月給二、三円という薄給のために「教員恰当(かうとう)ノ人物ヲ得難ク、動(やや)モスレハ教育ノ価値ヲ人民ニ賤視セラレ、寧(むし)ロ旧寺子屋ニ如カスト謂(い)ハシムルニ至ルコトアリ」と嘆いている。

 派駐訓導聯区監視

 派駐訓導は大区に設けられていた伝習所の訓導が、明治九年九月以後「各校ノ体裁及ヒ教授方ノ可否ヲ監視スル」ために各大区に派駐するようになった巡回教育指導者で、同一〇年三月二六日の「派駐訓導心得」でその職務内容が具体的になった(資近代1 五六〇~五六一)。
 「明治九年教育例規」(愛媛県立図書館蔵)の中に第一四大区(浮穴郡の内久万町)派駐訓導武市義道の明治九年一〇月二二日~三〇日の九日間にわたる「巡回日誌」が綴られているので、派駐訓導の活動の一端をたどってみよう。二二日午前八時久万町を発し正午二名村恒久学校についた武市は、教師の要請で生徒を授業すると学力進歩の者が見られたから仮試験をすると下級八級生の六級までに進級できる者七名もいた。そこで武市は、卒業試験を速やかに実施するよう学校に勧奨した。また学区世話掛二名が出頭したので学事の盛衰を説諭し生徒の出席が少ないとして父兄を懇説督責するよう注意した。二三日臼杵村日新校を訪問、同校は学齢者一三四名中入校者五三名であるが、七月以来出席者は七名に過ぎずこの日の生徒は三名である。下等八級を卒業する者は一人もなく、備品は掛図と机椅子などは備わっているけれども教師用の書籍もない状態であった。武市は最近交代したばかりの教師に授業方法を教授し、世話掛二名を招集して学事不振を説諭した。以後、武市は二四日父野川村父川校、二五日露峯校、二六日大川校に赴き、同校の新任教師のために翌二七日授業をし、二八日午前中教員の授業を参観指導した。二九日有枝村剛明校、三〇日野尻村久万分校でその月の小試験に臨んだ。
 一八大区(宇和郡の内)派駐訓導村上純祥は、管内小学校教員の授業を評定して、「野田村野田校教員算術読書ニ拙ナリ、授業ハ下ノ上、西山田村山田校教員、読書講義ニ得テ筆算ニ失フ、授業甚観ニ堪ヘス、高山浦ノ浜校教員、授業ハ下ノ下、教授ノ雛形ヲ為スニ過キス」といった「公立小学校巡察申報」を明治一一年六月に県に報告した。
 派駐訓導の補助的役割を果たすために優良教員が選任されて小学校授業の視察に当たったのが聯区監視であった。聯区監視は明治九年九月に「聯区監視規則」「聯区監視ヲ置ク心得」によって設けられ、同一〇年三月二六日「聯区監視心得」でその職務内容が明確になった(資近代1 五四二・五六一~五六二)。この聯区監視設置の単位として、各大区では学区取締と派駐訓導が協議して五校前後の学校区を組み合わせて聯区を設け、県に届け出た。

 就学督励と学区世話掛

 学制時代の最大の悩みは、学齢児童(六歳~一四歳)の就学状況の低さにあった。明治六~一一年の就学率を全国と比較して挙げると表1―99のようになる。県内児童の就学率はいずれの年も男女ともに全国平均に達していない。しかし愛媛県だけに限ってみると明治八年から急速に就学が伸びている。これは同八年に学校数が大きく増加したことにもよるが、岩村権令の勧学策の成果でもあった。
 岩村は、明治八年五月一五日「学事告諭」を発し、「人々其好メル所ノ貴ク賢カランコトヲ欲セハ、子弟ヲシテ人民普通ノ学問タル小学ノ課業ヲ出精セシメサルヘカラス、子弟ノ学問ナクシテ愚カナルハ独リ其子弟ノ恥ノミナラス則チ其父兄ノ恥ハイフモサラナリ」と父兄に子弟の就学を勧めた。この告諭と同時に権令は区戸長・学区取締に対して、そもそも我が国の富強は人民の知識と品行によるのであって、人民の知識の高さと品行の方正は人民が学問をすることに原因しているのであるから、精々厚く説諭を加えて教育急務なるの朝旨を速やかに貫徹するよう各自努力しなければならないと督励した(資近代1 三四八~三四九)。権令は、翌九年からは前年度の大区別就学状況を明らかにして、願わくばますます勉励奮発各区が競争して学事を拡張し村に不学の民なく家に不教の子弟のないようにすることを期待し、今後更に一層相競って力を学事に尽くし、すでに上進したものはますますこれを盛んにし衰退したものは努めて挽回し、誓って子女の幸福を図るようにせよと希望して、関係者の競争心を喚起した(資近代1 三五七~三六〇・五六七~五七〇)。
 このように権令告諭の形で就学を呼びかけるかたわら、就学促進の具体策が練られた。県は明治九年二月、県内の学区取締と小学訓導の代表者を招集して第一回学務集会を開いたが、その主な討論議題は学齢児童の就学督促方法であった。この集会では、学区取締があらかじめ学齢名簿を作成しておき、二季ごとにその名簿を各校に照会して不就学の者を検出した後、戸長役場に託して不就学の理由をただし、病気あるいはやむを得ない情実のある者は戸長の保証書を付けて学区取締に届け出させ、それ以外の者は戸長と協力して厚く説諭督責を加えて必ず就学させるようにする、学齢が終わらない内に退学を乞う者には学校と戸長役場でその理由をただし、やむを得ない者は学区取締に届け出るがその他は許可してはならないなどを決議した。この就学督促方法の決議は、三月五日他の教育普及方法の条項とともに各区々長・学区取締に布達された(資近代1 三五六~三五七)。
 ついで県は、明治一〇年三月三一日に「学齢調査規則」を定め、学齢児童の調査は学区取締・区戸長が担当、毎年一月学齢名簿を作製し、不就学者については事故の有無を付記する、不就学者の就学勧誘には学区取締・区戸長・学区世話掛が協力して当たるなどとした。学区世話掛とは、明治九年一二月一日の「学区世話掛取扱規則」によると、各町村の名望家が任用され、同一〇年四月二四日の「学区世話掛心得」で、「常ニ学校維持ノ方法ヲ立ルト子弟ノ就学ヲ勧誘スルトヲ以テ自ラ任」ずるなど、その職責が明確にされた(資近代1 五五六~五五七)。富商農層から資金面で学校設立維持の援助を受けるためその代表者である名望家を学校世話掛に委嘱する方法は石鐡・神山県時代からすでにあったが、愛媛県ではこれを公的な役職にして、学校維持だけでなく就学勧誘にも町村名望家の協力を得ようとしたのであった。
 こうした就学督励や授業料減免などの処置で就学率は年を追うごとに向上した。しかし全国平均には及ばなかった。県学務課は「明治十年愛媛県学事年報」で、学制の頒布が始まって以来六年が経過したが、教育の普及に着手することを怠るようなことがなかったにもかかわらず、人智がいまだに開化せず、また人民の俗習をもいまだに破れないこと、地租改正の事業が興るに及んで学資を節減するのによい口実を与えていること、最近では旱魃(かんばつ)による被害を直接の理由にしたり、間接的には西南の役による変動が教育の進歩を妨害したと分析している。ついで「明治十一年愛媛県学事年報」で、「普通小学ノ教科タル亦旧来ノ慣行ニ異ナルヲ以テ、人民ノ公立小学ヲ視ル猶幾分カ憚(はばか)ルヘク厭(いと)フヘキノ情ヲ有シ」ていること、つまり小学教科が寺子屋流に比べて違和感があることが進級試験の厳しさなどと相まって不就学区を多くしている原因としている。

 小学校規則の制定と改変

 明治六年一一月に愛媛県が文部省に提出した七七校の設立届には、教則は文部省が明治五年九月に定めた「小学教則」に従うとしている。しかし松山の啓蒙学校(現味酒小学校)に奉職していた檜垣伸(後、上浮穴郡長)が、「学制には麗々しく修身や唱歌などの教科目を設けてあったが、地方の教員などは唱歌とはどんな学科かてんで見当が付かず、唱歌は全然これを除き、修身なども教科書が無いので一週二回位の口授で済ましたものである、主要の学科は、読書、算術、習字で、読書の教科書としては下級には″単語篇″上級には″世界国尽し″を用い、算術は洋算を主とし商家の子弟などには和算をも併せ教えた、習字は片仮名・平仮名から始めて変体仮名から名頭(ながしら)へと漸次程度を高めて行ったことは昔の寺子屋その儘(まま)である」と学制頒布当時の授業の様子を述懐しているように、実態は寺子屋時代の教育とさほど変わらなかった。文部省の小学教則とは別に明治六年五月には東京師範学校が「小学教則」を定めた。この教則は従来寺子屋で発展してきた読・書・算の三教科構成の伝統を重んじながら問答として修身・歴史・地理・理科を加えるなど近代的学科課程への中間段階をなす学科の組み立てをしていたので、これを採用する府県が多かった。愛媛県でも、第六大区学区取締内藤素行が、東京師範学校編小学校教則を区内一、二の小学校で採用、実施させた結果、教授方法が適切で生徒に益するところが多く、村落の学校にも通用すると考えられるので、八年一月から区内四一校で使用したいとの伺いを認め、県内他区にもこれを小学教則の基準として普及させる方針をとった。
 明治六年一一月一五日愛媛県は「校則及生徒心得」を定め、入退学の手続や「午前八時出席、午後三時退散ノ事」「威儀ヲ整へ動止ヲ慎ミ総テ非礼ノ所業コレアルマシキ事」「出入ノ節教師ハ勿論同生ヘモ会釈致スヘキ事」など生徒心得六項を示した(資近代1 二一二)。県内小学校の中には、この本則・生徒心得と東京師範学校編小学教則を中心に小学校規則を作成して、県に届け出認可を求めた。例えば、派駐訓導兼一等訓導武市義道が選定した浮穴郡「久万学校規則」は、「夫レ此校ハ学齢ノ子女ニ普通ノ小学科ヲ教ヘ、従来人ト成ルノ後自己ノ自由ヲ得、民人ノ通義ヲ尽サシムルノ目的ナルガ故ニ、生徒タル者慎テ校則ヲ守リ、学業ヲ励ミ言行ヲ正シ、年少ナルヲ以テ苟モ自ラ軽忽(けいこつ)ニスル勿レ」と小学教育の目的を説き、以下入学規則・教則・試業規則・試業法・通則・生徒禁条・雑則などに分けて、学校の諸規則を定めていた。
 各小学校で校則が制定されるようになると教則などで統一を欠く点も少なくなかったので、県学務課は愛媛県師範学校長松本英忠に依頼して明治九年一〇月二日「愛媛県小学校規則」を公布した。同規則は、第一章通則・第二章試業規則・第三章入学規則・第四章生徒心得・第五章罰則と教則からなっている。
 通則は、まず「小学校ハ学齢子女ヲシテ普通学科ヲ学ハシメ、成人ノ後通義ヲ尽シ自由ヲ得セシムル目的ナルカ故ニ、生徒タル者学業ヲ励ミ言行ヲ正シ務メテ善良ノ性質ヲ養成スヘキ事」と小学校の目的を挙げ、ついで学科を上・下等小学の二等に区別すること、上・下等小学は各八級に分けて毎級六か月の課程とし、毎週三〇時間の修業とするなどを記している。また、入学規則は入学を毎年二度とし、授業料を一か月五銭とするとしている。生徒心得には入校の生徒は何事によらず教師の指示に従うべきである、朋友の交わりは互いに親切を旨とすべきである、登校時刻は課業開始の一〇分前であること、登校退校の途中で道草をしてはならない、喧嘩口論雑談落書などをしてはならない、課業中みだりに席を離れてはならないことなどが記されている。罰則は遅刻者に一〇分間の遊歩禁止、喧嘩口論した者に教場掃除、教師の戒諭を聞かない者に三日以上の教場掃除をさせるなどを内容とし、教則は各教科等級別の課業内容と教材・教科書などを示していた(資近代1 五四三~五五二)。教則によると、当時の児童は初歩で『伊呂波図』『単語図』『連語図』『数字図』などの掛図によって読本・問答・書取・算術などを学び、ついで『小学読本』などの教科書を使用した。
 愛媛県小学校規則の制定によって県内小学校教育は制度面でようやく整備された。しかし都市・村落を問わず同一教則を適用したことは、地域によって学業進歩の格差を大きくした。学力差を是正するため、県第五課(学務課)は普通一般に行う甲種の外に村落用の乙種教則を作成、明治一一年一月の学務集会の審議を経て三月一一日に県内に布達した(資近代1 七六四~七六九)。乙種教則では村落の実情に合わせて読法・問答・習字などの学科程度を下げ、算術では珠算を重視した。この甲乙種下等小学教則の選定について、県では大区の学区取締・派駐訓導と区戸長とが学校その他の事情を考慮して、どちらか適当と思われる教則の採用伺いを県に提出するよう指示した。採用教則は簡易例外教則のはずの乙種の方が多く、六大区(宇摩郡)は三九校とも乙種、一三大区(和気郡温泉郡久米郡風早伊予浮穴郡の内)でも松山市街の勝山・巽・智環・開通・啓蒙・清水と道後湯月・三津浜西州の八小学校以外の九一校は乙種を採用している。甲乙種教則の外、県は六月に年間就学の困難な子女のため丙種教則を設けた(資近代1 七七六~七七八)。
 地方長官の創意による「村落教則」や「簡易教則」を設定する試みは多くの県で見られたが、本県の場合、岩村県令の「教育ヲ隆盛ニスルノ要ハ先ツ人民ヲシテ親ク教育ノ利害得失ヲ知テ其方向ヲ誤ラス、更ニ自ラ奮起競進セシムルニ在リ」との信念で、教育諸般のことはなるべく人民の自主的に任せ、ことに教則は各地で異同あることを許容する(明治十一年 愛媛県学事年報)といった方針に基づいていた。こうした教育の地方改革が、政府・文部省をして「学制」を廃し地方分権的な自由主義「教育令」を公布する原動力となった。

表1-94 明治六年二月時の石鐵県内小学校名と設置場所

表1-94 明治六年二月時の石鐵県内小学校名と設置場所


表1-95 石鐵県各大区教則のうち下等八級比較表

表1-95 石鐵県各大区教則のうち下等八級比較表


表1-96 明治8年時の郡別小学校数

表1-96 明治8年時の郡別小学校数


表1-97 明治8年時の校舎種別小学校数

表1-97 明治8年時の校舎種別小学校数


表1-98 明治6年11月時の愛媛県内小学校教員族籍

表1-98 明治6年11月時の愛媛県内小学校教員族籍


表1-99 明治6~11年度小学校の就学率

表1-99 明治6~11年度小学校の就学率