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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 郡町村の編成

 郡区町村編制法

 明治一一年七月、「郡区町村編制法」「府県会規則」「府県会規則」のいわゆる地方三新法が制定された。地租改正をはじめとする性急な中央集権政策の厳しさと大区小区制という官治的地方行政制度が住民の抵抗を招いたのに苦慮した政府は、住民の地方政治への参加を部分的に許し、伝統的な郡と町村を行政区に復活して三新法を発布したのである。三新法は、内務卿大久保利通が政府部内の意見と岩村高俊ら開明的地方長官が実験していた地方民会や市長公選制などの効果を参酌しながら着想した法案を、地方官会議と元老院会議の審議を経て公布した。
 三新法の基軸となった「郡区町村編制法」は全文六か条であった。郡については、区域名称は旧によるとしたものの、区域が広く施政に不便なものは分割が認められ、資力が乏しく将来財政負担に堪えられない郡には合併措置がとられたり、連合して一役所を置くことが配慮された。町村については、政府委員が地方官会議の法案説明の中で「旧慣ニヨルニ町村ハ実ニ一ノ形体ヲナシ、大ナルモ之ヲ削ルベカラズ、小ナルモ之ヲ併スベカラズ」と述べているように、その区域名称はすべて旧によることとなり、原則として町村合併を禁じた。郡には郡長、町村には戸長が置かれた。

 郡町村の編成と初代郡長

 愛媛県は、「郡区町村編制法」発布後三か月の準備を経て、明治一一年一二月一六日に「郡町村編制並郡役所位置」を布達し、三〇郡(讃岐国一二郡・伊予国一八郡)に二一郡役所を設置した。伊予国のうち他の郡に比べ広域であった浮穴郡と宇和郡は、それぞれ上・下浮穴郡、東・西・南・北宇和郡に分割した。初代郡長は、翌一七日に発令された(資近代1 六六六~六六九)。なお、県当局は九月五日付で浮穴郡と宇和郡の分割について「伊予国浮穴郡ヲ二分シ上下浮穴郡トシ、同国宇和郡ヲ四分シ南上下北上下宇和郡卜称シ」と内務省に伺い出ており、この段階では東西南北宇和郡の呼称は用いていない。
 町村の編成は各郡長赴任後実地を調査させ、小村は適宜組み合わせて戸長役場を置くことにしていた。したがって明治一一年一二月の「郡町村編制並郡役所位置」では町村組合を公表せず、分割した上下浮穴郡と東西南北宇和郡に所属する町村名を示すにとどめた。町村の編成が遅れた理由につき、明治一三年の「県政事務引継書」は郡町村編成に際し判然としない町村名を正し、すでに分離独立している数村を合わせて一村とし、財産を共有して利害を同じくする一村を強いて二村とするなど種々の差し支えがあったと弁解している。これらの調整を終えて、明治一三年五月四日に「愛媛県郡町村名称及組合」が布達され、町村名称と組み合わせを確定した(資近代2 一~七)。
 初代郡長と「明治十二年統計概表」により郡町村編成の内容を表示すると表1―10のようになる。郡役所位置のうち周布桑村郡の郡役所は設置当時は周布郡丹原村に置かれたが、明治一二年一月七日周布郡新屋敷村(現小松町)に変更された。新しい郡役所位置は旧小松藩の城下町という配慮があったのであろうが、郡内では東辺にあるため両郡の中枢に位置する丹原村への復帰を要望する声が強まり、周布郡西部(現丹原町)・桑村郡(現東予市)の戸長や人民惣代連署になる嘆願書がしばしば県令に提出されたけれども聞き届けられなかった。
 二一人の初代郡長のうち、松本・福家・石原(信樹)・小林・都築・物部は明治維新期各藩庁の役職を務め、特設県会議員に選ばれ優れた識見で県会を主導した人々であった。長屋は松山藩参事などを務めた人望家で当時民権結社「公共社」を組織してその代表者であった。陶は山下らと図って民権結社の先駆「集義社」を結成して政治運動に従事したこともあったが、この時期には岩村に懇請されて山下と共に警部に任じられていた。菊池も警部、大関・秋山は県官、告森・檜垣は小学校教員を経て愛媛県師範学校の校長補と同校監事に在職した。石原(信文)は藩校教授で三大区の区長と学区取締を兼務して当時警部、和田と長尾も藩校の教官であって九大区と一八大区の学区取締として活躍した。なお伊予郡長の山下氏潜は明治一二年三月一九日に退職、郡書記の代行と上浮穴郡長檜垣伸の兼任がしばらく続いた後、同一二年一〇月二五日下井小太郎が後任郡長になった。下井は旧大洲藩士族の家に生まれ、明治四年慶応義塾を卒業した新進気鋭の官吏であった。
 「郡区町村編制法」の意図は、郡・町村の支配機構を強化することにあった。このため、「府県官職制」で、郡長に八等相当の地方官吏としての地位を与え、府県本籍の人物を任じ俸給は地方税から支出するとした。郡長の職務は、法律命令を郡内に施行する担任事項と法律命令などにより委任あるいは府知事・県令から特に分任を受ける委任事項とがあった。委任事項のうち法律命令などによって委任される条件は、徴兵取調・徴税及び地方税の徴収・財産取扱・逃亡死亡絶家の財産処分など一〇項目が府県官職制で明示された。愛媛県は、明治一一年一二月一六日にこれを「郡長委任条款」で伝達、県令からの分任条件は「郡長委任条目」で定規経費の支出・災害救助・家督相続の聴許など四一か条を示達した。さらに同日「郡長職務心得」で、「郡内ノ安寧ヲ計リ風俗ヲ敦シ学ヲ勧メ業ヲ興ス」などのことは専ら郡長の任務であるので、深く前途に着目して常に注意すべきことを要務とすること、人民が提出する諸願伺の文例が定規に背き、趣旨不分明のものはこれを改めさせることができるが、これをむやみに擯斥(ひんせき)してはならないなどの心得を示した(資近代1 六六九~六七五)。
 こうして大区小区の時代、県庁で処理されていた住民対象の行政事務の多くが郡長の権限に所属、郡役所は県庁の地方事務所としての役割を担うことになった。岩村県令は県政と県民の接点にある郡長の職責を重視し、県会で活躍した地域の代表者、政治運動に携わる活動家、住民と接触してその動向を監察する警部、藩校教官、学区取締などの知識人から人材を求めて、名望家郡長による郡政の振興と施政の円滑を期待した。選ばれた郡長はいずれも士族身分であるところに共通性があり、第二回地方官会議で士族の府県会における被選挙権を擁護して「道路水利物産等ノ利益ヲ判(わか)ツニモ智識ガ入用ナレバ、智識ヲ求ムルニハ百姓ヨリハ士族ニ多カルベシ」と演説した岩村県令の士族登用の信念がここでも発揮された。

 郡政の振興

 岩村県令から郡長就任を要請された長屋忠明は、公共社の同志井手正光・中島勝載に相談、「郡政革新の時に際して偶(たまたま)県令岩村君は吾々同志の主張を賛し、吾人に嘱するに郡治の事を以てす、吾人同志が所信の主義を直接施政の上に実行すべき好機会なりと信ず、幸に社友に於ては此意を以て吾人を助けらるゝあらば幸甚なり、而て兄等は亦予と共に郡治に参し尽力せられんことを希望す」(井手正光『逐年随録』)と依頼した。井手・中島ともに長屋の郡長就任に賛成し配下の郡書記になって長屋を助けることになった。長屋忠明を郡長とする野間風早郡役所は、庶務科戸籍部木村利武、学務衛生勧業科中島勝載、租税科収税部大森盛直、租税科出納部井手正光・森糾が幹部職員を構成した。
 長屋郡長は、年二回定期的に戸長会議を開催して、行政全般について協議することにした。明治一二年一二月の秋季戸長会議では、教育振興のため同一三年以降の学費弁給法を各村々で確定しておくこと、学資を蓄積するため有志の寄付を勧誘すること、毎年一月と七月に学齢名簿により不就学者を取り調べ父兄に就学を督促すること、貧民子女には書籍校具を貸与し筆墨や紙などを支給して就学の便を図ることなど、学務事項の申し合わせをした。
 教育の振興を重要施策とする郡長は井手正光を学務専任書記に任じた。井手は、明治九年時巽(たつみ)小学校に奉職しており後に松山外側(とがわ)尋常小学校・松山高等小学校の校長に就任するなどの教育通であったから、次々に教育施策をすすめた。自由教育令と岩村の郡長重視方針により小学校の教則・校則は郡役所で編制施行することが指示されると、明治一二年九月一九日に「野間風早郡小学校規則」を定めて、従前の愛媛県小学校規則を踏襲しながらも郡独自の小学校教則、上等小学校教則、下等小学校教則を定めた。また、教員に授業法と教科研究の機会を持たせるために同一二年一〇月一五日「教員研究会規則」を告示、同月三〇日には「小学教員会則」を定めて各校の事情を陳述連絡して教育の実益をあげようと毎年春秋二回の教員集会を開催することにした。
 教育研究会は、風早郡北条校・野間郡大井校・風早郡島方の三か所に研究場を設け、月に一回(風早郡毎月第一日曜、野間郡第二日曜、島方第三日曜)聯(れん)区監視を指導者として五時間相当の研究が続けられた。教員集会を例示すると、明治一二年一二月八日から一四日まで北条村法然寺で秋季集会が開かれ、六八人の教員が参加した。集会では、現在施行している教則の当否、普通教育の不可欠の理由を人民に熟知させる方法、教育の普及を図るために今後必要な事項、男女教育方法区別の事、学事通報手続の事、裁縫所規則の事などを協議した。その結果、普通教育の必要性を認識させる方法として、教員は(1)戸長・学区世話掛その他村内の有力者としばしば教育の事情について話し合って戸長らの関心を喚起する、(2)毎月一度村民婦女の参集を求め教育の重要性について説明し就学勧誘を図る、(3)時には筆算競技会を開いたり、生徒をして村役場の諸算用や記録の仕事に従事させて、村民に就学生徒の優秀さを認識させる、(4)諸規則を実践して教員の職分と義務を尽くし、風土人情に応じて民心を啓発させるなどの事項を決議した。こうした長屋郡長管轄下での郡内教育の活況を伝える資料は、「明治十二年郡役所達書綴込 風早郡大浦村役場」(温泉郡中島諸島開発センター蔵)の中に収録されている。
 後に鳥取・千葉県知事に昇進する東宇和郡長告森良は、明治一二年九月に「戸長職務心得並会議規則」を定めた。この中で、戸長は官民両属の性質を有するものであって「或ハ行政吏員トナリテ上旨ヲ庶民ニ通シ或ハ町村ノ理事者トナリテ下旨ヲ官府ニ達スルノ任ヲ負担スルモノ」であるから、常に深く心を用い上下の調和を計り官民の間を疏通して治政が停滞するような弊害がないようにする、戸長はその町村内の安寧を図ることは勿論、学校の振興・職業の励行、風俗の改善など専ら町村民の幸福利益を増進することに意を注ぐことを要すと、行政官吏と町村理事者との両面性格を活用しての戸長の勉励を促した。東宇和郡では、これら戸長の行政上の便益と人民の安寧福祉を協議するため郡戸長会議を三月と九月に開催することにした。また各町村の事情を報告し知識を交換して事務上の便を図ることを目的とした戸長連合会をも、隔月に卯之町と野村を集会所として開くことを決めた。但し、この郡戸長会と戸長連合会は、費用を増加し他郡役所への影響もあるので「目下詮議ニ及ビ難シ」との県の難色で実施されたかどうかは疑わしい。なお、県は毎年二回郡長会を開催して、事務の順序を協議させ各郡の事情について情報交換をさせている。

 町村行政の発足と戸長公選制

 郡役所発足以来明治一三年五月の「愛媛県郡町村名称及組合」を布達するまでに、郡内での小村組み合わせは対象の村々に内示されたようである。岩村県令離任に際しての「県政事務引継書」には、町村の編成は各郡長赴任後実地につき調査させて、小村は数町村連合して一、六三一町村に九〇五人の戸長を配置した、戸長は人民の公選で任用することにした、ところがその後になり連合の町村中往々不便を訴えて分合を乞うものがあり、これを認めると戸長を増員しなければならず、費用も関係するので、一二年度中はすでに地方税の費額決定後であるとの理由でこれを聴用しなかったとある。組み合わせを指定された村々は旧来の伝統村の自治への執着を断ち難い様子が推察される。
 風早郡忽那(くつな)七島のうち大浦村・小浜(おばま)村・神浦(こうのうら)村・粟井村・津和地村・二神村は一村単位に戸長役場が置かれたが、長師(ながし)村は宮野村と、宇和間村は熊田村と、吉木村は饒(にょう)村・畑里(はたり)村と、上怒和(かみぬわ)村は元怒和(もとぬわ)村と連合して町村行政単位とする案が示された。この中で、上怒和村は元怒和村との組み合わせを嫌って、明治一二年五月三一日付で総代二人が「組合村分離之儀ニ付願」を野間風早郡長長屋忠明に提出した。
 分村願は、昨年本県甲第一三九号達により上怒和元怒和両村を組み合わせ戸長一人を配置する御達があった、西村間の距離一里、ことに磯山を経過しなければ往来もできず台風の時は怒濤路上に打ち寄せ海水で隔てるをもって実に困難な場所柄であるので、上怒和村は元怒和村と離れ戸長を配置していただけるようお願いした、今般設置の町村組合は戸数反別地勢習慣などを斟酌(しんしゃく)して分画したので、たとえ往古から一村の場所であっても今度の場合は一村に一員の戸長を置くことにはなっていない、しかしながら実地施行上やむを得ない不都合がある場合は町村組合協議をもって詳細事情を具状し追って願い出るよう指令があった、そこで前もって御達しの趣を遵守して戸長投票を行ったところ元怒和村の者が戸長に当選したので、元怒和村に戸長役場を置いて村政万端施行したけれども、地理不便利だけでなく万端差し支えがあり困難している、このため分離願の協議を元怒和村に申し入れたが、元怒和村は別に差し支えもないので協議が整わなかった、しかしながら前に申し上げた通り地理不便利につき何分このままでは治政事務が滞るので今般分離の上戸長を配置して下されたく図面を添えて願い奉りますといった内容であった。
 こうした組合村の分村願いは県当局の認めるところとはならなかった。「明治十三年県政事務引継書」には、先にあげた明治一二年度中は組合村の分村を認めない理由に続いて、やむを得ず分合するものは一三年度より改めるべき心積もりをもって各郡長に内諭したところ、分合を申請したものが八郡もあったので、本年県会に付して予算決定のうえこれを許容したい、と岩村県令は住民の分村願いに対応しようとする姿勢を示していた。しかし後任の関県令は分村を認めず、明治一一年一二月の郡町村編制で内定していた行政町村を就任早々の明治一三年五月四日に「愛媛県郡町村名称及組合」として布達した。この結果、県下一、六三一町村に九〇五(内伊予国五八○)の戸長役場が配置されることになった。
 行政町村が確定した明治一三年五月段階では、すでに新しい戸長は公選されていた。町村戸長の職務は、明治一一年の「府県官職制」で上意下達・徴税・徴兵・戸籍事務の四大職務を始めとする一三の概目が定められた。これにより戸長は国政事務が委任されて、「行政事務ニ従事スルト其町村ノ理事者タルト二様ノ性質ノ者」と定義され、その町村人民でなるべく公選させ、その方法などは地方適宜に定むべきことと指示された。愛媛県は、明治一一年一二月一六日に「町村戸長職務規則及職務概目」を定めて、戸長は該町村人民の公選で県令が任命する、戸長の俸給は他方税より支出しその額は県令が定める、戸長は郡長の監督を受けて行政事務に従事し町村共同の事務を弁理する、町村事務が挙がらないものがあれば戸長の責任であると、戸長公選・俸給支出方法・職責を明らかにした。ついで戸長職務の概目について、布告布達の掲示地租及び諸税の取りまとめ上納、戸籍編成、徴兵下調べ、地券台帳の作成、就学勧誘など「府県官職制」の列挙した一三項目をそのまま伝達した(資近代1 六七七~六七八)。同日、県当局は、従前の大小区長・戸長・大区書記・浦役人・組頭の廃止を布達した(資近代1 六六二~六六三)が、新しい町村戸長が置かれるまでは旧戸長組頭などが事務を取り扱うよう指示した。
 また同日、新戸長選任のために「町村戸長公撰規則」が定められた(資近代1 六七六~六七七)。同規則は満二五歳以上で町村内に不動産を所有する男子を戸長資格者、その町村内に居住して不動産を所有する満二〇歳以上の男子を選挙人とした。選挙は記名投票で、当選人は県会から辞令書を受けて正式に戸長に就任するが、県令が当選者を不適当と認めたときは改選を命ずる場合もあった。戸長公選規則が発布されると、選挙事務を施行する郡長からの伺いが相次いだ。そのほとんどは、戸長資格要件に「該町村内ニ於テ不動産ヲ所有スルモノニ限ル」とあるのみで、選挙人のように「該町村ニ居住スヘキモノ」という条件がないことへの疑義であった。
 明治一二年一月四日新居郡長和田義綱は、町村居住条件の明文がないから、甲乙両村で不動産を所有し人望ある同一人物が甲乙両村の戸長に選ばれた場合、郡長が両村のいずれかの戸長を指名すべきか、それとも本人の情願に任せるべきかと尋ね、県は「書面後項伺ノ通」すなわち本人の希望を重んずべしと指令した。翌五月越智郡長石原信樹は、戸長公選規則第一条によれば、被選挙人は他町村に居住しても該町村内に不動産を所有しておれば選挙してもよいかと問い、「書面伺ノ通」の指令を得た。また周布桑村郡長石原信文は、明治一一年一二月二八日付で(1)万一その村方に選挙すべき人物がない旨選挙者が申し立てた時は、被選挙者がその村内に不動産を所有しなくても、他村内に不動産を所有する他村人であっても選挙してよいか、(2)村内に選挙すべき人物がなく他村内にも見込みが立たないと申し出る時は郡役所が相当の人物を選ぶ以外に策がないであろうか、所轄郡内に適当な人物の見込みがない場合は他郡内から選挙具申してもよいか、(3)当選人が普通の読書筆算(読書は布達類を読み理解すること、筆は日常の文章を書くこと、算は乗除法を意味する)も出来ないと認められる時は郡役所で試験をして、万一差し支える者は人民にその旨を告げて次点の者を繰り上げ具申してもよいか、との三点を伺い出た。これに答える形で、県は明治一二年一月七日「町村戸長公撰取扱方」を布達、その町村選挙人が過半数で公選規則第一条に適する者がない旨申し立てる時は他の町村内で不動産を所有する者を選挙してもよい、その町村選挙人が過半数で適当な人物がいないとして郡長の選挙を乞うときは公選規則に照らして人選のうえ具申すること、当選人を監督官庁に報告する時は三名を選抜して等級をつけ、もし事故あればその内容を明記して差し出すこと、戸長の辞令書は県庁から郡役所に送付したものを本人に授けること、戸長転免死亡などの時は郡役所よりその旨を公示して直ちに公選を命ずることと郡長に指示した。
 県下の戸長選挙は、新居郡長和田義綱の伺いに「此節追々投票差出シ候」とあるように明治一二年一、二月ごろに施行された所が多く、この時期の辞令書が県内の市町村誌史に掲載されている。
 戸長選挙の過程でもいろいろな問題が起こった。明治一二年四月一一日、東宇和郡長告森良は、「甲村ノ戸長ヲ乙村へ転勤ノ儀ニ付伺」を県に提出した。甲村の村民が適当の人物がいないとして官選を郡役所に求めて来たので、郡書記を勤めていた乙村の人物に依頼して甲村の戸長に就任してもらった。ところが乙村ではこの甲村戸長に在職中の人物を推挙して同村戸長に就任を求め、本人も乙村への転勤を望んでいる、本人にとって戸長に選ばれた村は自分の居村で人望も得やすいので転勤は村政上にも都合がよかろう、しかし転勤すれば甲村が困窮することになるので、既に在勤する以上は他より投票任用することはできないとすべきであろうか、といった伺いであった。係の県官は、乙村公選の投票が多いからといってすでに甲村に奉職している者を転勤させる時は、その者一身上から見れば名誉なことではあろうが甲村人民は嫌な気持ちになろう、なぜならば甲村人民は官選を依頼して折角適当な人物を得ているのにその人物が乙村に去れば代わりの人物を捜さねばならず、代わりの人物もまた公選になれば転出させねばならないと疑心する状況になるからであるとの理由で、「官撰公撰ニ拘ハラス、既ニ甲村ニ勤務スル以上ハ他村ノ公撰ニ係ルモ転勤セシメサル義ト心得ヘシ、」と指令した。
 六月一七日には上浮穴郡長で伊予郡長を兼ねる檜垣伸が、伊予郡上野村戸長玉井健次郎の退職に伴い、後任者の選挙をしたところ玉井平太郎五六枚、阿部応吉三七枚、阿部幸七九枚の結果となった、玉井(平)・阿部(応)の両名はたとえ当選しても受けないとかねてから申し立てており、あらためて懇諭したけれども病気などの情実をもって辞去するので、両人とも到底奉職の見込みがない、成規により順次繰り下げて阿部幸七を後任者として報告すべきであるが、同人はわずか九票で実際高点を得ているとは認めがたい、そこで再度選挙を取り計りたいと考えるがいかがであろうかと伺い、係官はむしろ再選を実施して人民の気持を満足させる方が公選の本意と思われるとして「書面伺ノ通取計可キ事」と指令した。一一月二一日にも伊予郡から新任の郡長下井小太郎名で、某村で戸長公選を行ったところ、村中選挙権を有する者一〇〇余名であったが投票は八四通に過ぎなかった、三〇余名は自ら選挙権を破棄したものと見なし、開票の結果を調査すると四六通は村内の複数の者を投票、他の三八通は他村居住者を選挙しこれが最も多数を得ていた、しかし他村人であるし選挙権者の過半数を満たしてないので第一位を無効と見なし、四六通の投票の中から在村の高点者を当選者としてよいかとの伺いが出されたが、「他村居住ノ者ト雖モ該村内ニ於テ不動産ヲ所有スル以上ハ公撰規則第一条ニ拠リ即チ該村ノ戸長タルヲ得へキ者ニ付無効ノ投票ニハ之レ無キ候事」と却下された。
 このように試行錯誤を重ねながらも、各町村・組合村で新しい戸長が選ばれていった。新戸長の多くは従前の戸長が引き続き選ばれており、さらにさかのぼれば町年寄・庄屋(里正)層の出身者であった。例えば、風早郡島方での新戸長、大浦村堀内唯八郎、小浜村田房吉重郎、長師村宮野村杉野順蔵、神浦村杉田市衛、熊田村宇和間村石丸収平、吉木村饒村畑里村忽那次郎太、粟井村栗原隣八、津和地村重松良太郎、二神村二神仲次郎は、いずれも明治五年時庄屋役であり大区小区時代戸長を勤めていた。村政の経験と家柄が新戸長選択の第一条件として重視されていたのである。それは身近にいるなじみの名望家を住民の代表・町村行政の担当者に公選させることによって行政に対する親近感を喚起して町村住民の自発的服従を促すという三新法の意図でもあった。しかし、浅い経験と家柄のみでは三新法下数多くの国政委任事務に対応できない戸長も少なくなかった。「事務繁劇ニテ不才之私儀其任ニ堪難キ事務行届難ク」とか「禀性庸劣(ひんせいようれつ)ニシテ其責任ヲ負担仕ル能ハス」とかの理由で辞職する戸長が明治一二年八月ごろから次第に増加した。また郡長は、戸長事務出納のあいまいさや徴税滞納などで戸長に不信の念を抱き、解任の権限を要求しはじめた。
 野間風早郡長長屋忠明は明治一三年二月、戸長在職の者で器量其任に適さず事務の調整ができないか、あるいは別に罪状はないけれども村内の人望を失って村中折り合わないなどの事例が増えている、こうした場合には郡長が諭旨辞職させてよいか、戸長役場の出納あいまいの風聞があり、帳簿の検閲平常の点検を問わず不正の疑いが認められた時に郡役所より警察署に告発してもよいかとただした。また西宇和郡長長尾信敬は、同年五月に戸長の中には事務を手ぬるくして、国税地方税その他諸税の納期を始め諸収入の期限を誤るので、数回督促し時には郡吏が出張して厳しく監督し、指導しようとしても言を左右にして一時逃れをしたり不在病気などに託して調整が進まない、面接奨励しても感覚なく辞職を解諭しても応じないと一部戸長の不勉励・無能力を指摘、こうした戸長の不都合な事由を人民に諭示して改選させてもよいかと問うた。これらの伺いに対し県は「其事実ヲ詳明ニ具申致スヘキ義ト相心得ヘシ」とのみ指示し、戸長職務の現況を黙認する態度をとった。
 戸長の給料は明治一一年一二月一六日に年俸八〇円、七〇円、六〇円の三等級に区分され、人物に応じて支給額を定めた。しかし「多数ノ戸長一々其人物ヲ識別スル甚夕難」しいのに加えて給料は地方税支弁に属してその町村の人民には直接関係ないので、「動(やや)モスレハ一小村ヲ以テ独立シテ、一人ノ戸長ヲ置カンコトヲ欲望スル」原因ともなっている、このため一三年度以後は等級基準を改めて、各町村事務の煩閑に応じて、戸数反別の多少に従い等差を設けて支給したいと「明治十三年県政事務引継書」は述べている。

 町村会・町村連合会の開設

 明治八、九年に岩村県令の施策で開設された町村会・大区会は、明治一一年八月一九日付で、今般府県会規則が定められたのに準じて地方民会の章程規則を別に布達する趣もあるので、それまで大区会・町村会をいったん解散すると指令された(資近代1 六六二)。「三新法施行順序」では、各町村はその地方の便宜に従って町村会議を開くことを許し、町村会の章程規則を制定する場合は内務卿に届け出認可を受くべきとした。また地方税の外、人民協議の費用は地価割・戸数割・小間割・間口割・歩合金など慣習に基づく旧法を用いるのは勝手であると、町村協議費の徴収方法は町村住民の任意で決めてよいとした。岩村県令は、任意に委ねられた町村協議費で支弁すべき事件及び其経費の予算並にその徴収の方法を議定することを目的に町村会を開設することにして「町村会規則」を制定、内務卿の認可を経て明治一二年一月一四日に布達した。同規則は総則・選挙・議則の章立てで三七か条からなる。町村会は毎年二、五、八、一一月の四度開会する通常会と至急を要する事件のための臨時会があり、会議は定月第二金曜日に開会して会期三日以内を原則とする、会議の議案はすべて戸長より発し、議決した事件は戸長が施行して後に県に報告する、議事の細則を町村会で定め県令の認可を得るなどを規定していた。議員数は人口に応じた定数を示し、選挙権・被選挙権は満二〇歳・二五歳以上の男子で町村内に六か月以上住居し町村内に不動産を所有する者、議員の任期は二年で毎年半数改選、議員が半数以上出席しなければ会を延期するなどの内容を示した(資近代1 六七九~六八二)。
 この町村会規則に基づき各町村は、町村名を冠した町村会規則と議事細則を作成して県令の認可を求めた。明治一二年一〇月に制定された「温泉郡湯山村村会規則・議事細則」を例示すると、「村会ハ其村内ノ公共ニ関スル事件及ヒ其経費ノ支弁徴収ノ方法ヲ議定スルモノ」、「議員ノ数ハ該村十七ケ村一村壱名トス」などと定め、選挙・議則は「町村会規則」の条文を踏襲していた。議事細則は、「議員ノ任ニ応タルモノハ請書ヲ出シ該町村公共ノ事務勉励ノ事ヲ誓約スヘシ」、「会議所ハ湯山村ノ内食場(じきば)村蔵元ニ定ム」、「会議ハ午前第八時ヨリ始メ午後第三時ニ終ル」、「議員着席ノ順ハ抽籤ヲ以テ是ヲ定ム」、「会議中吸咽並雑談ヲ禁ス」、「議事中銘酊ノモノアルトキハ直ニ退席セシムヘシ」、「定期会並臨時会共出務ノモノハ弁当料金弐拾銭ヲ給ス」などと定めた。同一二年一〇月に上申された「和気郡古三津村々会議事細則」も「議事役ノ任ニ膺(あ)タル者ハ請書ヲ出シ該村公共ノ事務勉励ノ事ヲ誓約スヘシ」、「会議所ハ当村」など一八か条の条文は湯山村村会の細則とほとんど同じである。「定期会並ニ臨時会出務ノ者ハ弁当料一日米壱升ヲ給ス」と、湯山村々会の弁当料が金銭であるのに対し米穀支給に変わっている程度である。湯山村・古三津村ともに同一の郡役所管内にあるところから細則構成の雛形が示されたのであろう。
 越智郡大三島町役場に所蔵されている「明治十二年宗方村々会決議報告書綴」を見ると、宗方村では七月下旬に村会を開き、次の議案を審議して戸長を通じてその決議を県令に報告している。
 (1)戸長役場協議費賦課方法の問題―戸長の職は半官半民の性質であるので、役場経費は地方税を協議費で支弁しなければならない、その協議費の賦課方法は地租と戸別税で折半して賦課することを決す。(2)道路橋梁池川海岸堤防など諸営繕費課賦方法の問題―役夫は従来の慣行により毎戸出役して賃銭を出さないが、諸品買い入れ費は地租金として賦課することを決す。(3)村会議員は無給であるが、会場出頭の際事実迷惑の向きもあるので弁当料を支給する問題―村会議員は元来村内に奉仕の義務があるので、弁当料は支給しないことに決す。(4)村会書記給料の額及び課賦方法の問題―書記俸給は当分支給しないことに決す。(5)諸布告・諸布達の趣意を普及させる方法―毎月一度組長を戸長役場に召集し、布告達の旨趣を戸長より説き聞かせ、組長会得の上各人民に通告するに決す。また一一月村会では救荒予備蓄積方法の問題を審議して戸別に甘薯(かんしょ)二升と畑反別一反に付、裸麦三合あて差し出し蓄積することを決議している。
 明治一三年三月岩村・関新旧知事交代の際作成された「県政事務引継書」には、町村会規則に基づく町村会は「爾来日尚浅クシテ未タ一般開設ノ運ヒニ至ラスト雖モ、其十中ノ八九ハ既ニ開設セリ」と報告、ついで山間僻地の村落もしくは人口稀少の市街のごとく被選挙権を有する者に乏しく、独立して開会することができない所は別に制を設けて数町村を合併して開会することを許したと、町村単位での議会開設が困難な場合の例外を認めている(資近代1 六九四)。
 明治一二年時は行政町村組み合わせの調整段階にあったので、各町村ごとの町村会開設を原則としたが、郡役所の中には来るべき町村組合を内示していたところもあり、行政上の組合町村では町村協議費収支審議のため連合町村会の開設が必要であった。また水利土功(土木)や入会共有物の取り扱いなど数町村が連合して協議する事件もあり、例外規定では適応できなくなった。
 このため、県当局は明治一二年九月六日「町村連合会規則」を布達して、共有物取り扱い金穀の貸借協議費の収支その他の問題で数町村に係る事項を議定することが必要な時は町村連合会を開設することにした。町村連合会の議員は各町村会議員から代表者を互選させることにして、二町村連合の場合は一町村に付き議員数一〇人、三~四町村の場合は七人と規定された(資近代1 六八八~六八九)。但し町村連合会はあくまでも臨時議会であり、「県政事務報告書」は「町村ノ便宜ニ由リ臨時開会セシムルモノトス」と報告している。
 越智郡島しょ部の宮浦・台(うてな)・野々江・口惣(くちすぼ)(現口総)・浦戸・宗方・大下(おおげ)・岡村・明日(あけび)・大見・肥海(ひがい)・盛(さかり)・井ノ口・甘崎・瀬戸・岩城・生名の一七か村は共有物取り扱いの問題を審議するため明治一三年一月連合会を開設、各村会から三名ずつが選出されて連合会議員五一名を構成、宮浦村に存在していた旧一四大区出張会所の建物・敷地と同会所が保管していた民積金(民費)の取り扱いについて協議、建物・敷地は公売して売却金を村別割・高割で村々に分割配布、民積金は村々が均等に受け取ることに決した。他方、連合会を常設して定期的に開設する地域もあった。北宇和郡芝村・中之川村・近永村・永ノ市村(現広見町内)は同一戸長管轄の隣接村であったが、明治一三年に進達された「連合村会規則」によると、「本会ハ該四村ノ公共ニ関係セル一切ノ事務ヲ議定センカ為メ開設スルモノ」で、通常会は六月と一二月、臨時会は至急を要する事件の場合これを開き、議員は連合内各村会議員中より六名あて互選するとした。
 こうして開設された町村会・町村連合会は、明治一三年四月の「区町村会法」制定後もそのまま継続した。本県の町村会は区町村法に基づく町村会より一年早く開会しており、ここにも岩村県令の先取り県政の面目が発揮されている。

図1-5 愛媛県内郡略図

図1-5 愛媛県内郡略図


表1-10 郡・町村の編成 1

表1-10 郡・町村の編成 1


表1-10 郡・町村の編成 2

表1-10 郡・町村の編成 2