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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

三 町村会・大区会の開設

 町村会の開設

 岩村権令就任後最初の大きな施策は、町村議事会の開設であった。明治八年三月三〇日、「町村議事会心得・仮規則」が県内に公布され、同時に各区の区長・戸長に、今般町村会議仮規則を布達したが、「方今の時態衆庶公同の利益を計り人民固有の権利を保護せされば竟(つい)に開明の真域を覘(うかか)ふ能ハす」、この故に区戸長はよろしく着手の端緒を開き、近いうちにこの会が盛大になることを県下の人々が熱望するようになれば、それは県民の幸福のみならず県の名誉でもあり、大小各区事務取り扱いの助けになるところ少なくないので、区戸長はよろしくこの意を体認して世話するようにせよと告諭した。
 町村議事会心得は六か条からなる。町村議事会は「元来衆庶公同の利益を計る」ため設けるものであるので、仮規則に照準して精々開設せよ、町村会の体裁がほぼ成立したら大区会・県会に及ぼし、戸長なども議会で選挙したい、規則はすべて仮定であるので万一違犯の者があれば罰則を設けない、議会は町村ごとに開くことを原則とするが、人口寡少な場合は会規立ち難いので、二〇〇人未満の町村は最寄り適宜に合併して開会せよ、広い人家や寺院などを借り受け会議所とすること、議席では弁当の外はみだりに飲食してはならないといった内容であった。
 町村議事会仮規則は七章六二条からなる。第一章議事の大綱では、「此議会ハ専ら其町村内人民の安穏公益を謀が為めに設くる者なれハ、専ら第五章第一条に掲くるが如き条款を議するを要す」(第一条)としている。町村議事会の要務は、官令の趣旨を遵守し旧弊を除き開化を進めることをはじめ、町村費の決定、租税諸公費の帳簿検査、他町村に対する訴訟・借金並びに返済、組頭以下の人員給料の取り決め、備荒儲蓄、学校設立と就学、貧民救恤(じゅつ)、警察保安、水利土木、産業開発、町村共有財産取り扱い、神社祭礼、住民説諭など一五項を列挙している。これら事項のほとんどは「寄合相談」の伝統を継承しており、町村会が寄合に代わる機関であることを示していた。さらに議事の大綱では、公選議事役はその他の各人民の代表であるので、職にあってはより公正な心をもって村内全体の安穏公益を合議することは言うまでもなく私心を挾み公平さを欠く議論や他人の自由を妨げるなどの説を主張しないようにせよと議員の自覚を促した。議事役の選挙権は町村内に居住し不動産を所有する年齢一八歳以上の男子の戸主で、毎年五月一日を公選の定日とし、被選挙権は選挙権資格者の外に戸主要件を緩和して子弟にも与え、また不動産を所有しない者でも、一村一町の人民がこぞって議事役としての申し立てがある場合には県令の許可を得て直ちに議事役になることができるといった人望家が議員に推挙される道を開いていた。但し区戸長・組頭・小学校教官・教導職・軍人は議員になることはできなかった。議員の任期は二年で、定員の半数が一年ごとに交代、議員定数は人口三〇〇以下の町村が九人、三〇一~六〇〇人が、一三人、六〇一~一、〇〇○人が一五人といったように具体的に員数が定められていた。投票は記名入札でその雛形が示され、議事役公選の節には、選挙人一同出席し衆人の前で入札するのを原則とし、入札開封の節も衆人の前で町村戸長か組頭が取り行い、名前を一枚あて高声で読み上げて逐一書き留め、定員の落札人が定まるとその名前を読み上げ、最高得点者が会頭(議長)に就任することになっていた。戸長から通報を受けた落札者は任を受けるかどうかを返答し、新議員は「某這(しゃ)回我町村会議々事役の選に膺(あた)れり、某之を皇天上帝に誓ひ清廉と勉励とを以て公平の議論を尽し、其責任を負担すへし、敢誓ふ、年月日 何誰某印」の誓約書を差し出した。会議は本年五月第一金曜日を発会の初日とし、以後毎月第一金曜日を会議の定日、午前九時を発会の時限とする、議員過半数の出席があれば議事を開き、会頭(議長)は急務と見込まれる事件から議事を始め、議事はすべて会頭に向かって申述すること、規則を犯すか又議論入り組んで混雑を生ずる時は会頭は「無用」と声を掛けて差し止め静かにその次第を正すことなど、議事の方法については、議事役は議事を本務として施行の筋に干渉してはならない、とその機能を「議事」の面に限定していた。また議案が決し難いか又は合議すべき事件が多数ある時は翌日再び発会決議をすることは妨げないけれども三日にわたってはならないとし、その理由は「其営業上に支障あるを恐るれはなり」としているものの、会期の長びくことを忌避して町村会を町村行政の補完的役割にとどめようとしていることが明確である。臨時会は議長の特権や議員半数以上の希望があれば開会することができた(資近代1 二五八~二六四)。
 町村会は明治六年に兵庫県令神田孝平(たかひら)がオランダ法を基礎に「民会議事章程略」「町村会議心得」と称する会議規則を設けて実施、神奈川県その他の先進地に拡がった。愛媛県の「町村議事会仮規則」も兵庫県のものを下敷きにしたとされているが、明治八年六月に召集された地方官会議で、「地方民会議問」を議題として取り上げるにあたり、議長本戸孝允が「今全国府県ノ民会ヲ開クモノ七県」と報告しているように、当時民会を開催している県は少なかった。この会議で岩村は、「立法ノ一部ハコノ民会ニ始マリ、遂ニ上進シテ、国議院ニモ及ハサル可カラス、議ハ人民ヨリ起ルヨリ益ナルハナシ、地方官ハコノ民議ヲ起スコトヲ誘導シ、人民ヲシテ公利公益ニ従事スルノ義務ヲ知ラシメサル可ラス」と公選民会論を主張した。地方民会の先駆者神田孝平は兵庫県の例を挙げて民会は当面公選議員のほか戸長・区長も参加する官民混合の形が適当と述べており、表面上の民選論では岩村の意見は革新的であった。木戸議長は、平均八八戸・四一〇余人の町村に町村会を設け財産を持つ成年男子戸主に議員を選ばせることになれば選挙人はわずかになってしまうと全国一般に町村会を設けることの困難性を指摘しており、ほとんどの府県で民会は開設されていないか区戸長会で代用されている状況下で、愛媛県は町村会の開設を急いだ。

 町村会の実態

 県内各区では戸長が町村会の開設を進めた。一大区二小区(宇摩郡下分村・山田井村)では、明治八年七月二三日に戸長星川喜一郎が、下分村は五明院、山田井村は石川富造宅を当分一議事会所に借り受けて開設することを、下分村会頭高橋健齋と議事役二〇名、山田井村会頭尾藤高太郎と議事役一八名の氏名と共に県に届け出た。町村会は翌九年七月までに開設数一、〇一八にのぼり、「町村殆ント全開ノ姿ニ立至」るまでになった。しかし同じ布達の中で「人民不慣ニシテ町村会スラ速ニ開ケ難ク」と告白されているように、岩付が期待したほどには町村会は活動しなかった。町村会開設を指示して半年後の明治八年一〇月五日、岩村権令は告諭を発して、「廟堂ノ太政ヲ議スルニ及サルハ勿論」諸成規定則を改替したり町村取締や大小区務に関係する事柄は決議しないように戒め、会頭・議事役は「尊大自ラ処スルニ倨傲(きょごう)(おごりたかぶる意)以テ区戸長等ニ抗拮(こうきつ)シ人民ヲ蔑視スル様」なことはないはずであるが、万一心得違いがあっては会議の本旨に背くので、「専ラ衆庶ノ康寧ヲ謀リ公同協和ノ意ヲ失ハサル」よう心掛けよ、決議上申の節には区戸長に合議すべき事柄も会頭限りの請願として差し出す傾向があるようで不都合であるので伺書の体裁にせよと逐一説諭した(資近代1 二六七)。
 この告諭には、岩村のいら立つ気持がよく表われている。「明治九~十一年秘書雑書」・「明治十年愛媛県指令撮録」(愛媛県立図書館蔵)に綴られた町村会議に関する建言や伺上申には、岩村の期待に反する町村会の実態が報告されている。
 第四大区一二小区本町(現今治市)の医師菅周庵は、種痘普及にも活躍した知識人であり、町村会設立にあたり会頭に選ばれた。周庵は「愚直任ニ当ラス」としながら、「管下ノ人民ヲシテ公同ノ利益ヲ謀リ固有ノ権利ヲ保有シ開明進歩ノ捷径(しょうけい)(近道の意)ニ就カシムル町村会議ニシカス」との岩村公の「県旨ノ厚キ感戴ニ堪ス」職責に励むことになった。今治の市街は戸数一、六〇〇、人口八、〇〇〇で、八町にそれぞれ会議所が設けられ各町会一六~七名の議員で構成していた。ところが、本町の町会は「議員ノ才能周庵ノ不能匹似スルモノ少カラス、会毎ニ紛議決セス、徒ラニ時日ヲ費スニ過ス」といった状態であり、他の町会も大同小異であった。周庵は「議員ヲ精撰ニ為ササレハ事実ノ挙ラサルヲ察シ」、区長小長や各町会会頭に八町八会を廃し一会とすることを提案、明治八年九月下旬に区長河野通興や服部正宣ら数名の代表者と共に県庁に赴き、岩村権令に謁見して意旨を陳述、許可を得て帰り戸長と協議、議員三二名の一連合町会を結成することにした。一〇月中旬戸長を事務長として議員選挙の手筈を整えたが戸長二人のうち一二小区の戸長が辞職するなどで遅滞、ようやく下旬に選挙が終わり議員の顔振れがそろった。周庵は最高点で当選して会頭となったが、「眼光衰へ事ニ堪サル」ことを戸長に訴えて固辞、後任の会頭堀正健も臨時会発会中に辞任、一二月初旬新会頭服部泉に至り町会の議事はやや整頓されたが「既ニ紛議ノ胚胎(はいたい)スル」有り様であった。「鳴呼他ノ会議ハ知ラス、十二三小区ノ会議未タ興隆期ス可ラサル斯ノ如シ、何ソ区会、県会ヲ望マンヤ」と周庵は慨嘆する。周庵は町村会不振の原因を「是レ他ナシ、人才挙ラサル也」と断言、名目上は公選であっても内容は私選である選挙制に問題があるとして、不動産所有資格を廃し区内で品行のよい者数十名を選挙人にして投票させ、開封にあたっては区長戸長が会同して投票の多少を調査し人物の才能品行を勘案のうえ取捨選択して会頭を定め議員を挙げる官選公選の錯綜する方法を、「唯民選ノ名ニ背クヲ如何セン、寧ロ名ニ背クモ実ヲ収ラン乎」と惑いながらも、「閣下、愚音ノ一得ヲ憶起シ官暇一覧ヲ賜フニ至ラハ何ノ幸カ之ニ如ン」と、岩打権令に建言した。
 こうした報告を受けて、県は明治九年五月五日に「町会ノ儀各町毎ニ会議所設立候テハ、夫是不便宜ノ廉モ之レ有ル趣ニ相聞候ニ付、各小区適宜合併苦カラス候」と布達して、町村議事会心得第四条を改正した。
 第六大区二四小区東垣生村(現松山市内)村会会頭高本善重は、会議を開いても村中不和で公平な議論を尽くすことができないとして、当分会議を差し止めるかあるいは西垣生村と合併するかの両案を進言した。高本は、会議の本旨をわきまえず、私心を挾み偏頗の説を吐く議事役が多勢いて、公議を抑えあるいは臨時会と唱え度々集議を促し、議事会の決議であることを振りかざして、不服の者があっても強引に押し切り、村役人と申し合わせて、上級官庁の作付を得ずして施行することもままあると暴露した。その例として地租改正の際の道路修復で溝渠を切り広げ在来の道川を勝手に変更したことを挙げ、これらの干渉を議事役の仕事と心得ているので、高本らが会議の本旨を失っていると説諭すると、村中不和の折柄かえって暴言をもって応接する次第と訴えている。高本の建白を受けて県は真相調査を行い、西垣生との合併村会を指示、あわせて「自今議事役共私ノ申合セ分裂衆議致候義ハ一切相成ス」と戒告した。
 第一〇大区一六小区中村(現大洲市内)村会会頭戸名正路は会頭に挙げられて以来、「一家ノ経営ヲモ省ミス一心勉テ茲ニ従事シ、上ハ政府下ハ人民ニ対シ衆庶公同ノ利益ヲ計リ人民固有ノ権理ヲ更張シ人間会社ニ向ツテ一分ノ責ヲ償ハノトス」と自覚し、議事役各員の努力によって会議の正常化を期したいと議会に臨んだが、出席議員は常に半数前後であった。戸名はたまり兼ねて議員に問いかける。「抑々議員ニ挙ケラルヽヤ先ツ勉励卜清廉トヲ以テ上帝ニ誓ヒシ者ニアラスヤ、然ルニ爾来不参ノ多ナルハ又何ノ故ソヤ」「今ヤ民権拡張ノ気運ニ際シ徒ニ無気カノ卑愚心ニ甘ンシテ可ナランヤ、各員以テ如何トス」、ついで戸名は議長職権でもって引き続き三度欠席の議員は不参の理由を詳細記載したものを辞表と共に提出して他議員の詮議にゆだねる方法を提案した。この案は議場で可決されたので戸長を通じて県当局に上申した。
 第六大区二五小区温泉郡湯山村(現松山市内)村会では「兎角不参ノ者多ク決議相整難シ」として欠席議員から二五銭の罰金を徴収することにして県に認可を求めた。第一八大区三小区宇和郡坂戸村(現宇和町内)村会は、「該村人民ノ如キハ従来ノ慣習ニシテ公私ノ会議其他交際上ト雖モ予テ時限ヲ定メ触示セルモ、忘却シテ遅参不参等往々之レアリ」、今後会議集会の時間を無視する者には相当の罰則を設けることになり、一時間を過ぎても出頭しない者には米一升を出させることにした。
 これらの上申に対し、県当局は「罰則之レ無キニ付」とか「人民相互ニ違約米ヲ課スルハ不都合ニ付」といった理由でほとんど却下した。しかし会議への不参遅刻には、岩村権令も黙することができず、明治一〇年八月九日付で、従来の慣習でおよそ人民公私の会議をはじめ郷党僚友の交際に至るまで規約を意とせず理由もなく不参するなど不都合が少なくない、彼の文明国人が規約を厳にし秒時過ぎても信用を失うとしておおいに恥入る風儀を見習って、「人々相互ニ規約ヲ固守シ毫(ごう)モ信義ヲ失ハサル様精々相心得ヘク」と告諭している。
 文明開化や地方民鎮憮(ちんぶ)の方策として開設された町村会であったが、その実態はおおむね不活発な状況にあった。

 大区会の開設

 岩村権令は、町村議事会心得で「町村会の体裁大略相立ちし上は、大区会県会と推し及ほし」との予告を実行して、明治九年七月三一日「大区会仮規則」を定め、大区会の開設を促した。
 この規則は六〇か条にわたり、大区会の会議綱領・議員選挙条例・議長以下諸役員・議事条款・議事規則・雑則について規定している。その内容は以下のようであった。会議は各小区から選ばれた各一人の代議人で構成されて毎年二度開くことを常例とする。本年九月第二金曜日をもって開会の初めとして以後毎年三月九月第二金曜日をもって開会の定日とし、開会期間は一週間とする。「会議ハ事ヲ議スルノ権アリテ之ヲ施行スルノ権ナシ」、したがって決議の条件は決議書を作って区長を経て県令に差し出し、施行の可否は県令が決する。決議のうえ許可を得て施行した事件は一年間再議することはできない。許可を得て施行した事件であっても後日政府の公令で抵触する事があれば速やかに改めるものとする。議事は大小区費・民積、取締風俗、学校・病院・貧院、物産興隆と荒蕪地開墾、水陸運輸・道路堤防橋梁用水の事項を対象とし、議員提出の議案は衆議に付して可決されれば採択議決する。選挙人・議員資格者は小区内に居住して不動産を所有する年齢二〇歳以上の男子戸主で、官吏・区戸長・学区取締・組頭・巡査や兵士は議員になることはできない。議員の任期は二年で、隔年八月一日に公選入札を行う。議員定数は一小区ごと一名を原則とするが、人口の多い小区には二名の場合もあり、特に合併した讃岐国は小区が伊予国より広域であったから定員を二名にする。選挙後の議会で、議長と幹事・書記を選出する。議案は大区会所で設定して開会数日前に議員に告示、議案につき議員不審の件があれば区長などにただす。続いて、同規則は午前九時から過半数の出席により開会などの議事規則、会議所は大区会所所在地の人家か寺院を借り受けることなどの雑則が続き、大区会の費用はすべて大区会費で賄うことで終わっている。
 この仮規則に基づいて各大区では小区の戸長に区会議員の公選を指示、第一大区二小区では下分村で高橋健齋、山田井村で尾藤高太郎を区会議員に選挙した旨を八月二五日付で戸長が県知事に届け出ている。高橋・尾藤ともにそれぞれの村会会頭であり、大区会議員にはこれら町村会の代表者が主として選出されたと考えられる。
 大区会の実態はどうか。「御成規ノ通区会開場致スヘキ筈ノ処、目下至急ヲ要スル事件モ之レ無ク候間本会定規開場ノ儀御延期成ラレ下サレ度」(第十一大区会―越智郡―会頭ヨリ大区会延期ノ儀ニ付伺)とか、「(明治十年)三月九日第二金曜日ヲ以テ開場仕候処病気事故之レ有リ議員出頭少ナク半数ニ至ラサルニ付」延期(第十五大区会―浮穴・喜多・伊予三郡ノ内―議長ヨリ大区会ノ儀ニ付伺)といった伺から推して、町村会同様に活発でなかったと思われる。

 大区会の審議

 大区会の審議状況を、第六大区(和気・温泉・久米郡 風早・浮穴・伊予郡ノ内)の「明治九年大区会議事録」(松山市波賀部神社武智圭邑氏蔵)と第二〇大区(宇和郡ノ内 現宇和島市・北宇和郡)の「明治十年大区会議日誌」(愛媛県立図書館蔵)で追ってみよう。
 第六大区の第一回大区会は九月八日から一二日の五日間開会された。議員数は七一名(郷分五二名・町分一九名)で、議長には小林信近が選ばれたが、身体不快を理由に八・九日は欠席、幹事の重松約と奥平貞幹が交代で議長を代行した。審議は専ら民積民費賦課方法に終始した。この地域は町分と郷村が入り交じっているため議論が分かれ、小林議長が、「議員タルモノハ宜シク公論ヲ吐露ス可シ、」「請フ、諸君其可トスルモ非トスルモ詳ニ其所以ヲ陳述セラレヨ」とたしなめる場面も見られた。審議の結果、民積の賦課方法は議員須山忠政の六大区は市村混在して産業も一定しないから小区に割賦するほか良法がないといった意見が可決されて、小区単位の賦課に決した。ついで町分の小区と郷村の小区に分けての割付方法で論議が続き、市街は戸数に四、地坪に三、家坪に三、郷村は半数を戸に課し半数を貢租に課す割り合いで落着した。
 明治一〇年の第二〇大区会は九月一四日に開かれた。この日、区長告森桑園など吏員と議員が礼服に身をつつんで午前八時より会議所控室に参集し始めた。午後一時、ようやく六割以上の議員が出席して開会、撃板三声をもって用意を報じ、連撃して着場、二撃で立礼した。議長都築温(あつし)以下の役員と一番土屋恵教から二九番小西久太郎までの構成議員名及び議席状況は表1―5のようであった。
 旧宇和島藩士族で維新三功臣の一人に数えられた都築議長は、「夫レ立法ノ旨趣タルヤ、政府人民ト或ハ人民相互ニ締盟誓約スル処ノ規程ナルヲ以テ従来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ洗除シ至善至公ナル条件法制ヲ議定シ……」と開会の辞を述べ始めた。「今回会議ニ付スル問題ノ如キハ乃(すなわ)チ少年子弟ヲ開導教育シ他日天下国家ニ有用ナル秀俊英邁(えいまい)ノ人物ヲ養成スルノ基礎タリ」「天下国家ニシテ有為ノ人物ナケレハ何ヲ以テカ治平ノ道ヲ立テ人民ヲシテ其業ニ安セシムルヲ得ヘケンヤ、斯ヲ以テ区々タル南海ノ一辺土ナリト雖モ議定スル所ノ条件其関渉スル亦至大至重ナリト云フ可シ、宜シク諸君ト共ニ公明正大ノ見ヲ以テ至良ノ法制ヲ議定シ代議士タルノ責任ヲ尽スヘキナリ」と、朗読を続けた。大区会所が用意した議案は、第一号派駐訓導月給の議問、第二号小学教員集会並びに監視旅費日当の議問、第三号小学校維持の議問の三題であった。審議にあたり、二宮致知が小学維持の法が今回の三問題の基礎であるから第三議案から審議しようと提案、多数の賛成で可決された。
 小学校維持の議案は、従来資金募集の方法が小区町村で異なるため往々重複に課徴しあるいは貧富を同視するなどの支障が生じているので、大区内一般均一の方法を設けて維持の基を立てたいと、一六条にわたる小学校資金募集方法案を提示していた。同案は資産状況に応じ等級を定め、割り当てに格差を設けて資金募集しようとするもので、甲・乙・等外の三等級を設け、募集金額は学校所在の町村会議事役で適宜確定するとした。
 審議では、割り当て等級に論議が集中し、上・中・下・等外の四区分に改めるなどの修正案を可決、また資金の運転方法に関する規則が必要との一議員の提案で小学資金取扱規則が急ぎ作成されるなど、四日間にわたる熱心な討論を展開した。派駐訓導月給の議問と小学教員集会並びに連区監視旅費日当の議問についても二日間論議を続けた。
 こうして二〇大区会は、会期七日間のほとんどを教育関係議案の審議に費やし、都築温の「風教ヲ純正ニスルノ儀」や玉井安蔵の地租改正の早期執行を促す決議案は審議未了になった。ただ都築議長が職権で提示した議員心得並びに罰則は議会運営上欠くことが出来ない条件として審議を強行、衆議異存なく可決した。議員心得は、本会役員は開会二日前には到着すること、議員は開会前一日午後四時迄には到着すること、病気又はやむを得ない事故があり不参の節は開会一日前までに幹事に申し出ること、病気の場合は医者の診断書と戸長の保証書を提出すること、やむを得ない事故の場合はその町村で二人以上の証人の文書と戸長の保証書を合わせて差し出すことといった内容で、これらの条件を犯したときは、「衆議ノ上金拾銭ヨリ少ナカラス壱円ヨリ多カラサル罰金ヲ科ス」との罰則を設けていた。
 九月二一日閉会式を迎え、都築議長は「諸君、任期中已ニ来年三月ノ一会ヲ残セルノミ、宜シク区内人民ニ幸福ヲ益スノ条件アレハ熟考ノ上来ル十月十日迄ニ書取ヲ以テ申出テラルヘシ、其事件ノ急且要ナルモノアレハ時宜ニヨリ臨時会ヲモ開クヘシ、諸君宜シク此意ヲ了知有ルヘシ」と挨拶した。
 第二〇大区の議会は比較的活発な大区会であったろう。しかし小学校維持費賦課方法に見られる地味で適度の知識を要する議案は議員にとって退屈なものであった。開会初日は遅参者が多く、ようやく過半数に達して開会されたのは予定より四時間遅れの午後一時であり、最終日には「本日病気事故アリテ帰郷スルモノ多クシテ現場ノ人員甚タ寡(すくな)シ」といった状況になった。開会一日前の到着とか、病気は医者の診断書に戸長の保証書を添えて差し出せといった「議員心得」は、議員相互の怠慢を排し自覚を求める申し合わせであった。
 『一本松町史』には、第一四大区会(宇和郡の内、現南宇和郡)の議案が収録されている。(1) 大区内には五〇戸に組頭一名を置くことになっているので、中小村ごとに組頭を設置するのは民費を多く費やす、費用を減ずるために便宜合村してはどうか、(2) 近年官の勧奨と人民協力とによって各村学校を設立したが、多くは皮相のみにて維持の方法が立っていない、よって村方において一層奮発し維持の方法を図りたいと欲するが、その方法如何、(3) 旧来の弊習で郷里に伝染病に患る者があれば他人は勿論親戚骨肉の間でも伝染病を恐れるの甚しきにより棄てて顧みない者が間々ある由、今この開明の世に際し野蛮の悪弊を洗滌し、今より伝染病にかかる者があれば直ちに医者にかかり親族朋友はもとより近隣も力を協わせて看護恤救(じゅっきゅう)してその生命を重んじ厚くするの淳風を作ろうと欲す、その盟約を定める方法如何、(4) 当区内の産牛幸いに良種声価あるをもって、今より盛んに畜養したいと欲す、その方法と牧場開設及維持の方法を問うといった内容であった。

図1-3 第20大区会会議場

図1-3 第20大区会会議場


表1-5 第二〇大区会議員名

表1-5 第二〇大区会議員名