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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 岩村県政と町村

 岩村権令の着任

 愛媛県が誕生して一年九か月後の明治七年一一月二四日、本県最初の権令(地方長官)として岩村高俊が発令された。この年一月に岩村は佐賀県権令となり、江藤新平の佐賀の乱を鎮圧した後七月内務省に転任した。八月征台問題解決のため清国に赴く内務卿大久保利通に随行した。一一月岩村は、条約締結の状況を政府に報告するため大久保一行に先発して帰国、内務省地理局に配属されて直後の愛媛県権令任命であった。三〇歳の若い長官岩村は一二月七日東京を出発、海路赴任の途にのぼり一五日松山に着き一番町の旅館に仮住まいすることになった。岩村が愛媛県に向かっている一二月一二日かねて病床にあった愛媛県参事江木康直が死亡した。一七日岩村は権参事大久保親彦・七等出仕赤川戇(こう)助から事務引継ぎを受けた。これ以後、明治一一年五月一五日県令に昇任し、同一三年三月八日内務省に帰って大書記官戸籍局長になるまでの五年半県政を担当した。その県政が個性的で独自性を持つところから一般に〝岩村県政〟と呼ばれ、県政創始の功績者としての評価が高い。
 岩村高俊は弘化二年(一八四五)一一月一〇日、土佐藩の南端宿毛で岩村英俊の三男として生まれた。岩村家は、この地域を領した藩家老伊賀氏の家臣で藩主山内家から見れば陪臣の身分であった。長兄は通俊、次兄は林有造であり、それぞれ官吏、民権家として名をなした。高俊は高知の文武館で洋学を学ぶかたわら高島流砲術の免許皆伝を得た。慶応三年(一八六七)二三歳の時、京都に至って中岡慎太郎の率いる陸援隊に参加、戊辰戦争勃発によって陸援隊が東山道討征軍に編入されると、岩村は監察兼応接掛(軍監)として信州から越後に進撃し、松代・長岡藩を降した。長岡藩家老河井継之助が軍監岩村に面会を求め藩論統一までの猶予を懇願したにもかかわらず即刻攻撃を決定した逸話はよく知られている。
 明治政府が成立すると、東京府貫属士族の身分で新政府に出仕、新潟府判事・兵部省糺問大佑・有栖川幟仁親王家令などを経て、明治四年一一月宇都宮県権参事、同六年七月神奈川県権参事を歴任した。江藤新平が帰郷して佐賀の士族に不隠な動きが生じた時、兄通俊から同県権令を受け継ぎ、江藤を挑発して武装蜂起させた。小倉鎮台の軍隊に支援されて佐賀の乱を鎮圧した岩村は、内務卿大久保利通に認められて清国に随行、帰国後愛媛県の権令に任じられた。
 愛媛県県令から内務省大書記官に転じた後、明治一六年石川県令、二三年愛知県知事、二五年福岡県知事、三一年広島県知事を歴任、晩年は地方政治の功績で男爵の爵位を受けて貴族院議員を務め、明治三九年一月四日六二歳で東京にて病没した。保護者同様の大久保利通を暗殺で失った後の岩村は、内務官僚としての出世の途は絶たれたようであり、愛媛県を去った後の治績には見るべきものがない。

 県官の更迭

 岩村着任前の本県県政は、参事江木康直と権参事大久保親彦の意見が合わず支障を来し、そのうえ江木が病に倒れて事務渋滞に陥っていた。岩村は着任早々に大久保とその一派を罷免して、七等出仕赤川戇助(こうすけ)(山口県士族)を補佐役の権参事に、吉田録在(愛媛県士族)を七等出仕に昇格させた。赤川は戊辰の役に際して建武隊副督として出陣し領内(周防)三田尻の警備を担当、翌二年には長州脱隊兵騒動の鎮圧を命じられるという経歴の人物で、明治四年二月宇和島県十一等出仕、六月権典事、九月大属を経て愛媛県の七等出仕に就任していた。ついで岩村は、石原樸(あらき)(権大属)・藤野漸(すすむ)(中属)・内藤素行(十一等出仕)・土屋正蒙(警部)ら地元旧松山藩士族を登用、のち租税課長の石原は地租改正事業の御用専務、藤野は高松支庁長、内藤は学務課長になり、岩村の側近として活躍した。岩村は「夙(つと)に平民主義を持って居た」から、普通教育には最も意を注いで、内藤ら学区取締にたびたび諮問することがあった。内藤は「いつもハイカラであるから、何等も憚らず聞き噛りの自由主義などを喋舌った」ところ、岩村の意に投じたので俄(にわか)に抜擢されて十一等出仕の学務課勤務を命じられたと、内藤は『鳴雪自叙伝』の中で岩村との出会いを述懐している。旧松山藩以外からも宇和島の信崎忠敏・竹場好明(中属)、今治の石原信文(警部)を始め大洲・吉田などからも旧藩士族をそれぞれの部署に任用した。薩長土肥出身の士族が全国府県庁の幹部吏員を占める中で、岩村の本県士族の積極登用は評判が良かった。
 県政創始期の行政組織は、明治四年一一月二七日に太政官から公布された「県治条例」によって設定された。岩村権令が着任すると、各課の章程が同一でなく県治上不便であるとして、県治条例に依拠し従来の章程・諸成規を参酌して「従来ニ伝ヘテ亀鑑トスヘキ」庁中条規の作成を命じた。この指示で明治八年一一月二二日に「愛媛県職制・事務章程」が定められた(資近代1 二六七~二七五)。

 大区小区制下の村治

 大区小区は石鐡県・神山県の時代に設定されたが、愛媛県は明治七年五月二〇日に一小区二〇〇戸を目安として再編成を行った。その結果は表1―3のように一四大区三一七小区に改正された(資近代1 一三一~一四五)。大区中、一~四大区は宇摩郡、周布・桑村郡、越智郡単位に編成されたが、五大区以下は風早、伊豫、浮穴、宇和郡が複数の区に分割された。小区は大村は一村単位であったが、一般にはほぼ二~三か村で構成された。
 大区小区体制下の村治は、官選区長・戸長と町村単位の組頭が担当した。明治八年八月二二日付で内務卿に提出された「区戸長配置届」によると、俸給一二円の区長一四人、一〇円の副区長二九人、七円の戸長三一二人、俸給五円以下の民選組頭九八三人を数えている(資近代1 二六六)。区長・戸長の職務は、明治七年五月二〇日布達の「区長事務条例」「戸長心得」で明らかである。この緒言で、区長・戸長は「人民ノ代理タル権務ヲ有スルモノ」であって、「常ニ上下ノ中間ニ立チ」、その職掌を守り勉励して事務に尽力する事、国家の公益を興起し人民の資産を盛大にし、上は朝廷の盛旨を奉報し下は人民の権利を保護する事を県当局は希望している。区長は、戸籍を詳にし物産を興し開墾済恤その他人民の休戚に関する事件に注目して、戸長以下を指揮監督し大区内一切の責に任ずる。戸長は住民提出の諸願伺届の点検及び大区会所への提出、布告布達の掲示及び伝達、戸籍・徴税事務などを職務としていた。区長・戸長を責任者とする大区会所・小区事務所の村治について、一大区二小区(宇摩郡山田井村・下分村―現川之江市内)の行政実態を例示しよう。
 川之江市立図書館には、一大区役所の触達と二小区事務所の諸届伺留がほぼ完全に保存されている。石鐡県時代、山田井村は余木村・長須村とともに一大区一小区に属し、下分(しもぶん)村は単独で四小区を構成していた。明治五年七、八月の報告によると、四小区下分村の石高八〇〇石六斗六升七合、戸数三二三戸(内寺院一戸・医業二戸・農業二五二戸・工業一二戸)、人口一、六二六人(男八五一人・女七七五人)であった。小区の長はこの地域の大庄屋(大里正)であった星川喜一郎で、この時期は区長の称号を用いており、明治六年二月から県の指令で戸長と改称している。愛媛県誕生後の明治七年六月の大区小区制設定で、下分村は山田井村と一大区二小区を構成、戸長には星川が就任した。一大区の区長は川之江陣屋の浦手役を勤めていた長野祐律が任命された。長野と星川は個人的にも親しく、何かと頼りにしていることが、公文綴の中に交じっている私信でうかがい知ることができる。
 明治七年七月一五日に県は本庁で区長会議の開催を布告した。この召集通知を受けると、長野区長は管内一八小区の戸長にあてて、今般大区合併や小区改正などで新任戸長を拝命したが、事務取り扱いが区々になっては不都合であるので集会して万事打ち合せようとかねて考えていたところ、今度本庁で区長会同の沙汰があった、ついては祐律出頭にあたり区内の事情や一同の見込みなど委細協議のうえ罷り越せば県庁での禀申(りんしん)も都合よいので、七月九日午前七時から会所で会合を催すことにすると通知した。戸長会を終えた後七月一三日長野は川之江を出発するが、星川戸長に松山への同伴を求めている。区長会議は事務の順序をはじめ区費賦課などの方法に至るまで論議を展開、「各員一般会同集議ハ固ヨリ上下ニ利アル」ので毎年四回区長会を開催することを決議した。区長会で県官から指示された事項を伝達するために、第一大区会所では八月二日に小区の戸長に加えて各村の組頭一名ずつの出席を求めた。
 区長会を頂点とする一連の上意下達のための会合は岩村着任前のことであるが、その後毛こうした会合はしばしば開催されたようである。第一大区では、明治八年六月二、三日に大区会所に戸長組頭が集められて区務会が開かれている。これを通達した五月二七日付の文書には、先般町村議事会創設の布達があり、過日本庁で各区各戸長を召集して臨時の会合があり、追々区会・県会も開かれるという、ついては六月二、三日当会所で戸長・組頭を集め区務の急とする件々を熟議討論したい、これまでの集会はすこぶる乱雑であるので、今般は県庁会議の体裁を模擬して規則を立てておきたいとあり、各小区の戸長は病気かやむを得ない事故でなければ必ず出頭すること、組頭は「甲村ノ組頭ニテハ乙村ノ事情相分リ難キ都合」もあるので各村ごとに出頭すること、町村議会の会頭と議事役はなるべく出席傍聴すること、当日は午前八時発会午後三時閉会の予定であり、なるべく前日町宿に泊まって当日は遅刻しないようにせよ、といったことを箇条書きで注意した。続いて、第一問題第一款「官省及県庁御布達御告諭文等一般ニ熟知セシメ愚夫愚婦卜雖モ会得セザルナキニ至ラシムルノ方法ヲ問フ」、第二款「小学校設立ノ景況並漸次盛大ナラシムルノ方法ヲ問フ」、第三款「民積(みんせき)(民費)ノ方法ヲ問フ」の三問、第二問題第一款博奕の取締方法、第二款道路橋梁修繕の方法、第三款邏卒配置の方法の三問、計六問の解答を一題ごと一紙に銘々見込みを記し当日持参するよう宿題を課した。
 二小区戸長星川喜一郎は、第一問第一款布達告諭文の熟知方法について、これ要するに区戸長組頭が尽力注意し、小学校教員に委ねて生徒に説き、神官僧侶に託して衆諸に諭すのほかない、当区のごとき僻在未開の頑民一文字を解せない者一○人中七、八人、故にこれらの輩をして一般熟知させるには目下行き届く訳はなく、すこぶる至難と云うべきである、しかし今これを捨ててしまえば何れの時期に朝旨を知らせることができようか、したがって戸長事務所には毎月主立った者を集めて御布達のうち最も必要な件を説諭してその意味を熟知させ、一〇~三〇戸受け持たせて雨中のつれづれ夜話の折節その他閑隙を図って戸別訪問させ、漸次教諭を加えていけば少しは了解の機会を促すことにもなるのではなかろうか、教員に委ねて教導に託すのも良法であり、互いに絶えず実行すれば自然普及するに至る、いたずらに席上の議縮ばかりして平素注意しなければ空論に帰するのみであるとの答案を用意した。
 六月二、三日の会は、こうして戸長組頭が持ち寄った見込み案を基に議論が展開されたようであった。この結果、第一問題第一款は「区戸長組頭ニ於テ精々注意シ、尚小学校教官神官僧侶教導職ニ委託シ、其他村々適宜ノ見込ヲ以テ成丈(なるたけ)普及セシムルヲ期ス」、第二款は「小学校其他追々設置ノ村々共寄附金ヲ人名戸名賦課ノ方法共聢(しか)ト見込相立ル」、第三款は「民積ノ方法町村会議ニ附シ良法ヲ設ケ、本年中必ス民積ノ端緒ヲ開クニ決ス」と結論づけた。第二問については、第一款博奕取り締まりは罰金を徴収する方向で大区会所が規則を設けるなど今後検討する、第二款道路橋梁の修繕は戸ごとに出夫して受け持ちの場所を担当する、当人差し支えあるときは賃銭をもって他から雇い入れる、第三款邏卒は四名を増加して七名とし、川之江を本屯とし適当の場所へ二か所の支屯を設けるなどと決した。区務会は、時には、一一月二三日の新嘗(にいなめ)祭に酒肴を披露したいから午前九時に一同出頭せよ、といった長野区長の音頭で懇親を深める機会もあった。
 戸長組頭が命じられた調査や戸籍などの届け出を遅滞した場合には、大区会所から厳しく叱責された。明治七年一二月管内の戸籍調書が提出されてないとの県の厳しい忠告を受けた大区会所は、「実ニ遅延恐縮ノ至リ」であり、元来戸籍は戸長の事務として日々の生死出入などを明細取り調べ申し出るようかねて規則や布達で指示しており、各小区でそれぞれ取り調べが整っていると存じていたのに、いまだ当会所に差し出しておらず、進達が差し支えているのは不都合であるので、来る二〇日までに調査を遅滞なく差し出すべしと督責した。その後も諸調査進達などがたぶんに遅滞したようである。明治八年二月一八日、大区会所は、取り調べ進達物一村一小区の渋滞は終わりにはその県の渋滞になり不都合なことが少なくないとの県からの懇ろな御沙汰もあったとして、各村組頭に「宿滞不都合ニ付右件々一応取調べ出来候迄小区事務所へ日勤」を命じ、勤務中は一日一○銭の日当を給与、不参すれば一〇銭の賠償金を出させ、虚病又は理由なくしてみだりに不参すれば更に二十銭の罰金を取ることにした。さらに各小区の戸長に対し、区戸長はそれぞれその責に任じ精々尽力しなければならないことは申すまでもなく、不注意があれば上下に対し相済まない次第であり、大区会所でも力の及ぶかぎり勉励のつもりであるので、戸長中においても何分尽力してこれまでの宿滞を一洗して向後の手順都合よく運ぶように取り計られたい、また官庁及び県庁よりの御布達類を漏らさず見過ごさないよう取り分け、肝要の事件は再三熟読して了解できないところは会所に尋ね、大区会所でも分からないものは県庁に伺うなど、精々注意するようにと説諭した。
 明治七年一二月、大区会所は、戸長心得、事務所の所在、組頭の勤務、区費取り立ての手続、戸籍取り調べの順序、布告類配達の手順、伍長の配置、小区小走給などについて各戸長に尋ねた。星川戸長は、「戸長ハ上下ノ中間ニ在テ第一 御趣意ヲ奉戴シ下へ貫通セシメ下情ヲ知リ事務怠リナク奉仕スルヲ主トシ、兼テ御布達ノ相心得罷在候事」と〝戸長心得〟を回答し、さらに、当分の間自宅を事務所に充てること、毎月一・六の日と御祭典の外は休暇なく、事務の停滞がないよう取り計らっていること、組頭四名は隔日事務所に出頭し、戸長と熟議して事務を取り扱っていること、区費支出は村々の重立った者が立て替えておいて、一年に一、二度村人に割賦していること、毎月の区費から村雑費に至るまで記録し、大区会所の監査を受けていること、戸籍人員増減は生死出入の度に伍長に届け出させて戸長の手許で戸籍帳を加除する方法を定めているが、十分に行き届かないので、時には組頭や小走などを戸毎に立ち入らせ取り調べていること、諸御布告は三部ずつ送付を受け、一部は保存、他は両村(山田井村・下分村)の伍長に配達して順次回覧するように取り計らっていること、区内に伍長頭八名・伍長二九名を配置して生死出入などを改めさせ、また人民に関する事件は事務所に集会して諸事協議のうえ後日異論のないようにしていること、小区小走などの定員はなく、当分賃銭雇をもって処理していることなどと報告している。なお伍長は組頭の下に配置された世話人で、二小区では明治五年八月一七日に下分村内を上中下の三組に分けて五名ずつの伍長名を大区会所に届け出ている。
 戸長や組頭を指揮監督する区長も県官からしばしば監察され、時にして県令など県主脳の巡視を受けた。明治八年二月三日県は各区戸長に「岩村権令儀本月中旬出発第五大区ヨリ順次各区郡村巡回相成候」と告げた。一二日随行の中属石原樸が第五大区から一大区までの正副区長にあてて岩村権令の巡回日程を通知、「諸役員等出迎ニ及ハズ且惣シテ馳走ケ間敷儀之無キ様」と注意した。岩村の日程は、一五日初日松山を出発して北条泊、以下二日目大井を経て今治泊、三日目今治に滞在、四日目新町を経て丹原着、五日目西条に泊まり六日目同地に滞留、七日目関ノ峠を越えて豊田泊、八日目県境の川之江に着き一泊することになっていた。九日目から帰路につき、この日萩生村岸下の飯尾家に泊まり、一〇日目小松泊、桜三里を越えて一一日目松山に帰着する予定であった。岩村の随行者は石原樸ほか従者一人小使一人の計三人、極めて少数の伴揃いであった。
 一地区の村治に見られるように、戸長は「事務ニ於ケル、内ハ頗ル繁忙ヲ極メ、外ハ御督促ヲ受クル少ナカラス」の立場にあり、繁忙なために事務が長引くことが多く、「其責戸長ニ帰シ、小区ノ体裁立タサル」(第一二大区一五小区二戸長永井直之の建言)状態が生じていた。有識者の戸長への風当たりも強く、「戸長等官吏ニ至ツテモ村名ヲ謬称シ、或ハ音訓ヲ弁解セサルヨリ蒙昧ノ村吏ハ其ノ何タルヲ会得セス、甚シキニ至テハ居住ノ村名及ヒ生産ノ物品ヲ尋問スト雖トモ茫然答フル能ハサル者尠ナカラス」(第二一大区一四小区北宇和郡中間村平民二宮致知の建言)とか、「無智文盲之レニ加ヘ租税并算法等ヲ弁セサル者ヲ戸長ニ置レ、実ニ其任ニ当ラス、有名無実」(第二二大区八小区喜多郡上新谷村士族小泉正澄の建言)とかいった戸長の資質を疑う建言が県庁に提出されている。特に自らも戸長を務めていた小泉は、世間でも戸長の資質が噂になっているので恐れを顧みず文書にて申し上げると断りながらも、今は日を追って進歩の時であり、朝廷の大綱を奉戴して衆庶共に維新の徳化を仰がねばならないのに、当地のような僻村の地ではいまだ旧習を主張し、頑固の人心聖意のあるところを知らず、道路の流言に迷い方向を誤る者が少なくない、その項目を挙げると、第一、朝旨貫徹せず下情また上に通じない、よって今日の御布達は百事その趣意を取り違え方向を誤ることが多い、第二、毎区戸長以下の役人は己が任を尽さず多くはその日送りの心得であるので実効があがらない、第三、文明開化と唱え形は開化しているが人心開化には至っていない、ただ異形体をなすを開化と心得ている者が多い、第四、小学校の法が立っていないために生徒は自然軽薄虚飾の風弊に陥っている、第五、県庁の官員が一和せずまま進退あるゆえに昨日の指令も今日替るとの風聞があり、衆人が疑惑を抱き沸議を生ずる原因となっている、第六、諸願伺の指令が遅延して時期を失する事があり、衆人不平を抱きややもすれば政府を誹謗(ひぼう)する因をなしている、第七、賄賂流行の風聞があり、これが事実ならば大弊害を生ずることになる、第八、諸堤防橋梁破壊の場所の速やかな修復や井関池など水利の法の検査改善を図らなければ良田の損害のみならず人心の動揺を招くことになる、第九、種痘の良法が奨励されているが、種痘免許医が名利に走り謝礼を等級別に取るなどの風聞もあり良法が一般に行われていない、第一〇、廃藩後米穀を計る桝の統一規則がないので奸商が利益をむさぼり弊害を生じている、第一一、徴兵令や改暦の事などについてはその趣意を了解せず、いわれなき浮説流言を主張しおおいに愚民を煽動する者がいると、村政各方面の不振、住民の頑迷ぶりなどを逐一具体的に指摘、その改善策を建白している。
 これらの弊害の改善策として、小泉は、県庁の達書の解諭の任に村々寺院の住職を当たらせること、戸長の勤惰をよく賢察の上実効ある者は褒詞し怠惰な者は罷免すること、教育の道を盛んにして人心の開化を鼓舞すること、風俗を改め浮説流言を取り締まるため小区ごとに邏卒を配置することなどを提案している。
 こうしてとかく人物才能が問題にされる戸長にとって、地租改正事業が大きな負担としてのしかかり、事業を促す県当局と村民の板挾みに苦しみ、「争テ辞表シ其職ヲ避ン」とする現象が見られた。先の小泉戸長と同郷の上新谷村惣代役(組頭)平塚義敬は、戸長を辞職する者は才芸不能あるいは病体を原因としている、しかし内実は僻里の愚民共が御仁恤の御主意に表面は謹承拝服するが内心は百事疑惑を抱き県官をおおいに誹謗するなど耳を覆う事件が数えきれない、正副戸長は地租改正などの意味を懇々申請しているが、かえって頑愚井蛙の連中はこれを疑い、ややもすれば竹槍などを取り出す始末で、薄給でかねて職務に勉励でなかった戸長らは説諭の効果もあがらず村人の怨念を避けるにしかずと辞任すると解説している。
 新谷村に近い一七小区(五郎村・若宮村―現大洲市内)戸長井林純一郎のように「租税ハ大事改租ハ大業、夫レ戸長ノ任最重ノモノハ租税、此ノ改正大業ヲ負担シナガラ職ヲ辞セントスルトキハ所謂(いわゆる)向来ヲ臆測シ竹槍蜂起ヲ末来ニ恐ルヽ者ノ如シ、斯ル汚名ヲ得ルトキハ後日何ノ面目有テ世人ニ対セン」(戸長改撰之儀建白)と意気盛んに職務に励もうとする官選戸長もいたが、一般的には、「前日図ラズモ戸長ヲ命セラレ其実地ニ当リ候テハ大ニ見込ノ違ヒシ儀少カラス、目下ニ施行仕難キ事件多ク御座候ノミナラス、方今地方ノ儀ハ御改革ノ際事務多端ニシテ百事其実挙ラス、寸分ノ目途相立チ難ク恐懼(きょうく)ニ耐ス」(小泉正澄の建白)とか、「頑民ノ不協カニヨル事務渋滞」を理由に辞職する者が相次いだ。

 戸長・組頭公選の実施

 明治九年六月九日、岩村権令は「戸長公撰仮規則」を布達して、官選戸長が転免死亡したときの後任戸長は公選させることにした。この公撰仮規則と同時に区長に示達した「戸長撰挙試験仮規則」の中で、岩村は当今の政情からすれば公選制を実施すべきであるが、「急進却テ事ニ害アルヲ恐レ」、「只転免死亡ノ時ノ代員ヲ公撰セシメ、徐々本法ニ到ルヲ期ス」との方針を示し、昨今、戸長が県当局と村民の板挾みに苦しみ辞職していく風潮に対し、もとより去る者は追わなくてよいけれども、「現ニ改租ノ挙アリテ或ハ之カ為メ渋滞ノ患アルヲ免カレサラントス、之二処スル果シテ如何」と、地租改正事業が遅れることに苦慮する心情を告白していた。
 公選仮規則は、「即今在任罷在候向ヲ改撰候儀ニハ之レ無キ候間、心得違之レ無キ様致スヘシ」と前文で注意した後、一一条にわたって公選内容を規定した。これによると、小区内の組頭及び議事役を選挙人と定め、戸長候補者は、年齢二〇歳以上で品行正直、学識があり通常の資産を有する戸主であった。小区内に適当の人物がいないと選挙人一〇分の六以上が見込むときは大区内から選び、大区内にも適当な人物がいなかったら区長にその処理を要請するとした。とかく戸長の技量才幹が問題視されていたので、選挙人が選択した人物であっても官で不適当と見込む場合は試験する事があるとして、区長に投票の多数者三名を選抜して適否の見込書を添えて進達することを指示した。試験は一番札から三番札までの人物才幹技量の能否を区長が判然認識しがたい時のみ大区会所に三名を呼び出して実施する。その内容は「憲法類編官途必携布告全書ノ類ヲ授ケテ、二葉ヨリ少カラス三葉ヨリ多カラス之ヲ通読セシメ其大意ヲ弁解セシム」、「筆硯ヲ授ケ仮ニ事ヲ設ケテ伺書或ハ他府県掛合書又ハ送籍状ノ如キヲ二三片書セシム」、「算盤ヲ把ラシメテ加減乗除ヲ試ム」などであった(資近代1 二七八~二七九)。ただし、戸長に選ばれる人物は地方の名望家で区長ともかねて知己関係にあったであろうから、実際に試験まで行っての戸長選抜が実施されたかどうか疑わしい。
 大区小区制下、村政の不振が叫ばれ官選戸長の資質が問われる中で、岩村は知識人の公選論を受容する形で戸長公選制を実施した。ここには、表面上戸長を「人民ノ惣代」と位置づけるために組頭と議事役を選挙人として村の地主・豪農の代表者を戸長に公選させることにより、小区行政の向上円滑化と地租改正を促進させる政治的意図が働いていた。
 戸長を補佐して町村ごとに置かれた組頭は民選を原則としていたが、戸長と同一線上で明治一〇年四月二一日「組頭撰挙仮規則」が定められた。これによると、選挙人は町村内に住む町村会議事役、組頭候補者は町村在籍者で、年齢二〇歳以上の品行正直通常の資産を有する戸主であった。戸長は組頭の転免死亡などのとき三日以内に後任選挙を行うことを選挙人に通達、投票が終わるとこれを検査して多数票の三名を抜き能否の見込書を添えて速やかに区長に差し出すことになっていた(資近代1 四五四)。
 こうして戸長・組頭は前任者の転免死亡の時のみ公選で後任を選ぶことになったが、該区一小区戸長欠員に付後任を定則どおり公選したところ、小区内の選挙人には各自党派があり、陰に私的に画策した人に高点を与えようとするなど時々採聞しており、公選の主意は到底行い難い(第十一大区越智郡伺)といった区長の上申も見られた。
 公選で就任した新戸長は、「上ハ官省ノ公布ヨリ下ハ貧家ノ借証ニ関シ、且朝夕ニ衙庁ノ譴責ヲ受ケ暮ニ頑民ノ苦情ヲ聞ク」(第十三大区七小区宇和郡立間村東小路西小路北小路戸長横田敬正「戸長職掌ノ儀ニ付上申」)といった相変わらずの事務繁忙と精神的労苦の場に立たされていた。
 戸長・組頭の公選制実施に対し、「各村組頭アリト云ドモ多ク蒙昧(もうまい)ニシテ事ヲ助クル能ハズ、其人品ヲ挙グルハ官撰ヲ旨トス」(第一九大区八小区宇和郡魚成村士族近藤有水の建言)と旧来の官選を主張する者も少なくなかった。反面、県都松山を会所とする第六大区(温泉・和気・久米郡一円等)の副区長石崎保一郎・西山徴・秋山正行・長井義穀・豊島直明・広瀬唯七の六名は連名で「区戸長ノ儀ハ人民代理同一ノ御見做(けんさ)ニ之レアリ候得ハ豈独リ区長ノミ官撰ニ相成ルヘキノ理アランヤ、……此人民ノ疑惑ヲ生スル処ニシテ、私共ニ於テモ黙止シカタク、御庁議相窺度」として区長公選を要望、「広ク民撰ヲ以テ御採択相成度在候ハヽ、第一人民疑団ヲ氷解シ、而シテ当器ノ人物相備リ、随テ民心純粋文明之化路ニ進歩スルノ一助トモ相成申スベキヤト存ジ奉リ候」とその効果を説いた。この建言を岩村は「建言ノ趣追テ何分ノ紛議ニ及バス、依テ参考ノ為留置候事」と決裁、即座に却下している。岩村ら県主脳にとって区長民選にまで論議が及ぶことは警戒すべきことであり、大区小区の行政を監察するため明治九年七月大区会所に官吏を派遣駐屯させた。
 七月一七日付岩村の官吏派遣の「告諭」には、区長の任たるや、一大区内大小の事務百端ことごとく所管しその繁冗は推して知るべきである、しかしながら民費がかさむのでこれを増員することはできない、限りある人員の体制をもって歳月を過ごしていると県治のすべてをまっとうすることは難しくなろう、そこで今般内務省に伺いの上県庁第一課官員を各大区に派出して、区長を監督し事務を調理するなど諸般に関与させ、省くべきものは省き廃すべきものは廃し、なるべく簡易に完成せんことを希望するとあり(資近代1 二八三~二八四)、事務簡素化を派駐官員設定の主たる理由としている。しかし大区諸官員派駐の真の意図が区戸長の監督と民情探知にあったことは、八月一○日に発布された「派駐官員心得」で明らかである。心得には、区戸長を監察して上局に密申する、区内を巡回して小区一切の事を聞知してその成否を判断する、区内を視察して民情を探り、才芸品行抜群の者や孝貞忠実の者があれば具申する、区戸長及び人民の諸願伺届を精査熟閲して成規例格に抵触すれば糾合する、諸収納及び調物に注意して期限を誤らないようにする、諸収納金穀の事務を調理する、物産を殖し工業を興すなど民利の生ずるところに注意する、民力と意向とを量り凶荒予備の方法に注意する、学校・衛生上の事務は時々学区取締・医務取締の陳述を聴き適応の処分をする、戸長選挙の節は区長の見込書を審査する、巡査を必要とする時があれば出張警部に通知してこれを指揮するなどが箇条書きに列挙してあり、これら大区詰官員は、二月、五月、九月、一一月の第一月曜日に本庁に会同して、区内の景況人民の意向などをつぶさに開申し事務取扱上の便否を審議することになっていた(資近代1 二八八~二八九)
 こうした周到な規定をもって各大区に派遣された派駐官員は、香川県併合を機に明治九年九月中旬に本庁に引き揚げた。香川県合併による事務増加で県官が不足したのであろうか、大区詰官吏の派駐はわずか二か月に満たなかった。

 香川県の併合

 明治九年八月二一日、右大臣岩倉具視は、「香川県廃サレ其県へ併サレ候条、土地人民同県ヨリ受取ヘシ、此旨相達候事」と愛媛県に命じ、二三日には内務卿大久保利通名で「引渡期限ハ廃合御達拝承ノ日ヨリ五十日ヲ定度」などと指示した。愛媛県は九月一日付告示で「香川県廃サレ本県へ併セラレ候旨御達相成候条此段布達候事」と県民に告げている(資近代1 四二二~四二四)。
 この年、政府は四月一八日と八月二一日の二回に分けて府県大廃合を断行、狭少な県を対象に隣県への併合を進めた結果、全国三府三五県になった。香川県のほかに富山・奈良・鳥取・佐賀県などがこの時期県名を喪失した。また名東県の阿波国は高知県に併合され、淡路島は兵庫県に所属した。
 讃岐国は江戸時代に高松・丸亀・多度津の三藩に分領され、廃藩置県に際して高松・丸亀の二県となった。明治四年一一月香川県が誕生し、同六年二月廃止されて名東県(阿波・淡路・讃岐)を形成した。同八年九月五日讃岐国は名東県から独立して香川県が再置されたが、わずか一か年にして愛媛県に併合された。「何ノ罪アリテ屢(しばしば)此離合ノ災ヲ蒙ルモノナルヤト且ツ疑ヒ且ツ歎シテ止マサル所ナリ」と、後年の「分県請願書」は当時の讃岐民の心情を表現している。
 九月一四日香川県合併に伴う大区名称替えが布達され讃岐国の東端を第一大区に、伊予国の南端を第二一大区に改め、旧香川県は七大区、旧愛媛県は一四大区に分割された。旧大区と対照して表示すると表1―4のようである。高松には、「該地ノ人民ニ於テ依然遠隔ノ地ト相成リ便宜ヲ失シ候儀少ナカラズ」として出張所が置かれたが、一〇月二日に支庁と改称し、中属藤野漸が支庁長に任命された(資近代1 四二六~四二七)。愛媛県と香川県では県治の内容が異なるため、合併の結果いろいろな場面で統一を欠いた。九月二八日、県当局は、「今般香川県合併相成候処凡両県治ノ大綱ハ固ヨリ異ナルアルナシト雖トモ、其次第節目ニ到リテハ少シク其差ナキヲ免カレス」、このため「甲乙ヲ校量シ其簡良ナルハ之レヲ採リ其繁苛ナルハ之レヲ去リ漸次抜萃(ばっすい)シテ勤メテ一定ノ良法ニ因ラシメントス、故ニ今後文書ノ出納ヲ始メ辞令達書等従来ノ手続ニ抵触候儀之レアリ候」と布達したが、最も不便であったのは大区小区編成と役名の違いであった。
 香川県では、合併に先立つ明治九年五月に、「香川県区画編成法」と「大小区戸長権限並事務規程」を布達した。区画編成については、戸数五戸を一伍、五伍すなわち二五戸を一組として民選無給の組長を置く、およそ一二組すなわち三〇〇戸を大組とし書記兼戸長を置く、およそ一〇大組すなわち三、〇〇〇戸を合わせて一小区とし小区長を置く、八小区ないし二万四、〇〇〇戸を合わせて一大区とし大区長を置くことを標準とした。大区長・小区長・戸長は官選であった。大小区画は大区長と正副小区長名簿とともに愛媛県に引き継がれ、県当局では不明確であった戸長の受持区域を「町村」と定めて大区と一部小区の名称を改めたのみで旧香川県の区制と役人をそのまま存続させた。この結果、大区・小区・町村行政の担当者は、伊予国の区長・戸長・組頭に対して讃岐国は大区長・小区長・戸長であり、これらの異なった役職名が同一県で併存した。このため、県布達類も「乾(けん)」「坤(こん)」(明治一〇年以後「甲」「乙」)のほか番外達(明治一〇年以後「丁」)を設けて、「第一大区ヨリ第七大区マデ各大小区々戸長」「第八大区ヨリ第二二大区マデ各区立戸長」「讃岐国」「伊予国」と宛先対象が区別された。伊予国ですでに実施されていた町村会・大区会は一二月八日と二八日の番外達でこれらの施行を勧奨されたが、讃岐国の小区長・戸長は官選であったので、伊予国の戸長・組頭に準じて公選を訴える声が高まった。例えば第三大区二十区(小豆島池川村)の小区長伊藤程吉・戸長日下雪太郎は連名で明治一一年二月一六日に「大小区々戸長公撰ノ儀建言」を提出している。この中で伊藤と日下は、区村吏の設置方法権限呼称及び県税の軽重など予讃両国で異なるのは末吏の者にとっていささか感ずるところがある、予讃両国は我が愛媛県である、廃藩置県直後でもない今日、一県内で両国その制を異にするなど他県にも例を見ない、よろしく速やかに予讃両国の制度を一途に帰してもらいたい、しかしながら事に緩急順序あり、特に急を要するのは区村吏の選挙法であって、官選で公選でないため人民がその職任に堪える人物を精選することが出来ない、ことに村吏にはその傾向が強く、弊害が少なくない、今日天下の景況を観察すると、民権漸次拡張して既に県区町村会議が設けられ、民智も日進月歩今日の民は昔の民ではない、しからばこの際官選法を改めて公選とし、大区長は大区会議で、小区長は臨時小区会議で、戸長は町村会議で適任の人物を公選するようにすれば、人民の自主の権利を伸幅させることになると訴えた。
 また第一大区七小区寒川郡長尾名村蒲生愛三は「従者戸長ノ職タルハ行政事務ニ従事スルト其町村ノ理事者タルトノ二様ノ性質ヲ兼帯シ、則チ半ハ官吏ノ如ク半ハ人民ノ如キモノナレハ、官之レヲ実際ニ施行スルニ当テハ宜シク各町村ノ戸長ハ必ス官民ノ合撰ニシタマフヘシ」と主張した。こうした建言にもかかわらず、讃岐国の区村吏呼称と選挙方法は明治一一年七月の「郡区町村編制法」施行時まで改められなかった。こうした放任が讃岐人の「猜忌(さいき)ノ心ヲ養成シ、動(やや)モスレハ管庁ノ措置ヲ疑フノ気風」(明治一三年県政事務引継書)を醸成する原因ともなった。

表1-3 大区名・小区数と大区会所設置場所

表1-3 大区名・小区数と大区会所設置場所


表1-4 香川県合併による大区名称改正

表1-4 香川県合併による大区名称改正