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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

大洲藩・新谷藩

   藩主任免・参勤・巡見は略す 
   洪水記事は増水二丈五尺以上のみを記す

  年 号      事     項
(一六一七)
元和3・7・20○幕府、脇坂淡路守安元を伊予大津(以下大洲とする)から信濃飯田城に移し、加藤貞泰を伯耆国米子より伊予大洲に移す(台徳院殿御実紀)。
元和3・8・6○加藤貞泰、大洲城に入る(積塵邦語)。
元和3    ○加藤貞泰、菩提寺指月山曹渓院を伯耆国米子より大洲に移す(北藤録)。
元和6・1・18○加藤貞泰、大阪城修築助役を命じられる(台徳院殿御実紀)。
元和6・3・21○大洲藩、居城の長屋・塀の破損修理を幕府から許可される(北藤録)。
        ○『大洲市誌』では、元和八年三月二一日とする。
元和9・7・13○加藤泰興、父貞泰の遺領六万石を相続し、弟直泰に一万石を内分する(台徳院殿御実紀)。
元和9・10  ○大洲藩主加藤泰興、大坂城石塁の修築に助役する(北藤録)。
(一六二七)
寛永4・4・1○大洲藩主加藤泰興、加藤嘉明会津転封により松山城在番を命じられ、番所を受け取る(加藤家年譜)
寛永7・8・20○桑村郡における大洲・松山両藩の境界について大洲側垂井勘左衛門、松山側高瀬為右衛門協議する(朝倉武田家旧蔵文書)。
        ○藩領確定は寛永一〇年一一月五日。
寛永11・8・25○大洲藩主加藤泰興、松山城主蒲生忠知の病没により城主不在になった松山城在番を命じられる(北藤録)。
寛永11・10  ○中江藤樹、新谷藩を去り近江に帰る(藤樹年譜)。
寛永12    ○大洲藩主加藤泰興、松山城在番中、大洲領桑村郡・風早郡の内と松山領伊予郡・浮穴郡の内との替地を許可される(加藤家年譜)。
        ○「戒能通矩覚書」には寛永一一年とあるが、「大洲旧記」など一二年説多し。
寛永13・1・8○大洲藩主加藤泰興、江戸城石塁造営を命じられる(大猷院殿御実紀)。
寛永13    ○大洲領伊予郡の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟、郡中灘町を開く(積塵邦語)。
寛永14    ○島原の乱、大洲藩より使者として垂井兵左衛門を派遣する(加藤家年譜)。
寛永16・6・18○大洲藩、一七年来の分知紛争、親族扱衆の調停により、新谷藩加藤直泰一万石を領知朱印状内書とすることで解決する(北藤録)。
寛永17・7・27○大洲藩主加藤泰興、讃岐国高松城在番を命じられる(大猷院殿御実紀)。
寛永19・春  ○新谷藩主加藤直泰、在所を新谷に定め、屋敷ならびに侍屋敷の縄張を命じる(新谷加藤家伝記)。
寛永20・7・7○大洲藩主加藤泰興ら、江戸で朝鮮使節馳走役を命じられる(加藤家年譜)。
        ○馳走役任命は、承応二年七月一七日参向公卿・明暦元年一〇月八日朝鮮信使・延宝六年参向伝奏勅使・元禄九年日光参向門跡・元禄一三年同上・宝永六年参向勅使・正徳元年一一月一日朝鮮信使品川駅・正徳二年日光参向門跡・享保元年三月三日両伝奏・元文元年三月一三日同上・寛延元年五月三日朝鮮信使・宝暦元年閏六月二八日参向勅使・宝暦八年三月一二日参向両伝奏・明和元年二月一五日朝鮮信使・安永八年八月二八日参向勅使・天保七年二月二四日参向勅使・天保一三年一月二一日参向門跡・文久元年八月一七日勅使、などがある。
寛永20・9・27○大洲藩主加藤泰興ら、大名火消を命じられる(大猷院殿御実紀)。
(一六四八)
慶安1・8・25○中江藤樹没す(藤樹年譜)。
慶安2・2・5○大地震(垂憲録拾遺)。
慶安4・3・11○大洲町、十人組帳を提出する(大洲町十人組帳)。
慶安4・春  ○大洲藩主加藤泰興の招きにより僧盤珪永琢大洲に来る(加藤家年譜)。
(一六五七)    
明暦3・3・10○大洲藩主加藤泰興、丸亀城在番を命じられる(厳有院殿御実紀)。
(一六五八)    
万治1・11・25○大洲藩、幕府から石垣修理の許可を受ける(北藤録)。
万治1・年末 ○大洲領小湊村漁民と松山領松前浜村漁民との漁場争論、土佐藩主山内忠義の調停によって和議が成立する(北藤録)。
(一六六四)    
寛文4・7・18○大洲藩、幕府から三ノ丸石垣修理の許可を受ける(北藤録)。
寛文5・5・18○大洲藩、幕府から本丸天守台の石垣修理を許可される(北藤録)。
        ○同八年六月一九日には二ノ丸石垣修理も許可される。
寛文9・9・5○大洲藩主加藤泰興、如法寺を建立し、この日盤珪永琢入寺する(加藤家年譜)。
(一六八一)     
天和1    ○知行制度が改定され、封禄蔵米支給となる(新編物語藩史)。
(一六八五)
貞享2・11・10○大洲地方大地震(御年譜微考)。
(一七〇一)
元禄14・9・15○大洲藩、幕府より大洲城三ノ丸西方隅櫓再建の許可を受ける(北藤録)。
元禄15・7・28○大洪水、潰家一、三三二軒、流死二人(加藤家年譜)。
元禄16・8・19○大暴風のため、倒家六〇八軒(加藤家年譜)。
(一七〇四)
宝永1・8・6○新谷藩主加藤泰觚、幕府より駿府城の加番を命じられる(新谷加藤家伝記)。
宝永3・3・12○大洲城下裏町より出火、四五五軒を焼失する(加藤家年譜)。
(一七〇七)     
宝永4・8・18○洪水のため潰家一、七八二軒(加藤家年譜)。
宝永4・10・4○大地震、大洲城の石垣崩れる(加藤家年譜)。
        ○この時崩れた石垣の修理は、同年一一月二六日付で許可された。
(一七一一)
正徳1・4・1○大洲中村より出火、侍屋敷九九軒、百姓家九三軒を類焼する(加藤家年譜)。
正徳2・6  ○大洲領伊予郡南神崎村のうち一、五〇〇石、幕領となる(江戸御留守居役用日記)。
(一七一六)    
享保1・3・29○大洲藩、幕府から大洲城石垣の修理を許可される(北藤録)。
享保1・6・27○大洲藩、当年より五か年の間定免を命じる(加藤家年譜)。
享保2・7・11○大洲藩主加藤泰統、幕府から火災焼失の神田鍛冶橋御門普請助役を命じられる(北藤録)。
享保2・8  ○大洲藩、正徳二年に上地した一、五〇〇石を新田にて償うことを認められる(新編物語藩史)。
享保3・8・2○大洲城下中町より出火、四五二軒焼失する。大洲藩主加藤泰統、米五〇俵・塩二〇俵を出して救済する(加藤家年譜)。
享保5・8・27○大洲藩士の間に馬飼育のための頼母子が始まる(加藤家年譜)。
享保6・⑦・6○大洪水二丈九尺五寸(加藤家年譜)。
        ○同月一五日にも洪水あり。
享保7・3・28○大洲藩、幕府より大洲城本丸塀下石垣の築直しを許可される(北藤録)。
享保8・12・6○大洲城下大火、四三七軒類焼。大洲藩主加藤泰統、米五〇俵、塩一〇俵を出して救済(加藤家年譜)。
享保12・4  ○大洲藩、家中・郷町へ倹約を布達する(加藤家年譜)。
享保15・5  ○大洲藩、紙方本座連中を定める(大洲商家由来記)。
        ○五百木屋彦兵衛ら一八名。
享保17・1・16○大洲藩、藩士救済のため銀札貸借の規定を布達する(加藤家年譜)。
享保17・⑤・12○大洲城下町に大火があり、侍屋敷三七軒・無足屋敷二三軒・町家三〇〇軒余を焼く(加藤家年譜)。
享保17・7・11○大洲藩、儒者川田雄琴を二〇人扶持で抱える(加藤家年譜)。
        ○延享元年八月二〇日、一〇人扶持加増される。
享保17・7  ○大洲藩主加藤泰温・新谷藩主加藤泰広、領内の虫付損毛状況を報告する(虫付損毛留書)。
享保17・12  ○大洲藩主加藤泰温、幕府より五、〇〇〇両拝借する(虫付損毛留書)。
        ○大洲藩へ幕府が回漕した救恤米は七、三〇〇石、新谷藩へは一、二〇〇石。飢人は一二月一三日付報告では大洲領三万五○○人、新谷領六、三〇三人。
享保19・5・12○大洲城下裏町から出火、四〇〇軒余類焼(加藤家年譜)。
享保19・9・28○大洲藩、当作半物成以上の不作のため、幕府に五、〇〇〇両借り入れを願い出る(加藤家年譜)。
        ○一〇月八日、藩士の俸禄を高一〇〇石につき米豆一五とする。
享保20・2・9○大洲城下中町出火、一六三軒焼失(加藤家年譜)。
享保20・3・6○大洲藩、諸役所の入用を節約するよう通達する(加藤家年譜)。
(一七三六)     
元文1・2・23○大洲藩、藩士に救米を給する(元文日録)。
        ○救米支給の割合は、ほぼ一〇〇石について四石。
元文2・9・12○大洲藩、節約を布達する(元文日録)。
元文2・⑪・8○大洲藩、家臣の給与ならびに条目を布達する(元文日録)。
元文3    ○大洲領喜多郡五十崎で蝋打ちが始まる(積鹿邦語)。
        ○五十崎町綿屋長左衛門の弟善六とその子善太郎が芸州可部より三人の技術者を雇い入れて蝋打ちを開始、その後新谷領只海村冨永甚蔵にも技術が伝えられ製蝋が開始された。
元文5・2・18○大洲領喜多郡成能村の農民二七人、生活緊縮・耕作精励に関する定書を作る(予州大洲好人録)。
元文5・2・29○大洲城下町木屋吉兵衛宅裏より出火、六〇〇軒を焼く(加藤家年譜)。
元文5    ○火災が多いので瓦葺が奨励される(加藤家年譜)。
(一七四一) 
寛保1    ○大洲領砥部大庄屋田中権内と、近隣一七か村との間に騒動があり、翌年七月北川毛村庄屋善兵衛・川登村佐治右衛門死罪となる(御替地古今集)。
        ○この事件に際して、北川毛村善兵衛の身柄を預かり、その身命を救うために奔走した上野村庄屋玉井儀兵衛は、善兵衛の刑死後自決した(玉井家文書)。
寛保2・1  ○新谷藩、町内に御用米二〇〇石献上を命じる(森永氏蔵「新谷町内家持献功名鑑」)。
寛保2・7  ○大洲藩、領内風早郡忽那島庄屋に対し船札定を布達する(中島町教育委員会所蔵文書)。
寛保2・9・14○大洲藩、藩蔵の計棒が繰棒のところ直棒に改める(加藤家年譜)。
(一七四六)
延享3・3・25○大洲藩、財政困窮のため銀札通用を布達し、銀銭を取りまぜて使用するよう命じる(力石本加藤家年譜)。
延享3・10  ○大洲藩、紙方仲買連中を定める(大洲商家由来記)。
延享4・9・6○大洲藩主加藤泰衑、止善書院明倫堂を創立する(湖学雑纂)。
(一七四八)  
寛延1・1・13○大洲藩、藩蔵の計棒を再び繰棒に改める(加藤家年譜)。
        ○この前年、物納米計桝計棒の継続を要求する御蔵騒動があり、藩が要求を受け入れた。
寛延1・5・19○大洲領中村より出火、一〇四軒を焼失する(加藤家年譜)。
寛延2・4・7○地震、大洲城石垣痛む(加藤家年譜)。
寛延3・1・16~28○大洲領浮穴・喜多両郡の農民、特権商人の暴利停止・六か村庄屋の罷免を要求して一揆を起こし、やがて内子河原に屯集する(寛延秘録)。
        ○一揆の総勢約一万八、〇〇〇人、五百木・五十崎などで豪商・庄屋宅攻撃、新谷藩の斡旋と法花寺・高昌寺・願成寺の僧が調停役となり解決、内ノ子騒動と通称する。この年大洲藩商札定書を改める。
(一七五一)    
宝暦1・9・10○大洲藩、財政困窮のため、藩士への俸禄を知行一〇〇石につき一五石支給とする(加藤家年譜)。
宝暦5・夏  ○大洲・新谷領浮穴郡麻生村と松山領同郡森松村との間に水論が起こり、森松村が設置した関を麻生村農民約二〇〇人が切り崩す(大洲旧記)。
宝暦9・冬  ○大洲藩六代藩主加藤泰衑、家史「北藤録」二〇巻を完成する(北藤録)。
宝暦10・4・25○大洲藩、凶年用意のため村々に貯麦を命じる(新編物語藩史)。
宝暦10・7・11○大洲藩、紙締方を改める(新編物語藩史)。
宝暦10・11・14○大洲藩、梶(楮)は残らず藩買い上げとする(新編物語藩史)。
宝暦10・11・29○大洲藩儒者、川田雄琴没する(興禅寺墓碑銘)。
宝暦11・夏  ○大洲・新谷領浮穴郡麻生村と幕領伊予郡宮ノ下村など五か村との間に水論が起こる(大洲旧記)。
宝暦12・5・11○大洲藩、朝鮮信使の江戸宿坊馳走役を命じられ藩士に給与差し上げを命じ、高一〇〇石につき九人扶持を支給する(加藤家年譜)。
宝暦12・夏  ○大洲・新谷領浮穴郡麻生村など四か村と松山領同郡森松村など二四か村との間に水論起こり、双方合わせて二、八〇〇人衝突する(大洲旧記)。
宝暦12・11・25○大洲領長浜に大火があり、一七八軒を焼失する(加藤家年譜)。
(一七六六)
明和3・8・10○大洲藩、明倫堂で藤樹祭を行う(加藤家年譜)。
明和4    ○大洲祭礼のとき高河原で牛馬市を始める(力石本加藤家譜)。
明和5・4・5○大洲藩、尾張・美濃・伊勢の川浚え助役を命じられる(浚明院殿御実紀)。
        ○これまでの助役は人夫を出していたが、この助役以後は金納となる。
明和5・9・25○新谷藩主加藤泰官、駿府城の加番を命じられる(新編物語藩史)。
明和7・3・23~24○大洲領喜多郡蔵川農民、宇和島領宇和郡野村に逃散する(宇和島藩御仕置帳)。
          ○一〇月一九日、頭取新之亟・吉右衛門斬罪となる。
明和7・10・29○大洲領忽那島に大火があり、一四六戸を焼失する(加藤家年譜)。
明和8・6・8○大洲・新谷領浮穴郡麻生村と、大洲領伊予郡八倉村、幕領同郡南神崎村、松山領同郡出作村・徳丸村との間に水論が起こる(御替地古今集)。
        ○安永三年二月二三日、備中代官所取り扱いにて裁決され、下麻生村組頭兵右衛門、首魁であると名乗り出て死罪となる。
(一七七三)
安永2・5・25○大洲の洪水で二丈五尺増水する(加藤家年譜)。
安永3・春  ○大洲領伊予郡本郡村塩田を開発する(御替地古今集)。
安永4・2  ○大洲藩、伊予郡麻生村門田金治に五本松唐津山の開発を命じる(御替地古今集)。
        ○この時杉野丈助は門田金治とともに磁器製造の業務監督を担当し、技術面での責任者として努力し、安永六年試作に成功した。
安永4・5・28○大洲城下の船問屋、問屋筋を経ない商取引の取り締まりを願い出る(洲藩規則集)。
安永4・⑩・17○大洲城下に大火があり、一七〇軒を焼く(加藤家年譜)。
        ○この火事で避難道の工合が悪いため、安永五年二月一五日比志町(比地町)より河原へ二筋の突抜道を作る。
安永5・10  ○大洲藩、櫨の販売を自由とし、運上を課す(新編物語藩史)。
安永9・4・2○大洲領風早郡大浦村(部分)・小浜村・栗井村及び摂津国武庫郡二か村と幕領伊予郡南神崎村との村替えが許可され、南神崎村が大洲領となる(江戸御留守居役用日記)。
        ○南神崎村は正徳二年六月幕命によって一、五〇〇石分を上地したが、この時大洲領に復し、同時に南神崎村の名称は廃止されて、宮ノ下村・上野村となった。
(一七八一)
天明1・9・30○大洲領浮穴郡大南村と、新谷領伊予郡黒田村との替地が許される(加藤家年譜)。
天明3・8・12○大洲洪水、二丈八尺(加藤家年譜)。
天明3    ○新谷藩主加藤泰賢、藩校求道軒を創立する(旧新谷藩学制沿革取調)。
天明6・12・6○大洲藩、関東河川改修助役を命じられる(文恭院殿御実紀)。
天明7・4・25○大洲洪水、二丈九尺七寸(加藤家年譜)。
天明8・2・6○大洲藩、領内に京都御所復興のための御用銀を督促する(堀内家文書)。
天明8・4・25○大洲洪水、二丈七尺九寸(大洲商家由来記)。
(一七八八)
天明8・9・25○大洲領喜多郡大瀬村の農民ら一三〇人、松山領に村出する(加藤家年譜)。
(一七八九)    
寛政1・1・20○大洲城下の中村河原で大火、二〇〇軒余焼失する(加藤家年譜)。
寛政1    ○大洲藩・新谷藩囲籾の制を始める(久保家文書)。
寛政4・7・25○大洲洪水、二丈七尺五寸(加藤家年譜)。
寛政8・5  ○大洲藩、本町在町を区分し、商品の取扱制限を布告する(御替地古今集・新編物語藩史)。
寛政8・8・11○大洲洪水、二丈八尺二寸(加藤家年譜)。
寛政10・4  ○大洲如法寺末遍照庵三世兀庵嬾徴「富士山志」二〇巻を完成する(富士山志)。
寛政10・4  ○大洲藩、甘藷の積み出しを制限する(堀内家文書)。
寛政10・5・23○大洲藩、領内物産移動の検査方法を改める(洲藩規則集)。
寛政10・9・23○大洲藩・新谷藩領内の人口、九万二、三三九人(江戸御留守居役用日記)。
        ○喜多郡五万一、五三五人・浮穴郡二万六、五一一人・伊予郡一万一、二七一人・風早郡三、〇二二人
寛政11・4・27○大洲藩、東海道筋川普請助役を命じられる(文恭院殿御実紀)。
        ○このため領内に一〇〇石につき一石の差上米を命じる。
寛政11・7・21○大洲城下大火、類焼七八一軒(加藤家年譜)。
        ○町内の焼失をまぬがれた家四五軒、藩より救助米三〇〇俵・材木一軒一間につき五本ずつ支給。
寛政12・6・7○大洲藩、「予州大洲好人録」を板行して領民に頒布する(加藤家年譜)。
寛政12・9・2○大洲藩、明倫堂を再建する(加藤家年譜)。
寛政12・12・21○大洲領喜多郡中居谷村庄屋隠居富永彦三郎、「大洲旧記」をつくる(積塵邦語)。
(一八〇一)  
享和1・4  ○大洲藩、陸越えの移出物品に口銭を課し、新谷領にも布令する(久保家文書)。
享和1・7・1○新谷藩、寛政八年以来禁止していた他領銀札の通用を許可する(久保家文書)。
享和2・5  ○大洲藩、商札条目を定める(大洲手鑑)。
(一八〇四)
文化1・7・26○大洲洪水、二丈六尺二寸(加藤家年譜)。
文化1・8・26○二九日まで大洲洪水、二丈九尺余(加藤家年譜)。
文化1・8  ○大洲藩、領内に厳しく倹約を布達する(中島堀内家文書)。
文化2・1・23○大洲藩預所三か村の年貢米を別子・立川両銅山へ回送するように命じられる(中島町教育委員会所蔵文書)。
文化2・12・18○大洲領豊作のため、藩士一〇〇石について一石五斗を臨時支給する(加藤家年譜)。
文化3・9・11○大洲藩、勅使饗応・藩邸類焼などのため家中に差上米を命じる(加藤家年譜)。
文化5・5・29○大洲藩、替地三町の郷町分離を許される(伊予史談会蔵「郡中諸用控」)。
文化6・6・26○大洲領喜多郡大洲村と新谷領同郡阿蔵村との間に竹之窪水論起こる(竹之窪水論実紀)。
文化6    ○新谷藩、政道内辺向とも本家支配となる(久保家文書)。
文化7・2  ○大洲城下町の組年寄を組役人と改める(大洲商家由来記)。
文化9・8・22○大洲領喜多郡一木村・北山村・大南村の一部と新谷領同郡阿蔵村・梅ノ川村との村替えが行われる(加藤家年譜)。
文化9・11・4○大地震(加藤家年譜)。
文化9    ○大洲藩、郡中灘町の波止工事を起こす(殿様御越諸事控)。
文化10・4・27○大洲藩、関東川筋普請助役を命じられる(加藤家年譜)。
文化10・9  ○新谷藩、文化六年以来行政・財政を本家大洲藩に依頼してきたが、行政をその手に復する(久保家文書)。
文化10・9  ○新谷藩、領内の御用竹の伐り方について指令する(久保家文書)。
        ○山方役の巡郷を一〇年間停止し、運上を銀納にさせる。同月領内の御用桐の仕出方についても指令している。
文化10・12・28○大洲藩、摂津国及び伊予国風早郡の預かり所を私領同様に扱うことを許され、同時に年貢定免・銀納を認められる(加藤家年譜)。
文化12・9  ○新谷藩、庄屋百姓の心得べき制法を改正する(久保家文書)。
文化13・3・25○大洲領喜多郡村前村の農民一四人、宇和島領宇和郡惣川村に村出する(新編物語藩史)。
文化13・11・28○大洲藩、紙専売に反対して徒党を起こした柚木村庄屋ほか二名を斬首する(獄門控)。
文化13・12  ○大洲藩、川艜掟を公布する(矢野家文書)。
文化14・1・28○大洲藩、替地を郡中と改称する(加藤家年譜)。
(一八一八)
文政1・12  ○大洲藩、領内本田畑の甘蔗栽培を禁止し、荒地・開墾地にのみ植え付けを許可する(中島堀内家文書)。
文政1・12  ○大洲領郡中から国役金を銀札で上納する(郡中諸用控)。
文政3・8・25○大洲藩、藩士の綱紀を粛正する。これを世に文政法令という(阿蔵中野文書)。
文政3・12  ○大洲藩、預け籾の集計をする(大洲手鑑)。
        ○合計一、八五四石四斗、内小田筋三七四石・南筋四五〇石・川筋五〇〇石八斗・内山筋五二九石六斗・郡中六四五石六斗
(一八二一)     
文政4・春  ○大洲領喜多郡長浜の佐々木源三兵衛、「積塵邦語」を著す。
文政4・8・8○大洲洪水、二丈五尺(加藤家年譜)。
文政5・6・22○大洲洪水、二丈七尺五寸(加藤家年譜)。
文政6・2・23○大洲藩、関東の河川修復助役を命じられる(文恭院殿御実紀)。
文政6・7・29○大旱魃のため、郡中浜御番所下で千人踊を実施(郡中諸用控)。
文政6・8・21○大洲藩、領内の船舶に加藤家定紋をつけさせる(加藤家年譜)。
文政7・1・15○新谷藩出身の碧川鐵胤、平田篤胤の娘婿となる(平田鐵胤伝記)。
文政9・5・21○大洲洪水、三丈三尺五寸(加藤家年譜)。
文政10・6・17○大洲洪水、二丈五尺(加藤家年譜)。
文政11・4・12○大洲領菅田村の農民一四〇人、同所河原に屯集する(加藤家年譜)。
文政12・5・22○大洲藩、甲斐国河川修理の助役を命じられる(文恭院殿御実紀)。
(一八三一)     
天保2・5・20○大洲洪水、二丈八尺(加藤家年譜)。
天保2・10・14○大洲藩、肱川の洪水被害を少なくするため、喜多郡五郎村渓雲寺山角の切り取り工事を始める(加藤家年譜)。
天保2    ○大洲領内の黒砂糖生産高二、七四五斤(江戸御留守居役用日記)。
天保3・6・9○大洲洪水、二丈六尺八寸(加藤家年譜)。
天保4・2  ○大洲藩、通用銀札の員数を幕府に報告する(江戸御留守居役用日記)。
        ○銀札合計七〇〇貫目、壱分札四万枚・弐分札二万五、〇〇〇枚・三分札五万枚・五分札五万枚・壱匁札八万五、〇〇〇枚・三匁札九万枚・八匁札二、〇〇〇枚・拾匁札二万八、〇〇〇枚
天保4・12・12○大洲藩・新谷藩、六月から八月にかけての冷害による損毛高を屈け出る(江戸御留守居役用日記)。
        ○大洲藩一万五、一一八石余、新谷藩三、一二三石余
天保5・8・18○大洲藩・新谷藩、領内の人口を幕府に報告する(江戸御留守居役用日記)。
        ○総計九万一〇二人
天保5・9・28○大洲藩、凶年手当貯えのため、家中に五年間の出米、領内富裕者に寸志銀を命じる(加藤家年譜・大洲手鑑)。
天保7・11・20○大洲藩・新谷藩、囲籾の売り払いを願い出て許可される(江戸御留守居役用日記)。
天保8・3・14○大洲藩、喜多郡田所村佐吉ほか二名を強訴徒党を企てたとして斬罪に処す(獄門控)。
天保9・7・8○大洲藩、領内の村名替え・文字替えをする(江戸御留守居役用日記)。
天保9・7・21○大洲洪水、二丈七尺余(加藤家年譜)。
天保10・7・20○大洲領旱魃のため、如法寺河原で千人踊が行われる(加藤家年譜)。
天保10・12・21○大洲藩・新谷藩、旱魃による損毛高を報告する。
        ○大洲藩二万六、七九〇石余、新谷藩五、二八〇石余
天保11・7  ○新谷領浮穴郡岩谷口村、砥部焼絵薬を昨年に引き続いて長崎から購入することを藩に願い出る(日野家文書)。
天保11・11・8○大洲領喜多郡五百木・城廻・大瀬・村前の四か村、村法を定め、年貢未進分の一〇か年皆済などを申し合わす(五百木村庄屋永代記録)。
天保13・3・18○大洲藩、農耕に支障があるため、領中の高機を禁止する(中島堀内家文書)。
天保14・7・12○大洲藩、異国船江戸近海渡来の際の警護出動人数手配書を提出する(江戸御留守居役用日記)。
(一八四四)    
弘化1・10・18○大洲藩、家中の困窮を救済するため、五〇年賦無利足で総額一万両を貸し下げる(加藤家年譜)。
弘化2・12・16○大洲藩預所、再び無年期預かりとなる(江戸御留守居役用日記)。
        ○これまでの経過は、安永九年四月二日預かり、文化一〇年一二月二八日私領同様取り扱い許可、文政四年七月二九日取箇永定免許可、天保一四年より三か年の年期預かり
弘化2・12・18○大洲藩、水害による損毛高を二万一七〇石余と届け出る(江戸御留守居役用日記)。
弘化3・3・3○鎌田玄台正澄執刀、服部正忠図録「解剖図」成る(解剖図序文)。
弘化3・7・9○大洲洪水、二丈六尺(加藤家年譜)。
(一八四八)
嘉永1・6・6○大洲藩、大阪城普請助役を命じられ、家中に差上米、領内に高掛りを課する(慎徳院殿御実紀・岡田家文書)。
        ○家中は一〇〇石について一石、郷中高掛りは高一〇〇石について六升
嘉永3・9  ○新谷藩、質屋条目を改め、質屋以外の質物取り扱いに対する罰則を規定する(出海村庄屋文書)。
嘉永5・②・3○新谷御屋敷奥より出火、長屋家中屋敷など焼失する(新谷加藤家伝記)。
嘉永5・8・16○大洲洪水、二丈六尺(加藤家年譜)。
嘉永6・3・24○大洲藩、江戸城西の丸の普請助役を命じられる(慎徳院殿御実紀)。
(一八五四)     
安政1・⑦・16○大洲藩医鎌田玄台没する(鎌田玄台墓碑銘)。
安政1・11・3○大地震、以後度々地震あり(加藤家年譜)。
(一八五五)
安政2・3・11○新谷藩儒者、児玉暉山没する(墓碑銘)。
安政2・7・14○大洲洪水、二丈七尺五寸(加藤家年譜)。
安政4・8・25○大地震、大洲城所々破損する(加藤家年譜)。
安政4    ○大洲藩出身の武田成章、箱館五稜郭の造営をはじめる(武田成章伝)。
安政5・9  ○コレラ流行、悪病よけに大般若経の転読をする(五百木村庄屋永代記録)。
安政5    ○大洲藩の常磐井厳戈・三瀬諸渕、電信の実験をする(伝記)。
安政6・7~ ○コレラ昨年に続いて流行する(塩屋記録)。
安政6    ○大洲領喜多郡宇津村奥野源左衛門、長浜の波止場築造の寄付募集を始める(波逗新築勧化簿)。
(一八六一)    
文久1・2・16~5・18○大洲藩、物価高騰のため困窮した町方の細民を救済するため、郡中波戸下砂掘り工事を実施するとともに、難渋者への貸し付けも行う(塩屋記録)。
文久1・4・5○新谷藩、大砲鋳造・火薬製造中に事故が起こる(旧新谷藩国事並時勢ニ関スル事蹟)。
文久1・8・17○大洲藩主加藤泰祉、和宮降嫁につき勅使饗応役を命じられる(昭徳院殿御実紀)。
文久2・3  ○大洲・新谷領内に疱瘡流行、続いて五月に麻疹大流行(塩屋記録)。
文久2・4・16○大洲出身の蘭医三瀬諸渕、捕えられ、大洲藩邸に禁錮となる(官武通紀)。
文久2・12・24○大洲藩主加藤泰祉、参勤の途次、京都警備の内勅を受ける(力石本加藤家譜)。
文久3・2・29○大洲藩、長浜に台場新設を願い出て許可される(大洲藩史料)。
文久3・3  ○大洲・新谷藩、異国船防御のため郷筒を取り立てる(久保家文書)。
文久3・4・2○大洲藩、海岸防御のため郡中三町・郷村に鉄砲を与える(塩屋記録)。
文久3・4・23○新谷橋、親兵差し出しを願い出て許される(加藤泰令履歴)。
        ○この時選抜されたのは、長尾鷹弥・水口端治の二名
文久3・6・6○大洲領喜多郡長浜沖にフランス船停泊する(大洲藩史料)。
文久3・6  ○新谷藩、海岸防備のため、喜多郡出海村・今坊村に郷組鉄砲隊を組織する(久保家文書)。
文久3・8・17○大洲・新谷両藩主、自領海防の内勅を受け、参勤在府終了後、帰国の途次入京して参内する(泰祉公御履歴調概略)。
文久3・8・18○大洲・新谷両藩主、八月一八日の政変に際して参内し、御所守衛にあたる(泰祉公御滞京日記)。
文久3・8  ○長州及び七卿の扱いについて朝廷より諮問があり、大洲・新谷藩など上書する(旧新谷藩国事並時勢ニ関スル事蹟)。
文久3・9  ○大洲藩、如法寺河原に大砲鋳造場を設ける(大洲藩史料)。
(一八六五)     
慶応1・2・26○大洲藩、宇和島藩・竜野藩、毛利敬親父子の江戸召喚につき取り扱いを命じられる(新編物語藩史)。
慶応1・4・21○大洲藩、農兵ゲベル隊を召抱える(大洲手鑑)。
慶応1・10・17○大洲藩、摂津国沿海へ異船渡来につき、京都御所警衛を命じられる(加藤家年譜)。
慶応2・6・26○大洲藩の新諌見・武田敬孝、新谷藩の香渡晋、土佐藩へ親交使節として派遣される(大洲藩史料)。
慶応2・6  ○大洲藩の国島六左衛門、長崎でオランダよりいろは丸四五〇トンを購入する(いろは丸終始顚末)。
慶応2・7・13~7・17○大洲領の農民、物価騰貴のため、商人の暴利に反対し、喜多郡大瀬村・五十崎村・内子町の商店を打ちこわす(加藤家年譜)。
        ○参加人員三、〇〇〇人余、大瀬村百姓福太(五・治)郎が頭取、奥福騒動と呼ぶ。
慶応3・4・23○大洲藩のいろは丸、土佐藩坂本竜馬が運行していたが、鞆が浦沖で紀州の明光丸と衝突して沈没する(才谷梅太郎紀伊蒸気船明光丸応接書)。
慶応3・12・10○大洲藩警衛隊、御文庫裏の警備につき、同月一四日京都市中巡邏を命じられる(新編物語藩史)。
(一八六八)
明治1・1・9○新谷藩、建礼門錦旗守衛を命じられる(新編物語藩史)。
明治1・1・10○新谷藩士矢野淳作ら松山藩の菅五郎左衛門に会い恭順を勧める(旧新谷藩国事並時勢ニ関スル事蹟)。
明治1・2・17○大洲・新谷藩、松山に入り萱町口・立花口を固める(旧新谷藩国事並時勢ニ関スル事蹟)。
明治1・2・20○大洲藩主加藤泰秋、大坂行幸の先陣を命じられる(力石本加藤家譜)。
明治1・3・12○大洲藩、郡中守備のため、郷町民の西洋隊を取り立てる(玉井家文書)。
明治1・3  ○新谷藩、土佐藩と協議し三津浜へ駐兵する(旧新谷藩歴叙)。
明治1・5・14○大洲藩・今治藩など甲府城警備人数を徴発される(大洲加藤家文書「甲府御警衛被蒙仰御人数御差出候節伺書等控」)。
明治1・5・22○新谷藩、京都市中警衛を命じられる(旧新谷藩国事並時勢ニ関スル事蹟)。
(一八六八)    
明治1・6・2○新谷藩、政府賦課の軍資金を上納する(旧新谷藩歴叙)。
明治1・7・4○大洲藩兵、甲府に入り、上小田原・川浦両関の守衛を命じられて、中津藩兵と交代する(大洲藩史料)。
明治1・7・16○甲府警衛の大洲藩兵、東京へ進軍を命じられ、八月三日東京に到着、その直後奥州への進発を命じられる(大洲藩史料)。
明治1・8・20○大洲藩兵、磐城国今泉・駒峰で激戦する(太政官日誌)。