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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

伊予八藩成立前

(○内は閏月)

  年 号      事     項
(一五八五)
天正13・6・18○豊臣秀吉、伊予国を小早川隆景に与えることを予約する(小早川家文書五五一)。
天正13・6・27○小早川隆景、吉川・宍戸・福原など毛利氏の軍を率いて伊予に渡る(萩藩閥閲録一〇二ノ二冷泉五郎)。
天正13・8・6○豊臣秀吉、伊予国三五万石を小早川隆景に、二万三、〇〇〇石を安国寺恵瓊に、一万四、〇〇〇石を来島通総に、三、〇〇〇石を得居通久(通之・通幸とも)に与える(日付については諸説あり不明確、予陽河野家譜六・南海通記一七・予章記山之井本・長元物語・小早川家文書)。
天正13・⑧・14○豊臣秀吉、蜂須賀彦右衛門正勝・黒田官兵衛孝高に対し、伊予の諸城を小早川隆景に引き渡し人質を連れて帰還するよう命じる(萩藩閥閲録一〇ノ二堅田安房)。
天正13・⑧・16○小早川隆景、喜多郡に入って大津(のち大洲)・曽根城を陥れる(萩藩閥閲録二〇桂勘右衛門文書、日付については毛利輝元が桂元綱に書状を発した日である)。
天正13・9・3○小早川隆景、喜多郡大洲大禅寺に、軍兵は濫妨狼籍をしてはならないとの禁制を掲げる。ついで一三日(宇和旧記には一一日とある)には宇和郡竜沢寺にも同文の禁制を掲げた(大禅寺文書・竜沢寺文書)。
天正13・9  ○小早川隆景らの中国勢、道後湯築城を攻め、守将河野通直は隆景の勧告を受け入れて降伏(予陽河野家譜六)。
天正13・11・1○小早川隆景、越智郡能島の村上掃部頭武吉・大和守元吉父子に対し、周防国屋代島の内来島分・能美島・江田島を与える(萩藩閥閲録二二ノ一村上図書)。
天正13・11  〇小早川隆景、宇和郡に入って西園寺公広と会見する(会見の日不詳、但し一一月五日付の久枝又左衛門興綱宛小早川隆景書状によって掲げる、宇和旧記 西園寺殿之事予州宇和郡旗頭之事)。
天正13・12・3○小早川隆景、宇和郡立間村・北之川村などに禁制を掲げ、軍兵の濫妨狼籍を停止する(宇和郡往昔城主紀事・宇和旧記 北之川殿之事北之川
天正13    ○このころ、喜多郡内ノ子高昌寺前付近に市が立ち、六日市・七日市・廿日市などがあった(大洲旧記七内ノ子村)。
天正14・3・5○小早川隆景、部将の乃美兵部丞宗勝に対し、伊予国内の諸城の処置を指令、曽根・恵良・しらされは破却、祖母谷・滝之城・下須戒は縮小、湯築・大津・せり・本尊・興居島・賀嶋・来嶋・小湊・櫛辺・壬生川は存続との案を示す(萩藩閥閲録一一ノ一浦図書文書)
天正14・3・20○来島通総、新居郡前神寺に対し寺領安堵状を発給する(前神寺文書)。
天正14・夏 ○耶蘇会宣教師ルイス=フロイス、瀬戸内海航行に際して能島海賊の保護を受け、小早川隆景にも面会する(耶蘇会日本年報二 一五八六年の報告書)。
天正14・7・18○小早川隆景、宇和郡の久枝又左衛門興綱に黒瀬城を預けようとして拒否され、旧宇和郡領主西園寺公広より興綱へ黒瀬城預かり勧告状が出される(宇和旧記 西園寺殿之事予州宇和郡旗頭之事)。
天正14    ○前将軍足利義昭、小早川隆景に対し、伊予国において料所を斡旋してくれるようにと依頼する(小早川家文書一下六、義輝公義昭公御内書 八月一一日付義昭書状)。
天正14・8・24○小早川隆景、薩摩国島津氏を討つため、宇和郡の法華津右衛門佐前延に出兵を催促する、ついで九月一日には、土居清良にも催促状を送る(清家文書 清家弥八郎氏旧蔵・吉田古記 法花津浦分・土居菅男氏所蔵文書)。
天正14・10・16○元教(姓不詳)、宇和郡竜沢寺に新たに一五貫文の寺領を寄進する(宇和旧記 魚成殿之事)
天正14・10・23○正親町天皇、小早川隆景に対し、賀茂社領野間郡(現越智郡)菊万荘の段銭を競馬料として納入するように命じる(萩野仲三郎氏所蔵文書)。
天正14・11・2○沼間田民部丞ら、伊予郡谷上山宝珠寺へ分米六八石五斗余の田畑を引き渡す(大洲旧記一〇上吾川村)
天正14・12・13○来島通総、野間郡佐方保賀茂神社・八幡神社・長本寺・遍照院などの寺社領の下札を定める(波頭博正氏旧蔵文書・越智久栄氏所蔵文書・遍照院文書)。
天正15・1・11○小早川隆景、河野通直に馬一疋・太刀一腰を贈って、九州征伐に援兵を派遣した労を謝する(築山本河野家譜)。
天正15・1  ○宇和郡の御庄権太夫基経、尾崎藤兵衛尉政儀に二貫三五〇文の土地を与える(尾崎又三郎氏所蔵文書・宇和旧記 御荘殿之事擢木村)。
天正15・6  ○小早川隆景、筑前国および筑後・肥前両国のうち各二郡に転封となり、隆景の子秀包も筑後国三郡を領する(毛利家文書九一八 六月二五日付豊臣秀吉朱印領知目録・九州御動座記・筑紫古文書・萩藩閥閲録一〇ノ二堅田安房)。
(一五八七)
天正15・7・9○河野通直、道後湯築城を去り、有馬温泉を経て安芸国竹原に向かう(予陽河野家譜六)。
天正15・7・14○戸田勝隆、検地に当たって守るべき条々を定める(中島町二神文書)。
天正15・7・14○河野通直、安芸国竹原において二四歳で没する(高野山上蔵院過去帳・中島町二神文書)。
天正15・7・18○検地奉行浅野弾正少弼長吉(長政)、宇和郡魚成村竜沢寺に検地に関する制札を掲げる(宇和旧記 魚成殿之事魚成村)。         
天正15・8・8○福島正則、新居郡長安村の検地を行う(矢野氏蔵「長安村検地帳」)。
       ○現存する検地帳としては、天正一五年では風早郡大浦村・長師村・神浦村・宮野村、天正一六年では宇和郡岩野郷真土村・多田之内川内村、天正一九年では越智郡鴨部中村・御馬屋村・鍋地村・別府村、文禄三年では宇和郡保内郷喜木津浦のものがある。
天正15・8  ○戸田与左衛門信家、宇和郡丸串城(のちの宇和島城)の城代となる(宇和旧記 飯島殿之事下村)
天正15・8  ○豊臣秀吉、伊予国のうち五郡一一万三、二〇〇石を福島正則に与える(京都大学所蔵豊臣秀吉朱印宛行状 この文書日付は九月となっているが、長安村検地帳は八月作成であるため、愛媛県編年史に従い八月の項に入れる)。
天正15・9・8○豊臣秀吉、福島正則に対し、戸田勝隆と協力して民政に当たるよう命じる(京都大学所蔵文書)。
天正15・10  ○戸田勝隆、大洲地蔵嶽城主となる(清良記三〇)。
天正15・12・8○山月小介吉次、新居郡保国寺近辺の公事について協定を計る(西条市保国寺文書)。
天正15・12・11○宇和郡の旧領主西園寺公広、大洲戸田駿河守(戸田勝隆の家司)の邸で殺される(藤原姓西園寺氏歴代系譜・伊予州宇和郡相続之次第)。
天正16・2・5○福島正則、越智源右衛門に対し国安村宰領として六町歩の田地並びに居宅を与える(東予市越智文書)。
天正16・7・8○豊臣秀吉、諸国に出没する海賊船を禁じ、特に伊予備後両国間の海賊を取り締まる(小早川家文書 朝鮮御渡海人数付)。
天正16・8  ○福島正則、二〇万石(うち九万石は蔵入地)を領し湯築城に入部する(伊予日記・予松御代鑑)。
天正16・8~10・3○戸田勝隆、法華津八郎・曽根高房・佐藤兵衛・吉田源介らに宇和郡のうちで二〇〇石~三〇〇石を知行させ、日振島の年寄には居屋敷年貢を免除する(清家文書・萩藩閥閲録・佐藤文書・有友家文書)。       
天正16・12  ○戸田勝隆、豊臣秀吉の生母大政所立願米を京都祇園社に納める(八坂神社文書三)。
天正17・2・24○福島正則、桑村郡河原津へ浦方条目を布告する(東予市松木文書)。
天正17・12・22○戸田家次、喜多郡上須戒の城戸孫三郎に同郡藤原庄のうち六〇石の地を与える(大洲旧記六上須戒村)
天正18・7・22○小田原征伐に参加していた戸田勝隆、豊臣秀吉の日本統一後富士山麓で大仏殿の用材運送に従事していたが、近く帰国することを武井宗意に通知する(松山市武井文書)。
天正18・12・7○福島正則、伊勢神宮へ周敷郡北条のうち一〇〇石の地を寄進する(神宮文書)。
天正18・12・22○戸田家次、喜多郡上須戒の城戸孫三郎に同郡山田庄で一二〇石を与える(大洲旧記六上須戒村)。
このころ   ○戸田勝隆、宮内(五十崎の庄屋と推定)某に紫草根皮・紅花の買い入れを命じる(大洲旧記七大瀬村)。
天正19・2・5○福島正則、武田富若丸信吉に越智郡朝倉村山田の地を与える(朝倉武田文書)。
(一五九二)
文禄1・2・8○福島正則、越智郡鴨部村光林寺へ居屋敷及び田地を寄進する(玉川町光林寺文書)。
文禄1・3・13○豊臣秀吉、肥前名護屋に集結した朝鮮渡海諸将の部署を定める。福島正則・戸田勝隆・来島兄弟は五番手に属する(萩藩閥閲録一〇ノ四堅田安房)。
文禄2・3・10○豊臣秀吉、前田利家・戸田勝隆らに朝鮮の諸城を修理させる(浅野家文書)。
文禄2・3・16○福島正則、宇野又左衛門尉吉次に越智郡国分寺の諸公事を免除させる(国分寺文書)。
文禄2・5  ○豊臣秀吉、大友義統の所領豊後国を没収し、その兵士を福島正則・戸田勝隆らの諸将に預ける(大友文書録)。
文禄2    ○豊臣秀吉、山城国伏見城築城の人足割当のために、諸国諸将の知行高を調査する。伊予国は一四郡三三万六、二〇〇石、うち二〇万石は福島正則、一万四、〇〇〇石は村上出雲(来島通総)、他の諸将及び蔵入高は不詳(当代記二文禄二年)。
文禄3・10・23○戸田勝隆、病死する(清良記三〇戸田政信悪逆の事)。
文禄3    ○越智安信、大山衹神社大祝職となる(神衹伯家記録抄)。
文禄4・5・24○豊臣秀吉、国分城主福島正則らを城米奉行として慶尚道釜山に遣わす(吉川家文書一吉川正統叙目一四)。
文禄4・7・21○豊臣秀吉、淡路国の加藤嘉明に伊予国久米・温泉・野間・伊予四郡内で六万石を与え、浮穴・和気・温泉・伊予四郡内四万三一〇石余の蔵人代官を命じる(近江水口加藤家文書)。
文禄4・7・22○豊臣秀吉、藤堂高虎に宇和郡七万石を与え、宇和・喜多・浮穴三郡内六万五、九〇〇石の蔵入代官を命じる(藤堂文書)。
文禄4・10  ○加藤嘉明、西山五右衛門に和気郡大内郷一三〇石の地を知行させる(西山家記)。
文禄4・12・3○藤堂高虎、宇和郡戸雁村の弥左衛門に無田村(のち務田村)の荒地を開かせ、一年間の作り取りを許す(愛媛県編年史五)。
文禄4    ○福島正則、豊臣秀次が七月一五日に紀伊高野山で自殺したので検使となり、その功労によって尾張清洲に移され、二四万石を領す(寛政重修諸家譜一四三九福島)。
        ○正則移封の月日不詳、『新今治市誌』は七月一五日とする。
文禄4    ○加藤嘉明、伊予郡松前城を築く(伊予日記)。
        ○『伊予古蹟志』によれば、松前の旧領主は粟野杢頭秀用とする。
文禄4    ○新居郡地方に洪水があり、伊曽乃神社・保国寺罹災する(保国寺歴代略記下・万年山保国禅寺歴代略記上)。
(一五九六)     
慶長1・3・7○藤堂高虎、田中林斎に命じて宇和郡竜沢寺へ同郡早川・柿木駄場の二か所を寄進させる(宇和旧記 魚成殿之事魚成村)。    
慶長1・5・12○加藤嘉明、しろかねや又左衛門に家役を免除する(松山市仲田家蔵「町会所記録」)。
慶長1・⑦・9○大地震、伊予郡保免村薬師寺、周布郡北条村鶴岡八幡宮など被害を受ける(薬師寺大般若経奥書・小松邑誌上ノ六)。
慶長2・2・21○豊臣秀吉、朝鮮再征軍の部署を定める。伊予国の加藤嘉明(二、四〇〇人)・藤堂高虎(二、八〇〇人)・池田秀雄(二、八〇〇人)・来島通総(六〇〇人)らは六番手に属す(近江水口加藤家文書・加藤嘉明公譜)。
慶長2・7・15○藤堂高虎・加藤嘉明、朝鮮の水軍を唐島沖(巨済島)で破る(近江水口加藤家文書・藩翰譜七ノ下)。
慶長2・9・16○来島通総、朝鮮水軍の将李舜臣と全羅道鳴梁で戦って没する(来島氏系図・寛政重修諸家譜)。
慶長2・10  ○朝鮮の捕虜一、〇〇〇人を大津に留置する(看羊録)。
慶長3・1  ○藤堂高虎・加藤嘉明ら、慶尚道蔚山城を包囲されて苦戦中の加藤清正に援兵を送る(聿脩録・加藤嘉明公譜)。
慶長3・3・30○越智郡国分城主池田秀雄、朝鮮半島安骨浦で没する(寛政重修諸家譜)。
慶長3・5・3○豊臣秀吉、加藤嘉明の戦功を賞して、三万七、〇〇〇石を加増して一〇万石を知行させる(近江水口加藤家文書)。
慶長3・6・22○豊臣秀吉、朝鮮から帰国した藤堂高虎の戦功を賞して、喜多郡・浮穴郡の内で一万石を加増し、八万石を知行させる(宗国史上)。
慶長4・7・20○越智郡国分城主小川祐忠、川原焼刈に使う竹類を供出させる(東予市松木文書)。
慶長5・1  ○藤堂高虎、板島築城につき郷中・府中に条令を布告する(宋国史外篇一四国約志七)。
慶長5・8・23○加藤嘉明、細川忠興らと東軍に属して、岐阜稲葉山を攻撃する(浅野家文書)。
慶長5・8  ○藤堂高虎の留守中、所領宇和郡松葉に三瀬六兵衛ら謀反人あり(宗国史・宇和旧記西園寺殿之事)。
慶長5・9・17○河野通軌および輝元の将宍戸氏ら、加藤嘉明の不在をねらい伊予国に侵入、加藤忠明・佃十成ら三津で芸州勢を撃退する。また離反した荏原城の平岡善兵衛を討つ(加藤嘉明公譜)。
慶長5・9・20○佃十成、加藤嘉明に叛いた風早郡高縄神社の正岡式部太夫らを攻める(水里逆洄録)。
慶長5・11・18○加藤嘉明・藤堂高虎、関ヶ原の戦いの功によって各々二〇万石を与えられる(徳川加除封録)。
慶長5・12・2○加藤嘉明・藤堂高虎、領知協定を結ぶ(佐伯文書)。
        ○関ヶ原の戦いで西軍に属して除封されたものとして『徳川除封録』には、戸田民部少輔氏繁(六万石・宇和島、九月一五日除封)、小川土佐守祐忠(七万石・今治、九月一五日除封)、安国寺恵瓊(一二万石、但し伊予国以外の領地多し、異説に六万石とあり、九月一五日除封、一〇月一日斬首)などがある。
慶長5    ○来島康親、風早郡の内一万四、〇〇〇石を安堵される(恩栄録)。
慶長6・2  ○来島康親(久留島長親)、豊後国日田、玖珠、速見三郡のうちに移される(寛政重修諸家譜)。
慶長6・3・8○加藤嘉明、領内の桶大工を指定する(束本家文書)。
慶長6・5・11○藤堂高虎、越智郡大山衹神社に毎年供米二〇俵を寄進する(大山衹神社文書)。
慶長6・5・21○加藤嘉明、太山寺(一五石)・石手寺(二〇〇石)・金蓮寺(一五石)に寺領を寄進する。同日木村信行に伊予郡大溝村の内四〇〇石、服部清六に温泉郡味酒村の内三五〇石を与える(太山寺文書・石手寺文書・金蓮寺再建記・木村家文書・服部家文書)。
慶長6・11・21○藤堂高虎、渡辺勘兵衛に喜多・浮穴・宇和・周布・桑村・新居郡のうちで二万石を与える(南部文書)。同日高虎、関ヶ原の戦いの功によって梅原勝右衛門に新居・喜多・浮穴三郡のうちで一、〇〇〇石を与える(宗国史)。
(一六〇一)    
慶長6・⑪・17○藤堂高虎、風早郡大浦村長隆寺の諸公事を免除する(長隆寺文書)。
慶長7・6・11○藤堂高虎、越智郡今治城の普請を始める(今治諸旧記録)。
慶長8・9・11○加藤嘉明、道後八幡神社に社領一〇〇石を寄進する(伊佐爾波神社文書)。
慶長8    ○加藤嘉明、松山城を築く(松山叢談二上)。
        ○『伊予史精義』には、慶長七年一月一五日起工とある。また「松山城筒井門棟木裏墨書銘」によれば慶長七年四月松前より移すとある。
慶長9・1・7○足立半右衛門重信、浮穴郡の内荏原・高井・野田の間で川原を開墾することを奨励する(愛媛県編年史五)。
慶長9・9  ○幕府、松山城主加藤嘉明および藤堂局虎の家臣の闘争の訴訟を裁く。嘉明の弟忠明・高虎の養子高吉はともに出家する(聿脩録・高山公実録)。
慶長10・1・11○藤堂高虎、常行寺に宇和郡平地・真土村の内一○○石を寄進する(高山公実録一三)。
慶長10・6  ○温泉郡小浜村の農民、藤堂高虎の増税に反対し、一つ免騒動おこる(伊予百姓一揆)。
慶長10・7・28○藤堂高虎の部下田中林斎、大洲に塩売買の塩屋町を設ける(城甲文書)。
慶長10・8  ○加藤嘉明、温泉郡阿沼美神社を造営する(阿沼美神社棟札)。
慶長10・11・10○藤堂高虎、宇和郡河原渕に制札を掲げる(宇和旧記 河原殿之事松丸町)。      
慶長10・11・27○藤堂高虎、今治城諸口の警備を定める(高山公実録)。
慶長11・3・1○藤堂高虎、江戸城増築の縄張をする(慶長日記)。
慶長11・4・8○藤堂高虎、大洲法華寺に寺屋敷を寄進する(法華寺文書)。
慶長11・5・10○足立半右衛門重信、風早郡宮内村に入作を奨励する(正岡文書)。
慶長11・9・15○藤堂高虎、江戸城増築企画の功によって、備中国で二万石を加増され、その半分を養子高吉に与える(高山公実録・聿脩録)。
慶長11・9・22○藤堂高虎、藤堂良勝に今治屋敷の作事を督促させる(藤堂文書)。
慶長12・1・16○藤堂高虎、喜多郡大津八幡宮へ社領二〇石を寄進する(宇都宮文書)。
慶長12・1・23○藤堂高虎、忽那島長隆寺に手作米・竹木を寄進する(長隆寺文書)。
慶長13・1・13○宇摩郡津根村の野田九郎右衛門尉、薩摩国種子島の島津重虎から鉄砲書を相伝する(野田文書)。
慶長13・3  ○藤堂高虎、今治城に移る(公室年譜略)。
慶長13・8・25○藤堂高虎、伊賀・伊勢両国で二四万三、〇〇〇石を与えられ、伊予国今治より移る。今治城には養子高吉を置く(恩栄録)。
        ○高虎の知行高は「転封録」には二二万九〇〇石余、「譜牒余録」には二二万九五〇石とある。養子高吉が領したのは越智郡に残った約二万石の土地である。
慶長13・9・15○伊勢国安濃津城主富田信高(知勝)、宇和郡一〇万石余を与えられ板島城に入る(諸家文書纂・転封録)。
        ○富田信高の石高、「転封録」・「恩栄録」では一二万石とするが、「諸家文書纂」の宇和郡一〇万一、九〇〇石余とあるのを採る。
慶長14・6・3○加藤嘉明ら、尾張国名古屋城の普請に参加し、根石を置く。築城開始は翌一五年二月より(当代記・台徳院殿御実紀)。
慶長14・6・28○幕府、禁煙策をとり、加藤嘉明の領国内でも煙草の売買および栽培を禁止する(佐伯文書)。
慶長14・9・15○淡路国津名郡須(洲)本城主脇坂安治、二万石を加増されて、伊予国で五万石を与えられ、大洲に入る(徳川加除封録)。
        ○「寛政重修諸家譜」には、喜多・浮穴・風早三郡のうちにおいて五万三、五〇〇石を領す、とある。
慶長14    ○脇坂安治、先に浅野長政が実施した検地にもとづいて、喜多郡各村の年貢を定める(大洲旧記一中居谷村)。
慶長15・7・2○足立半右衛門重信、風早郡宮内村の苧麻を買い上げる(正岡文書)。
慶長15・8・18○脇坂安治、喜多郡給人所に年貢米納入の法度を公布する(黒田文書)。
慶長15    ○板島城主富田信高、宇和郡塩成三机浦の開鑿工事を始める(宇和旧記 萩森殿之事三机浦)。
慶長15    ○脇坂安治の子安元、妻を江戸に送って人質とする(寛永諸家系図伝一一二)。
慶長18・3・5○足立半右衛門重信、温泉郡二神島の竹木について法度を定める(来迎寺旧蔵文書)。
慶長18・10・24○幕府、板島城主富田信高と石見国津和野城主坂崎直盛との争いの訴訟を裁いて、信高を改易にし、藤堂良勝を板島城代とする(台徳院殿御実紀二四)。
慶長19・8  ○藤堂良勝、板島城を修理する(公室年譜略一〇高山公七)。
慶長19・10  ○徳川家康、豊臣秀頼を討つため伊勢国安濃津城主藤堂高虎を先鋒として大和国から大坂に向かわせ、松山城主加藤嘉明を江戸に留める。やがて高虎の養子高吉は今治から、弟良勝は板島からそれぞれ大坂に向かう(聿脩録上・台徳院殿御実記二八)。
(一六一四)    
慶長19・10・25○大地震のため道後温泉の湧出停止する(道後温泉壅不出記)。
慶長19・12・28○幕府、陸奥国仙台城主伊達政宗の庶長子である秀宗を富田信高の遺領板島一〇万石に封ずる(恩栄録上ほか)。
(一六一七)     
元和3・7・20○脇坂安元、信州飯田に転じ、加藤貞泰、大洲六万石となる(台徳院殿御実紀四六)。
元和3・9・5○幕府、松山城主加藤嘉明に領知朱印状を発給する、石高一九万一、六一五石余(近江水口加藤家文書)。
元和5・12・12○加藤嘉明の家臣堀部主膳、越智郡拝志町の屋敷地子を免ずる(小松邑誌・愛媛面影)。
元和9    ○今治城代藤堂高吉の家臣青木民部少輔、桑村郡において五、〇〇〇石を与えられる(予章記 山之井本)。
(一六二五)
寛永2・3・18○地震のため道後温泉の湧出停止する(小松邑誌下ノ一 本邦古事之事道後温泉壅不出記)。
寛永4・2・10○幕府、出羽国上山城主蒲生忠知を松山に移し、近江国日野郡四万石を加えて二四万石とし、加藤嘉明を会津若松に移して四〇万石とする(大猷院殿御実紀九)。
寛永4・8・9○幕府、隠密使を遣わして伊予の各地を偵察させる(讃岐伊予土佐阿波探索書)。
寒水6・1・18○松山領に水無又兵衛らを首謀者とする一揆が起こり城主蒲生忠知これを平定する(寛永日記)。
寒水7・8・20○桑村郡における松山・大洲両藩の境界について話し合いが行われる。境界確定は寛永一〇年一一月五日(朝倉武田文書)。
寛永11・8・18○松山城主蒲生忠知、疱瘡のため急死する(大猷院殿御実紀二六)。
寛永12・9・2○今治城代藤堂高吉、伊賀国名張に移る(今治譜旧記録)。
寛永12・7・28○幕府、伊勢桑名城主松平定行を伊予松山に移し四万石を加えて一五万石とする(恩栄録)。
寛永12・7・28○幕府、伊勢長島の松平定房を今治に移し、二万三、〇〇〇石を加えて三万石とする(恩栄録)。
寛永13・6・1○幕府、伊勢神戸の一柳直盛を西条に移し、一万八、六〇〇石を加えて六万八、六〇〇石とする(恩栄録)。
寛永13・8・19○西条城主一柳直盛赴任の途中急死する(大猷院殿御実紀三三)。
寛永13・11・24○幕府、一柳直盛の遺領のうち西条三万石を同直重に、二万三、〇〇〇石を同直家に、一万石を同直頼に領知させる(寛政重脩諸家譜)。
寛永19・5・29○宇摩郡川之江領主一柳直家没する、末期養子願却下され領地も没収となる。その後小出伊勢守吉親の二男直次が嗣子として認められ、播州小野一万石となる(廃絶録)。
(一六四五)
正保2・12・1○一柳直興及び弟直照、西条領主一柳直重の遺領を継ぐ(大猷院殿御実紀)。
(一六六一)   
寛文1・⑧・6○西条藩主一柳直興、女院御所の造営助役を命ぜられる(厳有院殿御実紀二二)。
寛文4・4・5○幕府、伊予各藩主に対し領地確認の判物・朱印状を交付する(厳有院殿御実紀二八)。
寛文4・11・28○新居郡西条領五ヵ山の運上の銀納を願い出た中奥山の治平が斬罪に処せられる(銀納請所願帳)。
寛文5・7・29○西条藩主一柳直興、封を除かれ、所領は松平光隆預かりとなる(厳有院殿御実紀)。
寛文6・8  ○幕府、松山藩預かり領のうち、宇摩郡土居組北野村七二二石余を一柳直照に与える(松山叢談四天鏡院殿定長公)。
寛文7・4・5○一柳直照没し、子直増、遺領宇摩郡のうち五、○○○石を継ぐ(寛政重脩諸家譜)。
寛文7・5  ○幕府巡見使、伊予国に来る。使者川口源兵衛・堀八郎左衛門・藤堂庄兵衛(厳有院殿御実紀)。
寛文10・2・18○紀伊国和歌山城主徳川頼宣の次男松平頼純、西条三万石に封ぜられる(厳有院殿御実紀四〇)。