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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

五 百姓一揆の頻発と吉田騒動

 吉田藩の百姓一揆

 近世における農民の領主に対する闘争を総称して百姓一揆と呼んでいるが、全国で三、二〇〇件余が明らかにされている。そのうち伊予国の件数は、全国第四位の一五五件(幕領一二・西条四・小松二・今治五・松山三四・大洲一九・新谷一・吉田一五・宇和島六五、重複するもの二件あり)となっており、四国地方では圧倒的多数にのぼっている。また、宇和郡地域に八〇件が集中しているのも異常な現象と見られるであろう。このことが直ちに、宇和郡(宇和島・吉田両藩)における高税率と農民の困窮を意味するものと考えるのは早計である。すなわち、百姓一揆の件数が多く報告されている地域は、文書の残存・整理状況が良く、研究も進んでいるからである。一揆件数の少ない地域も今後の研究進展によって、新たに事件が発掘されるであろう。
 吉田藩の場合、一揆一五件、村方騒動七件、都市騒擾一件、合計二三件という件数は、ほぼ研究し尽くされた数字であろう。

 吉田騒動(武左衛門一揆)の発端

 吉田騒動は、武左衛門一揆の名で知られている。この事件は別名吉田藩紙騒動とも呼び、八三か村約九、六〇〇人が参加した吉田領最大の一揆である。寛政五年(一七九三)吉田藩の紙専売制と重税の負担に耐えられなくなった農民が、隣藩である宇和島城下の八幡河原に集結した。一揆収拾のために派遣された吉田藩家老安藤儀太夫は群衆の前で割腹、一揆側は一一か条の願書を提出し、ほぼその要求を認められたが、事件より二年後の寛政七年、農民側の首謀者と目された宇和郡上大野村(現北宇和郡日吉村)の武左衛門らが斬首されて事件は終結した。以上が吉田騒動の概略であるが、以下、事件の背景・発生・経過・安藤儀太夫の切腹・武左衛門の逮捕について宇和島藩との関係も考慮しつつ述べてみよう。
 吉田騒動に関する藩の公式記録が欠如しているため、この事件の全貌を把握することは困難である。『吉田町誌』が引用している法花津屋叶高月氏(吉田藩御用商人で紙を主要営業品目とし、高利貸でもあった)の旧記録に次の記事がある。

 (1)寛政四年一一月二六日 紙方御仕法替
 (2)寛政四年一二月二〇日 百姓騒動の兆(西園寺源透「伊予百姓一揆」には一九日とある)
 (3)寛政四年一二月二三日 紙方引離れ御聞届相済
 (4)寛政五年一月二七日  百姓騒動起る宇和島八幡河原へ出る
 (5)寛政五年二月一四日  御家老安藤儀太夫様於八幡河原御切腹

この記事は、農民側か攻撃の対象とした御用商人の記録としては、実に客観的に事実のみを記しているように思われる。

 騒動の経過

 寛政四年(一七九二)末の農民側の要求について、翌五年一月藩の重役会議が開催されたが、強硬弾圧を主張する郷六恵左衛門に対し、農民の要求も考慮して、税制をはじめとする進歩的藩政改革の必要を説く家老安藤儀太夫の意見が対立して、結局具体的な回答を示すことができなかった。
 藩からの回答が、農民側の要求を全く受容したものでなかった(藩の機構は変更せずこれまで通りとする)ため、激怒した農民は実力行使に移った。二月九日夜、延川村のとぎが森に集結していた高野子村(現東宇和郡城川町)から延川村(現北宇和郡広見町)までの農民達が(高野子村は不参加とする口碑もある)、翌一〇日昼頃より鉄砲を打ち螺貝を吹いて気勢をあげ、広見川伝いに小倉村(現広見町)まで出た。この様子は早速吉田藩庁へ注進され、代官(吉田騒動記には郡代と記す)横田茂右衛門らが岩谷村(現広見町)まで出張して説得に当たるとともに、二、三人の農民を逮捕した。これに対し、農民達は要求も聞かずに逮捕したことに不満を持って反抗したため、横田ら一行は岩谷村庄屋宅にいったん隠れ、裏道を通って出目村(現広見町)まで逃げ延びた。
 農民達は、興野々川原(現広見町、広見川と三間川の合流地点)において近隣諸村より参加する者を待った。出目村まで逃げていた横田茂右衛門は、大乗寺・医王寺をはじめ三間盆地一円の僧侶に調停方を依頼し、これを受け入れた僧達は、農民達の説得に当たったが、成功しなかった。
 一揆勢は周辺諸村を誘って勢力を倍加し、三間川下流の宇和島藩領近永村(現広見町)下駄場まで出た。近永には宇和島藩の代官所があり、代官友岡栄治らが応接して一揆勢を説得した。その際友岡は、一揆諸村のうち最初に蜂起した延川村から高野子村まで一〇か村の頭取達から願書を出させ、宇和島藩から派遣された吟味役鹿村覚右衛門・郷目付弥兵衛・同忠平、奈良村(現広見町、当時宇和島領)庄屋河添文左衛門・近永村宇右衛門ら同席のもとにこれを受け取り、一揆勢を宇和島領に誘導した。
 近永村に入り込んだ一揆勢のうち、吉野川筋九か村より来た半数の者は近永村通り抜けを拒まれ、川を渡って国遠村・清延村(現広見町、共に吉田領)などに誘いをかけ、三間勢と合同して別動隊を形成した。この一隊は大内村・元宗村(現北宇和郡三間町)を経て宮野下村(現三間町)に至り、法華(花)津屋の出店で酒を無心するなどしながら、周辺の村々を誘い込み、まだ不参加の村を務田村・迫目村(現三間町、旧村名無田村)で待った。
 一三日になって、務田・迫目に滞留していた農民達は、行動を再開して宇和島領八幡河原(現宇和島市)に出て、先に到着していた集団と合流しその人数も九、六〇〇人に達した。宇和島藩では、一揆農民の窮状に理解を示し、仮小屋を提供するとともに、帰村しようとする農民には弁当料を支給しようとした。この措置は、農民側にとっては大きな勇気づけとなり、反面吉田藩当局にとっては、一揆との交渉を前にしてすでに要求を受け入れざるを得ない状況に追いやられることになったのである(伊予百姓一揆)。

 安藤儀太夫の切腹

 一三日朝、吉田より家老尾田隼人が出張して、八幡河原に集結した農民と交渉を持とうとしたが、全く相手にされず、一揆内部の切り崩しを画策したが、これも宇和島藩家老桜田数馬らの賛成を得られず失敗に終わった。このような情勢下にあって、先の吉田藩重臣会議において進歩的な意見を具申していた安藤儀太夫が事件解決を目指して、死も覚悟して吉田を出発したのは一三日夜であった。
 一四日早朝、宇和島に入った儀太夫は、尾田隼人から届いた宇和島城への登城要請を断り、直接八幡河原に赴いて、農民の代表者を呼んで話し合いをしようとしたが、成功しなかった。儀太夫は、あらかじめこうした事態も予想しており、若党の千右衛門に介錯をさせて切腹した。
 この儀太夫の切腹は、一揆側に対して強い影響を与えた。これ以後吉田藩と一揆側との交渉は急速な進展を見せ、一五日には農民側から出された一一か条の願書を藩側が受理し、農民達は吉田藩が願書をすべて受け入れた一六日に八幡河原から引き上げた。この間、一五日に宇和島藩家老桜田数馬・目付渡辺平兵衛が鯨船で吉田へ赴き、吉田藩庁において重要書類を引き渡すようにと迫ったことも、吉田藩が一揆勢にすべての要求を受け入れさせる要因となったであろう。
 二月二六日、吉田藩は二三か条の通達を出して、事件に結着をつけようとした。内容の概略は次のようである。

 ①紙方役所は廃止し、以前の通り郡方で取り扱うこととし、楮元銀は当春漉き出しの紙売り払い代銀で返済するように。
 ②大豆銀上値段については、これまで夏大豆を大坂で売却した値段で定めていたが、今後は宇和島藩と比較検討のうえ決定する。
 ③大豆干欠(乾燥不充分のため目減りすること)差入の件については、今後はそのようなことは要求しないから、大豆を念入りに乾して港より積み出すこと。
 ④小物納物升目掛目の件については、今後調査をする。
 ⑤青引納物掛目の件については、これまでの受け取り方が悪かったと聞いているので、そのようなことがないよう申し付ける。
 ⑥津出の節逗留の件については、雨天の場合も納入ができるように小屋を設ける。
 ⑦登米斗方の件については、先年より一俵について一升五合差米をする規定であったが、以後は四斗のみとし規定の差米は要求しない。                            
 ⑧夫食米の件については、宇和島藩の規定が一人につき六合七(三)勺三才となっており、老若ならびに働きの様子によって渡方に増減が有るとのことである。(中略)今後はこれまでの規定に二合を追加して一人当たり四合五勺とし、他村へ割り付ける加勢夫は一人に六合七勺三才と定める。
 ⑨紙方古借年賦銀の件については、当年より五か年の間取り立てを延期し、その後当事者同志で決済すること。
 ⑩楮売買は前々の通りとする。これは先年より他所へ売る時は運上銀規定があったので、今後も他所売り分については運上銀を出すこと。
 ⑪山奥川筋禁酒願の件については、当分禁酒を聞き届け置くことにする。

以上一一か条については宇和島において、宇和島・吉田両藩の役人立ち会いのうえ申し渡したものであり、藩が一揆側の要求するところを全面的に受け入れたということがわかる。
 この外、農民側からの要求以外のものも含めて、これまでの規定を再検討して、かなり思いきった改革案を出している。次に参考のため、項目のみを掲げよう。

 ⑫地払米斗方の事、⑬御船具材木出夫出来の事、⑭井川方定夫食米の事、⑮永出入改方の事、⑯浦方雑穀入相薪他所売の事、⑰義倉米の事、⑱社倉元麦五百俵拝借の分御引除き下され候の事、⑲大工木挽の事、⑳在浦賄仕出の事、㉑男柱の事、㉒炭駄賃の事、㉓在浦より進物の事、

 頭目武左衛門の逮捕

 吉田騒動は藩の完全な敗北となって終結したわけだが、「吉田騒動記」や「伊予簾」・「吉田御分百姓中騒動聞書」などの諸記録には、一揆を指導した人物に関する記載がない。「伊達秘録」・「安藤忠死録」・「叶高月家旧記録」においては、首領が武左衛門であると記してある。また吉田藩中見役鈴木作之進の「庫外禁止録」では、捕縛されて目付所へ送られた九人の一人に武左衛門の名が見られる。諸記録によって一揆の頭目の取り扱い方に非常に大きな相違が見られるのである。
 藩側の立場で書かれた「伊達秘録」では、一揆の第一頭取は上大野村武左衛門、第二頭取は是房村善六としている(「庫外禁止録」には善六の名は登場しない)。ここでは評価の是非は後学に託すこととして、「伊達秘録」によって、一揆の責任者に対する藩の追求と処分について述べよう。
 古田騒動が寛政五年(一七九三)二月二六日の藩通達によって、一応の結着がついたことは前述した。藩側では一揆の指導者を捕縛できなかったことを遺憾とし、機会があれば探索したいと考えていた。寛政六年に入って吉田藩井川方役人岡部二郎九郎が河川の堤防堰溝などの修繕工事のため上大野村(現北宇和郡日吉村)方面に出張した際、人夫を酒に酔わせて一揆の首領を聞き出すことに成功した。それによると、一揆の指導者は上大野村武左衛門、是房村善六ほか二四名ということであった。また一揆を起こした原因は、吉田藩の御用商人法花津屋(三引・叶の高月両家)が製紙業者を苦しめ、不当な利益を得ていること(寛政四年より吉田藩は紙方役所を設けて専売制を実施した)、紙役人及びその手先の悪らつな仕打ちであるとのことであった。
 岡部は、吉田藩庁に急報し、早速御用場で重役会議が開かれた。席上郷六恵左衛門が主張した一揆指導者捕縛説が採用され、寛政六年二月二二日、家中より一二〇人余の士を選んで出発させ、領内諸村において一揆の指導者を逮捕させた(逮捕者名「伊達秘録」になし、武左衛門逮捕の日は「安藤忠死録」では二月一五日とする)。
 逮捕された武左衛門は、山奥(現日吉村)境のつつじ坂において斬られた。藩の目付所に送られて取り調べを受けるはずであったのが、誰の指令で斬られたのか判然としない。西園寺源透氏は、武左衛門が宇和島藩の上級役人と密接な連絡を取り合っていたため、宇和島藩に知られないように、闇から闇へと葬り去るための処置として刑場以外で斬るという異例の措置をとったのであろう、とされる。

図2-62 吉田騒動関係図(国土地理院発行20万分の1地勢図「宇和島」使用)

図2-62 吉田騒動関係図(国土地理院発行20万分の1地勢図「宇和島」使用)