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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 吉田藩の勧業政策

 蝋と紙

 吉田藩における産業に関する藩庁資料は皆無といえよう。わずかに廃藩置県後に北宇和郡役所が編纂した「旧古田藩勧業上ニ係ル制度慣行調」が存在するのみである。同書の中に記されているところによれば、明治維新より約一〇〇年前、吉田藩が櫨(蝋の原料)の栽培を奨励し、資金を貸与するとともに製品を買い上げ、販路の開拓にも努力した結果、藩も農民も利益を得るに至った。また、紙についても、領内の特産物として保護育成していた点までは理解し得るが、専売制のしくみ等については不詳である。
 蝋の原料である櫨の実の収穫とその管理については、藩が領内各村より収穫量を報告させ(九月に物産役所に提出する)、各村庄屋に確認させたうえ、宇和島藩の相場も考慮して買い上げ価格を決定する。年末になると蝋座に対して櫨実買い入れ資金を貸与し(貸与条件として他所販売禁止の一項を入れた)、翌年一一月に製品を納入させた。製品の販売は、領内の商船を借り上げて大坂蔵屋敷に運ばせ、大坂蝋問屋に依託した。幕末期における領内の製蝋家は七〇~八〇株、これを統制した物産役所の職員は五名(上役一・物産方三・下役一)であった。
 紙の販売に従事した吉田陣屋町の高月両家(三引・叶)は、ともに法花津屋と称し、町人町の建設当時からこの地に店舗をかまえ、紙問屋・海運業・金融業で産を成した。高月家は御用商人として、また町年寄として、藩財政に寄与すると同時に町政にも重きをなしていた。寛政五年(一七九三)の吉田騒動の前年一一月二六日、藩が専売制を強化している(高月家旧記録)が、このことが吉田騒動の発端になったのであり、吉田領のほぼ全領域の村々が一揆に参加したという点から考えても、紙の生産が領内に広く普及していたことが想像される。
 吉田藩では、紙方役所を設けて専売業務を取り扱わせており、これに高月家が密接に関与していたのである(紙方役所設置以前は郡役所が管轄)。特に生産管理に高月家が深く関与していたことが、一揆勢の当初の攻撃目標となり、驚いた高月家が紙方よりの撤収を図ったため、一揆側の要求が紙方役所撤廃へと変化するのである。
 その後も町人が紙の生産に関与していたことは、文化年間(一八〇四~一八一八)御用商人御掛屋又兵衛が紙方頭取を勤めていたことからも知られる(佐川家文書)。
 吉田騒動以前の紙生産のしくみは、生産者である農民が紙の生産資金を高月家より借用し、製品納入によって返却することになっていた。この資金は年賦償還で、しかも五か年間の返済猶予期間が設けられてはいたが、その利率が高く、生産者に還元される利益はほとんどなかった。そのため農民は製品の密売と楮の他所売りに活路を見い出そうとしたのであるが、紙方役所の強力な取り締まりによってそれも困難であった。また楮の他所売りについては藩の許可を条件とし、運上銀を納入する規定となっていた。紙製品の販売については、蝋と同様に大坂蔵屋敷に送られ、蔵物としての流通経路に乗って売却された。

 林野統制

 吉田藩は、三間盆地を取りまく山々の豊かな林産資源にも恵まれており、藩有林は領内一二か村一七か所にあり、御立山・御立藪と呼ばれていた。村落共同体の所有する林野(入会山・入会地の形がほとんどである)は、薪炭・肥草・牛馬の飼料供給源として、また櫨・楮の作付けなどの場として重要視されたから場合によっては用益権をめぐって村々、もしくは隣藩との争いに発展する場合があった(境界争論の項参照)。
 山林の統制のため山方奉行所・材木方役所が置かれていた。その組織の概略は次のようである。

(図表「山方奉行所・林木方役所組織図」)

以上は実務を担当する役人組織であるが、これとは別に藩の林業監察機関として、山目付が置かれ、藩有林の多い村に山横目が置かれて、山野の取り締まりや林産物の管理について、運用の厳正化が図られた。吉田領で山横目が置かれた村としては、目黒村が代表例で、毛利家が代々山横目役を勤め、一七俵二人扶持を給され、目黒村に住居を構えて、盗材・違反伐・山火事などに目を光らせていた(毛利氏歴要紀略)。

 商業統制

 吉田藩では、商人を陣屋町のうちの一区である町人町に集中させ、それ以外では商業機能を持つ地域としては吉野村(現北宇和郡松野町)・宮野下村(現北宇和郡三間町)の町分と呼ばれる区画のみに限って商業活動を許可した。町人を統制する組織としては、寺社町奉行――町同心があり、これと町人の中から任命された町年寄とがあった。町政運営の中心である町会所は本町二丁目に置かれた。
 藩では、商人・職人に対し、営業許可証明である木製の鑑札(商札・職札)を発給した。この営業鑑札・製造免許証は町会所より渡されることになっており、文化一三年における商札発給枚数は一三〇枚であった(佐川家文書)。
 吉野村・宮野下村は、いずれも山地と平坦地との接点に当たっており、交通の要衝として、物資の集散地であった。藩では、この両村に商業免許地域を設定した。吉野は、元禄七年(一六九四)藩が領内の山方物産(紙・楮・三椏・椎茸・櫨・木蠟・蕨粉・シュロ・松煙・松縄)などの集散地として建設した町で、幅三間の土佐街道沿いに間口四間・奥行一六間の町屋が並んだ。宮野下は、村内の三島神社前の集落を町分として設定し、町分には年寄を置くこととし(吉野も同様)その身分は庄屋に準ずるものとした。
 商人のうち、藩の認可を得て、商品を藩に納入したり、または領内物産の交易に従事する者を御用商人と呼んだ。吉田藩の場合、金融では御掛屋の佐川家、紙問屋の両高月家(法花津屋)、鮮魚御用の廉屋甚五兵衛・武内文右衛門、菓子の納入の酒井勘右衛門、酒造業の鳥羽家(屋号は久代屋)など各種の業種にわたっていた。
 こうした商人・職人は、商札・職札の下付に際して納入する営業免許税及び商品取り扱いに際して課せられる運上銀のほかには、課税が実施されなかったようである。農民の場合に課せられる年貢に相当する営業利益については、掌握も困難であり、臨時に冥加金が課せられていたから、課税対象とならなかったのであろう。

図表 「山方奉行所・林木方役所組織図」

図表 「山方奉行所・林木方役所組織図」