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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 家臣団と知行制度

 宗純入部時の家臣団

 吉田藩分知に際して、宗純に与えられた家臣は二四四人であり、うち一、三〇〇石の井上五郎兵衛を筆頭とする知行取(一〇〇石以上)は六〇名を数え、「郡鑑」によれば、万治元年(一六五八)における知行高の合計は一万八、五〇〇石であった。
 知行取の外に無足衆二八人・徒士衆七人・勘定衆八人・船頭衆四人・小船頭三人・水主三〇人・足軽四二人・百人之者三一人・厩之者一〇人・大工三人などがあり、この外に宗純の部屋住時代から従属していた家臣八人(うち二人は知行取)があった。
 吉田藩では、藩政の整備と同時に家臣団の再編成にも意を用い、高禄の藩士を整理して扶持米取の家臣を増加させる政策をとった。明治四年(一八七一)の廃藩置県直前には藩士の数七四三人、うち一〇〇石以上四一人と高禄の藩士の割合が減少している(延宝の改革の項参照)。
 分知に際し、家臣団と共に武器類・船舶(二二艘)が分与された。「藤蔓延年譜」に、宇和島藩和田源太夫・黒沢作左衛門より金原弥左衛門へ引き渡したと記されている。この外に金小判一、五〇〇両、白銀一五〇貫目が当座の藩政運営費として渡されている(鶴鳴余韻)。

 吉田藩の行政組織

 吉田藩の行政組織は、分知当初軍事編成に重点が置かれ、算勘に関する事務的役職は明確に把握することができない。軍事編成は三つの大隊に分かれ、それぞれの隊に大頭・侍大将・番頭・物頭・組頭の上級武士が配置され、これに平士・徒士・足軽・中間などの下級武士が分属した。この編成は幕末に洋式の体制が導入されるまで、ほぼこの体制が続けられ、事務分掌もこの編成に沿った組織となっていたのであるが、延宝期(一六七三~一六八一)に高禄の藩士が整理されるころになると、役職の専門化と分掌がすすめられた。軍事編成と行政組織の概略を示せば次のようである。
 吉田藩の行政組織は、軍事編成及び藩主の家政をつかさどる、いわゆる奥の機関(御小姓間詰所・児小姓詰所・御台所詰所・御納戸部屋・御陣屋内小使部屋・御野方部屋・御搗屋など)と密接に関連し、不可分離であったため、伊予西条藩のように行政・財政・軍事が比較的顕然と分類できる藩と比較すると、ややその構造を把握することが困難である。しかし、伊予諸藩に限らず、こうした軍事・行政及び奥(藩主の家政)・表(一般藩政)が渾然一体となっているのが通常の形態であったのである。
 吉田藩の場合、中心となる政庁は御用場であり、幕末ころには御政事頭取(家老が就任)四名・御政事加談(中老・用人が就任)八名が詰めた。これに次ぐ御目付所は監察をつかさどる役所で、物頭以下準太刀格までの藩士が就任した。軍事編成における奥物頭は近習物頭とも呼び、目付・小姓頭などを兼ねた。また、表物頭は寺社町奉行・船奉行を兼任することになっていた。庶民統制の中枢を担当する郡奉行には、物頭以下準太刀格が就任し、在目付(御徒士が就任)・御中見・井川方(御徒士以下仮名御免が就任)などを統率した。この外、勘定奉行・山奉行が物頭以下準太刀格より任用される職で、御銀奉行(太刀格~無足間)・御蔵奉行・御作事奉行・小物成奉行(給人~無足間)がこれに次ぐ役職であった。諸役所の同心や陣屋各所の門番などには足軽が当てられた(宇和島吉田両藩誌)。各役所の構成員については煩雑になるので省略する。

 知行制度

 吉田藩が成立した当初、宗純に与えられた家臣二四四人のうち、一〇〇石以上の知行取が六〇人に達し、その知行高を合計すると一万八、五〇〇石に達し、三万石のうち六一・七パーセントを占めた。これらの知行取の村別知行高を示せば表二-92のようである。
 表中の三〇〇石以上(延宝改革以後は家老級以上)の家臣を列挙すれば、井上五郎兵衛(一、三〇〇石)・尾川孫左衛門(一、〇〇〇石)・浅倉内蔵助(八〇〇石)・宮崎専助・尾田又左衛門・岩口了沢・甲斐織部(五〇〇石)・戸田藤左衛門・国安什太夫(四〇〇石)・荻野七郎兵衛・飯渕助左衛門・中島次郎兵衛・久徳孫四郎・真柳勘兵衛・安藤儀太夫(三〇〇石)の一五人である。彼等の知行地は二か所以上に分割されており、一か所で与えられることはなかった。知行主の知行地の支配関係は当初から名目のみであったと想定される。
 知行取の家臣たちに、知行所として割り当てられたのは、三間盆地とそれに続く山地に位置する四八か村(現三間町・広見町・松野町)であり、陣屋町を中心とする近辺の村々や浦方は藩の直轄であった。すなわち軍事・経済・交通の要衝に位置する所は知行地から除外したのである。目黒村と吉野村の大半が除外されているのも経済・交通上重視される地域であったからであろう。
 隣接する宇和島藩では天和二年(一六八二)現在、知行取一六六人で知行高三万七、二八一石(当時の表高七万二、一四六石に対し五一・七㌫)であったが、のち財政難によって蔵米取に切り換えた。『宇和島吉田両藩誌』には、寛永一四年(一六三七)家臣への給地を止む、と記しており、知行主による現地支配は早くから中絶していた。また近隣の大洲藩では天和元年に地方知行制を廃して蔵米知行制に切り換えている。吉田藩の場合、地方知行制がいつまで継続されたのかは不明である。しかし、宗純による延宝改革の実施による高禄家臣の知行削減、天和元年の代官設置(毛利金右衛門・杉岡彦太夫・中井孫四郎)による在地の直接支配などから考えれば、このころにはすでに地方知行制が形骸化し蔵米知行制に近い状況にあったのではなかろうか。宇和島藩でも天和二年に在郷代官を置いているから、これも近隣諸藩と同一歩調をとって蔵米知行制確立への地歩を固めていたと思われる(吉田町誌・増補御年譜微考)。
 知行取の外には、家臣の大半を占める扶持米取があった。一人扶持の場合、一日に玄米五合が支給されるから平年で一・七七石(三五四日分)、閏年の場合は一・九二石(三八四日分)を得たのである。寛政八年(一七九六)の「御家中御擬作差引手扣」によれば、扶持米取は三〇人扶持から半人扶持まで二二段階に分かれている。この外に扶持切米取といって、扶持米を何人分・切米何石というように、同一人が二種類の支給方法で給与を得るものがあった。扶持米や切米は、藩の蔵において毎月支給されることになっていたから、扶持米取は蔵前まで行き、現物の米かもしくは蔵米切手(換金して生活費に充てる)で受け取った。

 延宝の改革と高禄家臣の淘汰

 吉田藩は、前述のように三万石のうち六〇パーセント強の一万八、五〇〇石(『角川日本地名大辞典』には、一万六、二二〇石余とある)を知行取に知行所として渡しており、その知行地が三間盆地を中心とする米作地帯に集中していたため、藩成立当初から財政的に苦しい運営がなされていたことは想像に難くない。藩財政を圧迫したものとしては、万治二年(一六五九)の江戸上屋敷類焼・寛文元年(一六六一)の禁裏普請手伝い・同六年の領内大洪水・同七年二月の魚棚町より出火して町人町を全焼した大火・同一二年の牛疫流行による牛二、三一〇頭の病死など、諸種の要因があった(郡鑑・明浜町史年表)。
 宗純は、藩財政窮乏の最大の要因である高禄家臣の知行を削減すると共に、諸制度を整備し、家臣団を再編成して安定した藩政運営を企画した。元禄三年(一六九〇)に著された「土芥寇讎記」によれば、宇和島藩か吉田藩に三万石を分知した際、高禄で無学無能な人柄の良くない者を放出した、としており、淘汰の対象となったのは、高禄の家臣・人柄の良くない者であった。淘汰事例としては、延宝元年(一六七三)に井上五郎兵衛(一、三〇〇石)・岩国三左衛門(五〇〇石)、延宝五年に尾川孫左衛門(一、〇〇〇石)などがあり、延宝元年から同五年までの間に、一、三〇〇石・一、〇〇〇石・八〇〇石・五〇〇石・二五〇石各一名、三〇〇石・二〇〇石各二名、その他八名で、合計一七名・知行石高約三分の一の家臣を整理した。これ以後、吉田藩では禄高に上限を設けて、家老級でも三〇〇石とし、これによって生み出された余裕を有能な小禄者の雇用に充て、もしくは昇格の財源とした(吉田町史稿)。この延宝の改革は吉田藩の財政を好転させ、宗純の治績のうち最大のものとして高く評価されている。

表2-87 吉田藩知行取

表2-87 吉田藩知行取


表2-88 宇和島藩よりの引渡武器

表2-88 宇和島藩よりの引渡武器


表2-89 吉田藩軍事編成

表2-89 吉田藩軍事編成


表2-90 吉田藩行政組織(抄)

表2-90 吉田藩行政組織(抄)


表2-91 吉田藩席次(幕末)

表2-91 吉田藩席次(幕末)


表2-92 吉田藩給人村別知行高(明暦3年)

表2-92 吉田藩給人村別知行高(明暦3年)