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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

3 蝋専売制

 専売制以前の藩内の蝋生産

 文政八年(一八二五)の改革に至る宇和島藩の蝋生産の過程をまず述べておこう。慶長一九年(一六一四)の伊達氏入部からでもおよそ百数十年間は、自生する山櫨の実から青蝋を農間に生産する自給自足的な性格であったが、一八世紀の中頃に自生の山櫨に代わる唐櫨の栽培が藩によって奨励されたこともあって、蝋生産は自給的なものではなく、販売のために生産されるようになっていった。決して、豊かとはいえない山方農民が、少しでも商品作物生産をしていく努力、さらに在方の上層農民が、金銭になる製品を作り出そうとする意欲が、藩内に商品としての蝋生産を徐々に浸透・拡大させていったものであろう。
 宝暦四年(一七五四)には、藩は城下町商人三人(誉田屋・米沢屋・今蔵屋)の願いによって、三人を蝋実晒座に命じ、領中の唐櫨(自生ではない植栽の櫨)・山櫨の実や漆実の集荷権限を与えた(『日本農民史料聚粋』一一巻「不鳴条」)。しかし、藩は三商人を通じて後に見るような櫨実の独占集荷を企図したものではなく、その四年後から保内組・矢野組・御庄組・御城下組・津島組からの願いにより各組の櫨実の他所売りを許可している。櫨実の販売が活発になり始めたということは、取りも直さず青蝋生産が盛んになりだしていったことを意味する。宝暦八年(一七五八)から安永四年(一七七五)にかけて、領内各村農民から青蝋生産の願いが出され、藩はこれらをことごとく許可している。櫨実を絞った段階の蝋は緑色が濃く、これを青蝋・生蝋と呼ぶのに対し、青蝋を天日に晒して脱色したものが晒蝋である。この青蝋生産の願いを出した農民たちは、中津川村庄屋・若山村庄屋・宮内村庄屋が含まれているように、上層農民であったとみられる。商品としての青蝋生産の道具は、櫨実を粉にする踏臼や粉になった櫨実を蒸す釜、さらに蒸された櫨実粉から蝋を絞り出す建木(立木)が必要であり、それぞれの持ち場には人が付いて、特に建木は二人がかりで作業に当たったのであるから、青蝋生産工程からしても、道具を備え、人を雇用できる資金力を持ち合わせた上層農民であったことは容易に想像でき、山方の櫨実栽培農民との階層の違いを認識しておく必要があろう。
 さて拡大しつつあった領内の青蝋生産に対する藩の政策は、まず安永四年(一七七五)一〇月一七日、これ以降の青蝋座新設を不許可にしたことから始まる。これは既存の青蝋座が櫨実の供給不足を憂えて、青蝋座認可の制限を願い出たことによる。さらに翌年、藩は既存の蝋座に対してその営業権を認める代わりに、運上銀を取り立てることとして、矢野組・保内組の各組六人ずつの青蝋座に銀札の上納を命じたのに始まり、その後も運上銀取り立ての方式が採られた。このように藩はまず蝋の生産者数を統制し、ほかの種々の営業権同様に運上銀を課すことで藩財政に寄与させたが、次いで、領内で生産された蝋の販売を通して、藩が収入を得ることを考えた。もちろん、それは領内需要を上回るほどに蝋生産が拡大していったことを前提にする。藩は、蝋が他領(大坂など)に積み出される際に一割の運上銀を課したほか、天明四年(一七八四)、保内組宮内村庄屋の都築与左衛門を世話人として、領中の青蝋を買い上げさせ、藩の商品(蔵物)としてそれを大坂に送って販売し利益を上げることを試み始めたのである。
 大坂市場が開けたことで、宇和島藩の蝋生産はさらに進展したが、寛政五年(一七九三)四月一日には、藩は蝋などの領内産物の大坂での引き受け商人として加嶋屋作兵衛・紣屋善兵衛の二人を任命して販路を整え、領内産物の領外移送に当たって五人の城下町商人(宅屋喜右衛門・瀬戸屋喜八・味噌屋庄三郎・富屋林蔵・八持屋喜八)に歩一銀(一割の運上銀)の徴収を行わせて藩財政を潤す方式を整えた(三好昌文「宇和島藩における製蝋業と専売制」(『産業の発達と地域社会』所収))。すなわち、蝋座営業権への運上銀のみならず、領外への販売の際にも運上銀を課す方式が確立したのであった。
 文化六年(一八〇九)になると藩の蝋統制策はより積極的なものになった。蝋座や商人たちの商品流通に一定の運上を課して収益を得るのみではなく、藩自ら大坂で蝋販売をして利益を上げる蔵物販売の枠を広げ始めたのである。そのために藩は、生産者である蝋座が一般商人にではなく藩に蝋を納めて蔵蝋にする場合には、一割の運上銀納入を免除する特典を与え、蔵物蝋をより集荷しやすくする施策をした。蔵物にせず勝手売りをした場合には、これまで通り歩一銀運上が賦課されたのはいうまでもない。
 さらに藩は、文化八年(一八一一)市郷共に青蝋を蔵蝋とすることを命じて、集荷独占を計ろうとし、また、蝋座の生産助成として「櫨本(元)銀」という生産資金を貸し与え始めた。しかし蝋座の側は、生産した蝋を自由に、少しでも有利に販売したいという当然の要求から、藩による領内青蝋の蔵蝋化に、迷惑であるとしてこれに反対したのである。藩は、文化一〇年、蝋座側の反対を認めざるを得なかった。蝋座たちの経営が必ずしも難渋しておらず、自己資金で蝋生産を行っている間はいかに藩が蔵蝋化を進めても、反対にあうのはやむを得ぬ事であったのである。しかしそのことは、蝋座の経営が難渋し、自己資金で櫨実を購入できずに、藩より櫨元銀を借り受け、生産資金に充てるようになった時、蝋座たちは藩の政策により深く従属させられるようになることを意味する。
 蝋原料の櫨実値段は、蝋座の利益の多少に直接反映させられるものであった。櫨実生産農民の中には櫨実商人の前貸し銀を受けて櫨実で返済する者が生じ始め、櫨実商人の有利な集荷が進行し思い通りの櫨実価格が決定されるようになり、蝋座は高値の櫨実を購入せざるを得なくなる傾向が強くなっていった。また、領外から櫨実を購入する場合には、藩は、移入の際に一割の運上を課したために、文化一二年(一八一五)五月に蝋座たちの要求によって撤廃されるまで蝋座は高い原料を購入させられることになっていた。
 このように、かつての有利な原料櫨実購入や自由販売が制約される中で、次第に蝋座の中には経営を圧迫され、中には原料購入資金に事欠く者も増加し、文政元年(一八一八)には蝋座の中で櫨元銀を藩から借り受ける者が多数に上った。蝋座の経営はさらに悪化の傾向にあり、借り受けた櫨元銀を青蝋で上納して返済するのに未納を生ずる者が現れだした。櫨元銀という資金を貸し下げて製品で返済させる方式は、蝋座の経営主体を容認し、生産が円滑に担われることを前提にして機能するのだが、蝋座たちの中には櫨元銀を借りた時点でそれまでの借銀返済にこれを充て、そのため生産資金が不足して製品返済ができなくなる者を生じたため、藩は文政六年(一八二三)、原料の櫨実を蝋座に渡し、これを蝋に生産して藩に上納させ、その分の賃銀を与えるという「賃打ち」の方式も試みたのである。以上のような状況を前提にして、藩はより積極的な政策に乗り出していく。

 蝋専売制の実施

 七代藩主宗紀の時代の宇和島藩の諸改革の中で、蝋に関する政策は、文政八年(一八二五)に集中して実施された。まず、文政八年七月二一日付で為替役所より蝋座中に命じられた内容の骨子は次のごとくである。蝋座たちが昨年藩から貸し下げられた櫨元銀の返済に難渋するなど、経営状態が悪くなっていることの理由としては大坂における蝋相場が以前にも増して一層下落していることが挙げられる。蝋相場を保つためにも、これ以降、領中一統、蝋座が個別に大坂に荷送りをすることを禁止する、というものであった(「蝋座方一件控」、本項の以下の典拠もすべてこれによる)。藩から櫨元銀を借りないで、櫨実購入を自力で行ってきた蝋座が運上銀を上納して勝手次第に販売できたものを制限し、これらも含めてすべての蝋を藩が独占して集荷し、主に大坂に荷送りすることとしたのである。販売の自由を奪われた蝋座の中には、藩の統制の目を盗んで抜荷をしようとした者もあったが、それらは厳罰をもって取り締まる対象となった。この方式は藩が独占的に大坂に荷送りすることで、蝋の大坂相場を保ち、値上げさせる目的と、正銀を藩が独占して領内は銀札流通で賄う制度をより有効にする目的とから発したものと理解できよう。
 次いで文政八年(一八二五)一〇月二日、同じく為替役所は領内の蝋座たちに、櫨実購入に関する統制策を命じた。すなわち、山方の櫨実生産農家からの原料集荷に当たって、これまで「手先」・「中買」と呼ばれる商人が櫨実を買い集めてこれを蝋座に売り渡す行為を禁止した。この後さらに一一月には、櫨実(新・古共に)はその組々の蝋座締方・頭取が大坂表の正統な相場をもって櫨実値段を取り決め、そのあと買い取る方式を命じ、櫨実値段確定前に他の組から購入に来ることを禁じたり、中買商人が介入することを禁じたのである。これらは原料費の高騰を防ぎ、安定的に蝋生産を確保するための藩の施策であった。
 利益を上げるためには、要するに生産の費用を少しでも安く押さえ、出来上がった製品を少しでも高価に販売することであった。文政八年の藩の蝋専売政策は、大坂一手販売によって、より有利な販売価格を維持し、櫨実購入統制によって生産費を安価にしようと試みたものであったが、さらに生産費を安く、しかも生産過程で利潤(剰余価値)を上げるために、藩は蝋座に賃打ち(打賃)をさせたのであった。前述のように櫨元銀返済の未納が出たことから試みられたものであるが、賃打ちとは具体的には藩が櫨実と浅田粕・炭(燃料)を蝋座に渡し、櫨実一貫目について銀二分ずつの賃料を与えて、蝋を生産させる仕組みのことで、これを蝋座側から見れば、蝋原料を自己資金で購入できずに、藩から渡され、これを自分の道具を使って労働をして製品を上納して一定の賃銀を受け取るという方式であった。
 以上の蝋専売制の運用には、藩は表二-85の人々を各組の担当者として、蝋座が生産した蝋の上納取り立てと櫨実採取農家からの独占買い取りに当たらせ、それ以外の者が櫨実購入や製品蝋の取り扱いをすることを禁じて、専売制を機能させようとしたのであった。

 蝋専売制の修正

 宇和島領内で生産された蝋を独占的に大坂市場に売りさばくことで、藩財政を有利に展開させる効果をもった文政八年(一八二五)の専売制度は、また、同時に藩内においては、櫨実生産農家や集荷商人の利益を押さえ、その分だけ藩側に利益をもたらし、しかも蝋生産者には賃銀のみを与えて藩が利潤を掌握するという性格を持っていたが、藩から見て積極的なこの試みは、早くも翌年文政九年には修正の余儀なきに至った。
 山方の櫨実生産者たちは、藩が領中一統の櫨実を買い上げ、賃打ち用に蝋座に渡すのでは、当然のことながら価格は押さえられ迷惑に及ぶと、再三にわたって自由販売の嘆願を繰り返した。これに対して、文政九年九月二七日付で藩の為替役所は、櫨実の統制買い上げを中止し、蝋座が櫨実の直買をすることを認めた。ただし、櫨実の他所売りは原則として差し止めた。
 櫨実生産者を保護するかのように専売制以前に戻したのも「当時、櫨実はひとかた御為に相成る御産物」との認識を藩が持っていたからであり、藩による廉価買い上げを続けては、かえって「櫨山の者どもは段々に難渋」に陥ることになる、との考えからであった。要は蝋の大坂における販売価格に跳ね返ることのない櫨実値段が保たれればよしとするのがこの段階の藩の態度であった。
 また、蝋座中に対して藩は、次のように修正を命じた。すなわち、①櫨実の一統買い上げは停止したので、蝋座の賃打ちは止め、蝋座による櫨実直買と蝋生産が命じられ、生産された蝋は藩によってすべて買い上げる。②蝋座の建木(立木)一面につき、年間一〇〇丸の生産を目安として、およそ一か月に青蝋一〇丸ずつの藩の買い上げにこたえ得る生産を保つこと。③蝋の納入以前の銀札の前渡しは差し止めるので蝋座は自力で生産に当たるようにする。ただし、櫨実代をこれまで藩から借り受けてきた者については相談に応じる。④蝋の買い上げ値段は独自の領内相場ではなく、大坂相場の引き合いをもって値段決定をする。⑤蝋の他所への積み出しは一切差し止め、抜荷は厳禁する、という内容であった。
 およそ一年で櫨実独占買い上げ、蝋座賃打ちの政策を転換させねばならなかった理由は何であろうか。すでに述べたごとく、山方櫨方の反対を押し切って櫨方の生活を困窮に陥れ、社会秩序を不安定にするよりは、この当時藩の目は大坂に向けられており、青蝋の大坂での自由販売を防ぎ、藩が集荷独占をして大坂において有利な商いが行えるか否かにこそ力点が置かれていたのであろう。したがって、青蝋の一統買い上げ独占集荷はなお厳重に施行され続けたのであった。
 しかし突然、文政一一年(一八二八)一〇月、藩は青蝋の独占買い上げ中止を命じ、蝋座や商人たちの大坂市場への自由な商品輸送を許可したのである。すなわち、専売制の中止である。この一大転換は何によってもたらされたのであろうか。恐らくは、前述のごとく藩債整理のために大坂蔵元商人などからの借銀を「無差引」にしたことから、青蝋一統買い上げの資金繰りがつかなくなったことが直接の原因であろう。
 藩による櫨実買い上げの中止に続く、専売制の根幹である青蝋買い上げの中止によって、これ以後は藩(蔵元商人)の資本投下はなく、相対売買を容認しその際、運上銀を取り立てる方式のまま天保年間以降展開していった。藩による専売制度は、安政年間に復活し、慶応年間に厳重に施行されるまで、しばらく休止状態であったといえる。

表2-85 上納蠟取り立て並びに櫨実買い取り役

表2-85 上納蠟取り立て並びに櫨実買い取り役