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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 紙の専売制

 紙専売制に至る経過

 宇和島藩の紙生産は、延宝三年(一六七五)にはすでに始まっていたと考えられている(「宇和島吉田勧業制度」(『日本農民史料聚粋』第二巻))。元禄元年(一六八八)にも紙業にかかわる記録は見られるが、はっきりとは正徳二年(一七一二)四月八日、豊田丈左衛門・山田七右衛門両名によって領内代官中にあてられた次の達しがある。達しの内容は、他所に積み出す紙類一切について、これまでは漉屋(紙生産者)から口銭を差し出させてきたが、今度改めて城下町紙買仲間より口銭を出させることにする、したがってこれからは口銭を納める紙買い仲間商人以外から紙類が他所へ差し出されることは停止する、というものであった。このことによって紙生産漉屋による自由な販売(といっても口銭は上納する)は停止され、その成長は阻止されることになった。同時に、藩は紙買い商人の紙集荷・販売の特権を与え、商人の成長を保護する政策を採った。この方針は享保四年(一七一九)にも触れられている。その後、曲折を経た後、宝暦四年(一七五四)には城下町商人によって、漉屋たちに楮元銀(紙原料である楮購入資金)が前貸しされ、生産した紙で納入返済する方式が、このころ行われていた様子である。その後、宝暦九年一一月に、山奥・野村・川原渕組より漉き出される紙は、すべて藩の販売品として大坂に送られることとなり、さらに文化六年(一八〇九)には、原料の楮皮の統制が行われて、他所への販売が禁じられた(「宇和島吉田勧業制度」)。以上のように、徐々に藩専売制のための準備が整い、文化一二年、藩の資本による厳密な意味での紙の専売制(藩による楮買い上げ・生産紙(半紙・泉貨紙)の独占集荷)が開始されることになったのである。

 紙専売制の開始

 文化一二年(一八一五)一〇月八日、半紙方・泉貨(仙過)方はそれまでの紙役所所属から郡所付属に改められることが、藩役人小島安左衛門・鈴木忠右衛門連名で命じられた。藩の改編の意図は、一〇月一三日に紙生産村々庄屋に伝えられたが、その骨子は次の通りであった。
 藩の財政は難渋しているが、これをしのぐ道として、紙方を繁昌させ、紙数を増加させ、二万丸の生産にも及べば、収入は上がり財政の建て直しも図れよう。元来、紙は農間の産業であり、これが繁昌すれば下方(農民たち)も益があることである。ついては、これまでのように紙役所を通して世話をするのでは弁(便)利もあり、かえって下々の迷惑もあるので、このたび郡所付属を命ずる。以後、郡所―生産村庄屋という貢租徴収の仕組みを通して生産がより上がるよう、特に、原料生産地(楮山)と紙生産地(漉山)とが勝手を主張することのないように、両者共に繁昌するように差配することが肝要である。そのためにも、郡所の強力な指導が必要である、という内容の説明であった(「楮紙御用控」、本項の以下の典拠もすべてこれによる)。

 これに対して、翌日一〇月一四日、野村組の野村庄屋緒方与次兵衛・松谷鳥鹿野広田村庄屋平井佐左衛門・中通川村庄屋三瀬義助・蔵良村庄屋松本左平治の四名は藩役人(松江弥兵衛ら)に「覚書」を呈示し、紙生産村々(野村組)の代表意見を述べた。その内容は、専売制移行に伴い紙生産村々の利益を守るための生産の方式ともいえる主張であり、その主な点を紹介すれば、①楮山からの楮買い入れと漉き山からの紙買い入れは、村々にいる買子に担当させることで買子の生業を保って欲しい。ただし、買子では調整がつかない場合に、役人を指し向けて買い取りを願いたい。②楮元銀を借りる場合は、村々でよく吟味をして願い出るので、願い通りに貸しつけて欲しい。③漉屋一人一人に通帳を渡し、楮丸数・漉き高を記しておき、紙を漉き上げた節に引き合わせる方式が望ましく、そうすれば抜紙の取り締まりもよくなる。④紙出場は、従来通り野村中宿にすれば便利がよい、というものであった。以上は、藩による紙生産組織の改編に伴い、生産村々として、従来の仕組みをできるだけ温存させる形で、利益を保とうと企図した意見であり、②・③は藩も認めるところであった。
 さらに野村庄屋緒方与次兵衛らは、藩命を受けて表二-80の通り文化一二年一〇月から一か年間の野村組村々の紙生産予定高(①泉貨漉き予定高・②半紙漉き予定高)と、その生産に必要な原料楮の必要高(③漉き草楮高)との書き上げを行い、合わせて村方漉屋の所持楮分と村内余剰楮分の合計(④作立楮高)を見積もって、各村の原料楮不足分(⑤―1)・余り分(⑤―2)を積算して、野村組全体では一か年の半紙・泉貨紙の予定生産高に必要な楮高は組内のみでは合計二万四、一三五丸の不足が見込まれると書き上げている。したがって不足の楮高は、外の組より回してもらい、それでも不足する分については、他領(吉田・土佐など)より購入して渡してもらうことを藩に願っている。

 紙専売制の仕組み

 以上の準備を経て、藩は郡方奉行小島安左衛門・鈴木忠右衛門の連名で文化一二年(一八一五)一一月一九日に触れを出し、まず楮の買い上げと漉屋への楮渡し方の仕組みを確立した。楮買い上げの組織として、横林村に役所(楮役所)を設け、小頭忠助・郷目付弥兵衛のほかに手伝いの者を置き、村々で楮を伐り取り、蒸し次第に横林村役所に届けさせ、これを買い上げた。場所の隔たった村々へは「出買い」といい、山奥組に二手、野村組ヘ一手、川原渕組ヘ一手の役人たちが買い上げのために出向いていった。楮買い上げに際しては、必ず村々庄屋が立ち会い、差し紙を出すようにした。その際、一二月一〇日までに差し出した楮は、一丸につき三分ずつの増し値段として、楮の早出しを奨励し、原料確保に努めた。出買いや楮役所による買い取りの際、楮生産者には小切手が渡された。楮生産者はこの小切手を、山奥組の者は横林村役所へ、野村組は代官所に、川原渕組は差し向けられた松沢与市に渡して、銀札に引き換えることができた。
 こうして、楮生産者から楮役所に小切手を通して買い集められた楮(楮の多くは生産者の手元にある)は、その後、紙生産者である漉屋の手に渡されるのであるが、その方法は、漉屋たちは山奥組は横林村役所に、野村組は代官に、川原渕組は松沢与市に銀札を納めて楮小切手を受け取り、その小切手をもって村々で楮に引き換える方法が採られた。なお、楮を購入する際は、一丸につき口銭二分ずつ、藩への上納が義務づけられていた。
 ところで、漉屋たちの中には楮購入のための銀札を納められない難渋の者もおり、それら小生産者のために、一一月二四日付で、藩は楮元銀貨し付けの制度を達した。楮元銀とは紙生産のための原料購入資金のことであるが、これを必要とする漉屋は、一一月二九日までに、借り過ぎのないように村々でよく吟味の上、泉貨漉きは荒川彦惣・近沢与五兵衛に、半紙漉きは松沢弥兵衛・二宮和右衛門に申し出れば、無利子で貸し付けを受けられ、その返済は来四月限りに漉き立紙をもって返納する制度であった。ただし、四月限りの納期を過ぎた場合は、月一歩の利足が付加された。一例として、野村の半紙漉き楮元銀借り入れの際の証文を示すと、

 一銀札三拾三貫四百三拾目
 右は当村漉屋江楮元銀御貸下げ成下され、慥に拝借仕候、返納之儀は来子四月限、漉立紙を以て滞り無く、きっと皆
 済仕らせ申すべく候、後日の為、仍てくだんの如し
     文化十二乙亥十二月十五日                         野村小頭取 弥三右衛門
                                          同       忠 八
                                          同村横目    銀兵衛
                                          同       七兵衛
                                          同      新五兵衛
                                          同      園左衛門
                                          同村庄屋 緒方与次兵衛
   松江 弥兵衛殿
   二宮和右衛門殿
 前書の通承届候間、返納の義、きっと申付くべく候、以上、                緒方 源治(野村組代官)

というものであった。これらの楮元銀貸し付け額と製品上納による仕切り決算は、各人の通帳に記され、その記入は小頭取が行い、一村単位での合計の決算は庄屋の責任において遂行された。数少ない紙役所の役人が直接管理するのでは、到底行き届かないところを、村々庄屋と小頭取を通して管理させ、しかも楮の運搬を最少限に止めることができたことが、紙生産を郡所付属に改めたことの大きな効用であったといえよう。

 紙専売制の実態

 さて、右に述べた紙専売制は、藩の考えたような制度運用は可能だったのであろうか。この制度開始の命じられた文化一二年(一八一五)の一一月から、翌年四月末までの制度化第一年目の紙生産の実態はいかなるものであったろうか。幾つかの特徴点を挙げておこう。
 まず、原料である楮の不足が改めて明瞭になったことである。藩はこの認識に立って、領内在楮が至って少ないのを、「遠からざる内には、他所楮、心あてに致さず、御領中の在楮ニて漉足候様」に致したいと考え、そのため楮苗の植え付けを奨励した。野村では、文化一二年一二月二〇日付で楮不足打開策として楮畑開作一一町歩、古畑地楮植え付けを進め、楮苗一一万本代として銀札四貫九五〇匁の貸し付けを願ったところ、藩は同月二四日、楮苗八万三、三〇〇本代として銀札三貫七四八匁五分の貸し下げを認め、その返納は二年間無利子、三年目は月八朱の低利返済を許し、苗楮の植え付けを督励した。
 苗楮の育成には三~四年はかかるので、直ちに楮不足の解消にはならない。そこで土佐楮・吉田楮・大洲楮・西条楮などの他所楮に依存せざるを得なかった。しかし、他所楮も、宇和島藩同様に他所売りに制限をすることがあり、例えば土佐楮は土佐国中の紙漉きが増加したため文政一二年八月一日より他所売りの禁止が土佐藩によって命じられている。宇和島藩では、官民の交渉によってかろうじて土佐楮の移入にこぎ着けている。
 楮苗植え付け・他所楮移入のほか、藩は楮滓・楮柏を売り払わずに、それらから中染・下漉きなどを漉かせるよう命じて、原料不足に対処した。このような楮不足は楮の買い上げ制度に疎漏が生じていたことも一因となっていた。藩は楮のすべてを買い上げる原則を立てていたものの、小規模の手作り楮が漉屋に売られるものは容認していたが、それ以上の商人向けの相対売りが現実にはかなり行われていたようで、藩はその禁止を改めて命じている。また、楮買い上げ勘定の際、通い帳に記入する方式が「ことのほか混雑致し、差し支え」、勘定の相違も生じていることが役人によって指摘されている。
 右のような楮不足のためもあって、漉屋たちの生産し上納した紙に目方不足が生じ、これが発覚した。一二月二五日付で、藩は、上納紙の目方不足は大坂表不向になる、楮は何とでも工面するから、紙を大坂市場向けに適するものに漉き上げるように、との要望を出している。紙専売制を通した藩のねらいが、紙の大坂市場販売にあったことをよく示している。
 さて、多くの漉屋たちは楮購入資金として楮元銀を村単位で藩から借り受けたが、その返済は来る四月限りに製品で返済する約束であった。野村組九か村では、昨秋に借り受けた楮元銀を製品で返済するところが、四月二九日付で「楮払底、天気不正、かれこれにて大に手後れに相成り」、出来高不足を生じ、製品での完済がならず、表二-81のごとく合計銀札二八貫三九匁の未返済分を銀札で返済している。
 なお漉屋たちは、製品を宇和島城下に運び入れることの不合理(二~三日はかかり、時には雨に濡れることもある)を考え、野村に役所と蔵とを開設して、そこで紙の上納が行えるように嘆願し、蔵と役所の場所の提供までをも申し出ている。
 こうして、紙専売制度開始一年目が経過し、二年目を迎えた。

 二年目の紙専売制

 二年目も制度の原則に変わりはなかった。が、また原料楮不足にも変わりはなかった。文化一三年秋は雨繁く、秋作取り入れ麦の仕付けも手後れがちとなり楮の伐り蒸しが遅れぎみであるところから、藩は、少しでも早く紙漉き原料を買い上げようと奨励を行い、昨年度は一二月一〇日までであったところを、一一月一五日までに納期を早めて、楮一丸につき三分ずつの増し値段とした。もっとも、この年は閏八月があったことも一因だが、それとともに藩とすれば紙の出来上がりを急がせ、新紙を一二月初めに積み出し、正月一五日までに大坂に送り着け、初売りの一番値で格別の値段引き上げを企図していたからでもあった。
 しかし、楮の納入は好ましくなく、藩は督励の期限を延長して一二月二五日までの納入分は一丸につき二分ずつの増し値段を、それ以後でも来春まで一丸につき一分ずつの増し値段を与えることで在楮の集荷に努めた。さらに、他領楮の買い付けも行ったが、特にこの年は豊後国に人を派遣して楮の買い付けを行わせた。
 楮不足を解消して、自領のみで自給自足するためには、前年のように積極的な楮苗植え付けを行うべきであることは藩当局も認識するところであったが、藩財政は手詰まりであり、今年は楮苗代の貸し下げはできず、農民の自力をもって植え付けをするように藩は命じた。仮に、藩財政が豊かであり、投入した資金回収に時間をかけ得るのであれば楮苗の植え付けは連続できたであろうが、逼迫した財政の下でいかに手早く利益を上げられるかを考える時、新たな楮苗の植え付けは避けられたのであろう。
 さて、楮元銀はこの年も、前年より割り増しで、泉貨紙銀札三一貫六二〇匁、半紙銀札四二貫匁が貸し付けられ、漉き立て紙で返済されたが、やはり今回も、四月末の期限での完納はできず、「夥敷未納」になっている。これも楮払底が原因とされている。
 楮買い上げ、紙買い上げを通した藩の専売制も、基本的には自領楮の不足とこれを補う資金力にも乏しく、文化一四年の春には、この専売制度の存続を見直す意見が藩内に漂った模様である。三月八日付の野村組庄屋中より近沢与五兵衛あての「覚」によれば、このたび内密に知らされた御主意(紙専売制の廃止案)に対して、庄屋たちが主張するには、確かに楮は不作の年回りにあるし、他領楮は入らず、楮払底となり、紙漉きは減少して誠に「瀬越難渋の時節」ではあるが、もはや当冬などより少しずつ楮も増し、紙増長に赴いている、ここで藩が紙専売制を中止しては「犬骨折、鷹の餌」のたとえのごとく、努力が徒労に終わる、この一両年を堪えればきっと実りもあろう、それにもし藩が、その政策が手に余ったらすぐにあきらめるというのでは、政治は治まらず、一向に御主意も立たぬようになり、中間に存在する我々庄屋の差配も難しくなるとして、紙専売制の存続を訴えた。庄屋たちの意欲には目を見張らせるものがある。

 抜楮・抜紙

 文化一二年よりの紙専売制は、三年目以降も継続した。しかし、専売制度を内側から突き崩す抜楮・抜紙(専売制では藩が楮・紙のすべてを買い上げる原則であったが、ひそかに生産者が藩に納めずに商人に売る場合)が早くも発生したことに注目される。この年はまだ兆しに過ぎなかったが、抜売りの原因は構造的なものであり、やがて年を追うごとにその数は増し、専売制を形がい化させる深刻なものになっていくのである。
 抜楮・抜紙が起こるには原因がある。文化一五年(一八一八)正月二五日、野村組一六か村庄屋は連名で、抜紙の原因と対策について、次のように藩に訴えている。すなわち、抜紙が生じるのは、漉き上がった紙を藩がすぐに出買いによって購入しないことが理由として挙げられる。しかし、それは根本的原因ではない、漉屋(本来の身分は百姓であり、農閑期の冬場に紙漉きをする)にとって、連々の農作物の不作は物成(貢租)の未進となり、また、楮元銀は完済できずに他借でしのいでおり、それが年々持ち越される状態で、小規模漉屋の困窮は深まっている、そういうところに不心得の商人どもが入り込み、紙を高値に買うと勧誘すれば、苦しい漉屋たちは難渋のあまりに抜売りをしてしまうのであると、庄屋たちは推察している。
 したがって、抜紙を防ぐためには、藩が漉き上がった紙を直ちに出買いによって買い集め、抜買い商人の活動を封ずることが必要だが、それよりも抜本的には、商人が高値で買える状況を改めることの必要を庄屋たちは突く。藩は近年、正銀引き換えの制限を行い、銀札が正銀に引き替えにくくなり、ついに銀札の価値が正銀に比して低落する状態が生じ出している。そのため、領内の銀札相場で紙を買い、これを他領で売りさばけば、泉貨紙一俵につき銀二〇~三〇匁の差益が出ることになる。その利ざやに目を付け、抜買い商人の跳りょうが起こる。それこそ商人たちは、さほど高値で買い集めても、それ以上の利益を上げられる銀札相場=金融構造であったのである。いわば健全な商業利潤に加えた、銀札引き替え制限による銀札相場低落によって生じたこの利益を、藩が独占集中できるか、あるいは抜買い商人も利益の一部に吸着できるか、という状況の中で、小生産者漉屋が自らに少しでも有利な抜買い商人に紙を売るのは、やむを得ないものとも理解できる。
 藩は、財政打開策としての銀札引き替え制限を改めることはせず、したがって抜紙の発生する根本原因を改めることなく、力で抜き売りの者を摘発する方針を採った。文化一五年=文政元年(一八一八)八月二日、四郎谷・富野川・中通川・野村の各一名の者たちは、所持の紙を城下町の商人へ抜き売りしたことが摘発され、過料銀が命じられ、泉貨漉きの差し止めが厳命された。また翌年一〇月には、野村・中通川村各一名が岩田本町一丁目の商人に抜紙をし、発覚の後、過料銀が課せられた。
 銀札の正銀引き替え制限が紙生産者たちに間接的な影響を与えたほかに、楮渡し方の節に前年度は容赦された口銭徴収を藩より命じられたことは、漉屋たちに直接的な不利益を与えずにはおかなかった。役所よりの渡し楮には一丸につき二分ずつの、漉き村売り楮や漉屋手楮には一丸につき一分ずつの口銭上納が命じられたのに対して、漉屋たちは「至て不気服」と不満の色を隠さず、ことに漉屋手楮口銭について、「自分に作立候楮に口銭差出侯義」はなんとも納得がいかないと反発し、それなら、毎秋の楮在高申告時にも自分作立楮は申告しないという抵抗の姿勢を示すほどであった。これら漉屋の声を庄屋が集約して、藩に訴えてはみたものの、藩の回答は「領中の楮一円御買上」の方針であり、漉屋手楮も差別無く、いったんは最寄り役所に差し出させ、買い取った上で渡すべきところを、それでは煩わしいので自分の楮をそのまま漉かせているのである。したがって楮口銭は漉屋手楮も例外ではなく、三月二〇日までに横林役所へ納めるよう、再度命じた。漉屋たちは不服を押さえて、これに従わざるを得なかったのである。

 楮元銀制の変更

 銀札の正銀引き替え制限によって銀札の通用不十分となり、諸物価高値=銀札価低落という事態となったことは述べたが、紙楮も値上げをしなければ生産者が難渋することであり、藩は紙楮の値上げを行った。しかるに、文政元年(一八一八)冬、銀札の改正が行われた。以前のような引き替えが行われだし、しかも、大坂市場においては諸品値下げの公儀の命令もあって、紙類も値下がり、これに応じた宇和島藩の生産紙値下げによって、漉屋たちはその後、大坂紙相場不景気が続いたこともあって、文政二~五年と紙買い値段の低落に耐えることが強制された。
 この当時は、文化一二年(一八一五)の楮苗植え付けの成果も出始め、他領楮も容易に搬入でき、楮不足に悩まされることなく、逆に余り楮も生じるほどになっていたにもかかわらず、またまた、藩も紙生産者も新たな紙相場の下落(宇和島藩の近領からの大坂に送られる紙の値段が下げられ、宇和島藩蔵物よりよほど下値であったことも一因している)という難問に直面することになったのである。
 漉屋たちにとって、生産した紙値段が引き下げられるのは直接の減収となり、零細な漉屋への影響は大きく、毎秋の楮元銀貨し付けへの依存度はなお高まるべきところ、藩は楮元銀の手法を変える策に出た。文政二年(一八一九)九月、今秋の楮元銀貸し付けを前にして、藩は、これまで楮元銀を貸し付けても翌春四月限りに生産紙で完納できず、その時点で紙上納不足分を銀札で納める額がかなりになり、銀札で返納するのでは藩が無利子で半年間銀札を貸し与えているのと変わりがなく、この制度を改めることにする、というもので、藩は、これからは原料の紙漉き草を漉屋に渡し、渡し高に応じた漉き手間料を貸し与え、翌春四月までに追々差し出した漉き紙で仕切りをつける、という方式への変更を触れた。漉屋を小なりとも経営体として認め、資金(楮元銀)を貸し付け、運用をゆだねていたのに比べ、今回の方式は、漉屋を単なる手間賃稼ぎにさせる(すなわち、もうけ=剰余労働部分=を藩が握る)という性格を含むものであり、漉屋たちは庄屋を前面に押し立て、反対の訴願を繰り返した。藩は、再三の願いに引き下がり、今年度の楮元銀貨し付けの返納が、来年四月末までに正紙で完納できないならば、次年度からは新方式を断行する条件で、旧方式を認めた。これは、翌春もその次の年も、正紙で完納することができ、漉屋たちは楮元銀の改悪を実施させることを阻止したのであった。

 紙専売制の改編

 文化一四年(一八一七)から見られ出した抜紙は、その後も増えこそすれ、減少することなく存在したようで、文政四(一八二一)一二月には、野村の四名の者が、この秋に城下町に抜紙したことが発覚し、過料を申し付けられ処罰された。さらに野村の四四名の者たちが城下町商人と恵美須町商人に抜紙をした科で過料銭が申し付けられた。野村一か村で、同時期に合わせて四八名の者たちが抜紙の廉で摘発されたことに、藩役人は「さてさて苦々しき次第」と苦慮するのであった。
 宇和島藩の紙生産者にとっては、大坂紙相場の変化がその生活に大きな影響を及ぼすものであった。藩にとっても紙のもたらす利益を大いに当てにしており「御国産第一之品に候」と認識して、紙生産が円滑になるようにとの配慮はしていた。そこで、大坂紙相場と生産者紙価との調整には絶えず苦心が必要であり、藩の買い上げ紙価が低いために大量の抜紙を発生させ不締まりになるようでも困り、時には漉屋たちの生活を守るために、大坂紙相場下げ値にもかかわらず買い上げ紙値段の増し値をする(文政八年)ということもあった。
 文政五年九月、それまで八年間続いてきた半紙方・泉貨方の郡所付属を改め、文化一二年以前の元締め支配に復したが、しかし専売制の実態に変化はなく、楮伐り蒸し・漉き立て・買い上げの仕組みや楮元銀の貸し下げなどは従来通りであった。さらに、藩は文政八年(一八二五)、楮元銀貸し付け制度の変更を強く命じた。前年に貸し付けた楮元銀の正紙上納返済が完全にはなされず、未納の村々があることをただして、かつて文政二年に触れたように、楮元銀貨し付けの停止と正楮貸し付け・手間賃貸し付けの断行を繰り返し命じたのである。楮元銀は、表二-82のごとく、野村組だけでも銀札二九五貫三六〇匁(銀六〇匁=金一両の交換率で約五、〇〇〇両)に上るもので野村組漉屋七九七人の生産資金になるものであり、漉屋たちは文政二年の時と同様に反対を唱えた。文政八年一二月付の野村組代官前川藤太夫に宛てた一六か村庄屋連名の嘆願書(「口上覚」)によれば、楮元銀貨し下げ停止となると貧窮の漉屋どもはもはや手段に尽き、難渋差し迫り、ついには「御百姓共騒動仕候様」になり、村方の統制は乱れ、紙の相対売り(抜き売り)も取り締まれず実に困ったことになると書き上げている。藩に対する恫喝とも読める百姓騒立の危機感をはらませた再三の嘆願は効を奏し、その年の楮元銀貨し下げは行われた。しかし、翌年の紙上納返済時期にはやはり前年同様、全村そろっての正紙皆納は困難であり、その旨が漉屋の意見を代表した庄屋たちから書き上げられている。そこには、紙値段が下落し、しかも楮が年増に払底のため「産業利潤は村により一か年にておよそ三〇~四〇貫目余りも少なく」なり、漉屋の困窮は募り、ここで藩が楮元銀貸し付け停止を命じれば、漉屋たちの人気は動くことになろう、と不穏な村内情勢を述べて楮元銀の継続を望んでいる。表二-83のように、楮元銀は野村の場合、二年目の文化一三年から、泉貨紙・半紙合計で七〇貫匁以上が貸し下げられ、一〇年以上にわたって漉屋たちの年間の収支のやり繰りに組み込まれてきたものであった。秋に楮元銀が貸し付けられるのを当て込んで、それ以前に借銀(例えば四月末に藩に返済する楮元銀の正紙未納分)をしており、楮元銀の一部でそれまでの借銀を返済し、その後、楮を購入し紙生産をするが、もとより四月末には正紙不足を来し、そこで借銀をして一時しのぎ、秋の楮元銀貸し下げを待つ、という状態の漉屋たちにとっては、楮元銀貸し下げ停止は、立ち所に借銀返済不能となって窮するのであった。

 楮元銀の廃止

 にもかかわらず、文政一一年一一月六日、藩は楮元銀貸し下げの停止を断行し、その冬よりは村々の紙漉きへ正楮を渡し、漉き手間料(楮一丸につき銀札三匁積)を貸し下げることとした。厳しい態度で藩が臨んだことは、その二〇日前に、御用紙力から前触れがあり、覚悟のためにその旨心得るように前もって知らせているところからもうかがえる。
 藩が断固とした態度に出た理由は何であろうか。過去二回、楮元銀貨し下げ停止を命じておきながら、漉屋側の猛反発にあってこれを撤回させられた上に、藩と漉屋村々の相互の約束である正紙による納期厳守がたやすく破られ続けている状態を放置する訳にいかなくなったことを看取することができよう。しかし、それ以上に、前節で述べた大坂の藩債整理・銀札引き上げという、藩としての荒療治を断行したために、藩の資金繰りがつかなくなったことから、これを大きな契機として、楮元銀貸し下げの停止を断行したとみることができよう。
 これに対して、漉屋側は騒動を起こした様子はなかったが、しかしその翌春三月ころ、藩が空前の大量の抜楮・抜紙を摘発し、野村で漉屋数一八五名(文政七年当時)中の一一四名が過料夫(夫役)処分にされているところからすると、漉屋側は、抜き売りによる専売制なしくずしの抵抗行動に走ったと考えることは決して無理な推測とはいえまい。
 藩はこの時期、表二-84のように野村以下の村々の抜き売り行為者に過料銭ではない合計一、九七三人役の過料夫を課す大量処分を行い、あくまで、藩による紙の独占集荷を堅持しようと図ったのであった。
 この文政一一~一二年の楮元銀廃止の改編を経た後も、基本的には専売制は持続し、藩の最重要商品としての役割を担い、さらに幕末期に向かっていくのである。

図2-55 野村組野村付近(国土地理院5万分の1地形図「卯之町」を使用)

図2-55 野村組野村付近(国土地理院5万分の1地形図「卯之町」を使用)


表2-80 野村組楮紙一か年分大積寄帳(文化12年10月)(1)

表2-80 野村組楮紙一か年分大積寄帳(文化12年10月)(1)


表2-80 野村組楮紙一か年分大積寄帳(文化12年10月)(2)

表2-80 野村組楮紙一か年分大積寄帳(文化12年10月)(2)


表2-81 野村組楮元銀未返済高(文政13年4月29日)

表2-81 野村組楮元銀未返済高(文政13年4月29日)


表2-82 野村組漉き村、各村楮元銀高 文政7年11月

表2-82 野村組漉き村、各村楮元銀高 文政7年11月


表2-83 野村楮元銀貸し付け銀高

表2-83 野村楮元銀貸し付け銀高


表2-84過料夫(文政12年3月)

表2-84過料夫(文政12年3月)