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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 藩家臣団と支配組織の形成

 秀宗の家臣は、宇和島藩の成立事情からして、政宗から付けられた家臣がその中枢を占めたのは当然であろう。まず慶長八年(一六〇三)、秀宗一三歳の時、一五人の家臣が政宗から付けられた、と伝えられている。前にものべたように、秀宗が家康に拝謁した翌年である。ただし、このころの家臣は秀宗に子々孫々までというのではなく、何年替わりかの交替で仕えたといわれている。井伊家から夫人が入輿した時に、付き従って秀宗のところに来た家臣もあった。秀宗の入部の時も、何人かの家臣が政宗から新たに付けられ、秀宗に供奉して宇和島に到着した。この時の家臣を「五十七騎」といい、先格を尊ぶ後代では格別の家柄とされた(実際は、五六騎だったという説もある)。秀宗は、これらの家臣をとりあえずの中核として一〇万石にふさわしい家臣団を作り上げ、幕府の期待する「水軍」としての軍団を編成しなければならなかった。以下で述べるように、この軍団は人的にも物的にも領民に依拠しており、軍団の編成自体が領民の統治と密接なかかわりをもっていた。そして領民をどのように統治できるかも、幕府が大名に期待したもう一つの任務であった。

 若党・足軽・陣夫・小荷駄

 秀宗は五七騎の家臣を引き連れて宇和島に入部したという記事から、単に秀宗を含めて五八人の武士だけが馬に乗って宇和島に向かう姿を思い浮かべたとしたら、それは誤りである。ひとつには、馬に乗り従者を引き連れて出陣するのが当時の武士であった、ということがある。これは戦時だけでなく平時にもあてはまり、供づれの多少によってその武士の格がわかるのが近世の社会であった。このような武士は大名から知行として土地と農民を与えられており、知行地を与えられないで単に大名から切米(年に何回かに区切って支給されたので、この呼称がある)や扶持米(一人一日五合を一年三六〇日分一石八斗を支給するもので、これを一人扶持といった)を支給される家来とは、この点によって区別されていた。逆にいえば、知行地を与えられているのが、一人前の武士であり家臣であった。宇和島藩では、第六項で述べるように、諸藩のなかでは比較的早期に、家臣が知行地を直接支配する制度を実質的に解消したが、それ以降でも名目的には家臣の知行地は存続し、この形式上にせよ知行地をもつかどうかが、武士のひとつの格と考えられたのである。そしてこうした武士は、自前で召し抱えた従者を引き連れて、騎馬で出陣するのが本来の姿であった。この従者には、若党のように刀を抜いて戦う戦闘要員と、主人の鉄砲(持筒といった)や槍、兜などを運ぶ非戦闘員とがあり、これらの数はどの藩でもその武士の知行の高に応じて軍役として定められていた。宇和島藩の場合、明和六年(一七六九)に須藤段右衛門が筆写した七万石時代の「御軍役大概積」によれば、一、四〇〇石の家臣は四二人の従者を、一、〇〇〇石の家臣は三〇人、藩でもっとも数の多かった二〇〇石の家臣は六人の規定であった。この数字は出陣の時に適用されるものであったが、平時も参勤交代などには、この半分の人数で藩主に供奉しなければならなかった。これらの人数の内訳は不明である。時代が下って嘉永七(安政元)年(一八五四)の改正規定では、一、〇〇〇石の従者一二人(この改正は無用の人数を減少することを、目的としていた)の内訳は、纒持二、馬印持二、馬の口取り一、槍持二、馬脇(若党と思われる)五、太鼓持二であり、二〇〇石の場合は馬脇一、槍持一の計二人となっている。この藩では、後に見るように、一、〇〇〇石はひとつの部隊の大将であり、したがって纒・馬印(いずれも大将の所在を明示し全軍の士気を鼓舞するための一種の旗)、陣太鼓といった道具が必要だったのである。これらの従者は、それぞれの家臣が、与えられた知行のうちで召し抱えておくのが原則であった。しかし、小身でそのような余裕がない家臣には藩で雇った従者が「貸人」として割り渡された。寛文五年(一六六五)の規定によれば、いわゆる部屋住みで扶持米を支給されている家臣には、御供や使者の時には若党二人、挾箱持一人、槍持一人が、一二〇石以下の知行取りには若党二人、道具持一人が付けられることになっていた。また先の嘉永の規定では、一三〇石以下については、「右(一三〇石)の以下はすべて御貸人一人づつ相渡さるべき事」とある。なお、馬も二〇〇石以下の家臣には、口取り二人のついた馬一匹が貸し与えられた(ただしこれは江戸で藩の公用で他出する時の規定であり、国元では適用されなかったと思われる)。
 いまひとつは、これらの騎馬の武士とその従者とは別に、藩が扶持する足軽によって構成される鉄砲・弓・長柄(足軽のもつ槍のこと)の足軽隊があったことである。宇和島藩では、後に見るように約四〇〇人の足軽が、二〇~三〇人ずつの組に編成され、各組は騎馬の武士である物頭が指揮をとった。もっとも、秀宗入部以後、藩は実際に戦闘に参加したことはないので、足軽は、戦闘よりも領内外で普請の人夫としての役割を期待されるようになっていった。寛文三年(一六六三)の郡奉行に対する規定では、池などの補修は村の人手によるのが原則であるが、「格別の破損出来之時、又ハ新池」の普請には、老中(家老)の認可を受けて足軽を使役できる定めになっていた。第一項で述べた里方農村部の特徴である多数の築池は、この足軽の労働力を投入して作られた、と想像される。
 最後に戦争に欠かせないものとして武器・弾薬・食糧の補給の問題がある。近世では、武器はそれぞれの武士が用意したが、足軽の使う武器をはじめ全体の弾薬・食糧などは、藩が準備し藩が補給することになっていた(これらのうち食糧は、動員の期間に応じて一人五合の計算で後日に幕府から支給された)。戦場までこれらの物資を運ぶのも、藩の役割であり、そのために戦時には馬(小荷駄)と人(陣夫)が農村から役として徴用されて小荷駄隊が編成された(この他に宇和島藩の特殊性として、浦方からは水主が徴用されて、軍船の運漕にあたった)。このために藩はいざ出陣にそなえて、武士から陣夫までの人員の総数・武士の乗馬から小荷駄の馬の総数、戦場で一日に必要な弾薬と食糧の量を把握し、日頃から人員・物資の動員と補給の計画を立てておかなければならなかった。五代藩主村候が延享五(寛延元)年(一七四八)に大和田清胤・岡野時誉・大口道勝などに命じて作らせた「鷹揚録」は、そうした計画のひとつである。また、先述の「御軍役大概積」も人と物の総数を積算した補給の計画書である。後者によれば、戦争に藩が動員する総人数は二、五七七人(うち騎馬の武士は一四〇人、陣夫五三二人)、総馬数一九〇匹(うち乗馬一四〇匹、小荷駄五〇匹)、一日の食糧米四一俵(うち三二俵は人の飯米、九俵は馬の飼料を米に換算)と計算されている。なお以上の計画では、これらの他に、二〇〇匹以上の小荷駄を行軍の道中で雇うことにしており、そのための駄賃も計上されている。これはもし実際の出陣を想定していたとすれば、あり得ないことであり、平和が続き実際には伊達家のような外様大名にとって軍事行動らしいものは、参勤交代か大名の転封時の城の受け取りくらいしか予想されない時代の反映である。もしこれらをすべて領内から徴用するとすれば、人馬と食糧の総額ははるかに大きな数字になったはずである。
 このように近世の軍隊は、騎馬の武士の何倍もの人と馬とから成り立っていたのであり、秀宗と五七人の家臣も多数の従者と馬を引き連れて、威儀を正して入部したと想像されるのである。
 幕府が諸大名に要求した軍役の規定によれば、一〇万石の大名は、騎馬の武士一七〇騎、鉄砲三五〇挺、弓六〇張、槍一五〇本(この中には長柄も含まれる)を用意しなければならなかった。七万石の場合は、この七割の、騎馬一一九騎、鉄砲二四五挺、弓四二張、槍一〇五本が必要であった。総人数については一〇万石は約二、〇〇〇人、七万石は約一、四〇〇人であり、幕府はこれによって、動員した大名に食糧を支給した。秀宗は、すぐにも新しく家臣を召し抱え、一〇万石にみあう家臣と総人数の動員体制を準備した。とりあえず騎馬の武士の召し抱えの状況を概観すると、表二-74のようになる。ここでは、①元和四年(一六一八)、②慶安三年(一六五〇)、③天和二年(一六八二)のほぼ三〇年おきに家臣団(知行取り)の構成を比較した。ただし、①は「惣侍衆知行・御切米・御扶持方留帳」から、②は『北宇和郡誌』から、③は「御家中知行高名寄並村割付帳」からとったものであり、それぞれの数字の意味は若干異なっている。①の数字は、石高で知行をもらっている武士だけのものであり、切米取りや扶持米取りは含まれていない。③も知行地の割り付け帳であるから、当然に知行取りだけの数字である。しかし②には、いわゆる部屋住みでさしあたって切米や扶持米を与えられている者も含まれている。つまり知行取りであることと騎馬で出陣することとは、厳密には一致しないのであり、②の人数は①・③に比べると若干多めになっている。しかし、その差はせいぜい数名であるので、大勢を見るのに差し支えはない。以上を前提に入部直後の①を見ると、武士の総数は一一三人でまだ幕府の規定には達していないが、入部後三年の間に五〇人近い武士が新規に召し抱えられたことがわかる。しかし、知行の総石高は四万石弱で、武士の総数が約四割増加した②・③とあまり差はない。これは、七、〇〇〇石という他の家臣たちからとび抜けて高い知行を取っている桑折左衛門がいるためである。次に①と②を比較すると、まず②では総数が一五四人で約四五人増加し、幕府の規定を満たしている。また五〇〇石以上のこの藩では大身に属する家臣は一二人から一三人と一人ふえただけであり、全体の比率からいえば減少している。ところが三〇〇石代と二〇〇石代は、それぞれ二二人から四一人へ、六三人から七九人へと大幅な増加である。一〇〇石代はあまり変化はない。つまりこの三〇年間の家臣の増加は、二〇〇~三〇〇石の家臣がふえた結果であった。②から③の間には明暦三年(一六五七)の吉田藩への高分けがあるが、これによる家臣の減少は分家による新規取り立てなどによって処理されたようである。いずれにせよ、②と③とでは、総人数はあまり変化はない。総知行高は約四〇、〇〇〇石から三七、〇〇〇石へと減少している。また五〇〇石以上の大身層には変化がないが、三〇〇~四〇〇石層は激減し、かわって一〇〇石代層が激増している。総知行高の減少はその結果である。

 藩軍事力の編成方式

 以上のような家臣団の構成の変化の要因については別に考えることとして、次にこれらの武士がどのようにして藩の軍団に編成されていたかを見てみよう。表二-75は、表二-74の②のもとになった史料から作成したものであるが、見られるように宇和島藩のこの期の軍団は三つの主要な単位から構成されていた。ひとつは桜田玄蕃組、ひとつは尾川孫左衛門組、ひとつは旗本備である(ただし桜田玄蕃は二〇年前に山家清兵衛に「崇り殺され」ており、このころは養子の監物の代である。この点でこの史料には不審があるが、あるいは玄蕃の死後も組の呼称がそのまま残ったとも考えられる。また前述の明暦元年の由緒書とも一致する点が多く、脱落部分があるとしても大筋では信用できると考えられる)。この軍事単位は組とも備とも呼ばれ、近世初期ではこの備の大将が家老であった。大きな藩では知行何万石という家老がおり、自分の家臣だけで大名から独立して作戦の可能な備を編成することもあったが、七、〇〇〇石の桑折家が一、〇〇〇石になった後の宇和島藩には、自分の家来だけでひとつの部隊を編成できる家老は存在せず(これは元和以降に取り立てられた藩に共通する特徴であるように思われる)、武士と足軽によって構成される組を大名から預かる形式になっている(なお宇和島藩では、家老とはいわず、明暦の由緒書では桜田玄蕃は侍大将、尾川孫左衛門は組頭と記されている)。二つの組はほぼ均等な構成になっており、騎馬の武士三十数人(その石高計九千数百石)、物頭九人(物頭は、旗大将・槍大将・足軽大将などと書かれている。その任務は槍・鉄砲などの足軽組を指揮することにあり、物頭が九人ということは、足軽組が九組配属されていることを意味する)、無足衆二四人(無足とは一般に知行をもっていないことをいい、ここでは武士の子弟が部屋住みのままで召しだされて切米・扶持米を支給されている者をいう)で構成されている。ただし以上の記載は格の順序であって、戦闘を前提にした陣立ての順序ではない。当時は一般に合戦(遭遇戦)は、武器の射程にしたがって鉄砲・の順で始まり、間合が詰まるにしたがい槍足軽が接触し、ついで騎馬の武士の格闘によって勝敗が決する、と想定されていた。したがって、ひとつの備の行軍はほぼこの順序にしたがい、先頭に旗(旗大将と旗足軽)、次に組頭または侍大将とその従者の一隊、次に鉄砲大将と鉄砲足軽、槍大将と槍足軽、次に騎馬の武士と無足衆の一隊、最後にこの史料には記されていないが、非戦闘員である小荷駄の一隊が続いたと思われる。なお、それぞれの武士の従者はそれぞれの主人に付き添うのを原則とした。次に旗本備には、旗本(馬廻りともいう)の武士二組四〇人と小姓一組一四人(小姓というと大名のかたわらで主人の刀をささげもつ姿を連想しがちであるが、その本来の任務は近衛隊士であることにあった)とが配属され、藩主を守った。また、この備には、桜田・尾川の両備に藩主の命令を伝達する使番も配属されていた。さらに、里方・浦方支配の責任者である郡奉行と大工・鍛冶・研師などの職人を支配した兵具方・鍛冶奉行・普請奉行などの御役人衆も、この備に所属した。前者は、里方・浦方から陣夫や水主を徴用する責任者であり、後者の支配下にあった藩の御用職人は陣小屋を作るにも、武器を修繕するにも欠かせない存在であったからである。医師が戦争に不可欠であったのは、現在と同じである。なお、尾川孫左衛門は組頭の他にも、佐田・三机・野田・小山・深浦・硯・沖之島の侍番所(第二項を参照)をも管轄していた。
 以上の他に、常時江戸に在留する者七人、秀宗の嫡子左京(宗時)に付けられた者一四人があったが、後者からは宗時の家督とともにやがて藩政をきり回すことになる者も出現した。
 右は騎馬の武士を中心に見た藩の軍事力編成の骨格であるが、次に藩という組織がどのようにこの骨組を中心に構成されているかを、寛文一二年(一六七二)「分限帳」によって見てみよう。
 この史料は、表二-74の①のもとになった「惣侍衆知行・御切米・御扶持方留帳」と同様に、武士をはじめ藩から知行以下切米・扶持米を支払われている者をその額とともに書き立てた帳簿である。しかも寛文の帳簿には、切米・扶持米だけでなく寺や神社への布施や初穂料など毎年定額化しているものはすべて記されており、臨時的なものはともかくいわば定員として藩に召し抱えられている人員はすべて記載されていると考えられる。これを一覧したのが表二-76である。表の集計に見られるように、武士の知行地の総石高に、藩が召し抱えている広い意味での家来に対する切米・扶持米を知行高に換算した数字を加えると、七万八四五石となり、これだけで藩の当時の石高七万石を越えていることが、まず指摘できる(しかも別枠で示した御前様〔宗利夫人〕と御姫様〔宗利の娘豊か〕の使用人の人件費銀約一、〇〇〇匁は、この他である)。後に見るように藩が、小物成をはじめさまざまな役銀を里方・浦方の経済活動に賦課せざるを得なかった理由はここにあった。
 表を一覧すると、知行取り・切米・扶持米取り・「中之間」「御歩行」のように格を現す言葉のもとに一括されているグループと、「御馬方」「御鷹匠」「御算用方」「御舟手」のように何となく仕事の内容が想像できる言葉のもとに一括されているグループとが混在していることに気付く。
 格とは本来は軍事編成上の地位であり(端的に言えば「兵隊の位」である)、前述したように騎馬で出陣するかどうかが、まず武士の格であることを決定する基準であり、そのことと知行地を与えられることが大まかながら対応していた。その武士の中でも、備の大将である家老が最も格が高く、次に物頭、次に普通の武士、次に部屋住みの順であった。同じ戦闘員であっても歩行侍は、馬上の武士より一段下の格とみなされた。「中の間」はもともとは、政宗から付けられた歩行衆が、城か御殿かの「中之間」に詰めて番をしたことによる名称であろうと考えられ、明暦二年(一六五六)「由緒書」の「中之間衆」の書上げには、「遠江様(秀宗)へ卯年(元和元年)ニ御歩行衆弐拾人進ぜられ候内」「中之間御番」などとある。そして、それがひとつの格を表す言葉となったあとに召し抱えられた新参の御歩行が「御歩行衆」である、と思われる(明暦「由緒書」には「御歩行衆」は中之間衆の次の次、「在番衆」(沖の島・野田・樫谷などの番所の番)の次に記されており、一人を例外として寛永期に召し抱えられた者が多い。

 「格」と「役職」との関係

 こうした格と行政上の役職とは、ごく初期においては、直接の関連はなかった。たとえば、初期においては、藩政全般を担当する役(後年の老中)は「奉行」または「仕置」役であり、桜田玄蕃は、侍大将であったが、奉行は山家清兵衛であった(第三項を参照)。元禄八年(一六九五)「御家中由緒書」の桜田民部の書上げによれば、曾祖父の玄蕃は最初は侍大将であり、それ以後御仕置役となった。祖父の監物は玄蕃と同様に侍中を支配した。父の大炊は家老役を勤め、その隠居ののち民部が跡をついで「組」(備)を預けられた。宍戸織部の場合は、祖父の弥左衛門は秀宗の一三才の時から近習を勤め、入部後は江戸留守居家老ののち国元に帰り、侍大将並びに仕置役を勤めた。父の弥左衛門は、侍大将を勤めた。織部は、御用場で「御用見習い」ののち老職並びに仕置役を仰せ付けられた。このように侍大将であることと仕置役であることが一致して来るのは、秀宗の治政の晩年のころのことと思われる。このころになると老中は「御用場」(「老中御寄合所」ともいわれた)で合議して政務をとり、その決定は、老中の連署による「引付け」という文書で各役職者に命令された。
 老中が組(備)を預かる侍大将の格に対応する役職であったとすれば、武士より一格下の中之間衆を支配したのが中老であった。寛延三年(一七五〇)に若年寄と改称された中老の職務は内務とされているが、これは中之間衆の役職がごく初期には「御城御番」「御本丸御番」「御城御常番」などであったことと関係があると考えられる。なお、中之間衆は、本来は「中の間」や城中に詰めて警備にあたったのであるが、本来は組に所属して戦闘配置につく武士がさまざまの行政上の役職についたように、「郡役」「蔵役」「石垣普請」「兵具役」などの武士の奉行の「下奉行」の役についている。
 切米・扶持米を支給される広い意味での侍のうちで、表の時期で中之間衆の下の格とされたのが、御馬方であった。この分限帳には、馬方の一人として、青木久兵衛の名が見えるが、明暦「由緒書」にも「御台所衆」の中にこの名がある。それによれば久兵衛は宇和島出身で寛永九年(一六三二)に召し抱えられ、同二〇年に「伯楽」に仰せ付けられたとある。これによれば明暦から寛文の間に御馬方という格と役職が新たに成立し、中之間衆と御歩行の間に位置づけられたことになる。
 次にこの表のころの御歩行衆は、役職の内容からすると東多田・樫谷・野田などの侍番所の番、鍛冶役・御蔵横目・証人(物の出納に立ち会い、監査する役目)などであった。明暦「由緒書」では侍番所の番は、「在番衆」としてひとまとまりになり中之間衆と御歩行衆の間に位置づけられていた。それが、この間に御歩行衆とともに格づけられることになったのである。
 御鷹匠衆の項目には、侍の格である鷹匠の他に、姓のない「餌差し」「犬殺」「犬引き」などの職の者が含まれている。鷹は、南予とくに御荘地域の特産であり、十数人という七万石にしてはいささか多い鷹匠の人数は、将軍家への献上品あるいは他家への贈答品として、藩が鷹の飼育にとくに力を入れていたことを示している。明暦「由緒書」に見える鷹匠一三人のうち八人が「御当地」の出身であり、しかも元和期に抱えられたものが多い点も、藩がいち早く特産の鷹に目を付けたことを物語っている。鷹匠には鷹の餌になる小鳥を黐竿で捕る「餌差し」、里・浦から役として集めた餌犬(第一項参照)を殺す「犬殺」、鷹狩りに使う犬の世話をする「犬引き」などが付属させられていた。なお、鵜匠が一人ここに配属されていることにも注目しておきたい。
 御算用方は、本来は御算用所(後年の御勘定所にあたる)に詰めて種々の事務に従事した者を指したようである。明暦「由緒書」に記された御算用衆の役職は、「買物役」「郡下役」「検地」「御老中前ニ相詰め侯」「御勘定奉公」「山畑御年貢納方」などであり、年貢や役の収納や物資の購入を中心にした事務である。御算用衆の特徴は、明暦の一六人のうち八人が当地出身であり、残りも土佐・日向・松山などの出身で、いずれも入部後に召し抱えられた者ばかりである点にある。役職上、地元の者が必要だったのであろう。寛文期の御算用方にも沖之島番・御鷹方役・明組小頭(足軽の小頭で配属先のない者)など直接には算用と関係のない役についている者もあり、算用方が格になっていることが窺える。
 御台所方は、明暦「由緒書」に記されているものは五人のうち四人が当地、一人が土佐の出身である。
 諸職人は、鉄砲鍛冶・刀鍛冶・大工・金具師・張物師・壁塗・畳刺・蒔絵師・時太鼓打・石切・米挽などであるが、紙すき三人・炭焼一人がいるのはこの藩の特徴であろう。なかでも鉄砲鍛冶は優遇されており、御歩行が最高で六人扶持と切米一五石(知行に換算して五〇石程度)であったのに比して、一〇人扶持と切米三〇石である(その他の職人は、この半分以下)。これらの藩御抱えの職人の他に、藩は年間何日と日数を限って、領内の職人を藩に対する職人の役として使役した(多くは役銀として代納された)。また賃銀を支払って雇用することもあった。
 坊主衆は、いわゆる茶坊主で頭をまるめているものの僧侶ではなく、来客や出仕した家臣にお茶を出し、御殿や役所の内部を調えておく役目の者であった。

 船頭と水主

 御船手は、大船頭・小船頭を始め、船大工と梶取り・漕手などの水主で構成されている。大船頭は、広い意味での侍で名字をもっていた。明暦「由緒書」には、「御船頭衆」として一一人の名が記されているが、仙台出身の者はもちろん一人もいない。このうち一人は淡路島、二人が塩飽島、残りも阿波・讃岐・備前・豊後・伊予松山・宇和島の出身である。また九人が秀宗入部直前に召し抱えられ、そのまま尼崎から大洲までの航海に当たっている。中には、手下の水主を連れて来た者もあり、馬には乗ったことはあっても船はまったく未経験の東北の武士たちにとっては、彼らをスカウトすることは、入部の不可欠の前提であった。この分限帳では、大船頭が六人、小船頭が五人、水主が一〇〇人ほど登録されているが、もちろんこれだけの船頭と藩御抱えの御手水主で、藩の必要がみたされたわけではない。藩の関船(瀬戸内で発達した軍船。紀州の安宅船よりも小型だが軽快で、藩の軍船には主としてこれが採用された。周囲に矢弾避けの矢倉を設け、矢・鉄砲の狭間が開けてある)のうちで大きなものは、船頭二人・矢倉の要員八人・水主七六人を必要とし、標準型のものでも櫓四〇挺、小早(関船の小型のもの)で一〇挺櫓であった。したがって、船頭こそ一〇人以上いるものの一〇〇人内外の漕ぎ手では、標準型の関船を二隻運航するのがやっとであり、これでは参勤交代にも差し支えたはずであり、表二-77に示されたように藩が総勢をあげて海に乗り出す場合には、必要な水主の三㌫にもならないのである。須藤段右衛門「御軍役大概積」は、先述の藩の動員計画に示された宇和島藩の総勢――武士とその従者・足軽・職人・陣夫・乗馬・小荷駄馬・武器・食糧――が海上に乗り出すのに必要な軍船・輸送船と運航要員を計算している。それによれば、必要な船は軍船五一隻・輸送船二〇一隻の計二五二隻、要員は船頭・矢倉・梶取り一〇六人、水主三、四五八人が必要であった。これを確保するためには、藩は領内から荷船(船問屋などが持っている貨物船)四〇隻・網船一五九隻を徴発し、さらに約三、四〇〇人の水主を徴用しなければならなかった。ちなみに「大成郡録」によれば、領内の船数は宝永三年(一七〇六)で荷船三七隻・鰹釣舟七隻・網船二二二隻・小舟一、二六〇隻の計一、五二六隻、宝暦七年(一七五七)で荷船二一隻・鰹釣舟七隻・網船二八五隻・小舟一、〇五三隻の計一、三七〇隻であり、里方の千石夫・陣失にみあって浦方から徴収された役水主は、宝永三年一、〇一〇人、宝暦七年一、〇二五人であった。「御軍役大概積」は机上の計画であって実際にそれが発動される機会は近世を通じてなかったものの、もしこの半分でも軍勢が海を渡って派遣されるようなことがあれば、藩は浦方から船と人を根こそぎ動員しなければならなかったことは、容易に了解されるところであろう。平時においても、上下三〇〇人をこえる人数を運ぶには一〇隻近くの船が必要であったと考えられ、また大坂への廻米などを考えれば、役水主の徴用は絶対に不可欠だったのであり、この表二-77に示される船手の要員は、藩の必要とする数の何分の一かに過ぎなかったのである。なお、これらの船頭・水主の食糧として前記の他にさらに一日につき一人七合五勺、計二五石余りが計上されている。
 次に御小人は、草履取りのように当時としては下級と考えられた雑用を勤めるものをいった。
 次が足軽組であるが、ここには一八人の物頭に指揮される一八組四四五人の足軽組が記載されている。ここで注意すべきは、前の八組には「御旗」「御持筒」「御長柄」と注記があることであり、この「御」という敬語はこれらの組が藩主直属のもの、すなわち旗本備に所属することを意味している点であろう。先の表二-75では、旗本備には物頭は配属されていなかったが、この表によればそうではなかったことが判明するのである。表二-75のもととなった史料には若干の脱落があったことが推定されるのである。残りの一〇組は組(備)に配属されていたと考えられる。たとえば一三番めの鈴木治大夫は、元禄八年(一六九五)「御家中由緒書」に「同(寛文)八申年、鉄砲組御足軽二一人御預けなされ候」とあり、この「御足軽」の組が鉄砲組であったことは確かである。なお、二一人のうち一人は小頭で道具は持たないので、この組の鉄砲は二〇挺である。また、残りの二〇人のうち一人は普請の巧者である「杖突き」であり、先に指摘したように足軽が普請に転用されていたことを物語っている。
 次に「挾箱持」は読んで字のごとくであるが、「磨の者」の意味は不詳である。ただし、この項には、「脇谷七郎左衛門・河原与惣兵衛支配」とある。享保六年(一七二一)「御家中由緒書」によると、与惣兵衛の曾祖父は三間告森の土豪で告森を姓としていたが、元和年中に内河原(現宇和島市野川のあたりか)の堤防普請に成功し、その功績で秀宗から河原の姓を与えられた、とある。そうだとすれば、この「磨」は「すり」または「ずり」であり、木材や重量物を運ぶコロや「しゅら」(木馬)を指すのではあるまいか。つまり「磨の者」は次々項の「御轆轤」と同様に物を動かす特殊技能者と考えられないであろうか。なお、この「者」という表現は、「衆」が一種の敬語であるのに比して、軽蔑の意味をもっていたことに注意しておきたい。
 「御町同心」は、注記に「望月八郎左衛門(町奉行)支配」とある通り、町奉行のもとで市中の治安維持にあたった。同心は足軽とほぼ同格の身分である。
 「御轆轤」は、轆轤を使用して物を動かす者であろう。
 「御馬屋中間」は一言でいえば馬丁であるが、これにも小頭以下、馬賄方、馬道具預かり、爪髪役などさまざまの役の者が含まれていた。
 「御門番・掃除番」は作事奉行支配に属し、城の各門や馬場などに配置されていた。
 「在々定番」は、侍番所の下番や境目の村々の庄屋に与えられた切米・扶持米を記載する項目である。
 「蟄居」は、知行を取り上げられて生活費として扶持米を支給されている蟄居中の者のことである。
 「下代」は、郡奉行・蔵奉行・山奉行・代官などの下代官の意で、三〇人が記載されている。この項目には、これらの下代に対する切米・扶持米の他に、金剛山での法事の施餓鬼料・龍光院(現宇和島市天神町)や修験の延命寺(元同市愛宕町)への御布施料・愛宕山太郎坊での護摩料・吉野大峰山(奈良県)での護摩料・宇和島八幡神社・高田八幡神社(津島町)への初穂料・和霊神社の燈明料などの支出が書き上げられており、藩の宗教的関心のあり方が示されている。
 「大坂」の項目には、蔵屋敷の役人の他に川船の船頭の切米・扶持米、大坂町年寄への音信・大坂町中の屋敷持としての諸経費の支払いなどが含まれている。
 「京都」には、京都屋敷の番人の手当ての他に、京都呉服所笹屋半四郎への切米(呉服所は京都の豪商で、幕府や諸大名への献上物や音信の品の調達先であるとともに、金融面でも藩のために奔走した)、蒔絵師への音信、京都愛宕権現・石清水八幡や伊勢神宮への初穂料が含まれている。
 「江戸」では、「御奥方」の費用として七、〇〇〇石が計上されている。江戸に住むことになっていた宗利夫人以下の奥向きの経費である。この他に職人三人・足軽三〇人・門番など役人、人足の手当てが記されている(表二-76の一五七人という数字は、奥向きの人数は入っていないことに注意)。最後に「寶池院様」は宗利の生母である。
 以上、ながながと表二-76について見てきたが、藩には、武士(知行取り一五三人、扶持・切米取一四〇人、計二九三人)の他に、一、四〇〇余人の中之間以下の扶持・切米取りが召し抱えられていた。彼らの中には、御前様・御姫様などに単にかしずいているだけの者もあったが、多くは軍事的な役割を帯びた役か、あるいは里方・浦方の支配に関わることで、単に年貢を取り立てるだけでなく、より深く領民を藩の軍団に結び付ける役を帯びていた。また、しばしば指摘したように、鷹匠・算用方・船手の多くは地元や近辺の出身者であり、彼らは藩の置かれた自然的条件を藩の目的にそって生かす役割を果たしたのであった。
 藩の行政各部門の責任者である奉行こそ、秀宗とともに入部した者たちを中核とする武士が任命されたが(ちなみに明暦「由緒書」中の武士一五一人のうち仙台出身者は六〇人、地元出身者は一三人である。これを知行取りで比較すると、知行取り一二六人のうち仙台出身者は五四人、地元出身者は六人となる)。しかし表二-76から指摘したように多数の地元出身者が奉行を支えていたのであった。このような例としては、先の河原姓を与えられた告森二九蔵の場合があった。範囲を庄屋層にまで広げれば、三間の太宰遊淵のような例は数多くあったと想像される。以下では、三好昌文氏の指摘によりながら、井関又右衛門の場合について述べてみたい。

 井関又右衛門の登用

 又右衛門は、兼近(現三間町)井関城主であった土豪の家に生まれたが、寛文七年(一六六七)に郡方役人の手伝いとして召し出され、三人扶持と切米六石を支給された。同一〇年から村々の掛り物(役)が不均等であったのを均等に割り付ける作業に当たり、同一二年四人扶持と八石に加増された。寛文一〇年といえば、浦・里を通じて大きな土地制度の改革であった内ならし検地(第六項を参照)が始まった年であり、同一二年はそれが終了した年であった。検地によって新たに決定した村高に応じて掛り物を割り当てるという繁雑な計算に従事することで、彼は検地に協力したのであり、加増はその褒美であったのではないだろうか。延宝四年(一六七六)宗利に御目見得を許された。天和元年(一六八一)藩命で「宇和旧記」(四冊)を編纂した。戦国末期の宇和郡の西園寺、御庄・津島などの在地領主各氏の歴史と所領内の寺社・旧跡・伝承・古跡などを記した地誌である。貞享元年(一六八四)には、浦・里支配の基本台帳となる「弌墅截」(一六冊)を提出した。「弌」は「一」、「墅」は「村」、「截」は「切る」「限る」という意であり、村々を支配するのに知って置くべきことを一村切りに(各村ごとに)記した、という意味である。その他にも同書には、土地の善悪・水利の良否・稲の品種など村柄についての情報が多角的に記載されている。元禄三年(一六九〇)宗利の次女三保姫が仙台藩主綱宗の三男宗贇(三代藩主)を迎えるにあたり、源氏物語を書写して献上し、褒美として米一〇俵を与えられた。同八年隠居。以上が、元禄「御家中由緒書」からわかる又右衛門の経歴である。これから指摘できることは、第一に、又右衛門が宇和地方の歴史と土地柄に精通していたことである。これは、ひとつには寛文検地に際して領内を歩きまわったであろうことにもよるが、やはり戦国以来の由緒ある家の生まれという点が大きな意味をもったと考えられる。この点があってこその藩の登用であったからである。第二には、彼の地域に対する知識は、源氏物語の書写からも知られるように、文筆の素養に支えられているということである。このことは「弌墅截」の編纂についても言えることである。「弌墅截」の編纂方針は、次期に藩によって編纂された「大成郡録」に内容的に受け継がれ、「弌墅截」そのものは、領域支配の原台帳として第五代藩主村候の封印に守られて藩庫に秘蔵されたが、実は、この「弌墅截」は部分的にではあるが、我が国最古の農書として著名な土居水也「清良記」第七巻「親民鑑月集」の記述を受け継いでいるのである。水也は、又右衛門の一世代前の人物であるが、「清良記」に限らず又右衛門は郷土に残された文書・記録を広く読んでおり、それが「宇和旧記」や「弌墅截」の編纂に生かされたのである。
 藩の側から見れば、第二・三項で述べたような条件の中で地域に密着した支配をおこなうためには又右衛門を登用して、その旧家出身という声望と郷土に対する知識とを、利用しなければならなかったのである。ただし、それには全国土の領有者である将軍を頂点とする支配の体制が、全体として地元の旧勢力に受け入れられているということが、条件となる。その意味では、沖之島争論が幕府の評定所で争われた一七世紀の中葉がひとつの変わりめであった、と思われる。

表2-74 家臣(知行取り)団構成の変遷

表2-74 家臣(知行取り)団構成の変遷


表2-75 慶安3年の宇和島藩の軍団編成

表2-75 慶安3年の宇和島藩の軍団編成


表2-76 寛文12年知行取り・切米・扶持米取り人数表

表2-76 寛文12年知行取り・切米・扶持米取り人数表


表2-77 宇和島藩の水軍内訳

表2-77 宇和島藩の水軍内訳