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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一 宇和島藩の位置①

 海の城宇和島城

 辰野川・神田川・来村川が作った複合扇状地にそびえ立つ分離丘陵上の丸串城に近世風の城郭を築いたのは、文禄四年(一五九五)に秀吉から宇和郡を与えられた藤堂高虎であった。
築城の開始は翌慶長元年(一五九六)であり、同六年には完成したといわれる。関ヶ原の戦いの翌年である。築城の名手といわれた高虎の設計になる城であったが、彼自身はしかし八年後には転封して伊勢に去り、かわって富田信高が伊勢から転封して城主となった。しかし信高も同一八年には改易をうけ、その在城の期間はわずか五年に満たなかった。その後の宇和郡は、短い期間であったが幕府領となり、やがて同一九年、大坂冬の陣のあとに、伊達政宗の長男秀宗に与えられた。
 秀宗が実際に宇和島に入部したのは、翌元和元年(一六一五)の三月、彼が仕えた豊臣秀頼が大坂夏の陣で滅ぶ直前であった。このころから板島は宇和島と改称され、城も宇和島城と呼ばれるようになったといわれる。
 宇和島城は、その後江戸時代を通じて伊達家歴代が城主であり、その間に寛文年間に二代宗利の大改修を受けている。独立式三重三階の天守閣は、廃藩置県、第二次大戦の宇和島大空襲、昭和三五年から三八年の解体修理を経て、現在も昔の姿のまま城山の頂上に立っている(現在、国指定の重要文化財)。
 空から眺めた城山は、長く伸びた五角形をしており、そのまわりをこれも長く伸びた五角形に道路が取り巻いている。市の中央に城山があるので、これをぐるりと回らないと市の端から端へは行けないのである。
 しかしながら、この景観は第二次大戦後のものであって、江戸時代のそれではない。江戸時代には五角形の三辺には堀が巡らされていた。航空写真で上述の道路がはっきりと見えるのも、じつはこれらが堀を埋め立てた跡に作られているからに外ならない。これらの堀は海に通じており、海水が直接にここに流れ込んでいた(汐入り)。そして五角形の残りの二辺は海と接していた。城山をめぐる現在の景観は、維新後に海が埋め立てられてでき上がったものであるが、それでも第二次大戦の直後までは、城山の北側の一辺に接する海面は、内港として残っており、夏の和霊祭りのときは近海の浦々から幟をたてて集まった漁船で埋めつくされたものであった。
 こうした宇和島城の立地上の特徴は、幕末に藩主宗城が内湾の出入り口をはさむ樺崎と戎山に砲台を築いたことからも明らかであろう。この城は、海からの進攻に備える城であり、宇和島城は、海にむかって海にそびえ立つ城であった。
 以上のことは、たんに城の立地上の性格にとどまらず、南予の地に幕府によって設定された宇和島藩の性格を象徴しているように思われる。
 宇和島藩が持った幕府にたいする存在意義は、豊予海峡と一部伊予灘に面したその立地条件を生かして、幕府の役にたつ水軍をどのように編成できるかにかかっていた。大名の将軍にたいする平常時の軍役奉仕である参勤交代にも、関西との往復にはこの藩では船が必要であった。平和の続いた江戸時代にはあまり機会のあることではなかったが、たとえば寛永一四・五年(一六三七・八)に九州で起きた島原の乱では、宇和島藩は数十隻の船を提供して、大坂と現地の間の交通通信網の一部を分担している。平時においても幕府の上使の九州への往復には、藩の船が提供されることがあった。また、三机の塩成(現瀬戸町)から宇和島湾の九島にかけていくつかの遠見場が設置され、大坂方面から伝えられた変事の情報が、海上の見通しを利用したのろしによって、いち早く城下に伝えられるしくみも作られていた。さらに幕府への献上品も海産物であり、幕府の側から見た宇和島藩は南の海国であった。江戸時代を通じて、藩は海の存在を一日も忘れることができなかったのである。ペリー来航に先立って久良(城辺町)砲台を、直後に樺崎・戎山砲台を築いた宗城の先進性も、代々の海への関心をぬきにしてはありえなかった、と考えられる。

 立地条件としての宇和地方

 東北の仙台から南国の宇和に入部した秀宗とその家臣たちは、以後二百数十年つづくことになった藩を、どのようにして作って行ったのであろうか。
江戸時代の藩は、ひとことでいえば国の平和を維持するための軍団であった。藩という言葉自体が、「藩塀」(国の守り)という意味で江戸時代の中ごろから漢学者が使いだしたものであり、大名とその家臣たちには、将軍の統率のもとに、領内はもとより幕府の動員令があり次第どこへでも出動して平和を維持する義務があった。そしてこの平和の維持には、海外からの侵略から国内の治安、洪水、日照りなど、人為的なものから自然の摂理に属する事柄までが含まれていた。組織として見れば、藩は小さくいえば大名とその家臣たちからなる軍事組織であり、大きくいえばそれを物的・人的に支える所領と領民の統治組織であった。領民はそれぞれの生業に応じて年貢その他の経済的負担を通じて軍団を養い、また軍団の必要とする夫役を提供しなければならなかった。
 秀宗たちは、入部したその日から所領と領民とを素材として前述の意味での藩をつくらねばならなかったのであるが、かれらが当面したのはどのような土地柄だったのであろうか。とくに彼らはそれまで経験したことのまったくない水軍を建設しなければならなかったことを考慮にいれながら、この問題について考えてみよう。
 表二-66は、「大成郡録」から領内の家数・人口などを抜きだしたものである。「大成郡録」は、宇和島藩が領内の農漁村を支配し年貢や役を取り立てるために必要な、石高・耕地面積の変遷・小物成・用水事情などの土地柄・家数・人口・百姓数・水主数などを村ごとに書きしるし、さらに組ごとにまとめたものである。表は宝永三年(一七〇六)の数字であるが、このころの領内は一〇組に分割・編成され、それぞれに代官が配置されて組内の支配にあたり、代官はさらに郡奉行によって統括されていた。もちろんこの表には、吉田藩に分割された現在の主として吉田・三間の両町に属する地域は含まれていない。また、数字はあくまでも秀宗入部後一〇〇年のものであり、この間に田畑の耕地面積は四、八〇〇町(田三、二〇〇町・畑一、六〇〇町)から一万三、〇〇〇町(田五、五〇〇町・畑七、七〇〇町)と二・七倍に、石高は七万二、〇〇〇石から一〇万石と一・三九倍に増加している。耕地面積の延びの割には石高が延びていないのは畑の開発の割合が高かったからであるが、それはともかく、この間に人口も三~四割は増加した、と考えるのが妥当であろう。しかし、吉田藩に三万石が分知されていることを考えれば、結局のところ秀宗が入部した当時の宇和郡の人口は、表とあまり違いはなく八万人程度であったと推定されるのである(ただし、以上の数字の基礎については、①天正検地は六尺五寸一間、以後の伊達家のそれは六尺一間であり、一坪の面積に約一割七分の差があること、②七万石から一〇万石への高直しの際に石高の人為的操作がおこなわれていること、などを配慮する必要がある。しかし、このような要素がなくとも、丈量の正確さや石高の決定法など検地がどの程度に実態をとらえていたかという問題があり、右のような推定は大まかな目やすに過ぎないのである)。
 この八万人の人々が日々に生活した場は、自然的条件からいって大きく見て浦方(漁村部)と里方(農村部)とに分けられる。
 漁村部に属するのは、表二-66では、御荘・津島・御城下・矢野・保内の五組である。もちろんこれらの組のなかにも海に面していない農村も含まれており、数値はそれらをも含めたものである。しかし、浦方といっても純粋に漁業だけでなり立っていたのではなく、田も畑もあり、百姓もいたのである。本百姓が負担する千石夫は浦方にも賦課されていた。たとえば、御荘組の内海浦(石高六、九六三石、現御荘町)は、農村がいくつかの大字で構成されていたように、いくつかの小村と小浦で構成されていたが、全体で約八百人の本百姓に対して約二〇人の千石夫が賦課されていた。しかし一方でこの浦は、一四五人分の水主役を負担していたのであり、全体としては半農半漁というのが当時の浦方の実態であったと考えられる。

 千石夫と水主役

 千石夫とは、石高一、〇〇〇石に一人の割で、城や河川の普請(工事)などの公的・国家的事業に使役するために、幕府や藩が百姓に賦課した夫役をいい、将軍となった徳川家康が江戸の市街地の建設のために諸大名に命じて動員させた例が有名である。逆にいって、こうした公的な夫役を負担するのが一人前の百姓だったのであり、それは村の一人前の構成員として村の運営に参加できる資格とある程度の関係があったと考えられている。宇和島藩の千石夫は、諸小物成や夫役とともに藤堂・富田時代のそれを受け継いだものであり、名目・量とも村ごとに固定していたようである。したがってその起源については判然としないが、一〇万石の石高にたいして二二一人であるから、一、〇〇〇石に一人以上の基準であったことだけは確実である。おそらくは、当初は五〇〇石に一人程度の比率で賦課された夫役が、百姓の公的な動員であるという意味で千石夫といわれたものと想像される。次に、近世においては、こうした公的・国家的な夫役を負担するものが本百姓であり、全国的にみて農村はこれらの本百姓と一部の豪農に隷属し使役される農民とから成っていたと考えられているが、宇和島藩においても、原則として夫役を負担するのは本百姓であった。ただし、史料的に役や小物成の負担関係がわかるようになる一七世紀末には百姓には一人前の本百姓と、半人前の半百姓、四半百姓とがあり、これらの総計がその村が夫役を負担するときの基準となっていた。この基準は、諸小物成などと同様にのちに見る寛文年間(一七七〇年ころ)高ならしの時以来固定しており、中期以降の農村の実態を示すものではない。
 右のように千石夫が百姓の負担であり、そのことによって百姓の資格(身分)を示したのに対して、水主によって負担され水主としての浦内部の資格(身分)を示すのが、水主役であった。したがって、水主役を負担するものは、百姓役である千石夫を当然に免除されていた。たとえば前述の内海浦の本浦である内海浦は約二一○石の田畑があり、合計三九人五分の百姓役を負担することになっていた。しかし、この浦には千石夫の記載はなく、かわりに五五人の役水主の記載がある。この浦の構成員は半農半漁であり、役水主として藩の御用船の水主(水夫)に動員されながらも、他方では同時に耕作の事実にともなって小物成や、千石夫以外の臨時夫役を賦課されていたのである。なお水主役も、ある時期以降は浦ごとに固定されていたようである。
 以上のように水主役の有無が、その土地を藩が漁村として認識していたかどうかの判定基準となるのであるが、それはかなりの程度実態を反映していたと考えてよいと思われる。このようにして、御荘・津島・御城下・矢野・保内の五組が、純農村を含むとはいえ、一応は浦方と判断されるのであるが、この他に、浦方の特徴に苫役の賦課がある。苫は、菅・茅などを菰のように編んだものをいうが、のちに見る小物成に苫竹があるので、この地域では細竹を材料にしていたもののようである。苫は、陸上で現在の葭簀ばりのようにも使用されたが、水上では船の上部を覆うのに使われた必需品であった。したがって苫を編むのは漁業を続けるための不可欠の前提であり、その一部を藩は小物成として徴収して御用船などに使用したのであった。
 内海浦を例として見たように、ひとつの浦は、全体としても個々の水主の経営をとっても半農半漁というのが実態であった。このことは、のちに別の項で紹介する土佐藩との沖之島争論の対象が、網代(網場)だけでなく山や田畑でもあったことにも示されている。この時期の漁業は、農業と結合してはじめてなりたったのである。さらに漁業そのものにとっても、たとえば苫の材料である菅や茅を取る場所、帆柱などの船材、生活に必要な薪などの供給源としての山の確保は不可欠であったに違いない。漁業には、水面だけでなく陸地の確保が必要であった。

 段々畑と溜池

 以上を前提に宇和島藩内の浦方の自然的条件を考えると、全体として北は佐田岬から南の御荘まで、いわゆるリアス式の地形であることが指摘できる。このような海岸に成立した漁業集落の特徴は、ひとつひとつが極めて小さな集落であることである。藩はこれらの小さな浦をいくつか集めてひとつの行政的な浦を編成した。たとえば先の内海浦は表二―67のように比較的大きな本浦の他に、小さな四つの集落からなっていた。また佐田岬の三机の場合も、同様に本浦の他に八つの浦があった(表二-68)。
 これらの浦々は、航空写真率地図、また実際に海上から眺めてみると、リアス式に特徴的ないりくみ、やせた小半島の尾根から流れる小さな谷に開けていることがわかる。谷の両側の海岸よりに集落とわずかばかりの水田があり、その上に場合によっては段々畑が開けている、というのが共通した景観であろう。また現在でこそ尾根には舗装された道が通じ本上部と浦々の交通にはバスの便があるが、近世には尾根を伝うことはおそらく不可能であり、浦と浦、浦と本土部との交通は、もっぱら船に依ったと想像される。こうした地形の開発は、谷を中心にした耕地のそれはすぐに限界となり、蜂が巣わかれするように船で次の谷間を求めて新たな集落がつくられる、という形で進行したと考えられる。そしてそれはすでに中世末には、全体としてある程度の限界に達していたことが推定できるのである。
 表二-69は、浦方の近世における開発の一例として、保内組に属する浦や村の近世前期の開発の進行状況を一覧したものである。この中には須川村から鼓尾村までの里方も含まれているが、全体として寛文期と元禄期ではほとんど数字に変化は見られず、耕地の開発は寛文期までで限界に達していることが見てとれる。次にその内容は、全体としては水田が八%、畑が九二%で圧倒的に畑が優勢である。こまかくいえばその傾向の中でも、里方はやや水田開発の比重が高い。
 浦方の水田開発は慶長期ですでに限界であり、以後の開発は畑を中心に進行したことがわかる。南予名物であった段々畑はこのころにこうしてできたと考えられる。
 以上のような浦方の開発に見られる特徴に対して、里方の開発はどのように進行したであろうか。地形的にいうと、宇和の里方は平坦部に乏しいのが特徴である。平坦部といえるのは、宇和盆地と三間盆地くらいであるが、三間盆地は高分けで吉田藩領となっているので宇和盆地について見ると、表二-70は宇和盆地の一部に位置する山田組の開発状況を示すものである。この地域でも耕地の面積は慶長期から寛文期までの約半世紀の間に約三倍に増加し、以後はあまり変化しなかったという点では、保内組と同様である。しかしその内容は、全体として水田の比率が五三%とわずかながら畑よりも高い。この地域を二万五千分の一地形図で見ると、盆地と山麓部の間のあちこちに溜池が散在していることがわかる。表二-70の「築池」がそれらの池に該当し、これらはその呼称が示すように人口的に築かれた池だったのである。表に※印で示したのは、宝暦七年(一七五七)作成の「大成郡録」によって延宝三年(一六七五)以後約八〇年間に新たに築かれたことがわかる池の数である。これからわかるように近世のこの地域ではさかんに池の造成が行われたのであり、その用水によって表に見られるような水田の開発が進行したのであった。
 表二-71は、山間部の例として野村組について作成したものである。
 この地域でも、耕地面積が約三倍となっていること、寛文期以降はあまり変化がないこと、の二点については、これまでの二組と同様である。山田組と比較すると水田の増加率が約半分であるのは、山間部の特徴と思われるが、しかしここでも池がさかんに造成された点は、表に見られるとおりである。
 以上を総合すると、宇和の耕地の開発について次のように言えるであろう。第一に水田の開発は中世の末にひとつのピークに達していたこと。第二に、浦方においては上述のような地形上の制約から山の上へ上へと畑の開発が進行したこと。。第三に、里方では溜池の築造により水田の開発が進行したこと、などである。
 第三の点についていま少し補足しておけば、慶長から寛文の間に作られた溜池の数を史料的に確定することはできない。むしろ、新田開発が行われなくなった寛文から宝永にかけても盛んに溜池が作られた事実を重視するなら、これらの池はすでに開発されていた水田に用水を供給し生産を安定させる役割を果たしたというべきなのかも知れない。しかし、宇和地方最大の溜池である三間町の「中山池」が寛永年間に作られたという事実は示唆に富むと思われる。
 二万五千分の一地形図の「伊予吉田」で見ると、この地域は、一辺が五㌖の正方形の中に五〇以上もの溜池を数えることができる、県内でも有数の溜池地帯である。その中で最大の池が「中山池」であるが、この池は地形図で見ると、大きな谷の出口を堤防で仕切ったものであることがわかる。堤防の長さは六七間(これが約一二〇メートルであることは、地形図上ではかることもできる)、面積は約八町(約八ヘクタール)で灌漑面積は八五町であり、五か村にわたっていた。この池は寛永四年(一六二七)に着工され三年後の同七年に完成したが、そこには黒井地村(現三間町)の庄屋太宰遊淵の尽力があったと伝えられている。遊淵は、池の築造を藩に願いでて自ら先頭にたって堤防を完成させたのであった。池の維持はこれらの村の共同の義務であった。
 数か村の農民が動員される以上、これらの作業には藩の何らかの関与があったことが想定されるが、この池の場合は史料上の制約で具体的に明らかにすることはできない。しかし一般に近世の領主は、領内の河川や用水路の建設・維持に大きな関心を払っていたのであり、宇和島藩もこうした工事に農民を動員して積極的に用水施設の建設・維持に努力していた。ただ宇和地方は、大規模な工事によって一挙に何十町もの新田ができあがるというような地形ではなかったため、溜池を作るというような比較的に小さな努力の積み重ねによってそれが行われたのが特徴である。「大成郡録」には各村ごとに以下のような記載がある。たとえば野村組の西村(現野村町)には「米一斗四升五合一才、井手・川除定夫食、この夫五拾八人、ただし明暦元未年より同三酉年まで三ヶ年平等ニして定」とある。「井手」は堰であり、「川除」は河川の護岸用の工作物である。これらを維持するための人夫の扶持米(食料)として、藩は毎年これだけの米を西村に対して支出していたのであった(実際は年貢の割り付けのときに、この分を村全体の年貢から控除する形になったものと思われる)。この額は明暦元年(一六五五)から同三年までの実績の平等(平均)で決定され、以後この「大成郡録」が作られた宝暦七年(一七五七)まで固定されていた。したがって、一〇〇年の間には実情から遊離してしまっていたおそれもあるが、ともかく藩は藩の費用で河川の管理を行っていたのである。この他にも「大成郡録」は溜池について、たとえば西村では「築池五ヶ所、内三ヶ所自分池」と記している。「自分池」とは村が自力で造成し自力で維持する池をいう。したがって西村の場合、五か所のうち残りの二か所は藩の費用で造成し藩の費用で維持する池ということになる。
 表二-72は、以上の人夫への藩からの支出と池のあり方について野村組の分をまとめたものである。
 農民のひと鍬ひと鍬の努力と藩の肝煎りによって、秀宗入部以降の宇和地方は、寛文のころ(一六六〇年代)に耕地の開発における次のピークを迎えた。沖之島争論・目黒山山論(本章第九節吉田藩を参照)などをはじめとして、この期間に大小の境界争いが多発しているのは、このためと思われる。
 以上のように、秀宗が入部した宇和地方は、耕地の開発はすでに一定の限界に達しており、あとは山の上へ上へと段々畑を切り開いていくよりない浦方と、藩の力によって池を造成することによってはじめて、より以上の水田の開発が可能となるような水利条件の里方とであった。一言でいえばやせた浦方と山また山の里方からなるのが、宇和地方であった。しかし、こうした一見貧しい自然の条件も、これを活用すれば逆に豊かさの条件とすることができる。
 たとえば、山また山という条件は、製紙や製蠟の原料である楮や櫨、船材などを得るには有利な条件であり、また海は漁場としてだけでなく、物産を安く大量に近畿地方に運べる条件ともなる。製紙は早く兵頭道正(泉貨、?―一五九七)が、泉貨紙を発明している。泉貨は鎌田(現野村町)の土豪で西園寺公広の家臣であったが、同氏滅亡後は新たに入部した藤堂高虎に仕えた。しかし次の戸田勝隆とは衝突し出家して野村の雲林山に隠遁し、泉貨と号した。泉貨紙は楮から作った紙をトロロアオイの根からとった糊ではり合わせた厚手の紙で、丈夫なため帳簿・合羽・包紙などに適していた。しかしながら、藩が泉貨方役所を置いて本格的に製紙にとりくむようになるのは一八世紀後半以降のことであった。櫨の栽培の本格的奨励が始まったのも同じころである。それ以前の宇和地方は、積極的に手工業を奨励してその産物を領外に輸出するというよりも、どのようにして里方と浦方の物資の交換を促進し、領内の農業と漁業の発展をうながすか、という段階であったと考えられる。すくなくとも秀宗が入部したころは、そうであったと思われる。

 現物納の多い小物成

 表二-73は、万治三年(一六六〇)の「小役・夫銀・小物成牒」をまとめたものである。「小役」とは百姓にかけられる種々雑多な夫役の総称であり、小物成は山や海などの用益にたいする一種の税である。これらは、将軍から領土と領民を預かりその平和と繁栄を保証する領主に対する、いわば捧げものであり、豊臣秀吉の太閤検地のとき石高と同時に、その土地土地について調査・決定されたものである。宇和地方では、浅野長政が施行した天正一五年(一五八七)の検地のとき、土地柄やそれ以前の慣行を調査して決定され、入部に際して秀宗がそのまま引き継いだと考えられる。以後もその種目や額は固定されて、あまり変わらなかったようである。これらのうち真綿・麻苧・漆・漆実の四種は四色小物成といわれ、薪・鍛冶炭・起炭・草藁・糠・蕨縄(蕨の根を晒してなった縄、水に強く船に使われる)・庭莚・畳菰・勝藁(草履や縄の材料として葉をすぐり取った藁)は、九色小役といわれた。貞享元年(一六八四)の「弌墅截」(「大成郡録」と同様の地方把握のための台帳)には、以上の四色・九色の他に、楮・茶・苫竹・塀銀(城の塀を修理する夫役のかわりに人夫代を納めるもの)・鉄砲役銀(猟や害獣よけの鉄砲にかかる役銀、「大成郡録」によれば領内の鉄砲は一、五七四挺であった)・山役銀(山の用益にたいする小物成)・餌犬(鷹の餌にする犬、皮はなめして使用された)があり、万治の小物成が受け継がれている。しかしこの時期には柿渋(皮をなめしたり渋紙をつくるのに使う)・青引(大豆の葉が青いうちに刈りとったもの、馬の飼葉)・青草(馬の飼葉)が新たに付加されている。以後は「大成郡録」でも同じであり、藩政期を通じて変わらなかったと思われる。
 こうした小物成は全国的にみて比較的に早くから代銀納化される傾向にあり、また夫役も塀銀のように代銀納化され、必要な作業は城下町の日雇い人夫で行う傾向にあった。表二-73では、小物成のうち実際に現物で納入される率を百分比でかっこ内に示した。たとえば御荘組は薪を三、八六一束納入することになっていたが、実際にはこのうちの四〇パーセントを薪で納め、残りの六〇㌫は代銀で納めたのである。この表を一覧すると、現物納率がほとんど〇パーセントである起炭・漆・漆の実などはさておいて、組によって現物納率が極端に異なるものと、各組平均しているものとがあることに気付くであろう。鍛冶炭は御城下をのぞく各組ともに三〇パーセント前後であり、蕨縄・庭莚・畳菰・勝藁も各組それほどの変化はない。草藁・糠も、御荘組の〇と魚成の三〇パーセントとを除いて、各組ともほぼ高い数値にある。真綿・麻苧も同様である。これに対して薪は、御城下の九九パーセントと津島の七八パーセントがとびぬけて高く、あとはほとんど一〇パーセント台である。また楮は広見松ノ森組・魚成組・白髭組が圧倒的に現物納の割合が高いばかりでなく、絶対額も他組からとびぬけて大きい。板役(紙を干す板のことと思われる)もこの三組だけである。
 薪が御城下と津島から集中的に現物で納められたのは、この二組が城下に近いからであろう。また藁や糠が領内からまんべんなく集められたのは、馬の飼料としてそれだけの量が必要であったからであろう。楮と紙は、この地域の特産であった。このように、藩が小物成を現物で集めたのは、それが必要であったからであり、それなりの理由があったのである。宇和島藩は、これらの物資を貨幣を媒介として市場を通じて入手できる状態にはなかったのである。
 藩は、こうして集めた物資を家臣に現物で支給した他に、藩に必要な用途に使用した。そのひとつが、藩の御用船の建造と維持であったと考えられる。農民からの苫竹・蕨縄の徴収と水主からの苫の徴収、藩はこのようにして海と山の産物を組み合わせることによって、はじめてその存在理由である水軍を維持することができたのであった。

図2-45 宇和島城下図(元禄年間)

図2-45 宇和島城下図(元禄年間)


表2-66 各組家数・人数表

表2-66 各組家数・人数表


図2-46 宇和島藩領図(沖ノ島は図2-52参照)

図2-46 宇和島藩領図(沖ノ島は図2-52参照)


表2-67 内海浦小浦・村表

表2-67 内海浦小浦・村表


表2-68 三机浦小浦表

表2-68 三机浦小浦表


図2-47 内海浦(国土地理院発行5万分の1地形図「宿毛」を縮小)

図2-47 内海浦(国土地理院発行5万分の1地形図「宿毛」を縮小)


図2-48 三机浦(国土地理院発行5万分の1地形図「伊予三崎」・「八幡浜」を合成し縮小)

図2-48 三机浦(国土地理院発行5万分の1地形図「伊予三崎」・「八幡浜」を合成し縮小)


表2-69 保内組耕地変遷表

表2-69 保内組耕地変遷表


表2-70 山田組耕地変遷表

表2-70 山田組耕地変遷表


図2-49 山田組(部分)(国土地理院発行5万分の1地形図「八幡浜」・「卯之町」を合成し縮小)

図2-49 山田組(部分)(国土地理院発行5万分の1地形図「八幡浜」・「卯之町」を合成し縮小)