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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

八 町の発達と商業

 大洲城下町

 大洲城下町が記録に見える初めは、慶長一〇年(一六〇五)七月二八日の書状に藤堂高虎の命をうけた部下の田中林斎が、大津(大洲)に塩の専売を許した塩屋町を設けたとある。寛永四年(一六二七)ころの城下町は、「町は三ノ丸の北にあり、北南長さ三町に三筋あり、家の数四百ばかりもあり、町の南にも山下に侍屋敷あり、町の東北大河、北、舟渡りなり」(讃岐伊予土佐阿波探索書)とあり、寛永二〇年の『大津惣町中之絵図』(大洲町役場旧蔵)によると、肱川と並行して東西約三町の長さの本町・中町・裏町の三つの町筋が北から南へ並んでおり、この町並を横断する南北の通りが、東から塩屋町・上横丁・下横丁と三筋あった。
 これらの史料からみると、寛永ころまでに後の大洲城下町の大体は形成されたとみられる。慶安四年(一六五一)には、独立町家は三〇二軒となり、このうち桶屋六軒・舟役家一九軒(うち町代役二軒)はいずれも無役、残り二七五軒は役家とよばれ、町入用など諸経費を負担していた。
 城下の町家全体を、本町・中町・裏町・柚ノ木(塩屋町大通りを改称)の四町区に分け、「十人与(組)」とよぶ三二の組(本町・中町各一二組、裏町七組、柚ノ木一組)に区分し、各組とも組頭によって統率された。総町には五人の町年寄がいて、総町政の運用に当たり、藩当局から公布される町内法度を町奉行から受け、十人組を通して町民に伝達し、町民確認の印形をとって町奉行に復命した。
 慶安四年三月の『大洲町十人組帳前書及奥書』によって、藩当局から示された法度の主な箇条を記そう。
 (1) 火の用心怠らず、火消し道具・梯子を準備せよ。
 (2) 諸勝負事はご法度である。ばくち宿は処罰する。
 (3) 身許不たしかな者に宿を貸してはならぬ。
 (4) 他国からの商人はもちろん、親類でも宿泊させる場合は、十人組と相談し、町年寄へことわってから宿を貸せ。宗門改めは堅くせよ。
 (5) 町内で出入りがあった場合、町年寄にことわりなしで勝手に処置してはならない。
 (6) 町内で老若によらず、侍に対して慮外なことはしてはならない。
 (7) 奉公人に町家を売ってはならぬ。また借家の保証に奉公人をしてはならぬ。
 (8) 町内の町役は、門役による。
 (9) たとえ町家二・三軒買い求めても、右の門役による。半軒・一軒の場合は免除する。
 (10) 町内の水門を浚え、水が滞らない様、門々の前を油断なく掃除すること。
この法度は、長く町触の基本法令となった。
 幕末期(一八六〇年ころ)に作図されたと推定される大洲町内図(瀧正市氏蔵)によると、町家の総戸数は三四三戸で、内訳は本町一丁目三七、本町二丁目三九、本町三丁目四〇、中町一丁目四五、中町二丁目三五、中町三丁目三七、裏町四三、志保町二八、比地町三九の戸数となっている。町家戸数は二世紀にわたって、あまり大きな変化はみられなかった。

 郡内三町

 中村町は、肱川の北岸にあって、肱川渡によって大洲城下町と町続きであったから、城下の北関門として藩初から漸次在町が形成され、準城下町として長浜町・新谷町とともに郡内三町のうちに入り、特定商品の販売が許可されていた(麻生文書)。
 肱川河口の北岸にある砂嘴に立地している長浜は、戦国末期河野氏の部将の城が置かれたこともあったが、『大洲旧記』(享和元年=一八〇一)には、「何れの村共なく古へより離れありしなり。郷分郡分にも見えず。」と記されている。同書には「元和の頃迄は御屋敷もなし。洲崎表に差出、あし多くしげり、大守御船待の節は、兎杯狩らせてよし」という状態であった。
 元和三年(一六一七)大洲城に入部した加藤貞泰は、ここを大洲城の前衛要港にし、また大洲城下の外港として整備しようとして、船奉行に市橋重長を任命し、造船を急がせるとともに、藩船の運行にあたる船手組を組織させ、藩船関係屋敷の建設に当たらせた。第二代藩主加藤泰興は、父の意志をついで船奉行坪田正春によって建設を完成することになった。
 肱川河口から約四〇〇㍍入り込んだ江湖とよんでいた入江を藩船の停泊港とし、江湖を囲んで波戸番所・船蔵・作業場・川口番所など藩御船手関係の施設を置き、これに接して周囲に濠をめぐらした一町区画の船奉行所を建設し、その背後に武家屋敷が建てられた。このような藩関係の諸施設が整備されたのは、寛永一三年(一六三六)ころと推定される。一般の船舶は、江湖の北の川岸一帯に停泊することにした。
 藩当局は、藩船の加子(水夫)を確保するため、領内各地から船乗り・漁師の転入を奨励し、船奉行関係の人数は一八〇人に及んだ。寛永一八年には、新谷藩屋敷も設置され、これら士分人口の増加につれ、一般商人の来住もみられ、従来からの漁師人口とも併せて、町勢は発展していった。これよりさき元和五年海神である住吉明神を勧請し、これを氏神として町割の中心に据え、御船手関係の施設が立ち並んだ駒手町・横町とこれに直交する北東~南西に通る本町・新町を基幹として町家の地割が実施された。
 寛文七年(一六六七)五月の『西海巡見志』には、遠見番所・船番所あり、川湊あり、西風強し、一〇〇石以上の船一〇〇艘かかる、家数二〇八、舟数七一艘(うち四六艘三〇石~三七〇石積迄、二五艘漁舟)、加子数二九一人(内役加子一二人)と記されている。
 大洲藩は長浜を城下の準町として、他の五町とともに大幅な商品売買を特許していた。また肱川の水運による郡内諸地域の諸商品ことに米・紙・木材・蠟などを積み出す際は(三〇匁札取の商人に限って出津を許可されていた)、出津手形に長浜問屋の奥印を受け、長浜御番所へ差し出す商規が定められていて、隣藩をはじめ諸国回船出入りによる諸国物産の取り引きが盛んで、本町通りを中心とする商店街の発展がみられた。天明六年(一七八六)の長浜町図(住吉神社拝殿絵馬)によると、全家数五三八軒、人口一、八○○人前後と推定される。
 仁戸期を通じ財政は、本陣の松井(屋号松屋)・佐々木(屋号塩屋)の両家が世襲する町年寄によって運営された。初め庄屋とよばれていた町年寄が二人になったのは、町勢が発展した寛文二年以降のことである。
 長浜港は幕末になって肱川洪水の度ごとに、洲先が変化し回船の出入りが困難となってきたので、従来の河口利用の旧港のほかに、新港を伊予灘沿岸に構築する計画がもくろみられた。安政六年(一八五九)肱川中流の宇津村の木蠟商奥野源左衛門の発起により、西波戸一二〇間、北一文字八〇間、東波戸六〇間の長浜新湊を設計し、藩の援助と藩内商札取からの募金をもって自普請の形で進められ、翌万延元年(一八六〇)中には、砂留西波戸とも一八〇間ができたが、それ以外の工事は進まず、完成までに五年を要した(奥野辰雄書簡・大羽家文書)。
 長浜港から六㌖上流にある加屋村須合田は、伊予灘の潮のさかのぼる終点に発達した河港で、肱川流域の宇和島・大洲・新谷の各藩領内の年貢米豆をはじめ、木・竹材・薪炭・蠟・紙など沿岸各地の諸産物を積んだ川船(艜)の往来が盛んであった。藩当局は、寛政一〇年(一七九八)五月、(1)町郷から長浜へ積み下げる荷物は、庄屋手形に須合田御番所で改印を受けること、(2)肱川筋積下荷は、須合田を夜中乗り下げることは厳禁するなどの規定(洲藩規則集)をもうけ、そのため代官一人・手代二人が常勤する浜番所を置いて、商品流通を規制した。なお新谷藩の陣屋町新谷については「新谷藩」の中で触れることとした。

 郡中三町

 寛永一二年(一六三五)替地後、大洲領となった御替地(文化一四年(一八一七)一月「郡中」と改称)に、三町が形成された。
 灘町は、上灘村の住人宮内九右衛門・同清兵衛の兄弟が替地の翌寛永一三年藩の許可を得て、米湊村内へ移住して開発に着手し、次第に居住者が増え町並みを形成していった。第二代藩主加藤泰興は、両人の功績をたたえその出身地にちなんで、町名を灘町、屋号を灘屋とよぶことを許可し、町を諸役御免地とした(積塵邦語)。
 御免地の特典を基に町勢は発展し、寛文七年(一六六七)五月には、家数五三軒、舟数六艘(内二艘七〇石積・九九石積、四艘漁舟)、加子一〇人を数えていた(西海巡見志)が、宝暦五年(一七五五)には、家数一九八軒、人数七七八人、舟数三艘(一四○石積二、一〇〇石積一)と激増した。
 湊町は、下吾川村竿先原(牛飼原)に、替地と共に藩主加藤泰興が猟師町にするため家一〇軒を建てたが、衰えて三軒となった。上灘村の網元が願ってその跡に住んで、網子などが集住して、町並みが形成された。藩当局はここの網の諸役運上を免除して町勢の発展をはかった(大洲御替地古今集)。
 その結果、寛文七年五月当時家数三一軒、舟数六艘(内一艘四五石積、五艘猟舟)だったものが(西海巡見志)、宝暦五年には家数一七七軒、人数八二七人、舟数八艘(二〇〇石積一、七六石積一、四〇石積二、三五石積一、三〇石積二、二八石積一)、漁船二九艘と増加した(玉井家文書)。
 三島町は、米湊村のうちで、寛永一六年天神社祭礼の市を許可されてから町が形成されはじめ、御免地となり商札九枚が与えられた。宝暦五年の家数六二軒、人数二七九人、舟数一艘(四五石積)であった。
 以上あげた灘町・湊町・三島町は、寛政八年(一七九六)五月、大洲領内の本町・在町を区分し、それぞれの商法を規定した藩当局の行政措置によって、従来の在町から昇格して城下町に準ずる本町とされ(本町として指定された町には、郡内地域で新谷・中村・長浜の三町があった)、販売商品の制限が緩和され、城下町に準ずる商業活動を営むようになった(大洲御替地古今集)。さらに文化五年(一八〇八)五月には、この郡中三町を従来の郷村から引き離し、公式に町方目付を置いて、それぞれ独立町となった(江戸御留守居役用日記)。
 前述のように四〇数艘の船をもっている郡中三町を控え、郡中全域の物資の集散に当たり、ことに年貢米を津出する港の建設が、文化九年(一八一三)、郡中代官所手代岡文四郎重通の申請認可によって始められ、藩の御内分貸与という形での資金援助もあって、着工以来二四年の歳月を経て天保六年(一八三五)に完成した(郡中波戸普請帳)。入港船は、瀬戸内一円、ことに伊予国の主要港からが多く、伊予砥・砥部焼・材木・木蠟・茶・砂糖などの移出入が盛んであった。

 在 町

 大洲領内の郷分に建設された町場で、町屋が立ち並んで当該地域の商業の中心となっていた。しかし郷村相手の商売のため、村風を損なうことがないよう取り扱い商品については、厳重な制約が設けられていた。例えば絹類以上・蒔絵重箱類・硯蓋盃同台・銚子・挾箱・鏡立櫛台類・雪踏・なら草履・差下駄塗下駄并革緒・御免下駄并中折レ・雛・雛道具・飾鑓・破魔弓・絹真田・差おろし笠・日傘・中次畳表など郷村に不似合いな高価品・贅沢品などの商いは禁止されていた。行政的には、郷村に所属し庄屋差配下にあった。
 在町の商人達は城下町・準町の商人達とともに、商物を村内へ持ち込んで出売することは厳禁され、村内へ入り込んで産物を買い出す際は、出願のうえ下付された商札を腰にさげ商売し、札表に記されていない品物の商売は厳禁されていた。
 以下在町をたどってみよう。まず郡内地域では、大洲城下町の東部にあり、町続きで城下町組の一つとなっていた柚ノ木がある。大洲城下町と外港長浜とを結ぶ肱川沿いの水陸交通の要地に、八多喜・加屋の両在町があり、内山盆地の中枢に内子・五十崎、浮穴郡小田郷の中心に町村の在町があった。大洲城下町から郡中三町に通じる要地に、御免地の泉町を中心とする在町中山があり、伊予灘沿岸には、寛政一〇年(一七九八)五月、「今後内山筋から蠟・櫨・蜜を犬寄越えに出すことを禁止し、上灘出津に取り計らうべきこと」と規定された港をもつ在町上灘があった。浮穴郡砥部郷の中心原町は、郡中地域唯一の在町であった。
 以上大洲藩の商業は、城下町を中核に城下町・準町の郡内三町・郡中三町、計六町と領内各地域に散在する在町九町が、それぞれの地域の中心となって発展してきた。

 物資運輸規定と商札条目

 年貢米豆をはじめ諸商品の領外への移出を出津といい、領外からの移入を入津とよんでいたが、いずれの場合も藩当局の許可を必要としたが、とくに年貢米豆については、収穫時から貢租皆納までの期間は、毎年出入津が禁止されていた。
 寛政一〇年五月、大洲藩は領内外の諸物資の運輸規則を次のように定めた(洲藩規則集)。
 1 郷村から御城下ならびに町内へ川船便による輸送荷物は、穀物・竹木そのほか何によらず庄屋手形で、下目付御番所の改めを受けること。ただし大洲村口・柚木口を経由して、歩行持で城下町に輸送する荷物は、 船の揚げ荷同様、庄屋手形で、下目付番所の改めを受けること。ただし竹木一荷売、家中侍が自分の山から切り出した竹木は、改めを受ける必要がない。
 2 御城下から積み出す荷物は、これまで通り下目付御番所の改めを受けること。
 3 三〇匁札取りの者が浜手の村へ荷物を輸送し出津する場合は、御番所あてに自分手形を差し出すこと。(長浜・須合田・上灘関係の荷物輸送については、前述した通りである。)
 4 次の品の出津口銭を次のように定める。
   蝋 一丸 四匁   櫨一〇貫につき 八分   蜜 一貫目につき 二分   浅田油 一挺 四分
 なお享和元年(一八〇一)、大洲藩は近隣諸藩との藩境に番所を設置し、陸路他藩へ移出する物資に、海路による出津と同額の口銭を徴収することとした(久保家文書)。陸路による移出物資が増加して、従来のような無口銭では釣り合いがとれなくなったためである。
 享和二年五月、大洲藩は商札条目を公布して、運上銀の額により、三〇匁・一五匁・三匁の三等級の商札を発行し、その等級に応じて取り扱い商品の種類を限定し、商取引を規制した。なお出津商取引が許可されるのは、三〇匁取りに限られていた。

 天保の物価統制令

 天保年間に入って、領内の諸物価が高騰し藩民生活を脅かすようになった。藩当局は、幕府からの御触もあって、天保一三年(一八四二)から、諸物価引き下げの目的で領内町郷に命じて、各地の物価を書き出させ、全藩にわたって物価調査をしたうえ、翌天保一四年二月、衣料・服飾・食器・酒醤油・油類・薪炭など生活必需品一六四品目にわたって最高価格を定めた「諸色直段定」をもって、公定価格を公示して物価引き下げを命じ、商売について次のように規制した。
 (1) 諸商品に正札を付けて商売せよ。
 (2) 旅商人で、呉服・太物など一荷売に来た商人は、問屋で調べたうえ、日数を定め町会所から免許札を渡し、城下その外領内在々で荷売せよ。
 (3) 城下へ魚荷い売りは九人迄は差し支えない。その外入込は差し留める。
 (4) 在商人が上等な品を、町内から在中へ荷い売りしてはならない。違反者はその品を没収したうえ処罰する。ただし町内の店で在中の者へ売ることは差し支えない。
 (5) 呉服・太物のうち、近来名目をつけ高価な品を売っている由、厳禁する(五百木村永代記録・三瀬半兵衛文書)。

図2-40 長浜町須合田湊の現況

図2-40 長浜町須合田湊の現況


図2-41 城下町・在町図

図2-41 城下町・在町図


図2-42 大洲城と城下町(『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)』所収)

図2-42 大洲城と城下町(『愛媛県史地誌Ⅱ(南予)』所収)


表二-59 商業統制表

表二-59 商業統制表