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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

五 大洲藩財政の推移

 藩初~享保の財政の推移

 大洲藩の財政について、収入・支出のいずれについても、詳細はわからない。時代が下った元禄三年(一六九〇)の『土芥寇讎記』によって、当時の概況をみると次のようである。

旧領六万石のうち、新谷一万石を内分して、本知五万石であるが、新地開発・運上課役などで、実収は都合八万石、米がよくでき支払いはよろしい。年貢収納は、五ツ(五〇パーセント)から八ツ(八〇パーセント)までで、平均して六ツ二、三分である。家中宛行は四ツ、但し一〇〇石に付一〇石分は、大豆一五石ずつを与える……(中略)……国役は世間並、家士は奢らず、実鉢に諸芸を嗜んでいる。家中の暮しむきは裕福である。土地に禽獣魚柴薪がとれる。民間は少し疲弊している。

 藩収入の大部分を占める年貢米豆の収納については、『虫付損毛留書』に享保大飢饉直前五か年間の資料が残っているだけである(資近上七-21)。

   年    貢 租 収 納 高 (石高)          
  享保一二末 三・八九〇六六七五 小物成を除く 田畑共
   〃一三申 三・八九七八九七〇  〃      〃
   〃一四酉 三・二六二一六八五  〃      〃
   〃一五戌 三・八九八六一五〇  〃      〃
   〃一六亥 三・八四一九四五四  〃      〃
  五か年間平均三・七五八二五八六八 〃      〃

 これらの貢租高に付加税としての小物成などを加えたものが、藩の全収入であり、これに対して公役などの負担(表二-53)、家中への給与(表二-45)、行政的な諸経費、大洲藩に特に多かった災害による損毛失費、救恤費などの諸支出があった。
 まず公役についてみよう。藩初大坂城普請手伝いの公役に元和六年(一六二〇)・同九年、寛永(一六二四)~三年、同五・六年勤め、寛永一二年には江戸城惣廓の普請手伝い、寛文元年(一六六一)京都仙洞御所の作事手伝いの公役を勤めた。とくに以下四つの在番の公役は重大であった。寛永四・一一~一二年の松山城在番、寛永一七年の高松城在番、明暦三年(一六五七)の丸亀城の在番。このほか寛永二〇年・明暦元年の朝鮮信使馳走役、承応二年(一六五三)の勅使馳走役の公役に当たった。
 次に藩財政に脅威を与えたのは、絶えざる災害であった。災害の記録は、『加藤家年譜』では延宝八年(一六八〇)から始まっているが、主な災害を『加藤家年譜』・『大洲商家由来記』・『大洲藩史料』などの史料により表二-52にまとめた。
 以上支出増による財政難は、元禄期を過ぎたころから漸次ひどくなって、なんらかの対策が必要となった。対策の第一は支出の大部分を占める家中への宛行の削減が、物成借上げ(差上げ・引上げ)の形で実施される。『加藤家年譜』には、正徳四年(一七一四)に借上物成の記事がみえる。以下前項でみたように、財政事情に即応して宛行が増減される。
 つぎに対策の二として同年三月には、かねがね財政難であったところに度々の類焼(表二-52の正徳三年江戸下谷の大洲藩邸の類焼をさす)があり、このため厳しく省略を命じられたとある。緊縮財政・倹約政治を敷くことになる。
 対策の三は、税制改革を行って、貢租収入の安定を図ったことである。従来秋の作柄の豊凶を検査して、それに従って貢租額を決定する検見取の税法を改め、過去数か年の貢租額の平均に基づいて、収穫前に豊凶のいかんにかかわらずあらかじめ貢租額を決定し、数か年にわたって貢租額を固定し、賦課する定免制の税法にしたことである。享保元年(一七一六)六月から五か年の期間をもって定免制を実施し、財政の安定を図った。
 対策の四は、藩債によって収入を増加し、財政の安定を図ることであった。藩は寛文六年(一六六六)七月の大水害後一か月で、幕府から米五、〇〇〇石の恩貸を受けている。そして正徳から享保初めにかけて、領内の城下町・在町の有力商人や郷村の豪農に対し、利息一二㌫くらいで五~八年賦返済を条件として、御用銀の出銀を命じたり、寸志銀として献金を命じたりして、藩庫の充実を図った。
 対策の五は、窮乏した藩財政を救済するため、藩札を発行したことである。江戸幕府が諸藩に藩札使用を許可した享保一五年(一七三〇)の翌年七月、大洲藩では向こう一五か年間札遣いを幕府に願って許可された。この札がいわゆる『大洲享保札』である。銀目には三匁・一匁・五分・四分・二分・一分の六種があった(「加藤家年譜」)。

 享保の大飢饉

 次第に窮迫してきた大洲藩の財政に一大痛撃を与えた事件に、虫害から起こった享保一七年(一七三二)の大飢饉がある。以下「虫付損毛留書」などの資料によって飢饉の状況を述べよう。この年五月中旬の豪雨につづく長雨が、六月から七月に及び、六月下旬から稲作にウンカが大発生し、作物を食い荒らし九月下旬には収穫皆無となった。全領にわたって不作・凶作となり飢饉が発生したが、とくに被災地の中心であった伊予郡松前村に隣接する替地一帯の飢饉はひどかった。
 全領にわたっての貢租収納高をこの年の一一月の公儀への届けによってみると一万三、一二一石余であり、前年五か年間の平均貢租収納高三万七、五八二石余の六五パーセントに当たる二万四、四六一石余の大損毛を受けた。このため大飢饉となり、一二月現在で飢人は大洲領内で三万五〇〇人、翌享保一八年二月現在で五万六、九八〇人を数え、斃牛馬は大洲領で一〇〇疋にのぼった(資近上七~二八・二九)。
 大洲藩は、一二月幕府から享保一九年より五か年賦毎歳一、〇〇〇両宛の返納を条件に、金五、〇〇〇両を拝借して飢人救済に宛てた。いっぽう大坂町奉行からの御払米を、大洲藩では九、五〇〇石、新谷藩では一、八〇〇石を買い請け飢人救済にあてた。幕府与力からの大洲領内飢人救恤状況報告によると、回米その他の救恤により、享保一八年四月一九日ころまでに凌ぐことができ飢人も止まり、餓死者もなくなり、藩主の方から雑穀や荒布・塩などの手当てをして、麦作ができるまで取り続かせるといっている。
 このような大飢饉は、享保一七年以降発生していないが、水災・火災は頻発した。表二-52に記したように、享保一七年飢饉発生の前月閏五月一二日には、城下裏町一丁目から出火、侍屋敷三七軒、無足屋敷二三軒などをはじめ、町家は三三四軒、寺二軒を焼失し、死者八人を出す大火災が起こっている。
 これら二つの大災害は、藩財政の土台を揺るがさずにはおかなかった。前述のように幕府へ五、〇〇〇両の拝借金を願い出るいっぽう田作虫付で皆無となったから家中末々まで宛行下され難いとして、一〇〇石に付き米豆一五石を割り当てることにした。享保二〇年三月には、諸役所の入用向省略令が出された。いずれも飢饉による財政窮乏に対処するためであった。

 元文~天明年間の災害・公役

 享保一七年の大飢饉後の災害は、表二―52に洪水による水害が例年のようにみられた。火災は、元文五年(一七四〇)二月二九日城下町本町三丁目に発生し、類焼六〇〇軒余に及ぶ大火となった。藩当局は以後町家は瓦葺にするよう布達した。藩財政に特に大きな影響を及ぼした災害は、明和九年(一七七二)二月二九日の江戸大火により、藩邸上屋敷が類焼したことである。復興経費節約のため、大洲城中の屋敷を解体して、江戸へ輸送したうえ再建した。次は天明七年(一七八七)四月の強雨による洪水のため、左記のような被害を受けた。
 流家一一軒、潰家三三三軒、水入田一、四四二町余・畑二六八町余、植付不能田一六六町余、不熟損毛田三一二町余・畑五〇六町余、井関破損四、八五三箇所。
 藩財政に影響をもつ公役は、表二-53に示すように元文元年(一七三六)三月には、勅使馳走役があり、延享五年(一七四八)五~六月には、朝鮮信使馳走役(三島宿)があり、寛延四年(一七五一)と宝暦元年(一七五一)・同八年・安永八年(一七七九)にそれぞれ勅使馳走役があり、宝暦一四年二~三月に朝鮮信使馳走役の公役を勤めた(同一一年三月拝命)。
 明和五年(一七六八)四月には、尾張・美濃・伊勢の各国の川浚えの手伝いを、天明六年(一七八六)一二月には、関東筋ならびに伊豆川々普譜手伝いをそれぞれ命じられた。

 元文~天明年間の倹約

 以上述べた公役ならびに災害が、藩財政の運用上大きな負担となり財政難を招いた。藩当局はこれを切り抜けるため、倹約に努めた。
 このころの藩の財政収入について、『元文日録』に記されている貢租収納高(表二-54)をあげてみると、前述の享保大飢饉前の五か年間と比較して、貢租収納高が平均約三、八五五石低下している。そこへ前述の公役・災害などによる収入減が加わって、財政危機に見舞われた。その対策として、まず元文二年(一七三七)九月、御納戸御台所の入費について緊縮予算を立て、予算執行に当たっては、あらかじめ家老の事前承認を必要とするなどの厳しい倹約令が出された(元文日録)。
 続いて寛保元年(一七四一)一二月には、勝手向差し支えという理由で、向こう五か年間の倹約令が公布された。いっぽう入費節減のため、寛保二年七月には玉川茶屋を廃止、同年一〇月には京都屋敷を引き払うなどした。
 延享五年(一七四八)にも、朝鮮信使馳走役遂行の入費などを補填するため、向こう三か年間の倹約を令達して節約に努めたが、年限明けの宝暦元年(一七五一)になっても、前述の災害・公役等による支出増加の関係からか財政が逼迫して、家中宛行は享保一九年と同じく高一〇〇石に付き米豆一五石の低額にせざるを得なくなり、宝暦二・三年とも高一〇〇石に付き一九石にとどまった。
 宝暦一二年五月には、来年秋来朝予定の朝鮮信使江戸馳走役拝命に伴う所要経費の捻出に困って、思い切って本藩初の最低給与「飢渇に及ばざるまでに下さる」という高一〇〇石に付き九人扶持を支給することにし、財政危機を切り抜けた。
 宝暦六年一一月には、藩当局から御用銀の拠出を命じられた有力藩内豪商達が、京の堂上方に借銀の申し込みをした。
 なお明和五年(一七六八)四月に命じられた東海地域諸川浚えの御手伝いの公役に要する経費として、大洲藩当局は藩内各村に対し三か年の定めで、高懸―村高に応じて出銀させる―を命じた。村高一石に付き郡内各村で一〇匁、御替地各村で九匁五分、忽那島各村で七匁五分宛をそれぞれ出銀させた。いっぽう庄屋達からは、相応の寸志銀を差し上げさせた。
 明和九年には、江戸の大火により藩邸が類焼したので、その復旧に要する費用を工面するため、向こう三か年間にわたる倹約令を公布し、家臣の宛行も高一〇〇石に付き九人扶持という最低給与にした。次いで安永三年(一七七四)にも引き続き向こう五か年間の倹約令を公布したが、それがさらに一年延長された。
 天明三年(一七八三)も倹約年となり、家中宛行が高一〇〇石に付き九人扶持となった。天明七年には、前年の公役負担による支出増とこの年の洪水による損毛によって、家中宛行を高一〇〇石に付き米一二石・札四〇〇目の異常な低さに抑えなければならなかった。

 寛政~慶応の公役・災害

 寛政一一年(一七九九)四月には、尾張・美濃・東海道筋川々普請手伝い、文化一〇年(一八一三)四月と文政六年(一八二三)二月には、関東川々普請手伝いを、文政一二年には甲斐国川々普請手伝いをそれぞれ命じられた。なおこれらの川普請の公役には、天明以降経費を全納することになっていた。文化三年二月と天保七年(一八三六)には勅使馳走役を、天保一三年には知恩院門跡の馳走役にそれぞれ命じられた。
 嘉永元年(一八四八)六月には、大坂城の修復手伝いを、嘉永六年六月には西ノ丸普請手伝しを、文久元年(一八六一)八月には和宮下向につき勅使馳走役を、それぞれ命じられた。
 災害の主なものをあげると、まず寛政一一年(一七九九)七月の大火がある。城下町近郊の柚木から出火、烈風に煽られて大火となり、二重櫓一つ、家中・奉公人屋敷二〇〇軒余、三ノ丸屋敷一〇軒、町家六二四軒などが類焼し城下町は全滅した。
 文化元年(一八〇四)七・八月に別表のように強雨によって二度の大水に見舞われ、不熟田畑三、六七〇町歩、永荒田畑二五九町歩、石高にして三万四九〇石、井関損所四、九九九、堤防損所九、七一七、流失家屋一四一軒、潰家屋二、四六九軒の大被害を受けた。
 文化三年三月には、江戸の大火により大洲藩上・中屋敷が類焼した。文政九年(一八二六)五月にも、増水の最高記録となった洪水が発生、溺死三〇人、流失家屋三〇軒の被害があった。
 度重なる洪水による被害を軽減するため、第一一代藩主加藤泰幹は肱川氾濫の原因となっていた大洲盆地の溢水を速やかに流出させるため、盆地の西北隅五郎村の慶安寺の山角を開削し、肱川の流路を拡げようと天保二年(一八三一)一〇月から工事を実施した。しかし工事の効果は少なく、肱川の出水は依然として続いた。天保七年七・八月には、二度の洪水があり、大洲藩の不熟損毛局は、田畑四、〇〇六町歩余、三万二、七三〇石余にも及んだ。つづいて天保九年七月にも、洪水により大洲藩の不熟損毛局は田畑三、五九三町歩、二万八、五六〇石余に及んだ。翌天保一〇年六月以降旱害による凶作が発生し、大洲藩の不熟損毛高は田畑三、四三五町歩余であった。
 安政元年(一八五四)一一月初句には、大地震が襲来藩内各地で居家破損の被害を受けた。翌年一〇月には江戸で大地震があり、大洲藩邸の上・中・下屋敷の在府長屋が各一~二棟倒壊し死者五人を出した。新谷藩邸では屋敷も長屋もすべて倒壊し死者一三人という大被害を受けた。安政四年八月下旬には、またもや大洲地方に大地震が発生し、ことに大洲城内の被害はひどく、道は裂け石垣は過半崩壊し、天守閣の屋根・壁、城門回り櫓・高欄櫓・台所櫓が大破した。
 安政四年七月二九日の出水により、田畑の損毛高二万九八〇石余、二、三九一町歩余の被害を受けた。安政六年八月二二日の強雨出水による田畑の損毛高二万一、六四九石余、二、四八四町歩余の被害を受けた。
 また文久二年(一八六二)八月一六~一七日、九月一一日の洪水による被害は田畑損毛局一万九、七六二石余、二、八五六町歩余に及んだ。

 寛政~慶応の緊縮財政

 公役・災害などの負担が重くのしかかった藩財政のやりくりには、まず家中宛行の削減によって支出を減少することであった。表二-45によってみると、天明年間に引き続いて寛政年間には高一〇〇石に付き二〇石給与が続き、文化年間には二五石給与、文政~天保年間が大体三〇石給与となっていた。なお家中からの臨時の差上米があったことは注目される。文化三年江戸大洲藩邸復旧につき、高一〇〇石に付き三石の差上米が、文政一二年甲斐国川々普請手伝いに要する経費の一部として家中宛行のうち、高一〇〇石に付き一石の差上米が、天保五年には、凶年手当貯米のため、家中に対し、高一〇〇石に付き一年に二斗ずつ、五か年間の差上米が、それぞれ令達された。なお幕末財政危機を切り抜けるため、慶応元年七月から家中の宛行を高一〇〇石に付き二五石とし、さらに明治二年には二〇石に引き下げた。
 次に消極的ではあったが勤倹節約が奨励され、いわゆる倹約令が公布された。寛政元年(一七八九)・享和三年(一八〇三)・文化二年(一八〇五)・文化八年・文政九年(一八二六)・文政一一年より三か年間、天保九年(一八三八)より五か年間、安政三年(一八五六)より五か年間、慶応元年(一八六五)より三か年間と引き続いて発せられ、財政難の緩和に役立った。これら倹約令のうち「文政法令」とよばれ、大洲藩士間に厳守を要求されている倹約令がある。文政三年八月、第一〇代藩主加藤泰済が藩士の綱紀を粛正し、士風を振起するため公布したもので、その内容は次の通りであった。
 まず先年以来財政難のため諸事を省略したため、風俗が崩れてきたので、分階相応の格合が立つようにせよ。
 各々分限を慎み、礼儀を重んじ、分に安んぜよ。
 文武はじめ何事によらず実意をもって努力せよ。
 軽々しく世評をする類は慎め。
 衣食音信筋を質素にし、倹約に努めよ。
と諭したうえ、遵守すべき城中儀礼の改訂や制服についての規定を左のように指示した。

  一、男子の羽織、女子の上着は、以来表木綿に限り、糸交り無用のこと。裏は絹以下に限る。
  一、男子の上着の襟・袖口は以来布・木綿に限る。
  一、野袴は、夏冬とも裏付を用いよ、以来夏袴無用。
  右は給人・中小姓迄の身分の者への御定
  一、羽織・上下・袴は、以来布・木綿に限る。但し絹裏無用。
  一、男女上着の襟・袖口は布・木綿に限る。但し羽織同断。
   右は歩行小姓以下の身分の者への御定
  一、音信贈答御定のうち、答礼も音信に准じ、一封に限るべきこと。
  一、歩行小姓以下の日傘、以来渋傘に限る。
  一、近来召使の男女、衣類その外身の廻り体裁がよくなり不似合である、追て制度を達する。(「阿蔵中野文書」)

 これら倹約令と同時に財政整理のため、文化元年・同一〇年には出先の伏見屋敷を縮小しついで引き払い、文化四年・同一〇年には供方人数を減少し、文化一〇年には御手回組も二組から一組に縮小した。文政九年の大水害後は、前記のように倹約期間を設けるとともに、役所の所要経費の削減を図り、文政一一年には三か年間役所予算の二割節減を命じ、施設の修理などは一切許可しない方針をとった。
 しかし倹約だけでは処理しきれない不足分については、さまざまな工夫が講じられた。例えば文化一〇年と文政六年の関東諸河川の普請手伝い(銀納)に当たって、上納銀調達に困った藩当局は、藩内の豪農富商らに御用銀を命じ、それぞれ銀二五二貫目・三〇九貫目を献納した。後者の場合同時に藩内各村に、村高一石に付き六升の高掛りを申し付けた(「堀内文書」)。文化三年江戸大火により類焼した大洲藩邸の復旧経費は、大洲城内の囲籾二、一八七俵の売却代(幕府の許可あり)で償われた。
 嘉永元年(一八四八)大坂城修復御手伝い経費の一部として、藩内各村へ村高一〇〇石に付き米六升の高掛りを命じ(「岡田家文書」)、安政五年(一八五八)には、安政大地震による大洲城の破損修復費の一部を、藩内各村の分限者からの借入銀ですませたが、不足分を藩内村庄屋の有志から差し出す加勢夫賃で補った(「郡中諸用控」)。
 慶応二年五月には、藩末財政上の重大危機を切り抜けるため、藩内各町村の分限者に御用銀総額一、〇〇〇貫目の拠出を命じた(「大洲手鑑」)。
 以上藩財政の推移についてその概略を述べたが、財政が比較的安定していたのは、元和~元禄期のころと思われるが、享保大飢饉以降は財政難にあえぎ、ことに藩末ころは厳しい状態に陥って廃藩をむかえた。

表2-52 大洲領の災害(1)

表2-52 大洲領の災害(1)


表2-52 大洲領の災害(2)

表2-52 大洲領の災害(2)


表2-52 大洲領の災害(3)

表2-52 大洲領の災害(3)


表2-52 大洲領の災害(4)

表2-52 大洲領の災害(4)


表2-53 大洲藩公役一覧表(1)

表2-53 大洲藩公役一覧表(1)


表2-53 大洲藩公役一覧表(2)

表2-53 大洲藩公役一覧表(2)


表二-54 大洲藩の貢租収納高

表二-54 大洲藩の貢租収納高