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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 家臣団の形成と構造

 藩祖加藤光泰と三家老

 前項で述べたように光泰は美濃から起こり、信長の目にとまり、秀吉の部将となって、各地に転戦、秀吉取り立ての大名城主となり、最後には甲斐二四万石の大国主となり、朝鮮の役に出兵した。その間に親戚・家子郎党からなる家来に、秀吉から付与された家来を加えた家臣を根幹とし、以後各封地で漸次召し抱えた家臣が増加して、家臣団が形成された。以下そのような家臣団の形成過程をみよう。
 まず光泰と三人の家老との主従関係の成立を、「大洲秘録」・「北藤録」によってみれば、近江国横山城防衛の恩賞として光泰が秀吉から賜った与力士一〇余人があり、その頭の大橋長兵衛は、以前織田信長公に仕え、後豊太閤に奉仕していたもので、光泰は以後長兵衛を家老とし、光泰が甲斐国二四万石に入部したとき、一番備加藤についで二番備として一万石を領していた。長兵衛の子清兵衛は、光泰の朝鮮出兵に従軍し、矢疵を受け一眼を失う。光泰死後貞泰をたすけ、家老職(二番家老)を勤め子孫相承けて一、八〇〇石の禄を与えられていた。
 一番家老の加藤信濃守光吉は、もと一柳右近の嫡男であり、光泰の奥方の甥に当たる。光泰が始め男子がないので光吉を婿養子にした。以後姓を一柳から加藤に改めた。しかしその後貞泰の出生により、光吉が退いて貞泰に城主の位を譲って家老となった。信濃守に対して「貞泰礼敬スル事賓客ノ如シトイヘリ」(「北藤録」)とある。光泰甲州入部の際一番備として、四万石を領し郡内の城に居た。光泰の朝鮮出兵に従軍し、貞泰以後子孫相承して家老職にあり、禄高二、〇〇〇石を知行していた。
 三番家老の加藤平兵衛光政は、光泰の弟で幼少のころ出家して浄土宗の僧となっていたが、光泰が勃興するに及んで、出家を中止し、加藤宗家の補佐をするようにとの再三にわたっての光泰の所望辞退し難く、還俗して家老となり、禄二、〇〇〇石を領した。一説には甲州において四万石を領していたとある。この家は以後家老職として子孫相承けていた。

 光泰の家臣達

 以上藩祖光泰との血縁・親戚関係・格別な主従関係によって、加藤家を護持する三家老の家が形成され、それを中核として家臣団が形成されていった。「大洲秘録」・「寛延藩臣譜」などの史料によって家臣団の概略を給人に限って記そう。
 表二―36をみると、二、〇〇〇石取の三家老の次の高禄五五〇石取の加藤伝左衛門は、藩祖光泰の末弟であり、同じく一柳孫右衛門は、家老加藤信濃守の舎弟(後大坂の陣で戦死)である。五〇〇石取の児玉太郎右衛門は、光泰の姪の夫の関係にあり、同じく稲葉長右衛門・徳田藤左衛門・寺島藤蔵は、いずれも美濃国の近隣村から出ている。近江国佐々木氏から出たという国領内記は、光泰が近江国に居住し、城主であったころ召し抱えられたものであろう。五〇〇石以下の給人達については説明を省略するが、光泰との地縁関係か社会関係で召し抱えられた上級侍を中心として、強固な主従関係で結ばれていったものと思われる。

 初代藩主加藤貞泰と家臣団

 前述のように文禄三年(一五九四)父光泰の家督を相続して、美濃国黒野四万石の領主となった貞泰は、その石高にふさわしい三家老を中心とする少人数の譜代家臣団に囲まれた豊臣取り立ての小大名であった。しかし関ヶ原の戦功などにより徳川の外様大名に列せられ、慶長一五年(一六一〇)には伯耆国米子領六万石へ加増転封となり、ついで大坂冬・夏の陣の戦功により、元和三年(一六一七)大洲へ所替えとなった。これら貞泰の転封に伴って、武士団は彼に引率されて各地を移動していった。
 貞泰が大洲に入部した際、引率した家臣団のうち給人身分の者に限って状況を「御家中御支配帳」によって表二-37にまとめてみた。
 なお、これら給人のほか家中の隠居や給人格・中小姓以下の御家人や足軽仲間などかなりの人数に上る家臣達が随従してきたと思われるが、史料には残っていない。
 つぎに「大洲秘録三御家中(二)」と「寛延藩臣譜」(寛延四年=一七五一 記録編集)とにより「貞泰公御代御抱之家」をまとめると表二-38のようになる。
 この表からみると、貞泰の本貫地であり、最初の就封地でもあった美濃国出身者が全体の三分の一の一一名を占め、転封地の伯耆での召し抱えが八名にも及んでいて、近江・播磨などでの六名を加えると、召し抱えの七割近い数に上る。
 この新規召し抱えの給人たちと先代光泰のころ奉仕していた譜代の給人達と合わせた家臣団が、前表に記したように一三二家に上っていたわけで、四国出身の家臣は全く見られなかった。

 二代藩主加藤泰興と家臣団

 加藤家が大洲の地に定着した最初の藩主といえる泰興は、前述のように豪放な性格の持ち主で、明敏果断に藩権力の充実、藩体制の整備に努めた。ことに力を注いだのは、家臣団の充実であった。泰興時代の給人の家数と禄高を記した表二-39(「大洲秘録三御家中(二)」と「寛延藩臣譜」とにより作成)を見ると、譜代家臣九一家に対し泰興が新規召し抱えた家臣はほぼ同数の八七家に及んでいて、思い切って新人を登用したことがうかがえる。しかし禄高五〇〇石が最高で一家だけ、禄高一〇〇石の家が新採の三分の一と、禄高二〇〇石以下の家が七一家にも及んでいて、新採の家の禄高を低くおさえ、高禄の譜代家臣達を凌ぐことがないよう配慮していた。
 ここで新規召し抱えの際の事情・特徴を記そう。泰興在位のころは江戸幕府が創始以来のいわゆる武断政治の方針をとり、諸大名を抑圧して、族制的・法制的原因によって断固改易処分にすることが多く、大名の断絶六六家にものぼっていて、主家の廃絶による浪人が国内各地で輩出した。泰興はこれら浪人のうち、一道一芸に秀でた者に目をつけ、躊躇することなく召し抱えた。例えば肥後国熊本五二万石加藤家の浪人石河瀬兵衛を五〇〇石の高禄で、出雲国松江二四万石の堀尾家の浪人梶原又六を四〇〇石で召し抱えたりした。前述のように泰興は、伊予国松山城主蒲生忠知の改易によって、寛永一一~一二年の一か年間幕命による在番中、蒲生家浪人のうち有能の士八名を選んで、二五〇石~一〇〇石の給人として召し抱えた。また寛永一七年讃岐国高松城主生駒高俊の改易によって同一九年まで在番中、生駒家浪人のうち三〇〇石一名、二〇〇石二名を選んで召し抱え、明暦三年讃岐国丸亀城主山崎治頼の改易による一か年間の在番中、山崎家浪人のうちから二〇〇石、一〇〇石各一名宛を召し抱えたりした。これら浪人召し抱えの状況の一部を表二-40に示そう。
 ここで泰興の代、新たに召し抱えられた家臣のうち記録に残っている給人の禄高・人数・本貫地をまとめて表二-41示そう。
 表によれば、召し抱えの家臣の本貫地が、北は磐城・岩代から南は肥後・日向に至る広範囲にまたがって各国に及んでおり、思い切って人材を各国に求め、家臣団の充実に努力していることがうかがえる。
 表二-39にみえる泰興代の家臣(給人のみ)数のうち、新谷藩分知に伴って、三一家が新谷藩家臣として分割される。創設された新谷藩の家臣団については、第七節で説明しよう。

 三代藩主加藤泰恒以降の家臣団

 二代藩主加藤泰興の果断な人事行政によって大洲藩の家臣団は、質量ともに前後に比をみないくらい充実してきた。この家臣団は三代藩主加藤泰恒以降は、幕藩体制の安定を背景に、質量両面にわたって、著しい変化はみられず、新規召し抱えの家も泰恒の代で表二-42の程度にとどまった(「大洲秘録三御家中(二)」。新規召し抱えの家は、四代藩主泰統の代になると知行取・扶持取各一、中小姓一五の計一七家、五代泰温の代には、知行取なし、扶持取五の中小姓五、計一〇家にとどまった。
 ここで貞泰代(元和四年現在)、泰温代(寛保二年現在)、泰済代(文化一四年現在)、泰祉代(文久三年現在)の各時代における家臣の禄高・人数を知行取及び給人格のみに限って表示すると表二-43のようになる。
 表を通覧すると、知行取の数は中期に多いが、後期になると前期の数と同じくらいになっている。その代わりとして石高の低い扶持取の給人数が増加している。

 大洲藩家臣の役職組織

 藩政の発展につれ、機構が複雑化しそれに応じて、多数の役職が分岐し、それぞれの役職に家臣が配置された。「大洲秘録」によって役務組織を整理して一覧表(表二-44)にまとめてみよう。大洲藩の役職組織は、他の伊予諸藩と同様に、幕府の機構を基準とし、藩の格式・立地条件などを考慮した編成となっており、藩主・家老・大奉行の下に諸機関が置かれ、国元・江戸および上方などにおける政務を分担した。
 国元における役職は、軍事編成と平時編成とが併記されている。表二-44の御旗奉行から御船手奉行は主として戦時に機能する組織であり、御船手奉行・御用人以下諸小役まで(江戸定府・京都詰・伏見詰・大坂詰を除く)は平時に機能する組織であって、平和が続いた江戸時代にあっては、後者の組織が重視された。
 国元の平時組織のうち、幕府の遠国奉行に相当するのが、忽那島詰・御替地詰・須合田詰・上灘詰であり、それぞれに代官が任命されたが、寛永一二年(一六三五)以後大洲領となった御替地は、行政的にも他の地域とは別の行政区分とされたため、大目付を置くなど特別の配慮が見られる。須合田は、伊予灘の潮のさかのぼる終点の河港であり、大洲・新谷領のほか、宇和島領の産物積み出し地でもあったところから重視されたのである。

表2-36 光泰時代の給人

表2-36 光泰時代の給人


表2-37 貞泰入部時の給人

表2-37 貞泰入部時の給人


表2-38 貞泰時代召し抱えの給人

表2-38 貞泰時代召し抱えの給人


表2-39 泰興時代の給人

表2-39 泰興時代の給人


表2-40 浪人召し抱え一覧

表2-40 浪人召し抱え一覧


表2-41 泰興時代召し抱えの給人

表2-41 泰興時代召し抱えの給人


図二-36 大洲藩主系譜

図二-36 大洲藩主系譜


表2-42 泰恒時代召し抱えの給人

表2-42 泰恒時代召し抱えの給人


表2-43 貞泰・泰温・泰済・泰祉時代の家臣(給人格以上)

表2-43 貞泰・泰温・泰済・泰祉時代の家臣(給人格以上)


表2-44 大洲藩の行政組織一覧

表2-44 大洲藩の行政組織一覧