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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 住友の別子銅山経営

 銅山の発見

 大坂の住友吉左衛門は泉屋の商号で知られた銅商・銅山師で、元禄三年に備中の吉岡銅山で稼行中であった。支配人の田向十右衛門は稼行がはかばかしくなくて頭を悩ましていた矢先、阿波生まれの切上り長兵衛という掘子から、伊予国の幕領宇摩郡別子山村の足谷山中に有望な鉱脈のあることを知らされる。長兵衛は最近まで西条領の新居郡立川銅山で働いていたが、その銅山の南の峰つづきの深山で富鉱の露頭を見たという。この耳よりな話に心を動かされ、まず手代助七に長兵衛をつけて見分に出向かせ、だいたいこの話に相違ないことを確かめてから、この年の九月に十右衛門自身が手代・坑夫頭と案内役をつれて備後の鞆の津から川之江に渡り、代官後藤覚右衛門のいる代官所に出頭して足谷山探鉱の許可を得た。幕府は鉱業を奨励していたので、泉屋といえば異議なく許された。一行は川之江から天満村に向かい、おばこ峠を登って乙地の近くで一泊し、午前四時ごろ松明をかざして足谷に向かう。ここから現地までの行程一二㌖余り、一行は探しまわって、漸く長兵衛の見たという銅鉱の露頭を尋ねあてる。昼夜兼行で困難な試掘を続けて彼等が掘りあてたものは、その延長が上部で一、五〇〇㍍、下部で一、二〇〇㍍、深さ一、二〇〇㍍に達するという別子大鉱床の尖端であった。彼等が紫暗色に輝く富銅鉱の一塊を手にしたとき、どれ程喜んだことか、この掘り口を「歓喜間符(坑道)」と呼んでいることからも想像され、発見者長兵衛は別子山神の化身のように崇められた(予州別子銅山初発之書付)。

 幕府の認可

 十右衛門は早速上坂して、ここで得た鏈を住友家に示して見分の次第を報告し、住友家では川之江代官後藤覚右衛門を通じて、採鉱出願の手続きをとることになる。直接衝に当たったのは江戸出店の支配人七右衛門で元禄三年(一六九〇)一〇月のことであった。この最初の願書は幕府への運上銀が少ないという理由で却下され、翌四年二月九日に勘定所から運上銀を増額して重ねて出願するようにという内意が達せられ、出願に際し五箇条の要求が掲げられていた。
 一 運上は出銅一、〇〇〇貫目について銅の場合は一三〇貫、銀の場合は六五〇匁とし、これを毎月納入し、繁昌の場合はさらに増額する。なお諸入用として山の良否に拘らず年額五〇両を五月に納入する。
 二 年季については五箇年の請負としてほしい。
 三 炭竃運上について、銅吹に使用する製炭のため銅山近辺の雑木を使用したい。炭竃一〇口について一年銀三〇枚とし、これを毎月納入する。
 四 山小屋、留木、薪などに雑木または立枯木・朽木使用を許可してほしい。
 五 山の囲い、番所の普請は建造・修覆とも請負人の負担とする。
というもので、願書を受理した後藤代官からも、泉屋の願意を聞き届けてやって欲しいとの意見を添えて、勘定奉行に取り次いだので、願書の通り認可された。元禄四年五月九日のことで(別子銅山公用帳)、泉屋は早速に後藤の手許へ請書を提出した(資近上七-33)。
 足谷銅鉱は既に貞享四年(一六八九)に地元の宇摩郡三島村の祗太夫が発見し、この方からも願書が提出されて競争となったが、発見はおくれたが出願手続きが早かったこと、請負運上額が多かったことのほか、ここは高峻な深山で素人の開発は容易でない、資力確実な経験のある鉱業家にして初めて託せる大事業であるとして、住友に認可されたわけであった。

 開 坑

 住友が山入りしたのは許可が下ってから三か月後の八月のこと、掘り始めたのは閏八月一日のことであった(御運上目録)。何しろ別子は四国山脈の支脈の鳳凰山脈に位置し、「別子越」で一、三〇〇㍍の高峻な深山のことで開坑の準備は容易でなかった。付近の山村から多数の人夫を集めて地形を整えたり、食糧その他の物資から出銅の運搬路を作るため足谷から保土野あたりまで一二キロメートルの難所を山から谷へ、崖を削り橋を架し、伐木をし巌石を穿つという作業をし、天満村から銅山まで五二キロメートル余の道筋に四か所の中宿を設けたりした(予州別子銅山之覚書)。
 このような現場の万端の指揮は支配人の十右衛門がしたが、彼は吉岡銅山を離れることが出来ず、別子に鉑石が掘り出されて、大丈夫との見込みがつくと、一切の業務を手代の杉本助七に引き渡して吉岡に帰った。従って別子の経営は挙げられて支配人となった助七の手に委ねられた。助七の副として平七、その配下に山留め(坑夫頭)源四郎や切上り長兵衛(坑道を上向きに掘進していく技にすぐれ、仲間から渾名された腕のよい坑夫)など、役向きの者や専門の技術者が吉岡銅山から送り込まれた。掘り始めるまでに彼等によって山小屋・勘場(事務所)・床屋(熔鉱場)・焼竃・炭竃などの普請に諸所から多くの稼ぎ人が集められた。
 閏八月一日から掘り始め、一〇月から炭を焼き、同月一二日から焼吹を始めた。川之江代官所から派遣された銅山役人の監督の目も行き渡り、この年一二月末までの銅の産出量は、五、一二二貫九〇〇目(三万二、〇一八斤余)で、その詳細は翌元禄五年正月に代官所に提出された運上目録(資近上六-35)によって知り得る。
 住友の採鉱出願については年季五か年の請負とはなっているが、始めから本腰をすえた遠大な計画であったことが次の元禄八年(一六九五)の書状の中に読み取れる。

 年季で請負った山は山師が都合のよいように扱うから百年続く程の山も二十年三十年で絶えるものである。私共は幕府領地をあちこち請負っておるので末長く繁昌するよう心掛けて、山入りから末々の事を考え大分の金も注ぎこんでいる。(立川銅山との坑道抜合争論の訴状)

と述べている。それだけにその後の開発成績もきわめて良好で、まる一年生産を続けた翌五年には九万五、四〇四貫七〇〇目、六年には一三万九一一貫二〇〇目というように格段の躍進を示した。その六年という年は六月二一日に大風雨が襲来して蔵一三か所、坑夫小屋二〇〇余が潰れるという大被害をうけたのに、この成績は将来への大きな希望が持てたのに相違ない。この実績は住友を狂喜させ、功労者の十右衛門と助七に家督を与えて別家を立てさせた。かつて山入りのとき讃岐の金比羅宮に山の繁栄と荷物輸送の安全を祈願した十右衛門と助七であったが、ここで二人が願主となって、京都の画工に絵馬を描かせ、同宮に奉納して神恩を謝している。
 元禄九年になると五月末に請負期間が切れるので、二月に稼行継続願書を提出する。幕府としては運上を引き上げるよう要求するが、住友としては六年以来災害で莫大な失費があり、今後も災害の予想されることを理由に前回通りの諸条件で提出する。現地の事情をよく心得た川之江代官は願出に添書して「たとえ住友以上の運上で願い出る者があっても、資力のない未経験者の稼行は覚束ないから従来のままでやらせるのがよい」と述べており、これに対し早くも三月に認可が下っている。
 別子の産銅は全国の銅山からみて、どんな位置にあったかを見ると、元禄一一年の二五三万五、〇〇〇余斤という数字は明治以前の別子銅山の最高記録であると共に、日本銅山の最高記録で、産額の多いことで知られた足尾銅山の延宝・貞享のころでも、これには及ばなかったし、また元禄一〇年の日本の銅産額は世界一であったというから、別子の産銅が重大な関係を持ったことが知られる(池田謙三「銅製錬」上巻二節)。
 このような別子の盛況は住友の未曽有の繁栄をもたらし、これが世上に喧伝されて大坂の劇場では「予州銀ばこ白鼠」とか「別子長者三番つづき」と題する芝居が上演されるほどで、住友側でも世間体を気にして上演を差しとめようとしたりした(「泉屋叢考」一三輯七五ページ)。

 水火の災害

 別子銅山は元禄六年(一六九三)六月二一日の大風雨で、蔵一三か所、坑夫小屋二〇〇余軒が倒壊するという被害を受け、さらに翌七年四月二五日には大山火事に見舞われる。
 この火事は午前一〇時ごろ、山役人沢田新介の番所付近の焼竃から出、日照り続きで全山乾燥し切っていたところへ折からの烈風にあおられて火の手は忽ち八方に燃え広がった。水に乏しい山中のこととて手のつけようがなく、午後三時ころまで燃えつづけて、全山の施設のほとんどを焼失、銅山役人河野又兵衛、支配人助七はじめ手代以下合わせて死者一四二人を出すという大惨事になった。この大火災については、隣の立川銅山側の放火であるといううわさも流れたが、事実は別子の竃場の失火であった。
 この火災は熔鉱用の床屋八軒を残しただけで、一切の山中の施設を焼失したが、焼失覚書を見ると次の通りで、開坑三年の間にこの山中がいかに整備されていたかを知ることが出来る。

 番所四軒、勘場一軒、銅蔵一軒、米蔵一軒、雑物入蔵一軒、床屋二三軒、銅改所一ヵ所、焼竃四〇〇口、炭蔵一ヵ所、坑夫小屋二二五軒、上座(四ッ留口番小屋)五ヵ所、砕女小屋三ヵ所、大工小屋一ヵ所、鍛冶小屋三軒

 また、当時ここに住んでいた人員は、七年五月の「銅山への集中人数凡書」によると、銅山関係で五、〇〇〇人、各種売り物に従事する者の妻子どもで約一万人、合計一万五、〇〇〇人程というから、その繁昌振りが察せられる。火災のしらせは早飛脚で大坂に達せられ、十右衛門は急いで別子に来て、助七の殉職を悼み、一山を指揮して災害の復興に当たった。十右衛門の調査によると、損失は人命一四二人の外、資材物資については金にして五、四〇〇両という高額に上ったが、この年の産銅は前年に比べて貫で一、七八三貫、斤で一〇万四、八九四斤も多かったことを思うと、復興がいかに速やかであったかが察せられる。住友では犠牲者を悼んで山中に蘭塔場を設けて、これを弔い、また大坂の菩提寺・実相寺に供養の碑を建て、宝暦四年(一七五四)に梵鐘を鋳造したとき、これにも刻して弔っている。
 翌八年七月二一日の深夜から翌朝にかけて、山はまた大風雨に襲われ、死者六人、建物・道路・橋の倒壊破損は金にして二、二〇〇余両という大被害であったが、直ちに復興の実を挙げ、この年の産銅は遂に一〇〇万斤台を突破するに至った。

 立川銅山との境界争い

 いわゆる「別子越」の分水嶺は現在、新居浜市と宇摩郡別子山村との境界線となっているが、元禄期も同じで北側が西条藩松平氏の所領新居郡立川山村、南側が天領宇摩郡別子山村であった。別子山村は銅山川の谷をはさんで、この分水嶺と南の高峻な四国山脈の主脈が対峙する人跡まれな深山で、ようやく元禄四年になって住友によって開かれたので、この銅山は「別子山村足谷銅山」とも、単に「別子銅山」とも呼ばれた。これに対し北側の立川山村はここを水源とする国領川に沿って北に下ると沖積平野となり、海運の便に富む瀬戸内海に達するので、この立川山の鉱床は早くから手がつけられていた。「寛永間符」という掘口の名が残っており、別子より半世紀も前から本格的に掘られており、「立川山村之内長谷銅山」とも「立川銅山」とも呼ばれていた。請負人は住友開坑の頃は大坂屋吉兵衛であったが、元禄五年には新居郡金子村の真鍋弥一右衛門に代わっている。
 この二銅山の鉱床は一続きのもので、底部は立川銅山側では浅く、四五度の傾斜をもって分水嶺の下部をかすめて南に落ちているので、鉱床の大部分は別子銅山側にある。このような立川銅山側の弱点は産銅の成績に顕著に現れて来たので、別子に対する立川側の反感が強く、元禄七年の火災でも立川側の放火説が生まれた程であった。
 元禄八年四月二五日、分水嶺に近い立川銅山の大黒間符から掘り進んできた坑夫と、別子の大和間符から掘り進んで来た坑夫とが偶然にもその坑道を抜き合って、両銅山の激しい境界争いが起こった。
 このような坑道間の境界争いでは、その地点の真上と思われる地表を想定して、そこが立川山村であるか別子山村であるかで勝敗がきまるのが常識だったが、この地表の境界がまた永年にわたる両村の紛争問題であった。立川山村では分水嶺の「御林札場」のある見通しが境界と主張し、別子山村では「峰水流」が古来からの村境と主張して解決がついてなかった。立川山村の主張であると立川銅山側か勝ち、別子山村の主張するようであると別子銅山側が勝つことになる。両銅山の争いは両村の争いとなり、訴状は一括して幕府の評定所に送られた。
 これはまた西条藩と天領との領分争いであるから、その判決は重大で、評定所の吟味は周到を極めた。この年一〇月二五日に関係者全員を江戸に呼び出して吟味があり、翌九年検使として曲淵重右衛門と秋田伴左衛門が派遣されて現地の検証が行われ、元禄一〇年(一六九七)閏二月四日に判決言い渡しという三年越しの大裁判となった。
 判決によると別子側の主張が通って、両村境は「峰水流」ときまり、立川銅山側は五九間掘り越していたことが明らかにされた。そのため敗れた立川山村庄屋神野藤兵衛・銅山師真鍋弥一右衛門・甚右衛門の三人は江戸牢屋に二か年監禁、現地へは改めて役人が登山して「峰水流」を境界として四五本の杭を打ち、坑道内にも分杭を打ち、抜き合った箇所には鉄格子をはめて封印をして、この事件は解決した(境界訴訟の裁定「垂裕明鑑」四)。

 運搬路の変更

 別子開坑の当初から解決したい経営上の難点があった。それは産銅を運び出し、糧米その他の物資を入れる運搬路の問題だった。別子の荷物積み下しの舟場は宇摩郡天満村で、ここから別子銅山までは、天満浦から浦山村を経ておばこ峠を越え、芋野・保土野・乙地を通る「天満道」で三六㌖もある。中でもおばこ峠から銅山までの二四㌖が嶮路で、人足によって二継ぎするので牛馬も通わない。風雨や降雪の時は往来できず、住友では早くから「別子越」を越えて立川山村から新居浜への道を使用させて欲しいと西条藩に嘆願していた。これが許されると距離も天満道の半分の一八㌖に短縮されるのであった。
 しかし西条藩からの許可は下りない。立川銅山と同じ道を使用するのは紛争の源と考えられたのか、元禄一三年になって別に新道を設けるなら考えてもよいという藩の内意が伝えられたので、住友では別子越に出ないで西赤石山と上兜山の間の谷を種子川村に下り、新須賀村の浜に出る小径を広げる案を立てて、翌一四年六月に嘆願書を提出した(資近上六-39)。
 この許可が下りる前に住友吉左衛門(後の友芳)は勘定奉行荻原重秀の鉱業振興の諮問に答えるため一五年一月に江戸に下向した。彼はこの機会に運搬路をはじめ坑内排水の問題、坑夫の食糧の問題、稼行請負の年限など、懸案を一挙に解決しようと決意していた。
 荻原重秀の諮問に対する彼の意見書の中で、別子に関する部分は「泉屋叢考」(一三輯九一~九三ページ)に収められているが、それを要約すると、

 1 鉱山の排水工事のこと、開坑以来一〇年余も坑底へ掘り込み湧水甚だしく水抜きを開く必要がある。四年前から場所を見立て作業しているが延長六〇メートルもある上、岩磐硬く開通の見込みがない。峰続きの立川の谷が深いので、この方へ切り抜けば容易である。
 2 輸送路短縮のこと、新居浜浦の使用を許されれば荷物の揚げ下し、大坂への銅回送も好都合である。去年六月願い出ているが、今もって許可がない。
 3 燃料確保のこと、炭木が不足する。山続きの一柳八日市知行所の雑木を払い下げて欲しい。
 4 銅山永代請負のこと、銅山は費用を惜しまず遠い将来を考えて稼行するのでなくては坑内は水をたたえ損じて早く衰える。末長く別子を請負わせて欲しい。
 5 貧鉱処理のこと、費用がかさんで引き合わず、作業を中止している箇所も手入れすれば四、五〇万斤増産の見込みがある。
などで、合わせて拝借金一万両、一〇か年賦返納を願うものであった。
 これに対し、荻原重秀から三月八日呼び出しがあり、1の立川谷筋への水抜きの件を除き他は聞き届けられた。輸送路についても西条藩へ申し渡しておいたから、解決するはずであると達せられている(元禄十四年予州備中御銅山覚)。
 泉屋は早速、新道開設に着手する。道筋は前年願い出た種子川経由を変更して、西赤石・上兜両山の間から石ヵ山丈に出て立川山村渡瀬へ下って新居浜浦に出る便利なコースに改めた。元禄一五年(一七〇二)八月には渡瀬に中宿を設け、新居浜浦には口屋を設けて新道を使い始めた。口屋は銅山用米が港に着くと荷役して土蔵に貯えて便ごとに中宿に送り、また出銅を船積みして大坂に出す仕事をする。共に西条領であるが、天領の施設であるから川之江代官所の支配下に置かれた。

 大別子の実現

 新道路使用は便利であるが他藩領であり、立川銅山は他の請負では住友の念願は充分に解決していない。住友は早くから立川・別子の一手稼ぎを考えており、幕府もまた産銅増加については西条藩に替地を与えて、立川銅山を天領下に置くことを考えていた。
 そこで幕府は元禄一六年に宇摩郡八日市陣屋にいた一柳直増の五、〇〇〇石の地を収めて播磨国美嚢郡三木五、〇〇〇石に移封し、西条領の立川銅山と両銅山の薪炭用に必要な山林と出銅運搬路に関係ある村々を天領にした。これが先に見た元禄一六年の宇摩郡の天領と西条藩の土地交換であり、つづいて宝永三年(一七〇六)に西条領の上野村を収めて、津根村、野田村を与えた。
 しかし住友の立川銅山併合の宿志はなかなか達せられない。ことに八代吉宗の享保改革の一環として享保六年(一七二一)に天領の代官支配を改め、再び松山藩主松平定英の預かり所としたため、住友の願望は一歩遠のいた感じがする。
 立川銅山の経営もまた多難であった。請負師も転々と替わっている。抜合紛争当時の真鍋弥一右衛門は一〇年間の稼ぎで没落し、元禄一四年に京都の糸割符仲間に譲ったが、これも資力を傾けつくし、運上銀も滞るに至って享保一二年一〇月から大坂屋久左衛門が代わって請け負った。大坂屋は住友と同じく銅輸出の特許を受けた銅商二二人の一人であるが、鉱山経営は初めてで、幾多の辛苦を嘗めることになる。中でも元文三年(一七三八)に坑夫の賃銀を新鋳の悪貨で支払ったことに端を発する坑夫の離山騒動や、立川村民との荷物運搬賃値下げにからまる紛争が最たるもので、大坂屋は運上銀滞納七か年、三、五〇〇両にもなって、面目もこれまでの行きがかりも捨てて滞納金を含め立川銅山の稼行を住友に継承して欲しいと懇請して来た。
 住友も事情を汲み、大坂屋共々銅山預かりの松山藩に願い出て、幕府へ願書を提出するまでに至った所へ、西条領新居郡数か村から反対陳情が出てきた。理由は住友の一手稼ぎとなると両銅山の鉱水が国領川に溢れて、沿岸の田畑に大損害を与える恐れがあるというのである。住友の一手稼ぎを望む幕府としては松山藩に対し、西条藩と協力して円満解決をはかるよう命じて来たので、両藩は役人を出して反対村々を説得させ、住友の願書を幕府に提出した。
 立川銅山の産銅状況はこの時点ではさして魅力はなかった。元禄末期の産額は別子の年産二四〇、五〇万斤に対し一六、七万斤(元禄一六年「主要銅山出銅高の覚」)で、寛延元年(一七四八)の引き継ぎ話の年では年産五、六万斤くらいと考えられた。ただ住友としては一手稼ぎによって運搬路その他の無駄をはぶき、採鉱・製錬に作業の一貫を期し、相当の業績を挙げ得る自信を持っていたようである。
 こうして寛延二年一二月に幕府の許可を得て立川銅山の引き渡しを受け、住友の別子銅山経営は新しい段階に入ることになる(資近上六-41)。

表2-35 別子産銅額(元禄4~12年)

表2-35 別子産銅額(元禄4~12年)