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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 宇摩郡の天領

 伊予の天領

 伊予国の天領は、まず寛永一九年(一六四二)の宇摩郡川之江城主一柳直家の死後、末期養子のため伊予の領地一万九、〇〇〇石弱の没収にはじまり(資近上二-3)、新居・伊予・風早・桑村・越智の各郡に広がったが、結局明治四年(一八七一)の廃藩置県の際、宇摩・新居・桑村・越智・風早の五郡五〇か村二万四三六石余となっていて、それは当初の石高とほぼ伯仲している。このように伊予国の天領は、きわめて僅少で、一見江戸時代を通じて村数・石高に変化がなかったかに感じられるが、実際は複雑な変遷を経てきており、明瞭を欠く点も多く存している。

 天領のはじまり

 伊予国の東端、讃岐国に接する宇摩郡は、慶安元年(一六四八)に五一か村、石高二万一、一七三石二斗一升九合、後期の天保五年(一八三四)では五一か村、石高二万二、五七二石一斗九升八合八勺で、伊予国一四郡中では中くらいの規模の郡に属する。寛永一三年(一六三六)六月に伊勢国神戸五万石の一柳直盛が六万八、六〇〇石に加増されて、伊予国西条に転封になった。彼は伊予国の名門河野氏の庶流といわれ、祖先の故地に所領を望んでかなえられたものという。
 その直盛は赴任の途上、大坂で死去し、遺言によって嫡男直重に三万石、次子直家に宇摩郡と播磨国小野で二万八、六〇〇石、三子直頼に周布郡で一万石が分与された。よって次子直家は小野一万石と宇摩郡・周布郡で一万八、六〇〇石を得て、川之江に入部した。

 一柳直家領の没収

 川之江一柳家は短命であった。わずか就封六年後の寛永一九年(一六四二)に直家は参勤の途次に面疔を患って江戸で急逝した。五月二七日のことで四四歳であった。
 直家には男嗣がなかったので、かねて弟直頼(小松藩主)の妻の弟宇右衛門直次(出石藩主小出吉親の次男)を娘の婿養子に迎えて跡目相続を願い出ていた。しかし、幕府の許可を得ないうちに直家が逝去したので、末期養子を認めぬ幕府としては伊予の領分を没収し、父直盛の功を認め、直次に播磨国加東郡小野一万石の遺領のみを与えた(小野旧藩誌)。
 こうして幕府は一柳直家の故地を天領とし、代官を置かず、松山藩主松平定行の預かり地とした(資近上二-3)。「松山叢談」に、

 寛永二十年癸未、伊予国宇摩郡の内一万七千百二十三石一斗五升八合、周布郡の内千八百十九石八斗七升三合、合一万八千九百四十三石三升一合御預、一柳監物様の上地也、

とある。松山藩の幕府預かり地、つまり当初の天領一万八、九四三石三升一合の土地で、内訳は宇摩郡の一万七、一二三石一斗五升八合、周布郡の一、八一九石八斗七升三合である。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』は相給の村の外は知行主名を付してないので、宇摩郡の天領村名は判然としない。周布郡については同書に「周布村二、二三九石一斗三升、御蔵入分一、八一九石八斗七升三合、一柳主膳分(小松二代直治)四一九石二斗五升八合」とあって、周布村一村で、しかもこの村は天領と小松藩との相給の村であることが知られる。
 松山藩としてはここに陣屋を開き、頭取一人、代官一人、手附四人、手代六人を派遣して預かり地の支配、主として年貢米の徴収、回送の業務に当たったものと思われる。
 宇摩郡については天領となった寛永一九年(一六四二)から三年後の正保二年(一六四五)に、西条藩主二代直重の次男直照が五、〇〇〇石を分知されて津根(土居町)に移った。これを八日市陣屋と呼ぶが、これによって西条藩三万石の内に宇摩郡も含まれていたことを知る。またこの五、〇〇〇石に天領を合わせると宇摩郡石高は二万二、〇〇〇余石となり、慶安の郡内総石高を若干超過するので、宇摩郡は当初に於て全郡一柳氏(長子直重と次子直家)の所領であったことが知られる。
 宇摩郡には時代の降るに従って天領・今治藩領・西条藩領が錯雑するが元禄一三年(一七〇〇)の「領分附伊予国村浦記」と廃藩置県のときの村名から見て、次の一六村は終始天領であったことが明らかである。

 余木・川之江・下分・山田井・三角寺 (現川之江市)
 具定・西寒川(半分)・豊田・大町・岡銅・平野山・小川山 (現伊予三島市)
 藤原・天満(半分)・別子山・新宮(半分) (宇摩郡)

 八日市陣屋の顚末

 西条藩二代一柳直重(一五九八~一六四五)は正保二年死去に際して、三万石のうち、嫡子直興に西条藩を、次子直照に宇摩郡で五、〇〇〇石を分与して津根村(宇摩郡土居町)に居らせた。直照は村内八日市の地に陣屋をおいたので、これを八日市陣屋と呼んだ。こうして西条藩は二万五、〇〇〇石となった(寛文印知集)。
 寛文五年(一六六五)に西条藩に大異変が起こった。三代直興が幕命による京都女院御所造営の助役を怠り、また罪なき領民を刑したなどの理由で改易となったことである。同年八日市陣屋の直照には七二二石を宇摩郡天領(北野村)の内から加増された。西条一柳家の祭祀料というものであったか。
 西条藩主として寛文一〇年に紀州藩から松平頼純が三万石を得て就封した。それまで西条は天領となり、一時徳島藩が預かりを命じられたこともあった。

 川之江代官支配

 延宝五年(一六七七)に松山藩は宇摩郡の預かり地を幕府に返上した。「松山叢談」五上に次の如く記している。

 六月十三日、御預地伊予国宇摩郡の内三十七ヶ村高一万三千五百九十一石八斗七升二合の地、御願いにより御預り御免、七月十四日三田次郎右衛門へ御命により御引渡し、

 これは『厳有院殿御実紀』にあるように、「近ごろ公料の地、風水旱等の災害あるにもあらず、させるゆへもなくして、年々次第に税額減じ、古額に比較すればすでに過半にいたる所々あり、また税額次第に減ずといへども、その村里昔より富饒なりしとも見えず」として、料所に良吏を任命して年貢収納に出精させるように計り、そのためには大名依存の方針を是正しようとしたものであろうか。以後、享保五年(一七二〇)までの四四年間は幕府の直接支配となり、大坂代官が川之江に在勤したと思われる。

 今治藩との替地

 今治藩初代の松平定房は寛文五年(一六六五)に江戸城大留守居役を命じられて一万石を加増され、武蔵国東葛飾郡・下野国芳賀郡・常陸国真壁郡の三か所を得て四万石となった。その定房は延宝四年(一六七六)に死去し、孫の三代定陳の弟定直に関東で五、〇〇〇石を割き、一家を立てさせた。元禄一一年(一六九八)に関東に残った五、〇〇〇石が収公され、その代替地を宇摩郡の天領一八か村五、〇〇〇石で与えられた。次の一八か村である。

 半田・柴生・奥下山・領家・妻鳥・下川・長須 (川之江市)
 中曽根・三島・村松・鷹野山・岩原瀬・寒川山・柏 (伊予三島市)
 上山・馬立・新瀬川・新宮(半分)  (宇摩郡)

 西条藩との替地

 別子銅山経営のため北部海側の西条藩領新居郡が薪炭資源、荷物運搬用地として必要となり、元禄一六年(一七〇三)西条藩松平氏に交渉して、次の通り交換が行われた。西条藩領は山間地で面積が広く、これに対し幕府側は石高にして二倍以上の平地を西条藩に渡している。

 幕府側へ(新居郡六村)
  大永山・立川山・種子川山・東角野・西角野・新須賀
 西条藩へ(宇摩郡八村)
  上分・金川(川之江市)、長田・西寒川・東寒川・中之庄(伊予三島市)、蕪崎・小林(宇摩郡)

図二-30 一柳氏略系図

図二-30 一柳氏略系図