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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

3 飢饉と百姓一揆

 享保の大飢饉

 江戸時代の三大飢饉の一つに数えられる享保の大飢饉は、周知の如く、虫害によって西日本を中心に発生したものであり、特に伊予国における被害は甚大であった。その全体的な内容については別項に詳述するが、ここでは、西条藩における状況について簡単に述べておきたい。
 西条藩内においても、享保一七年(一七三二)七月五日ごろからうんかの群生がみられるようになり、稲作への被害が出はじめた。各村々では虫送りによる被害軽減に努め、藩では、一宮神社及び石鎚神社において虫よけの祈禱を行わせることにした(「一宮神社旧記」資近上七-133)。しかし、このような対策は効果を上げず、藩では、領内の被害状況を九月四日付で幕府に報告している。それによると、田畑合わせて二万三、八五四石に損毛が生じ、特に八、四八七石については、被害が大であると述べられている(「虫附損毛留書」)。このような大幅な凶作は、当時の藩ごとに孤立した封建経済体制のもとでは、ただちに飢人の増加としてあらわれてくる。記録の上からは、同藩における餓死者はいなかったようであるが、領内における飢人は著しい数にのぼった。その状況を、幕府への届出の中から拾うと、表二-33のようになる。享保一七年一一~一二月にかけての飢人の増加は大きく、特に一二月には二回の報告の度に五~六、〇〇〇人というばく大な数に及んだ。
 飢饉による被害の増大、飢人の増加は、もちろん西条藩のみにとどまるものではなく、西日本一円に及ぶものであった。幕府では、このような事態に対処するため、石高に対応した救済資金の貸し付けと、大坂から中国、西国筋への大量の廻米を計画した。貸付金の額は、西条藩の場合、三万九、〇〇〇石~二万石までの三、〇〇〇両で、享保一七年(一七三二)一一月六日、江戸城内の蓮池金蔵にて受領した。この返済は、享保一九年から五か年間に行う規定であった。一方、廻米の積み出しは、享保一七年九月二三日から始まった。西条藩では、当初希望していた廻米額二、五〇〇石に対し、一一月二四日までに六七〇石、一二月五日までに一、五〇〇石、同一五日までに二、五〇〇石すべてを、今治において受領した。伊予国における廻米陸上げ地は、最初宇和島が予定されていたが、より飢人の多い所という理由で、後に今治に変更されたものである。西条藩では、この二、五〇〇石の廻米受領によって領内飢人への夫食米四〇日分が確保された旨を幕府に報告しているが、前述の如く、その後も飢人の増加はとまらなかった。そのため、藩ではさらに一、五〇〇石の廻米を追加して申し出、都合四、〇〇〇石の廻米を受けることとなった(「虫附損毛留書」)。
 藩によって行われた救恤策の詳細は不明であるが、廻米配分のため伊予国へ派遣されてきた幕府与力の報告によると、藩より飢人に対して米・味噌・塩を分配したことが記されている(資近上七-113)。また、城下町年寄であった近江屋からも、城下の飢人や他領より入込みの者への救恤が行われた(「近江屋木村氏文書」)。
 幕府からの廻米、藩の救恤策などにより、一八年に入ると、飢人の増加もようやく峠を越し、二月を最後に幕府への報告は途絶える。そして、二月・三月には二度にわたって、領内における飢人の増加が止まった旨の報告が幕府に出されている。ようやく被害の拡大がくい止められ、飢饉が終息に向かいつつある状況をみることができる(資近上七-115)。

 百姓一揆

 全国的にみて百姓一揆多発地帯とされる伊予国にあって、西条藩における百姓一揆は、大保木山騒動(寛文一〇年=一六七〇解決)と西条三万石騒動(宝暦三年=一七五三)の二件が数えられるにすぎない。この外に、打ちこわしが文化六年(一八〇九)、文政一二年(一八二九)に発生しているが、これらの詳細は不明である。
 以上のうち、大保木山騒動は、松平氏の西条入封以前において、一柳西条藩及び一柳氏改易後大保木山地方を預かり地として支配していた松山藩にかかわる内容であるので、ここでは西条三万石騒動について、その概略を述べることとする。

 西条三万石騒動

 この事件は、宝暦三年、西条藩領新居郡村々の農民が、租率の引き上げに反対して起こしたものである。
 西条藩では、前述の如く、春免による年貢の賦課が行われ、その率は、享保の大飢饉以来、三ツ五分(三五㌫)前後の低い状態が続けられてきた。このような低率は、藩財政に及ぼす影響も大なるものがあり、藩では、宝暦三年、新藩主頼淳就封を機とし、また、同年の未曽有の豊作を見こして、かねてからの懸案であった年貢増徴に転じることを決定した。
 まず、従来の春免を止めて見取免に変更することを通告し、八~九月にかけて領内一円の検見を実施した。そして、その結果をもとに、領内平均四ツ五分の免を申し渡した。これは、村によって高下はあるとしても、前年までに比べて約一割の増徴となり、藩当局においても、「過分の高免」「藩始まって以来みられなかった高免」であることを認めるものであった(資近上五-11)。新居郡郷村(現新居浜市、村高六二三石三斗九升六合)における宝暦二・三年の状況を比較すると、次のようになる。

 宝暦二 免二ツ八分七厘 取米一七八石九斗一升五合
 宝暦三 免五六分   取米三四九石一斗二合

郷村においては、前年比一七〇石余、二倍近い増徴となる。また、急な年貢増徴策は、従来の低率年貢高を基礎に小作料が決められていた地主・小作関係にも影響し、両者の間に紛争の種をもたらした(資近上五-11)。
 宝暦三年の「免定」は、一一月七日、大庄屋・庄屋を西条に召集して申し渡された。その内容が一般農民に知らされると、彼らの間には騒然とした動きが生じ、免の申し渡しを藩に返上しようとするような空気もあらわれたようである。このような状況の中で、大庄屋・庄屋らによる農民の説得が続けられたが、一二月一〇日、農民たちは加茂川河原に集結し、藩当局に減免の強訴を行うに至った。一揆の中心人物は、郷村の平兵衛、宇高村の孫兵衛・弥市左衛門であった。この一揆の規模については、具体的に知ることができないが、新居郡の郷組(のち沢津組)・船木組の村々が中心的役割を果たしたようであり、泉川組村々の参加については明らかでない(一宮神社「神事御用留控帳」)。
 新居郡農民の村出の報に接し、藩から役人が派遣され交渉にあたった。交渉に際して農民から出されたと考えられる要求の内容、交渉の推移等の具体的な動きは不詳である。しかし、翌一一日に至り、藩当局の説得が功を奏して農民たちは帰村した(「神事御用留控帳」。農民からの要求内容を具体的に知ることはできないが、一揆勃発時の状況からみて、年貢引き下げの要求が中心であったことは推察される。この問題に関しては、一揆が一応の決着をみた一二月二三日に藩より出された「在中百姓江申聞せ度書付」(資近上五-11)の中に、農民の要求を入れて定免を採用することが告げられ、さらに、免については、次のように述べられている。すなわち、定免制を採用すれば、検見のための諸費用が不要となるから、宝暦三年の四ツ五分を四ツ三分くらいにするのが適当であると考えるが、定免の初年度でもあるので、農民の要求を入れて「四ツ余」とするというものである。これらの記述からみると、少なくとも要求の中心部分であった減租要求に対しては、農民側の希望が入れられたものと考えられる。
 一方、藩当局は、一揆の首謀者であった前記三名を捕え、約一か年に及ぶ西条での取り調べの後、いずれも処刑した。また、この三名以外に、宇高村の山本壽溪が一揆の連判状及び決起を呼びかける立札を書いた人物として捕えられ、投獄一年の後十里外追放の処分を受けた。

表2-33 西条藩の飢人

表2-33 西条藩の飢人