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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

4 和歌山藩との関係

 西条藩では、藩政時代を通じて、終始本藩和歌山藩との密接な関係が維持し続けられた。そのつながりには、両藩間での藩主・藩士の出入りにみられる人的交流や、藩財政、領民支配など、きわめて幅広く、深いものがあり、普通に考えられる宗藩と分藩、宗家と分家以上の感をいだかせるものであった。

 人的交流

 歴代西条藩主のうち、初代頼純を除き、五代頼淳、六代頼謙の二名は、紀州徳川家より入って西条松平家を継いだ。また、西条藩二代頼致が、和歌山藩五代吉宗の将軍就任のあとをうけて和歌山六代藩士となったように、西条から入って紀州徳川家を継いだ者は三名を数える。その状況を表二―27に示す。このように、本家たる紀州徳川家と分家西条松平家との間には、分藩以後においても、系譜上の新しいつながりが更新されていき、きわめて近い血縁関係が続いた。
 「文化七年御家中官禄人名帳」によると、この当時二七名の和歌山藩士が西条藩士として出向しており、その中には、西条藩で家老を勤めている者も含まれている。このような両藩間の藩士の出入りは、頼純の分家に際して本家から家臣を付属されたことに始まり、以後、藩政期を通じて数多くの例をみることができる。西条藩では、家老をはじめとする上級藩士は和歌山藩から送り込まれた者で占められており、別に短期間だけ西条藩士として送り込まれる場合もあった。しかも、これら和歌山藩出身の藩士の俸禄は、「○石、豫州○石」という記載が行われており、和歌山、西条両藩から別々に禄を支給されるという特異な形がとられていた。西条・和歌山両藩では、藩主のみでなく、藩士に関しても出入りは盛んであった。

 合力米

 初代藩主頼純は、西条入部前の寛永八年(一六三一)、すでに和歌山藩内において五万石を分知されていた。新知西条三万石拝領とともに、この五万石は和歌山藩に返還したが、以後、五万石との差額二万石に相当する手当てを宗家から与えられることになった。これを合力米という。合力米は、元禄一一年(一六九八)からは蔵米二万俵が支給されることになり、さらに、宝永六年(一七〇九)より三万俵、寛保三年(一七四三)より二万俵、明和元年(一七六四)より一万五、〇〇〇俵、安永三年(一七七四)より二万俵、寛政三年(一七九一)一万俵、寛政四年より二万俵というように、和歌山藩の財政状態との関連による曲折があったが、藩政時代を通してその支給は続いた(「南紀徳川史」)。西条藩は、財政の上からも、また領民支配においても、本藩和歌山藩の力に負うところ大であった。

表2-27 和歌山・西条両藩主の出入

表2-27 和歌山・西条両藩主の出入


図2-26 西条藩主系譜

図2-26 西条藩主系譜