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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 松平頼純の就封

 松平氏の就封

 一柳西条藩領は、一柳直興の改易、除封(寛文五・一六六五)により収公され、一時幕府領となった。以後、松平氏の就封に至るまで、徳島藩、松山藩の預かり地、代官による支配地などに分割されていたようであるが、この間の詳細は明らかでない。
 寛文一〇年(一六七〇)、紀州和歌山藩士徳川頼宣の次男頼純は、新知として、伊予国宇摩郡・新居郡・周布郡内で五八か村、三万石を与えられ、西条に入部した。これが松平西条藩の始まりである。以後、明治二年(一八六九)の版籍奉還に至るまで、一〇代、約二〇〇年に及ぶ松平氏の支配がこの地で続いた。
 西条藩主は定府で、歴代藩主は参勤交代をすることがなかった。従って、藩主の入国はまれで、生涯を通じて、領国に足を踏み入れない藩主もみられた。初代藩主頼純は、就封の年に初めて入国して以来、元禄七年(一六九四)、同一一年、同一五年、宝永六年(一七〇九)の五度にわたって領国西条を訪れている。しかし、以後は、三代頼渡一度、九代頼学一度、一〇代頼英二度の入国があるにすぎない。このような点からは、西条領民にとって、藩主松平氏は疎遠な存在であったといえよう。

 松平頼純

 頼純は、御三家の一つである紀州徳川家頼宣の次男として、寛永一八年(一六四一)、江戸に生まれ、幼名を久松といった。徳川家康の孫にあたる。母浄心院殿は越智氏女、内室清性院殿は本多能登守忠義女である。承応三年(一六五四)任官し、従四位下、左近衛少将兼左京大夫となった。以後の歴代西条藩主も、従四位下少将左京大夫に任ぜられるのを例とした。三〇歳で就封して後、治世四二年の長きにわたり、正徳元年(一七一一)、江戸にて病没。甲斐国(山梨県)身延山に葬られた。享年七一歳であった。法号を源性院殿顗空日純大居士という。