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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

1 一柳直頼の就封

 一柳氏

 寛永一三年(一六三六)、一柳直盛は伊勢国神戸五万石より、伊予国西条六万八、六〇〇石(うち一万石は播磨国で与えられ、次子直家に五、〇〇〇石を分与)に転封を命じられたが、入部の途中、大坂で没した。遺領は、長子直重が三万石(西条)を領し、その弟直家に二万三、六〇〇石(播磨の五、〇〇〇石を加えて合計二万八、六〇〇石、伊予川之江、のち継嗣直次が播磨小野藩一万石となる)、弟直頼に一万石(小松)を分けた。これが小松藩の始まりである(資近上四-1)。
 直頼は、寛永一四年、父の遺領として相続した周布郡塚村の地に初めて入部し、翌年この地を小松と改称した(資近上四-2)。以後、明治二年(一八六九)の版籍奉還に至るまで、八代、二三〇余年に及ぶ一柳氏の支配が続けられた。藩祖直頼は、慶長七年(一六〇二)一柳直盛の第三子として伊勢国神戸で生まれた。幼名を鍋、後に蔵人と称した。大坂の陣に際しては人質として江戸に居り、元和四年(一六一八)、初めて将軍秀忠に拝謁した。室は初め高橋元種の娘であったが、離婚し小出吉親の娘を後妻とした。直頼は治世一〇年、正保二年(一六四五)四月二八日江戸で没し(享年四四歳)、小松綱附山麓に埋葬された(後に遠見山に改葬、法名仏心寺殿機岳宗活居士)。