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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

六 後期の藩政

 開国と今治藩

 嘉永六年(一八五三)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが、開国を求めて浦賀に来航した。幕府は彼の持参した大統領の国書を受け取り、いったんペリーを退去させた。翌年一月ペリーは再来し、条約締結を強要したため、幕府はその圧力に屈して日米和親条約を結び、下田・箱館を開港し、領事の駐在を認めた。和親条約に基づいて下田に着任した総領事のハリスは、通商条約の締結を強く要求し、当時の世界情勢を考慮した幕府は、条約調印の勅許を朝廷に求めたが失敗し、安政五年(一八五八)大老井伊直弼は無勅許のまま日米修好通商条約を結んだ。
 外交問題で苦しんでいた幕府は、内部でも一三代将軍家定の後継者争いのため分裂の危機に直面していたが、井伊直弼が幼年の紀伊藩主徳川慶福を擁立したため、通商条約に無勅許で調印したこともあって、直弼を非難する声が高まった。直弼はいわゆる安政の大獄を断行して反対派を厳しく処罰したが、万延元年(一八六〇)桜田門外で反対派志士によって暗殺された。
 こうした激動の中にあって今治藩はどのような立場をとったのであろうか。当時の藩主は九代勝道(初め定保)であった。天保八年(一八三七)勝道が就封した当時、領内は天保の大飢饉の痛手から立ち直っておらず、天保九年の天候不順(損毛局一万六、〇〇〇石)が追い打ちをかけて、百姓は疲弊の極に達していた。藩庫も村々の不作下行米(不作補米)の差し引きなどがかさんで、貯えは底をついた。勝道は天保一四年、歴代藩主の中で初めて宇摩郡の今治領諸村を巡視して、差上銀米への協力を促すなど、積極的に藩財政再建への意欲を示し、また武芸を奨励して士風立て直しを図った。
 こうした中で、天保一三年勝道は幕命によって、一時安房・上総の沿岸警備に当たることになった。翌一四年には、今治藩領内の海辺警備についても幕府の要請により、異国船渡来に際しての警備に当たる人員を大幅に増強し、寛政五年(一七九三)の警備体制では適用外であった宇摩郡地域にも人数を配置することになった(資近上三-32・三-41)。
 今治藩は、瀬戸内海の要衝に所領があるため、海岸防備には特に留意する必要があった。嘉永六年(一八五三)ペリー来航の年、藩庁では家老以下中間に至るまで武装の資金を貸与し(一〇年賦、家老の七〇両から中間の二歩まで)、無足(下級藩士)には武器を貸与(武器の新調を希望する者には、当主へ一両貸与)するなどして武装を整えさせた。藩庁が時局を極めて重視し、有事の際の覚悟を促したことがうかがわれる。
 このような内外の情勢が緊迫している最中に、安政の大地震があり、江戸・今治における復旧費の支出がかさんで、藩の財政は窮迫する一方であった(資近上三-44)。
 日米修好通商条約の締結当時、今治藩では財政再建に全力をあげていた。その成果の一つは、越智郡伯方村(現伯方町)木浦古江浜に塩田二三浜を完成したことである。この塩田開発は、弘化二年(一八四五)に開発係岡村大作ら五人が任命され、普請が進められていたが一時工事が中断していた。嘉永六年になって再開された工事は安政の大地震があったにもかかわらず続行され文久二年(一八六二)になって完成した。浜の成績は上々であった模様で、同三年には浜関係者の一人深見貞蔵が金一〇〇両を献上している。

 一〇代定法と海防対策

 勝道が病を得て隠退した後を受けて今治藩主となった一〇代定法(義兄勝道の養子となり、文久二年就封、初名定命・勝吉)は、攘夷と公武合体運動とに強い関心を持った。攘夷に関しては、定法が今治入部に際して、家老から徒格に至るまで、勤仕中の全員に西洋歩兵銃一挺ずつを与えたことでも、その一端がうかがわれる。また、文久三年幕府が美作国津山の藩士を派遣して、瀬戸内海西部海岸の防御事情を調査した際、彼は積極的に協力し、種々の便宜を与えた。さらに同年三月、定法は朝廷に対して、来島海峡添いの大浜村(現今治市大浜)の糸山から、対岸の安芸国小脇村(現広島県)に至る瀬戸内海西部の最多島海域の要所に悉く砲台を国費で建設し、外夷を防いで京都を守るべきであると建白した(資近上三-45)。
 定法は領内の防衛体制の整備にも極めて熱心で、家老久松長世に命じて軍制を見直させ、西洋の兵制を参酌して、銃砲隊を中心とする組織に改めさせた。また今治城の正面の海岸の、総社川裾・城下浜・天保山脇・浅川裾を選んで砲台場(お台場)を築き、砲身や砲弾の鋳造に必要な銅・錫・鉛・鉄などの金属類は全領民からの供出によって調達しようとした(資近上三-46)。
 さらに、居城が来島海峡に直面し、外夷の眼にさらされている状況であるのを憂慮して、海岸から二〇キロメートル近く離れた鈍川村(現越智郡玉川町)御子ノ森に移転することとし、藩主自ら場所の選定に奔走した(資近上三-47)が、この移転計画は結局中止となった。

 朝幕関係と今治藩

 『今治拾遺』によれば、文久三年(一八六三)八月、今治藩では重臣鈴木永弼と久松長世をそれぞれ松山・京都へ派遣して内外情勢に関する情報収集に従事させた(資近上三-48)。翌九月定法は自ら朝幕関係掌握のため上洛した。『今治拾遺』によれば、

 勝吉公(定法)公武之間深く御心配のため、御上京、天機御伺の上御出府、国事御周旋の思召にて九月三日今治御乗船、九月一二日着京、一三日天機を奉伺し議奏、並に京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬、老中酒井忠績を廻勤す、
 一五日藩主参内し初て、孝明天皇に拝謁し、天杯を頂戴、
 九月一六日、藩主禁中御番の仰せを蒙られる、京に留まって宮闕を衛る、
 九月二六日、滞京中御守護勤仕深く、御満足に思召され、今度御暇を賜候間早々出府、鎖港之儀周旋候様仰出され候、

と、定法が京都において、まず在京中の幕府の重臣たちに面接し、日を改めて孝明天皇に拝謁して天杯を頂戴したこと、また滞京して宮城を守れとの命を受けて、一〇日余り守護を勤め、その後直ちに江戸に出て、目下問題となっている開港場を閉ざして外国人に退去を命じている件につき、周旋するよう命じられた次第を記している。三万五、〇〇〇石の小大名にとって、身に余る信頼であったといえよう。定法が尊王思想を堅持して公武合体論者となり、他面攘夷論にも理解を深めていたことが推察できよう。ただ鎖港問題の周旋については、活動の場が与えられなかったのか、一〇月一六日に江戸に着いた定法が活躍したという記録はない。定法が心底から語り得る血縁の松平容保・松平定敬・酒井忠績が京都で在勤中であったことも、定法が周旋の好機を得られなかったことと無関係ではあるまい。

 長州征伐

 文久三年(一八六三)八月一八日、京都における尊攘派勢力が一掃されるという事件がおこった。この事件は、同年五月一〇日をもって鎖港攘夷を実行する旨を宣言せねばならぬ状態に追い込まれた幕府と、攘夷討幕をも主張する三条実美ら朝廷の尊攘急進派の公卿および長州など諸藩の急進派との対立は、日を追って激化したので、両者の間を調停しようとしていた公武合体論者の諸侯(越前の松平慶永・会津若松の松平容保・桑名の松平定敬・薩摩の島津久光・土佐の山内豊信・宇和島の伊達宗城)は、密かに中川宮朝彦親王・近衛忠煕・忠房ら公武合体派の公卿と結んで朝議を一変させ過激な攘夷は天皇の意志ではないことを強調した。このため、長州藩兵は宮門警備の任を解かれ、三条実美ら七人の急進派公卿も長州へ逃走した(七卿落)。
 元治元年(一八六四)長州藩では、朝譴免除を求めるため、福原越後をはじめとする三家老に率いられて上京した藩兵が、京都蛤御門付近で阻止しようとする薩摩・会津連合軍と戦って敗北した。幕府は、蛤御門の変(禁門の変)を口実に長州藩を懲罰すべく、朝廷より長州追討の勅令を得て、八月六日長州征伐を布告した。第一回長州征伐である。
 長州征伐に動員された藩は三六に及び、総督には御三家の一つ尾張大納言徳川慶勝を起用するという、幕府にとって、大坂の陣以来の大動員であった。四国より出征する部隊の一番手には松山藩があった(周防国徳山を攻略して山口へ進撃する指令を受けた)。今治藩は二番手に属し、讃岐国高松藩(藩主松平頼聰)や宇和島藩(藩主伊達宗徳)の応援隊となり、徳山攻撃が任務であった。藩士定法は手兵を二隊に分け、一一月一〇日には一番手(兵二五六、船手二〇九、船二〇艘)、翌一一日には二番手(兵三七四、船手三七六、船三三艘)の順で出発させた。定法は二番手を率い、大洲藩預かり地である風早郡忽那島粟井村(現中島町粟井)に出陣・待機した。
 この間、四国艦隊(英・仏・米・蘭)に下関を攻撃され敗北した長州藩では、保守派が急進派をおさえて、幕府に謝罪を申し出た。征長総督徳川慶勝はこれを受け入れて、諸藩に撤兵を命じ第一次長州征伐は終わった。

 長州再征

 幕府に屈伏した長州藩では、急進派にも変化が起こっていた。すなわち、攘夷の不可能であることを悟った桂小五郎・高杉晋作らは、列強に対抗し得る新政権樹立を考えるようになっていた。保守派の追求を逃れて福岡に潜んでいた高杉晋作は、慶応元年(一八六五)伊藤俊輔らの支援を得て挙兵し、保守派を圧倒することに成功した。その結果長州は「武備恭順」を藩是とし、幕府との再戦も辞さない構えを見せた。
 驚いた幕府は、長州藩主父子を江戸に召喚したが拒否されたので、慶応元年(一八六五)四月諸藩に対し長州再征を発令し、将軍家茂は、同二年五月江戸を発って大坂城に入った。
 家茂は出発に際し、中国・四国・九州の諸藩に、あらかじめ長州再征の準備を命じた。ところが前回とは異なり、長州征伐に疑問を持つ藩もあって幕府側の足並みは揃わなかった。ともあれ、慶応二年九月には勅許を仰いでいよいよ再征を実施することとなり、一一月初めには紀州藩主徳川茂承を総督に、老中松平宗秀(丹後宮津藩主)・若年寄松平高富(丹後峯山藩主)を追討取締役に任命した。松平高富は四国松山に派遣されたが、この時今治には軍目付として金田三左衛門が来た。今治藩の任務は周防国上ノ関に出て征討軍を応援することである旨を伝えた。
 一方長州藩側では、それまで敵対関係にあった薩摩藩との間に、慶応二年(一八六六)一月薩長同盟の密約が成立していたこと、それに伴ってイギリスからの武器導入が図られ、奇兵隊(武士・足軽のほか百姓・町人の有志によって組織され、藩の正規軍に対してこのように呼ばれた)の戦力も充実していた。
 今治藩でも、各地に出している隠密や軍使からの情報によって、情勢はほぼ掌握しており、初めから戦いが長期に亘るとの見通しを立てた。そこで出兵は慎重に、兵員も少数ずつ、幾手にも分けて出陣させ、かつ交替を早目に行うことなどを定め、慶応二年六月一一日、一番手として家老服部正弘の部隊(兵員二五六、船手人数一九一、船二四艘)を出発させた。
 服部隊は今治港を出発して隣接する大浜村の沖で碇泊、翌日波止浜の港(野間郡波止浜。松山藩領)に入り、次の日には安芸国御手洗に至り、その翌日には隣の大長村(大崎島)沖に碇泊した。
 その後の行動を見ると、六月二七日には、半隊を交替して休養させている。戦意に乏しく停戦待ちとも見られる状況であった。隣藩である松山藩が孤立無援に近い状況で奮戦していたのとは大きな相違であった(第二章第一節参照)。
 そのうち今治藩では、七月末に大坂城に滞在していた将軍家茂が病気のため急死したとの風聞を得た。八月二〇日その報は事実であると公表され、これに伴い第二次長州征伐も勅命によって停止され、将軍職は一橋慶喜が継いだ。松山に駐在して督軍に当たっていた松平高富、今治に来ていた軍目付の金田三左衛門も引きあげ、出征していた今治藩兵も帰還した。一二月二五日孝明天皇は痘瘡が平癒せず崩御した(毒殺説もある)。こうした情勢の中で長州再征の軍は解かれ、幕府の権威はまったく失墜した。

表二-24 今治藩の海岸防備体制

表二-24 今治藩の海岸防備体制


図2-19 来島海峡付近(国土地理院5万分の1地形図、今治西部を使用)

図2-19 来島海峡付近(国土地理院5万分の1地形図、今治西部を使用)


図2-20 長州征伐関係図

図2-20 長州征伐関係図