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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一四 明治維新と藩の苦悩

 松平定昭の老中就任

 慶応三年(一八六九)九月定昭は上京して、老中板倉勝静に対し養父勝成の隠退と彼の家督相続の願書を提出した。同月二〇日願書の通り藩主交替が許可された。
 このころ、幕府の威力は失墜し、すでに薩・長・士などの雄藩の藩主たちの間では、討幕の密計がめぐらされ、大政奉還の画策さえ進められる有り様であった。いっぽう幕府側の重鎮であった会津藩主松平容保(京都守護職)と、桑名藩主松平定敬(京都所司代)らは協議の結果、九月二三日松平定昭を老中職に任命してこの難局を打開しようとした。前述のように、定昭は津藩主藤堂高猷の四男であって、剛邁で名を知られていたから、幕府の期待は大きかったに相違ない。
 薩・長両藩の連合によって、王政復古を実現しようとする意見は、公武有志の間に一致を見たので、一〇月一四日に討幕の密勅が薩・長両藩に下ることになった。これよりさき、土佐前藩主山内豊信(容堂)は時勢の切迫しているのを憂慮し、その臣後藤象二郎を派遣して、豊信の名によって徳川慶喜に大政奉還を急ぐ必要のあることを進言した。慶喜は豊信の意見に従い、一〇月一四日に上表して朝廷に政権の返還を申し出た。あたかも、薩・長両藩に討幕の密勅の下ったのと同日であった。翌日朝廷ではこれを聴許し、幕府はここに終末を告げた(将軍職辞退は一〇月二四日である)。
 松平定昭が老中職に就任したのは、このような多事多難な時期に当たっていたから、松山藩内では定昭の老中在職を喜ばない者が多く、重臣たちはその職を離れるようにとすすめた。定昭が辞職したのは、一〇月一九日のことであったから彼の在任はわずかに一か月足らずであった。そのため、松山藩は親藩でありながら、徳川氏をはじめとして、会津・桑名などの佐幕派諸藩から疎んじられる結果となった。朝廷では、一二月九日に王政復古の大号令を発して、革新政治の第一歩を踏み出し、ここに明治維新が将来された。

 戊辰の役と松山藩

 中央の政局では、三条実美・岩倉具視らの朝臣および薩摩・長州の両藩士らが、徳川氏の勢力を打破して封建体制を一新しようと期待していたから、かえって慶喜の大政奉還を喜ばなかった。会津・桑名の二藩士は、薩・長両藩士の行動を憤慨していたので、両者の対立はますます深くなった。江戸における旧幕臣と薩摩藩士との衝突事件は、西下していた慶喜および会・桑両藩士に報告された。激怒した会・桑の両藩士は、慶応四年(一八六八)一月に慶喜を擁し、薩摩藩を討ち君側の奸を除くと称して、伏見・鳥羽の二道から入京しようとした。そこで京都を守っていた薩・長二藩士との間に戦闘がおこり、ここに戊辰の役の戦端が開かれた。
 この時、松山藩は幕命によって摂津国梅田村近辺の警衛に当たっていたが、会・桑両藩は松山藩主の老中辞任を不快として疎外する傾向にあった。したがって、松山藩は鳥羽・伏見の戦いにも参加せず、会・桑両藩の敗北したのを聞き、定昭は慶喜のあとを追って堺に赴いた。しかし慶喜は朝敵となったのを悔い、すでに海路によって江戸に脱出していた。そこで松山藩士の間では、今後の措置について、江戸に赴き徳川氏と運命を共にしようと主張するものと、あるいは帰国して対策を審議しようとするものとがあった。定昭は藩士を率いて帰国する決意をし、まずこの間の経過と他意のない旨を報告した。
 帰国を決意した定昭が堺を出発して、伊予国和気郡高浜に帰着したのは、一月一〇日であり、鳥羽・伏見の戦いが開始されてからわずかに一週間を経過したばかりであった。
 これよりさき、朝廷では慶喜およびこれに随従した諸藩に対し追討の令が発せられた。その諸藩のなかに松山藩があったことはいうまでもなく、定昭は朝敵の汚名をうけた。すでに前藩主勝成および定昭父子は、嘆願書を朝廷に提出して、鳥羽・伏見の戦いののち帰国した事情を陳述し、全く異心のないことを誓った(御届書)。
 しかし、藩士の間では、今後の動静について論争が行われた。恭順論者は、鳥羽・伏見の戦いにおける家老の措置が悪かったことを非難し、責任者を処分して朝廷に謝罪すべきであると主張した。これに対して、主戦論者は松山藩が徳川氏の姻戚になる関係からも、慶喜を不利に陥れようとする薩・長二藩に徹底的に抵抗すべきであると論じた。前者のなかには門閥家が多く、勝成を奉じようとし、後者には近侍の戸塚徹也らのように、定昭をいただいて事をあげようとするものが多かった。
 この松山藩の危機に臨み、定昭は恭順論者の藤野正啓の勧めによって、崎門学派の三上是庵を招いて、藩の善後策について諮問することになった。是庵は名を景雄といい、かつて松山藩士であったが、江戸に遊学して崎門学に精通し、綾部藩あるいは田辺藩に招聘され、幕末の動乱期の王政復古運動にも参加した人物であった。戸塚徹也は定昭の命によって、是庵を畑寺村の寓居に訪ねて、三ノ丸へ出仕するよう懇請した。
 是庵は慶応四年(一八六八)一月二二日入城して、定昭を中心に家老竹内九郎兵衛および近侍の大原有恒(観山)・戸塚徹也・藤野正啓らの密議に参加した。是庵の持論は、尊王精神に基づく恭順主義であったから、松山藩としては一五万石の封土を朝廷に返納し、真情を披瀝して陳謝すべきであるという結論であった。この具体的な方法としては、速やかに居城を出て常信寺に退去し、ひたすら謹慎の意を表するのが適切であると献策した。正啓も是庵の説に賛成したので、定昭はその議を採用して実行に移すことになった。

 土佐藩の松山占領

 このころ、朝廷側にあった諸藩の中で、土佐藩は比較的旧幕府に同情を寄せていたので、薩・長両藩のような過激な討幕論を唱えていなかった。山内豊信が慶喜に大政奉還をすすめ、また彼を新政に参与させる構想を抱いたのも当然であった。そこで豊信は家臣の金子平十郎・小笠原唯八らを問罪使として松山に派遣し、勅旨を伝えて恭順の誠意を示すように諭した(池内家記)。この土佐よりの使者が到着したのは一月二二日であり、三上是庵招致と同時期であった。
 定昭および勝成(前藩主)は、土佐藩の使節に対し、朝命に違反し王命に敵対する心底のない旨を伝えるとともに、さきの是庵の意見に従い、居城を出て常信寺に入って謹慎した。さらに定昭は政庁を藩校の明教館に移し、家臣に対し恭順の態度を失わないように訓示した。土佐藩は引き続いて藩兵を松山城下に入れ、同年二八日に松山城郭を受領してその保護に当たった。この時、土佐藩士は立花橋と城の東門付近で一斉射撃をして、城下の人たちを威圧した。
 その後間もなく、長州藩も松山に来着したが、すでに土佐藩が領内の要所を占領していたので、手を出すことができなかった。松山藩と長州藩とはさきの長州征伐で干戈を交えていたから、その間の感情は平静でなかったとも考えられる。隣藩の土佐藩が朝命によって、長州藩よりさきに松山地域を軍事占領したことは、松山藩にとって幸福であったといわなければならない。
 慶応四年(一八六八)二月一日、長州藩の隊長杉孫七郎は常信寺に来て、勝成・定昭父子の謹慎の実情を調査することになった。是庵は両者の警備に身をもって当たったが、幸いこの間に何の事件も起こらなかった。孫七郎の報告によって、藩主父子の謹慎の誠意は当局の認めるところとなった。しかし松山藩士のなかには、なおも会・桑両藩士と行動を共にし、長州藩に一矢をむくいようとするものがあり、定昭を奉じて事を起こそうと企てた。是庵は勝成・定昭に勧めて父子同室で謹慎させ、両者の融和を図ることを忘れなかった(三上是庵史料)。
 この時、宇和島藩では家老桜田出雲が兵を率いて郡中(現伊予市)に陣し、立花口・三津浜を守衛したばかりでなく、同藩士のなかには松山藩の動揺を探るために、商工業者に変装して松山に潜入するものもあった。もし松山藩でその処置を誤ったならば、藩の存亡を予知することができなかった。これらの点から考えると、この際の松山藩救済に尽くした是庵の功績は偉大であったといってよいであろう。彼は王政復古論から出発した政権返上策を、立場をかえて松山藩に実行させたこととなった。

 勝成の藩主再任

 やがて、当面の責任者であった定昭は蟄居の身となり、前藩主勝成が再勤の命を受けて、かわって藩主となった(復古記)。この時松山藩は新政府から、軍備一五万両の上納を命じられた。東北への出兵に備えての軍資金に充当しようとしたのである。ほどなく勝成は入京したが、その際従来の松平姓を旧姓の久松氏に復するようにとの指令を受けた。
 明治元年(一八六八)一一月二二日、藩政改革があり藩治職制が発表された。それによると官庁は、執政局・会計局・文武幷軍務局・刑法局・広聞所・内制所に分かれていた。ところが翌二年二月五日再び改革があり、為政局・総教局・会計局・軍務局・広聞所・内家局・公議局に編成替えされた。

           (図表「藩治職制」)

一等 千石 執政
二等 五百石 参政
三等 三百石
    上士の上
同  二百五十石 総教主事 会計主事 軍務主事
    上士の中 広聞主事 内家主事
同  二百石   市政管事  総教副主事 漢学司教  会計副主事 軍務副主事
    上士の下 操練副主事 広聞副主事 内家副主事 公用人   大坂留守居
四等 百六十石  監察   三津市政管事 出納管事 三津会計管事
    中士の上 郡政管事 近侍
同  百四十石  総教判事 漢学副司教 馭術師役 剣術師役 船艦管事
    中士の中 営繕管事 軍務判事  兵器方  輜重方  築造方  広聞判事 主匕侍医  内房簡事     
同  百二十石  書記   皇学司教 洋学司教 医学司教 水練師役
    中士の下 操練教頭 侍医   内監   監繕
五等 百石    漢学助教兼服忌 郡政試補  閑厩管事
    下士の上 侍衛      軍務加判事
同  七十俵   副書記   総教加判事 営膳副管事
    下士の中 広聞加判事
同  六十俵   司計 内衛
    下士の下

                    (図表「藩治職制(2)」)

外官等級

一等 千石 大隊長
       太夫
二等 五百石 半大隊長
        准太夫
三等 三百石   干城隊長
    上士の上 
同  二百五十石 砲隊長
    上士の中 寄合組頭
同  二百石   折衝隊長
    上士の下 寄合頭
四等 百六十石  准士長  上得士長 徒士長
    中士の上 准徒士長
同  百四十石  上卒長 練卒長
    中士の中 撰卒長
同  百二十石  干城隊次長
    中士の下 折衝隊次長
五等 百石    准士次長 徒士次長 練卒次長
    下士の上 撰卒次長 単砲司令 干城隊
同  七十俵   番医
    下士の中
同  六十俵   中間頭 東野中間頭 折衝隊    `
    下士の下 寄合士 医家    給事長   (六等~九等  略)


 その後、定昭は松山郊外の東野にある吟松庵で謹慎を続けていたが、明治二年(一八六九)三月に蟄居を解除された(御家記)。

 版籍奉還の経過

 明治新政府の中心となった薩・長両藩と、徳川慶喜との衝突によって開かれた戊辰の役は、慶喜を追討するために、江戸に進撃することとなった。江戸城総攻撃がはじまる前日、すなわち慶応四年(一八六八)三月一四日、新政府は五か条の御誓文を公にし、公議世論の尊重と開国和親などの基本方針を明示した。
 これに基づいて、同年閏四月に政体書が発布され、三権分立の近代的政治組織が取り入れられた。すなわち中央に太政官(行政)・刑法官(司法)・議政官(立法)などが設置された。地方では旧幕領のうち、京都・大坂・江戸(のち東京)などを府とし、その他の地域に県を置き、諸侯の統治している藩はそのまま存続した。この当時全国は八府・二一県・二六三藩に分けられていた。九月になって元号は明治に、江戸は東京と改められた。
 これらの革新政策の遂行されるなかで、新政府はいろいろの困難な問題に悩まされた。政府は中央集権を目標としながら、その直轄地は旧幕領ばかりであって、諸藩には江戸時代そのままの諸大名が割拠していたから、統一の実はあがらず、威令も全国に及ばない有り様であった。また当時の社会混乱による世相の不安と、物価騰貴に起因する百姓一揆が頻発したこと、諸藩の財政が戊辰の役から凱旋した軍兵を養うことを許さなかったこと、新政府の租税収入が直轄地(旧幕領)のみに依存しているためにあまりに僅少であったことなども、新政府に危機をもたらした。
 そこで長州藩の木戸孝允、薩摩藩の大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、肥前藩の副島種臣らは、それぞれの藩主に説いた結果、明治二年二月に前記の四藩主は連名で版籍(土地と人民)を朝廷に返還することを申し出た。諸藩のうち、これにならう藩が続出したので、政府は版籍奉還を許すとともに、奉還を申し出なかった藩に対して返納を命じた。
 松山藩では、藩主勝成が前記の四藩主の版籍奉還に追随した。すなわち勝成は二月八日、大政が一新され、制度万般も統一される時勢にあって、王土を私すべきではない、という旨の請願書を政府に提出した。政府はこれを許容して、新たに松山藩か置かれ、勝成が一地方官としての藩知事に任命された(御家記)。
 翌三年三月末に、政府の藩政改革の指示により、執政・参政の職にかわって、大参事・権大参事・少参事・権少参事以下の官吏が任命され、藩の機構には藩庁・学校・民政局・会計局・兵政局・刑法局・外官・家政寮などが設けられた。さらに九月二六日に大改革が断行され、藩政局・民政局・会計司・市政司・刑法司・広聞所・学校・兵政局・公務方・家政寮などが置かれた。藩士に対しては、士族ならびに卒の常務を解いて一般と非職とに区分し、さらに卒二、四二八人を解放し、明治四年から五か年の間、一人扶持あるいは一人半扶持を支給して、農商の業に従事させることにした。
 明治三年閏一〇月二五日、三ノ丸が焼失したので、藩庁を二ノ丸に移した。翌四年一月一四日に勝成が隠退して、定昭があらためて松山藩知事に任命された。版籍奉還後の政治は、旧来の藩主を藩知事にしておくことで遂行された。従って、藩知事の領地における支配は従来とほとんど変化がなく、実質的には各藩ごとに独立した政治が行われ、また藩内の主従関係は封建時代のままであったから、中央集権の実はあがらなかった。
 木戸孝允は新政の方針を貫徹するために、廃藩置県を断行しなければならないと考えた。そこで大久保利通・西郷隆盛らに説いた結果、彼らはまず自藩の旧藩主(藩知事)を説得して、その同意を得た。ここに政府は七月に至り、全国の藩知事に対して廃藩を断行するとともに、藩知事を罷免して東京に移した。これにかわって中央政府から府知事・県令が任命されて、全国に画一しか施政が行われることになった。

図表 「藩治職制」

図表 「藩治職制」


図表 「藩治職制(2)」

図表 「藩治職制(2)」