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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

一一 松平定通の藩政改革

 定通の治世

 松平定通は、松平定国(九代藩主)の五男として、文化元年(一八〇四)一二月九日に江戸愛宕下の上屋敷に生まれ、叔父の松平定信から保丸の名を与えられた。同六年勝丸、さらに三郎四郎と改名した。文化六年七月四日、定則が逝去したので、彼はそのあとを受けてわずか六歳(幕府には一三歳と報告)で一一代藩主に就任した。定通は定信の撫育と指導を受けることが多かった。彼の藩政改革が、寛政の大改革に通ずる点があるのは当然であろう。
 定通の治世は凶荒の多い時期であったが、その他の藩政上の事件をたどると、文化一一年一〇月二八日に、先年上地した越智・桑村両郡の一万石の天領を預かることになった(資近上二-12)。文政元年(一八一八)八月七日には、家老奥平藤五郎昌凞が大坂における藩の借財について不始末をしたので、免職・閉居となり、ひいては大名分の竹内信均と同役の遠山景寛ら七人が遠慮を命じられる事件があった(本藩譜)。同二年八月末に、幕府から日光の霊屋の向拝および諸堂宇の改修を命じられ、予想外の財政上の支出があった(増田家記)。
 文政三年(一八二〇)浮穴郡久万町村で一五五軒が焼失し、久万町村・野尻村の重要書類・旧記類を喪失した。同五年、従来は毎年宗門改めのために宗門奉行が郷村を回っていたのを取りやめ、三年ごとの大改めの時のみ回郷することにした(増田家記)。これより先、松山領浮穴郡大味川村と隣接する西条・小松両藩との間に、面河山の境界について論争が起こり、山奉行矢部孫太郎が出府して、その経過を陳述した。その結果、文政五年一〇月一四日に公領代官吉川栄左衛門が実地検分のために西条領氷見村まで派遣されたので、藩庁は奉行山田四郎兵衛を同所へ赴かせて協議した。やがてこの紛争は従前の規定通り遵守することとなって解決した。
 文政九年(一八二六)三月七日から、用米奉行を闕役とし、登米奉行の兼役とした。また郷普請奉行をやめて山奉行の兼役として行政面の合理化をはかった(本藩譜)。
 前述の通り、定通は年六歳で就封したので、施政の評価は補佐役の優劣によって定まる。幸い河村正維・梶原景毅(「残香録」の著者で、定通の事績を記述した)・服部正弼(家老長沼伯政の弟)ら優秀な人物が側近に侍していた。定通が成長してからは、杉山惟修(熊台)・鈴木良翰(栗里)・日下梁(陶渓)・高橋忠董(松斎『閑圃耕筆』の著者)らの俊秀の学者が、その後援者として補佐に努めた。
 定通の治世は、文化・文政時代の江戸文化の爛熟期を経過して、天保年間の初期に及ぶ二七年間であり、松山藩ではこの間を爽粛院時代と呼んでいる。すでにこの当時、封建制度の動揺も甚だしくなり、その矛盾が表面に現れ、藩政は全く行き詰まりの状況であった。この難局を打開するために、彼の手によって藩政改革が断行されることになったのも当然の帰結であろう。

 凶荒の連続

 定通の改革事業の一素因となったのは、凶荒が続発したことである。松山藩では、一万石以上の損毛があった場合には幕府に報告書を提出したが、定通の時代における凶荒は次頁の表の通りである。表のうち文政六年から同一一年にかけての被害が特に大きい事が注目されよう。
 文政六年は、五月から旱魃のために稲の植え付けのできない所が多く、城下町橘社・味酒社をはじめ道後湯・伊佐爾波の両社および温泉郡藤野々村の天一神社で、大規模な雨乞いの祈禱が行われ、定通自身もこれに臨席するほどの関心事となった。この年は定通時代最大の凶作であった。
 文政八年六月三日、松山付近は大雨のため、石手川をはじめ諸河川が氾濫して、伊予郡市坪村あたりまで押し流され、その下の石手・重信の両河川の合流点である出合付近は全く海のような様相を呈した。そのため河川に沿う農村では、未曽有の被害を受け、田畑のうち冠水・砂入りのもの二、五四九町歩余、倒壊・半壊の農家三一六軒、堤防の決壊六九四か所、井関などの流損八、〇七六か所、山肌の崩壊一、〇二四か所に及んだ。翌九年五月二一日の洪水では、石手川へ農家が押し流され、出合では去年の堤防決壊よりもその個所が一〇〇間も拡大し、遍路橋も流失した。
 定通の治世二七年間のうちで、一万石以上の損毛は一四回に達しており、一万石以上の損毛の連続することが八回もあったから、農村の疲弊の甚だしかったことが明らかであろう。

 倹約令と家中救済

 このように、凶荒の連続によって、藩の財政は困難となり、家中に対しやむを得ず借上を強行して、難局を切り抜けなければならなかった。その方法としては、いずれの藩にも見られるように、支出を極端に抑える倹約の励行であった。定通の藩政改革の第一にあげられるのは、倹約の厳行であったが、同時に彼がとりあげる必要があったのは、経済的に困窮していた家中の救済策であった。
 すでに家中の内部における経済的な行き詰まりは、藩庁によって援助しなければならない段階にあった。倹約の励行と家中の救済は、一見すれば矛盾した施策のように観察されるが、これらを同時に施行したところに時代的な特色が存在する。
 次に、倹約と家中の救済がどのように施行されたかを調べてみよう。定通が襲封した文化六年(一八〇九)一二月九日に、家中の難渋を救済する目的で、知行高一〇〇石につき銭札三〇〇目を支給し、切米取にもその格式に応じて救済措置を講じた(資近上二-91)。同年一二月一二日、家臣に対する連年の減俸による生活困窮を救済する意味で、大小姓以上のものにも木綿の上着、麻の裃、小倉袴を着用するよう布令し、藩士の負担軽減を図ろうとした(資近上二-92)。この年は凶作であったため、文化七年二月五日家中救済の財源として、囲米三、七五〇石(寛政元年=一七八九に高一万石について五〇石の貯えが命じられていた。寛政元年以後五年間の積立分が三、七五〇石であった)を一般会計に回し、以後三か年で詰め戻すということで幕府の許可を得ることができた。
 文化七年は、幸い農作が順調であったので、家中に対し六割渡しを行い、翌八年も作柄が順調であったため、一一月一五日に知行・扶助・切米取を問わず、別に一割を支給することができた。文化九年四月一五日には、七月より七割渡しとする旨を明らかにし、また同年一二月九日には、知行一〇〇石につき二〇〇目の割合で別途に支給して家中の家計を潤すようにした。さらに翌文化一〇年一一月二五日には、一〇〇石について銭札二貫目を貸与し(利子六歩、二〇年賦返済)、勘定所から借用した年賦銀、大賄所・江戸蔵奉行から借用した金のうち、未返却の分をすべて帳消しにした(資近上二-93)。
 ところが、文化一一年・一三年・一四年と不作が連続し、文政二年(一八一九)には、家中への俸禄支給を五割渡しにせざるを得なかった。翌三年九月一九日、一〇〇石について米五俵の割合で貸し付けが行われ、同年一〇月一一日には一〇〇石について二五〇目の割合で、別途に給与された。同六年四月二八日に、来る七月から一か年間七割渡しに復活する旨布達された(増田家記)。
 しかし、その喜びも束の間であった。文政六年(一八二三)五月ころから旱魃のため植え付けのできない所が多く、未曽有の凶作となることが予想されたので、藩庁では九月一二日に難局を切り抜ける目的で一一月から人数扶持を強行しなげればならない旨を明らかにした(資近上二-102)。同年の損毛局が一一万六、二五八石余に上ったため、翌七年四月九日になって、人数扶持を来年六月まで続行することを布達した。いっぽう藩士の救済策として文政七年六月一五日に来る一二月の渡し米のうちで、一〇〇石について米三俵の前借りを認め、一二月になって、これを返却不要とした。藩士の給与削減は限界に達していたため、藩庁は収入源を庶民に求めることとなった。文政七年閏八月郡方へ米一万五、〇〇〇俵、城下町ヘ一、二〇〇貫目、三津町方へ五〇〇貫目の献納目標が示され、多額の御用銀米を供出した豪農・豪商には、苗字・帯刀を許可するに至った(増田家記)。
 文政八年、同九年には、石手川の氾濫による被害が大きく、家中への俸禄は五割渡しであった。藩庁では文政九年一二月二八日、家中に対し一〇〇石につき銭札二〇〇目の割合で給与することとした。
 こうした財政難の中で、文政一〇年八月一〇日、定通は家中の諸頭二〇〇人を大書院に集め、最近は文武両道とも衰退し、家中の風儀も遊惰に流れ、人道に背く行動が眼につくから、これらを是正するため、文武の稽古場を一緒にして修行しやすくすると説諭した(資近上二-137)。定通の目的としたところは、風紀の粛正を厳行することと、藩校の整備であった。
 文政一〇年・同一一年と不作が続いたが、既に藩士の困窮も限界に達していたので、同一一年一一月一九日に、家中に対する俸禄を六割渡しとし、月渡し米は従来の通りとし、年末の渡し米の際に一〇〇石につき一〇俵を加算して支給することにした。その後は不作も峠を越し、倹約年が明けたこともあって、翌一二年五月一五日に七月よりの七割渡しと、一〇〇石につき銭札一貫目を貸し付ける旨を通達した。
 定通の倹約令は、藩の諸雑費、神社・仏閣の初穂料・祈禱料のような微細な点にまで及んだ。彼自身も常に太織類の麁服を、夏は木綿の単衣を用い、食膳は一汁一菜として衆に模範を示した。また上方商人からの高利の借財を松山城下の町人たちに肩替わりをさせ(定通公時代公文集)、藩財政の負担の軽減を図らせた。そのうえ、町人・豪農層にたびたび御用銀米の上納を強制して(御触状控帳一)、ようやく財政上の破綻を切り抜けることができた。

 殖産興業の奨励

 次に定通の事績として注目されるのは、殖産興業に留意したことである。まずはじめに、菊屋新助(一七七三~一八三五)による伊予結城の改良をあげなければならない。新助は野間郡小部村(現波方町)の人であったが、松山松前町に移り、店舗をかまえて、綿織物の製造に従事していた。彼は、それまで伊予結城の製作に、不完全な地機が使用されているのを見て、その改良を決意した。
 彼は京都の西陣から絹織に用いられている花機を取り寄せ、これを木綿織用に改造して高機と呼ぶ織機をつくった。この新しい機に織られた伊予結城は、良質のものとなり、一般に好評を得たので、彼は高木屋藤吉と図って、資金を集めて結城の機業化を進めた。さらに彼は中国・京坂・尾張および九州に出かけ、販路の拡大に努めた(賈人新助墓表―松山市木屋町円福寺境内)。その結果、伊予結城の名は全国に知られるようになった。定通は国産奨励の立場から、新助らに保護金を貸与して、その事業を援助した。
 さらに注目しなければならないのは、鍵谷カナ(一七八二~一八六四)によって伊予絣が織られるようになったことである。カナは温泉郡垣生村(現松山市)に生まれ、常に紡織に心を寄せていたが、藁屋根の煤竹に縄目の跡があるのにヒントを得て、享和年中(一八〇一~一八〇四)に絣を織る考案をすすめたといわれる。やがて彼女は、新助の改良した高機を使用して、ついに立派な絣を織り出すことに成功した(鍵谷カナ碑文―長楽寺境内)。カナの創案した絣は、最初その地名によって今出絣と呼ばれたが、普及するに従って伊予絣としてもてはやされ、やがて伊予結城にかわって国産として重要視されるに至った。

 社倉法の実施

 次に定通の事績としてあげられるのは、備荒貯蓄を実施するために、社倉法を制定したことであった。社倉は多人数のものが、身分相応に穀物を拠出して、その居村のうちに貯えて凶荒に備えるものであり、あるいは米穀を貸与して利殖を図る融通機関ともなった。松山藩における社倉法は文政一二年(一八二九)の春に、町奉行井上団右衛門・林造酒之丞らが統率し、諸改として久枝市左衛門・高木覚兵衛ら、大年寄として河内屋源五兵衛・八蔵屋弥市左衛門・廉屋与惣左衛門・茶屋五郎造・黒田与惣兵衛・讃岐屋勘右衛門ら、社倉取約役大組頭として綿屋重左衛門、用掛宮崎屋善次郎、同取約方として升屋七右衛門、肝煎として米屋新十郎、社倉向引受として秋山八十九・永井善六らが任命された(社倉記)。
 その時の町方への触文によると、一戸ごとに一日一文ずつ拠金させて官庫に納め、不時の凶荒に備えさせた。これらの人々の協力によって、文政一二年から天保三年(一八三二)までの四年間に積立金五五四両を貯えることができた(社倉箱銘)。

 明教館の創設

 松山藩における藩学の歴史を眺めると、すでに前代の定則時代の文化二年(一八〇五)に、松山二番町横町に興徳館が設けられ、杉山熊台(蘐園学)についで鈴木栗里らを教授として、藩士の指導に当たらせた。また同六年に江戸愛宕下の藩邸に学校を設けて、江戸詰の武士の教養の向上に努め、これを松平定信の命名によって三省館と称した。
 定通は、文政一一年二月に、これらの施設を拡充して、松山二番町に明教館を創設して、ここに本格的な藩学が誕生した。明教館設立の目的が文武両道を振興することによって、弛緩した藩の気風を刷新し、綱紀を粛正することにあったことはいうまでもない。定通が早くからこの構想を持っていたことは、その前年八月に藩士頭分二〇〇余人を大書院に集め、自ら士風の昂揚の方針を諭示したことでも明らかであろう。
 定通は時勢を論評して、近年は文武の道も衰え、家中の風儀も自ら遊惰に流れ、上下とも礼譲に薄く、夫々の職分も怠っている、大変嘆かわしいことである。元来治国の基は、人倫の道に厚く、四民業に安んじなければならないのに、近頃は別して人道に背く行動が目立ち、誠に慨嘆に耐えない。現在は厳しく倹約を励行し、冗費を省いている時期ではあるが、風儀の乱れにはかえがたいので、まず文武の稽古場を一か所に集めて、修行し易いように施設を作るはずであるから、藩士たるもの文武の道を励み、頭役の者はつとめて出勤し、士風が立派に立ち直るよう指導されたいと述べた(資近上二-137)。

 明教館の教科

 明教館の敷地はおよそ二、五〇〇坪あり、南半分に学問所、北半分に武技の稽古場を設けた。西南部にある講堂は五四坪(畳一〇八枚敷)であり、ここでは主として漢学が講じられたが、時期によって皇学・算術の二科が加えられることもあった。稽古場には弓術・剣術・槍術・銃術・兵学などの各道場があって、各流の弓馬・槍剣・柔術などの訓練がなされた。明教館建設の監督に当たったのは、家老の服部正弼であった。
 漢学における教科課程を、小学と大学とに大別した。小学は一等から五等まであり、一等には論語、二等には孟子、三等には大学・中庸、四等には詩経、五等には易経・春秋・礼記などを課した。大学には六等・七等の二階級かあり、六等には四書の講釈、七等には五経の講釈を課した。藩士に対しては入学を強制しなかったけれども、五か年の間一日も文武場へ出頭しない場合には、処罰されてその位階を落とすことになっていた。
 次に明教館における課業は、表講釈と内講釈との三種に分かれ、表講釈は毎月二、七の日に教授あるいは助教授が大学・論語を講じた。藩士は出席して聴講し、藩主も在国の時は出席することとなっていた。内講釈では、毎月四、九の日に、就学生徒のために五経を講釈する定めとなっていた。このほか、毎月三の日に教授・助教授らが出席して論語を輪講し、四、九の日の夜には小学・左伝を会講した。これは寄宿生のために設けたもので、通学生は出席自由となっていた。
 藩士たちに示された告諭を見ると、学問に志す者は南門から、武術に従うものは西門から出入りすること、その内にある中門の内部は道場と心得て、家来を連れている場合は一人に限ること、明教館に入る時は必ず袴を着用すること、武芸・兵学については一五歳以上のものが入門すること、これまでに武芸に心得ある者は専ら学問に努力すること、今まで藩庁で行っていた月例講釈は、これから後は明教館の講堂ですること、聴講の場合は一度学開所に集まり板木を合図に講堂に入場すること、開講の節に病気不参の場合は、そのたびに同列同役に依頼して、書き付けを目付か歩行目付に提出することが規定されていた(資近上二-138)。

 明教館の開講

 文政一一年(一八二八)二月三日に明教館の開講式が定通の臨席のもとに、講堂に置かれた聖像の前で挙行され、教授の高橋復斎(善次、一七八八~一八三四)が祭文を朗読し、日下伯巌(宗八、一七八五~一八六六)が白鹿洞掲示を講釈したのち、定通が神酒をいただいて式を終了した(増田家記)。
 明教館の教授には日下伯巌・高橋復斎の二人が、助教には近藤八之進・宮原守一郎・河村平左衛門・久松栄之進が、仮助教には歌原宗蔵、読長に村尾団之助・小崎平四郎・高木大助・山崎八郎兵衛・佃新太郎・倉根蔵助・皆川国八らが、句読師には佐伯軌次郎をはじめ九名、諸用頭取に谷左平太・石原元右衛門らが任命された(定通公時代法令集)。
 明教館へ入学するものは徒士以上の家に限られ、八歳に達した時に父兄から教官に申し出ることとなっていた。毎月二、七の日に入学式を行い、当日式服を着て講堂に赴き、束修として扇子一対を呈上する定めであった。講堂では正服を着た教授・助教が生徒を導いて聖像を礼拝させた。その後、生徒は教授・助教の私宅を訪ねて、敬意を表するならわしであった。八歳のものは小学に入り、一五歳になると国学に入ることができたが、小学三等を卒業したものでなければ、武技を習うことができなかった。
 武術は各世襲の教官が担当し、馬術・水練などは館外の練習場で指導を受け、兵学・砲術は師家について学習した。弓術には広重・印世・上田流、馬術には大坪・稲懸流、剣術には新当・真影・柳生流、槍術には樫原改撰・疋田・種田流、砲術には稲富・自縁・戸土瀬・笹山流、柔術には関口流、水泳術には神伝流、兵学には甲州流の各流派があった。
 生徒の試験は年一回であり、講堂で経籍・唐本通鑑を講釈させ、また出題に従って詩文を作らせた。この試験は、生徒各自の成績の高下を検査するよりも、その才・不才を評定するためであった。在学の生徒数は時代によって相違が見られるが、寄宿生一〇~二〇名、通学生およそ四〇~五〇名、素読生一二〇~一五〇名、武技生およそ五〇〇名であった。明教館の経営は米三、〇〇〇俵を資金とし、その利子を校費に充当した。利率は六朱(六㌫)であったから、米一八〇俵が運営費に充当されたわけである。この利子で不足する場合は藩費から補助した。もっとも、明教館の職員の俸給は別途に支給された。
 明教館では幕府の意図に従い、朱子学を中心とする育英方針をとった。同館の講堂の正面に、白鹿堂書院掲示と論語課命説とを板木に刻して掲げ、その趣旨を明らかにした。さらに講堂における会講には、四書五経・小学・近思録に限ることとし、史書類の読書は自由であったが、これに関する質問は許されなかった。しかし定通が学問の振興に当たって一派に偏しなかったことは、藩士野田石陽に対する態度によって明らかであろう。石陽は蘐園学を奉じ、その逝去(文政一一年)に至るまでその学を捨てなかった人物であった。定通は石陽の態度をとがめることなく、彼が松山藩領内の地誌である『予陽古蹟志』を著した時には、詩を作ってその功労を表彰した。また定通が近習の士と『靖献遺言』(浅見絅斎の書)を講究したことによっても、彼の学問に対する態度が寛容であったことを知り得る。

 朱子学の隆盛

 明教館の創立されたころには、再び朱子学が盛んとなった。同館の教授として日下陶渓(伯巌)・高橋復斎らが活躍し、松山藩政にも貢献するところが大であった。陶渓も復斎も藩命によって昌平黌に入学し、寛政の三博士と称された古賀精里の教えを受けて、朱子学を研究した。帰国後は明教館教授として、教学の振興に努めた。ことに陶渓は詩文に長ずるとともに、能書家として貫名海屋と並び称された。彼は温厚・寛容で、育英の業に従うこと四〇余年に及び、その門下には俊才が多く、その徳化はあまねく衆人に及んだ。
 朱子学以外の儒学の世界を見ると、山崎学の宮原竜山・同桐月・池内禎助らがいて、定通の文績を援けた。竜山・桐月・禎助らは江戸に赴き、三宅尚斎(山崎闇斎の高弟)の門流の服部栗斎の指導を受けた。桐月は竜山の弟であって、江戸から松山に帰り儒員として活躍した。また禎助は竜山の没後、松山藩に招聘され、やがて江戸詰となった。

 心学の普及

 天保時代に入り、田中一如(一七六九~一八四六)の出現によって、心学が松山地方に流布されるようになった。心学は享保年間に京都の石田梅巌が儒教倫理に神道・仏教をまじえ、庶民を対象にして平民道徳を説いたのに始まる。
 一如は松山藩士であったが、病気のために失明したので、官を辞して京に上り、石門心学を修めてその名を知られた。松山藩では一如が帰京したので、六行舎を建てて足軽以下の下級武士、および庶民の教育に当たらせた。この六行舎は、はじめ道後にあったが、弘化元年(一八四四)に一如が隠退して講席を門人の近藤元良に譲ってから小唐人町西側に移転して明治維新に及んだ。

 善行美績の顕彰

 定通の事績の一つとして、善行者を顕彰し、風俗の粛正に尽くしたことも忘れられないであろう。そのうちで注目されるのは、文化一〇年(一八一三)一一月一二日に山内久元の孫升右衛門に祭祀料を給与し、その供養をしたことである。久元は享保の大飢饉の時目付であったが、藩の重臣間の政権争奪の犠牲となって、切腹を命じられた人物であった。さらに、定通は彼のために社殿を郊外の西山に造営し、その霊を神として祭祀させた。これが山内神社であり、天保三年(一八三二)三月二二日の百年忌には、山内升右衛門に白銀を与えて、先祖の忠節を表彰した(増田家記)。
 次に義農作兵衛の清節を顕彰するために、文化一四年からその子孫に毎年香華料を与え、さらに天保二年三月九日天楽院(定英)百回忌を大林寺で執行した際、作兵衛の百回忌を同時に行った。作兵衛の忌日は九月二三日であるが、農繁期に当たるので、これに参加する農民たちへの配慮から、三月陽春の時節に祭典を行うこととした。
 このほか、文化一〇年一二月に三津浜に居住した浪人井口瀬兵衛の娘松江の葬儀に当たって、定通は彼女の節義を顕彰するために米五俵を与え、また父親瀬兵衛を松山藩士として召し抱えようとした。これらによって、定通がいかに庶民の動静に注意し、美績の表彰に努めていたかが伺われる。そのほかに藩士・庶民の中の精励の者を賞揚し、また文武の道に秀でた士を登用したこともたびたびであった。
 定通は祖先尊崇の念が強く、藩祖の松平定勝(宗源院、定行の父)を神として祭祀する願望があり、京都の吉田家に依頼していた。文政六年(一八二三)一二月一八日東雲神社の仮遷宮式が挙行され、定通自身が二〇〇年における定勝・定行父子の業績を讃美し、その遺徳を追懐した。同社は勝山(城山)の東部の中腹にあり、祭典を毎年三月一八日施行と定め、家中の者は参拝することとなった。

 松山城郭復興計画

 定通は父の遺志を継いで、松山城郭の復興計画を練り、文政三年四月に、新藤金吾・竹内喜内・香川四郎左衛門らを大普請奉行に、坂本玄作・高川武右衛門・伊藤長左衛門らを小普請奉行に任命してその工事に着手させた。天明四年(一七八四)の本丸焼失より三七年後のことであった。
 しかし、期待された城郭の復興事業は、その経過を物語る史料がないのでよくわからないが、財政困難などの原因によって容易には進捗しなかったようである。そのうえ、再興に着手して一六年後の天保六年(一八三五)六月に定通が逝去し、次の定穀の治世に入って、天保九年一〇月一四日に本丸作事場が失火の厄にあったことによって一頓挫した。

表二-7 貞道時代の損毛状況

表二-7 貞道時代の損毛状況