データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

六 儒教各派の発展

 古学派の勃興

 松山藩では、江戸時代初期に官学としての地位を誇った朱子学と、それから出た崎門学とが降盛であったが、中期に入ると、古学・古文辞学派が盛んとなり、やがて各学派の進展による儒学の黄金時代をつくった。
 松山に古学を伝えたのは、延宝年間(一六七三~八一)に伊藤兵助、少し後れて現れた中川喜左衛門らであった。彼らは京都の堀河塾に入り、伊藤仁斎についてざん新な教えを受けた。そののち高木玄林が上京して仁斎の教えを受けた。彼は帰国ののち、多くの門人を養成したので、松山地域における同派隆盛の端緒を開いたといってよいであろう。

 享保―宝暦年間の学界

 この時代における学術の進展を見ると、前代に引き続いて、崎門学派と古学(堀河学)派とが隆盛であった。まず崎門学を代表したのは、松田東門であろう。東門は名を通居、宇を次郎右衛門といい、学問を大月履斎に受けた。彼は松山藩に仕え、俸禄一五〇石を給与された。彼は履斎門下として最も重視されたが、単に崎門学にとらわれることなく、その勉学の範囲はきわめて広く、古学・古文辞学にも関心を示し、博学で名を知られた(却睡草)。東門の著書には、『東門夜話』一一冊があるが、残念ながら原本は伝わっていない。この書は享保一七年(一七三二)の春から同一九年の秋までの間に編集されたが、目次(第一章初学分類~第一一章序践之分)が残っているに過ぎない。
 次に古学派の学者としてあげなければならないものに、長野彬々(一七〇二~六七)がある。彬々は名を篤興、字を喜三といい、松山藩に仕え与力として活躍した。彼は伊藤仁斎の孫である東所に師事し、謹厳篤実で知られた。

 明和―寛政年間の学界

 宝暦一三年(一七六三)三月、定喬逝去のあとをうけて、弟の定功(一七三三~六五)が松山藩主となったが、わずかに三年ののち明和二年に年三三歳で病没したので、大きい事績は残されていない。この時期は前代に引き続き、崎門派に属する三戸新兵衛・佐藤勘太夫と古学派の人見正達・尾崎訥斎・丹波南陵らが活躍した。
 藩主定功は、儒学を三戸新兵衛から受けた(本藩譜・垂憲録)。新兵衛は前述の大月履斎の門人として名を知られ、藩では側用人の地位にあったと推察される。勘太夫は、松田東門に崎門学の指導を受けた。従って、学続からすれば、履斎―東門―勘太夫となる。この点からすれば、藩内では山崎学が重要な地位を占めていたと考えられる。
 古学派に属する学者には、人見正達があった。正達は三津浜の人で名を正典、はじめ奈三といい、その家は代々医を業とした。京都に赴き伊藤東所に師事すること三年にして帰郷し、古学の唱道につとめた。正達は廉直で権威に従うことなく、朱子学の井手玄道と理気論を戦わして屈しなかった。
 尾崎訥斎は名を時春、字を止善、小字を団次(弾次)、別号を震沢・匏繫舎といった。学を東所にうけ、宝暦元年帰郷後は、藩の書簡役を勤め、また藩士の学問の指導に当たった。また、彼は詩文に長じ書に巧みであって、ひろく名を知られた。松山藩で詩文が盛んになったのは、彼の業績に負うところが大きい。
 丹波南陵(一七三〇~八八)は名を成善、字を収蔵、はじめ順長といった。彼は剃髪して京都に赴き医術を学んだが、いっぽう東所の教えをうけた。帰郷ののち藩命によって還俗し、儒官として訥斎とともに藩士の教育に当たった(欽慕録)。彼は学徳ともに優れ、世人の尊崇を受けること厚く、その感化は広い範囲に及んだ。
 丸山南海は名を惟義、字を大蔵といい、仁斎の学徳を敬慕したので、学統では東所の門弟として取り扱われている。のち側用人となり、藩政に貢献するところが大であった。南海の講義は懇切であり、その説くところは明快であったので、教えを乞う者が門前市をなすほどであった。また彼は和歌にも長じ、多くの作品を残している(欽慕録)。
 由井天山(一七四一~一八一一)は若年のころ遊俠の徒であったが、年二七歳の時邪道に陥ったことを恥じて儒学に志し、長野彬々・丹波南陵について古学を修めた。彼の門に集まる者多く、各所で講席を設けること月に七〇余座に及んだといわれる。このように、天明~寛政年間は、松山における古学派の全盛時代であった。

 蘐園学派の隆成一

 藩主定功は明和二年(一七六五)二月に急逝し、嗣子がなかったので、松平定章(第五代藩主定英の弟)の子の定静(一七二九~七九)が宗家に入って、第八代藩主となった。江戸中期になると、儒学の世界では蘐園派(古文辞学派)がにわかに隆盛となった。この学派の始祖は荻生徂徠(一六六六~一七二九)であって、彼は堀河学派に対し、古語の解釈に当たっては古文辞の徹底的な研究を重視し、儒教の重点を政治・経済にありとした。徂徠は江戸日本橋茅場町に住み、その門弟から多数の優秀な学者・文人を輩出した。
 そのうち、政治・経済の分野においては太宰春台 (一六八〇~一七四七)、詩文では服部南郭(一六八三~一七五九)らが最も有名であった。この学派を古文辞学派と称したが、また徂徠の号によって蘐園学派とも呼んだ。南郭は京都の人で、名を元喬、字を子遷といい、江戸に出て徂徠の門に入り、最も詩文に長じて、その名声は一世を風靡した。そのため彼のもとに学ぶものが多く、家塾は繁盛した。
 この南郭の門人に斎宮(斎とも)必簡があり、静斎と号した。彼は安芸国の人であったが、京都に出て私塾を開き、多くの門弟子を擁していた。たまたま松山円光寺の明月(後述する)が京都西本願寺に来た時、静斎の名声の高いのを聞き、藩医の沢田修事とともに、彼を松山藩に招聘するよう家老に献策した。これによって、静斎は安永二年(一七七三)九月に松平定静に迎えられて沢田家に寓し、学者をはじめ奉行・代官らに尚書を講じた。普通にこれを蘐園学が松山に伝えられた端緒とする。彼の説くところは、単に学理のみでなく、政治・経済の分野にわたり、また著しく現実的であった。そのため彼の教化は、松山藩の教育のうえにも、好影響を与えたといわれる。
 青地快庵(『気海観瀾』を著した林宗の父)は松山藩医の地位にあって、徂徠学にて賢才との賛辞を受けている(却睡草)。快庵の門弟に、浅山勿斎(一七五四~九七)があり、その英才を称せられた。松山藩主松平定静が文武の振興策の一環として、安永七年三月に中島九郎次と勿斎とを抜擢して、城中の躑躅の間で経書の講釈をさせた(松府古士録)。この時、彼は二五歳の若年であったから、その将来の活動が期待された。
 いっぽう、静斎の教えを受けたものに、宇佐美淡斎(一七四九~一八一六)があった。彼は名を源兵衛、諱を正平、字を士衡といい、定静に仕えて目付を勤務し、のち松山町奉行として政界にも令名が高かった。彼は丹波南陵から古学を受けたことがあった。また、淡斎は博覧強記で詩文に秀でていたばかりでなく、経綸の才に富み、城下町の民風の粛正につとめ、大いにその効果をあげたと伝えられる(却睡草)。
 さらに蘐園学派の盛運を将来させたのは、浄土真宗の僧明月(一七二七~九七)であった。明月は享保一二年八月に周防国屋代島に生まれた。幼少の時松山に移ったが、京都および江戸に遊学し、服部南郭とも深交を結び、蘐園学を修得して、浄土真宗円光寺の法嗣となった。斎宮静斎の松山滞在中は、友人としての交誼を続けた。明月は詩文にも巧みであり、かつ筆跡、特に草体に長じていたので、その名声は僧良寛と並び称された。その学徳を慕って、教えを乞うものが多かったから、地方文運の進展に貢献した。

 五色墨の俳壇革新

 享保期において、松山藩の文化史上の重要な問題は、低調な俳壇に河端五雲が現れ、清新の気風をはき、後世のそれに好ましい影響を与えたことである。享保一六年(一七三一)に俳壇の風潮に対立した五色墨の徒があった。その中心人物としては、佐久間長水・長谷川素丸・大場咫尺・松本蓮之・中川宗端らの五人があげられる。この五色墨の名は、長水ら五人が当時の俳人たちのみだりに判者に媚び、点の高下を競う風習を否定して、一人ずつ順次に判者となり、他の四人で歌仙一巻ずつを興行し、その間に論議を闘わせて研究を重ね、合計五巻としたことに起因する。この五色墨の正風再興の企図は残念ながら挫折し、仲間は四分五裂することとなった。

 河端五雲

 五色墨の佐久間長水と関係の深かったのは松山藩上河端五雲(一六九九~一七七二)である。五雲は元禄一二年に生まれ、通称を藤大夫といい、俳号を陶丘・一笠庵・兀々翁とも称した。正徳三年(一七一三)に松山松平家六代藩主定英の御側役となり、享保年間の中頃に江戸常府を命じられ、河端家を相続した。その後、長崎警備方御用係を経て、奉行用人・徳川家献門方となり、将軍家に出入りするようになり、宝暦元年(一七五一)に常府番頭の要職についた。
 彼はもとより資性勤直の士であり、早くから公職の余暇に俳諧をたしなみ、その進境には見るべきものがあった。彼は年五三歳くらいまで長水の教示を受けていたと推察される。長水は晩年に伊勢風(芭蕉門の岩田涼菟にはじまる)の中川乙由の門に属した。五雲が正風への復帰運動に、どのように関係したかは、残念ながらその詳細は不明である。彼が同じ長水門の木曽仙泉と親交のあったこと、明和六年(一七六九)に編集された『矢立の露』によって、彼の存在が同門のなかで注目されるに至ったといって過言ではないであろう。
 五雲が明和五年に年七〇歳で隠退し、その翌年にその子五石を伴って帰郷しようとした時、彼の俳友たちによって送別の句会が催された。その時の作句を五石が書き留めておいたものが、この『矢立の露』である。これによると、まずはじめに、五雲の俳友仙泉らが、別離を惜しかとともに、旅行の平安を祈って、歌仙を作っている。

 河端五雲と伊予の俳壇

 五雲は松山に帰省したのちも、地方の俳壇に重要な地位を占めていたに相違ない。その俳名がいまも国外、および地方に喧伝されていることによって明らかであろう。芭蕉の没後およそ七〇年、俳壇が暗黒時代に閉ざされた時、伊予に五雲の出現したことは、どんなに幸福であったであろう。ことに伊予俳壇が堕落した洒落風や花鳥風に吹き荒らされなかっただけでも、慶賀すべきことであった。彼は安永元年(一七七二)一二月に、年七四歳で逝去した。その後、同じ五色墨の一人であった長谷川素丸の門弟の二六庵竹阿が松山に来遊したこと、竹阿の教えを受けた小林一茶がそのあとを追って、伊予路を訪れたことなどを合わせ考える時、その間に一脈の関係があったと言うべきであろう。
 五雲の句集には、さきの『矢立の露』のほかに『大名竹』がある。後者は明和八年(一七七一)からその翌年の逝去に至るまでの句を編集したもので、彼の晩年における最も円熟した俳風をうかがうことができる。彼の作句の中には、一般の俗悪な風潮を受けたものも存在するが、『大名竹』の中の句には、平淡な中に優れた価値のあるものが甚だ多い点に留意すべきであろう。

 河端五石と小倉志山

 五雲の門人には、松山藩士の中山五嶺・高木五橋・松下五井らがあった。五雲の子の五石は太郎右衛門と称して俳諧をよくし、東交斎・文貫堂と号した。
 五雲と同時代の松山の俳人に、小倉志山(一七〇一~六二)があった。志山は紅魚園・兎角坊と称し、五雲とも交友が深く、『俳諧瓜ひとつ』・『霜夜塚』の俳書を京都で印行した。また志山は芭蕉を追慕するの余り、寛保二年(一七四二)一〇月一二日に、その五〇年忌を弔うために、浮穴郡久万町の大宝寺の境内に霜夜塚を建立した。現在この塚はその位置が移動しているようであり、裏面に彫られた芭蕉の句の「薬のむさらでも霜の枕かな」の文字も破損している。この時、興行された俳諧が編集され、延享年間(一七四四~四八)に出版されたのが、俳書『霜夜塚』である。この中には、志山をはじめとする全国の名士の追善の句が載せられ、松山・風早・東予・久万地方の俳人の句があげられている。これらの史実によって、五雲時代の伊予の俳壇の隆盛であったことが推察される。