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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

三 石手川の大改修

 松平定英の施政

 享保五年(一七二〇)一〇月に、第四代松山藩主定直のあとを継いだのは、三男の定英(一六九六~一七三三)であった。定英は幼名を百助といい、はじめ刑部・主膳と称し、後に飛騨守となった。一二月一一日に定英は定直の遺領一五万石を継承し、また定直の遺志に従い、その弟の定章に新田一万石の分知を許された(津田家記・御年譜)。定章ははじめ長島辰之丞といい、のち松平源之助と改め、元服後に監物、一万石領知後に備前守に任ぜられた。
 同月二八日に定英は隠岐守となった(本藩譜)。さらにのち享保七年一二月一八日従四位下に叙せられた(増田家記)。幕府の勘定所から、松山領の田畑丈量を報告するよう指令があったので、享保六年七月二三日に、田方一万三、二〇三町一反七畝一八歩、畑方五、〇五四町四反八畝三歩で合計一万八、二五七町六反五畝二一歩、新田九七四町九反四畝一歩半、新畑三三五町一一歩で合計一、三〇九町九反四畝一二歩半であることを通知した(本藩譜)。同年閏七月二三日に、幕府から宇摩・新居・伊予三郡の天領石高一万一、〇〇〇石余を預地とする旨の通達があり(増田家記)、松山藩から大小姓頭河原次右衛門・郡奉行稲川郷右衛門・勘定奉行飯島七右衛門らが現地に赴いた。預地の村付帳については、大坂の石原新十郎代官所に稲川郷右衛門・歩行目付宮原久大夫らが赴いて受け取った。
 翌享保七年五月に、定英は参勤交代のため、江戸へ赴いた際、将軍に太刀・銀・馬代などと共に、松山索麺一箱を献上した。ところが、索麺については以後も献品を続けるよう指示があった(本藩譜)。この索麺は松山の長門屋市左衛門一族で製造していたもので、江戸でも好評を博していた。また六月一三日に、幕府から大手門番の任務をつとめるよう命じられた(増田家記)。この間において、松山藩では大事業である石手川の大改修が断行されたが、それは後述する。
 一〇月三日、いっぽう幕府の財政窮乏を救うため、上米の制すなわち諸侯一万石につき一〇〇石ずつの差上米を負担することとなり、その代わりに参勤交代の在府の期間を半減する旨の指令があった(有徳院殿御実紀)。

 藩内の緊縮政策

 享保一一年(一七二六)一一月一五日に、藩庁から万端省略をするよう厳命かあり、足軽頭の巡回、地方巡りの節供回りの人数、および各番所の人数を減じる措置がとられた(本藩譜)。この時「御先祖由来記」によると、知行取は五歩、切米取は二割五分引きになった旨を記述している。これは俸禄の減額に伴い、労役の軽減を企図したものであろう。
 かねて松山城の土手に植えられた竹藪が枯れたので、松に植え替える願書を提出していたが、享保一二年四月七日許可があったので、九月一九日にその工事を施行した(本藩譜)。六月、定章に対し駿府城番を命じられたので、松山から足軽六〇余人を応援として派遣した。八月一二日に、来年四月に将軍吉宗が日光へ社参の節、大津から今市までの警備をするよう指令があった。また同年に、城下および郷方ともに祭礼日を統一して、八月二〇・二一日に執行することになった(御先祖由来記)。
 享保一四年二月一〇日に、馬廻一〇組の者たちが生活困窮に陥ったので、彼らの要望によって、前借りを許すことになった(増田家記)。五月には一俵四斗入の米二俵の価額を銀二四~二五匁とし、諸物価の引き下げを指令した。

 石手川の氾濫

 石手川は温泉郡湯之山村米野々に源を発し、途中で支流小野川を合して城下町の南方を西流し、出合(松山市)で重信川に合流する。前述のとおり、加藤嘉明が松山に本拠を創設するにあたり、河流を南に転じ、新たに堤防を構築して、城下町を洪水の被害から防御した。いうまでもなく、この河川は松山平野に展開する和気・温泉・伊予の各郡の農村の養水として重要視された。ところが、河川は城下町の周辺部では、河幅が広く、かつ河底が浅いうえに、流れもはなはだ緩漫なだめ、大雨にあうと堤防を破壊して氾濫し、城下町はいうに及ばず、農村に莫大な被害を与えた。これよりさき延宝元年(一六七三)には、洪水の規模は大きく、城下町にも浸入したので、民衆は城郭の堀の土手の上に避難するほどの大混乱を呈した(垂憲録拾遺)。その後も、このような災害が頻発したので、藩庁では川浚えによって、一時的な対策を講じたようである。前述のように享保二年(一七一七=第四代定直の治世)に、石手川筋浚えのために新規に普請組として一五〇人を召し抱えたのも、その現れであった(本藩譜)。
 同六年にも、閏七月一四日ころから大雨となり、翌一五日には出水のため石手川の堤防が決壊し、各地に洪水をもたらした。この時の被害の記録を見ると、河水・海水などによる砂人・汐入・水押の田畑が三、七一六町六反四畝一九歩あり、石高では三万五、〇六五石九升七合の損毛となり、浜手・池川の堤防の切れた長さ一一万七、一四一間に及び、流家は潰家・半潰を合わせて八八九軒、死者男四〇、女三二の合計七二人で、井関の落ちた所二、一四四か所、石垣の崩れたところ一五五か所、山崩れ二万九、一二〇か所であった(垂憲録)。藩庁では、大小姓以上の頭役に対し、高一〇〇石につき人夫一〇人ずつを、また城下町に対し一万五、〇〇〇人、三津町に対し五、〇〇〇人を差し出すよう指令した(資近上二-120)。
 翌七年六月二三日から二四日にかけて、松山を中心として大風雨が襲来し、昨年に引き続き、その被害が大きかった。川成・砂入・汐入・水押の田は三、二六三町二反七畝、流家は三〇七軒(但し農家のみ)、潰家は一、一七一軒、死者男四六、女四二の合計八八人、井関の落ちたところ二、六八七か所、橋桁流失四か所、堤防の切れた所五、三六七か所、その長さ一五万三、六三六間であった(御先祖由来記、味酒神社年代記)。

 大川文蔵の大改修工事

 この当時、藩庁にとって大きい問題は、石手川の氾濫が頻発したので、抜本的な大改修を断行することであった。それは前記のような川浚えによる一時的な弥縫策では、災害を防止できないことを察知した結果であった。そこで享保八年五月一五日に、川普請に精通している大川文蔵(西条の人)を抜擢して、一二石三人扶持、末寄合大小姓の地位を与え、もっぱら石手川の改修に当たらせた。文蔵はすでに享保二年に見習いとして、松山藩に仕えていたが、今やその才能を認められるに至ったのであろう(旧藩政事差配一覧)。
 従来石手川の堤防については大改修が行われず、自然のままにまかされていた。また上流地域における治水事業の遂行された記録もないから、ほとんど放任されていたように考えられる。後世の記述から見ると、河川の規模の小さい割に河幅が広く、河底が浅く、河流に対しわずかに千鳥掛の波戸(俗にかまなげという)を構築されたに過ぎなかった。この波戸は河身に対し直角に突出し、その先端を上流に向かって折り曲げて、水勢をはばむものとなっていたと想像される。治山工事が行われてないため、上流地域の土砂が河に押し流され、その結果下流ではその土砂が滞留して河底が浅くなり、あたかも天井川のような状態を呈した。そのため松山平野では、大雨にあうと流水が川一杯によどむようになり、水勢は不完全な堤防を越えて洪水と化した。
 文蔵はこの欠陥を見て、根本的な改修の必要性を自覚し、まず河川の幅を狭くし、水流の速度を増すことによって、河底を深くし、水勢の停滞を防ごうとした。そのため、彼は堤防から下流に向かって土塁を突出させ、さらにそれを直角に延ばして「曲出し」を作った。この曲出しは洪水の際の護岸の役目と、河身の中央部における流水を急速にする目的を持つものであった。この工法施行に当たって、彼は従来脆弱であった堤防の補強工事も同時に遂行したに相違ない。いま私たちは石手川において、立派な、かつ堅固な堤防があって、両岸に整理された曲出しを見ることができる。その結果、堤防は丈夫さを増し、大雨の時にもほとんど氾濫の災害を被ることがなくなった。この彼の功績については、当時の人をして「今に至り水損の患なきは、偏に文蔵の功なりとぞ」といわしめるに至った(本藩譜・松山叢談所収口碑)。