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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

四 加藤氏以前の大洲

 藤堂高虎の治世

 藤堂高虎は宇和・喜多・浮穴三郡で六万余石の蔵入地代官を命じられ、また宇和郡で七万石を与えられ、文禄四年(一五九五)の夏に父白雲を伴って伊予に入国し、まず代官地の大津城に入った。
 慶長の役には慶長二年六月一七日に大津から朝鮮に出陣したが、それに先立って喜多郡長浜町金山出石寺に参詣し、武運長久を祈願したと「日本高麗暠戦之記」(出石寺住職快慶の著)は記している。
 高虎は翌三年五月に帰国したが、軍功を賞されて代官所のうち喜多郡などで一万石を加増され(資近上一-64・65)合わせて八万石となった。また日本水軍の総督として秀吉楼船の章である茜紅幕を下賜されて面目を施している。彼は一、〇〇〇余人の捕虜を大津につれ帰ったが、その中に儒学者として高名な姜沆もいた。大津城に留置されて一度脱走を図り豊後まで逃れたが再び連れもどされた。幽囚中、金山出石寺(喜多郡長浜町)の僧と知り合い、詩文の贈答などで慰められた。のち大坂・伏見に移され、藤原惺窩とも面識を得、慶長四年に帰国することができた。「看羊録」は彼の大津での幽囚記録である。
 高虎は関ヶ原の戦いで一二万石を加増され、伊予半国を領有することになり、板島から今治に移った。そのとき、家臣梅原勝右衛門に一、〇〇〇石の知行を与え、新規召し抱えの渡辺勘兵衛に二万石を与えたが、共に知行目録に「置目」の条々をつけ、
 一 免については検見奉行が定めた通り、夫々の代官から書付を取り、納めさせること、
 一 納め桝は、これまでの蔵納めと同様の桝を使用すること、
 一 一石につき三升宛の口米を徴収すること、それ以外一切役米を取ってはならない、
 一 桝取は庄屋がおとな百姓に申しつけて「桝の上ろくろくにとかきをあてさせ」て納めさせよ、
 一 米、大豆の津出しは五里以内は百姓の負担、それより遠ければ給人自らで負担せよ、
 一 百姓家付の帳を作り、一人も走り百姓を出さぬようにせよ、
 一 役儀の百姓に薪を一年に一〇荷申し付けよ、それ以外は一切百姓を使ってはならぬ、
 一 高百石につきぬか五石、わら一〇束を取れ、
 一 山林竹木小物成浦役は上から奉行に申し付ける、竹木など入用の時は奉行まで申し出よ、
と記している(南部家文書・資近上一-94)。
 渡辺勘兵衛の二万石の知行地は喜多・宇和・周布・桑村・新居の各郡にわたり、現在、大洲市には「お勘兵衛屋敷」の地名が残っていて彼の邸のあった所といわれるが、のち高虎の怒りにふれて藤堂家を去っている。高虎が慶長一三年(一六〇八)伊賀・伊勢に転封のあと、翌慶長一四年九月に大津城には淡路国須本(洲本)城から脇坂安治が五万三、五〇〇石を与えられて入城することになる。

 脇坂安治の治世

 脇坂安治(一五五四~一六二六)は脇坂安明を父として天文二三年、近江国浅井郡脇坂庄に生まれ、天正一一年(一五八三)には秀吉の配下にあって賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。軍功によって山城国で三、〇〇〇石の領地を与えられ、同一三年には摂津国のうち一万石を得て従五位下中務少輔に任ぜられ、同年一〇月淡路国須本三万石に栄転し、文禄・慶長の役には船手の将として出陣し、功によって三、〇〇〇石を加増された。
 関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、家康の旨を受けて小早川秀秋と共に西軍を裏切った。『寛政重修諸家譜』に「脇坂安治甚内、中務少輔従五位下 慶長十四年九月、須本をあらためて伊予国大洲(津)城をたまひ、加増ありて喜多・浮穴・風早三郡のうちにをいて五万三千五百石を領す」とある。
 慶長一九年の大坂冬の陣では自らは戦いに加わらず、その子安元を出陣させ、翌元和元年に隠居して安元に譲り、同三年大津を去って京都西洞院に閑居し、寛永三年(一六二六)七三歳で死去した。
 安治の民政については、入国後間もない慶長一五年に出した「給人所法度」がある(「大洲旧記」・「黒田家文書」・資近上一-122)。これは脇坂安治が家臣に与えた所領の支配規定であるが、給人の知行所支配については戦国以来残存する土豪的な専制支配を排除して、庄屋の自治体制を確立しようとする近世的な姿勢がうかがわれる。給人所内にあっても山林伐木は給人の支配外で、領主から任命した庄屋にその管理を委ねるとか、百姓を保護して行こうとする配慮が随所に見えている。条を追って具体的に見よう。
 一 本年(慶長一五年)の年貢米納入は従来の蔵入代官の納入通り、一石につき口米二升役米一升計三升ときめ、給人ときもいりで確かめて収納せよ、次年からは領主が指令する。
 一 桝取はその村のきもいりが定めた者を使い、給人が行なってはならぬ。
 一 俵数出しは給人が指揮せよ、百姓がうそを言い、給人がむたいを言う場合は共に申し出よ。
 一 年貢米受け取りの時は多少によらずその時々に領収書を出せ。
 一 給人らの知行所での耕作を禁止する、百姓が良田を取り上げられ、耕作に使役されては迷惑であるからである。但し荒地・捨地ときめた土地はきもいりへ届ければ耕作は自由である。
 一 給人の知行所へ手代など小役人のいった時など賄は一切無用である。
 一 給人が課す夫役の詰夫の規定は、
  一〇〇石から一五〇石までは1ヵ月二五日つめる。
  一七〇石から三五〇石までは一人宛常つめ夫
  四〇〇石から六五〇石までは二人詰夫
  七〇〇石から九五〇石までは三人詰夫
  一〇〇〇石には四人詰夫
  此外一切詰夫を使用してはならぬ、但し公儀普請の時などは例外である。
 一 詰夫を定めた上は百姓に入木(薪)を課してはならぬ。
 一 給人は知行地といえども山林竹木を伐ってはならぬ。
 一 給人所内に惣きもいりを定める。
 一 給人所の山林樹木など荒らさぬよう、きもいり共に申しつける、等
   右之条々若し背く者あれば急度申付く可き者也。
     慶長十五年八月十八日                安治(花押)
         喜多郡ノ内給人所きもいり中
 要するに安治の民政に対する基本姿勢は、給人の中世的支配に統制を加え、領主に直結する庄屋の権力を伸ばして行こうとする近世志向型の明るいものであったと解される。

 脇坂安元

 安治の嫡子脇坂安元(一五八四~一六五三)は天正一二年に山城国に生まれ、慶長五年(一六〇〇)一月に従五位下淡路守に叙任した。同年九月の関ヶ原の戦いでは父と行動を共にした(寛政重修諸家譜)。慶長一九年の大坂冬の陣には父に代わって参戦し、先鋒の藤堂高虎の組に加わり生玉のあたりに陣を布いた。翌元和元年 (一六一五)父の大津を相続し、同年大坂夏の陣に加わり、土井利勝らと共に天王寺に出動した。元和三年七月二〇日に五万五、〇〇〇石に加増されて信州飯田城に転封となった。
 脇坂の治世は父安治の就封の慶長一四年九月から安元の転出した元和三年七月まで、わずかに八年にすぎなかったが、その間に近世藩体制への道を開き、また藤堂氏について大津城及び城下町の形成と維持につとめた功績は没し難い。