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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 会津征伐

 上杉景勝

 上杉景勝は慶長三年三月に蒲生氏の跡を受け、越後春日山から会津若松へ、陸奥・出羽で一二〇万石の領主として入国した。彼は間もなく秀吉の訃で上洛し、翌年九月に帰国してからは新領地の経営に努めた。大国にふさわしい城の改築修理、四方の道路の整備、橋梁架設、武器食糧の買い入れ、牢人召し抱えなど当然の処置であったが、これに対し「景勝に逆心あり」との流言が乱れ飛んだ。これに対し五大老の家康から釈明のため急ぎ上洛を要求されたのに対し「去々年国替、程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分に上洛せよといわれては、何時国の仕置が出来るか」と逆襲し、「千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷り成らず候」と回答し、無理に攻め寄せるなら応戦をも辞さない覚悟を示した(上杉年譜)。
 景勝の申し条がいかに条理かなっていようとも、家康がこのいい機会を見逃すはずはない。まず石田に挙兵の機会を与えるためには家康始め武将派の大名たちは京・大坂から離れていなくてはならない。また家康としては関東に帰って兵備を整え、味方となる大名を確保しなくてはならぬ。そのために「天下をみだす景勝を征伐する」という口実は秀吉恩顧の大名を抱き込むためにも適当であった。
 伏見城の評定で上杉征伐の断を下し、慶長五年(一六〇〇)六月一六日に自ら浅野幸長・福島正則・黒田長政ら一〇〇将五万五、八〇〇の兵を率いて大坂を出て関東に向かった(関ヶ原合戦始末記)。この中には伊予国の加藤嘉明(松前城主)・藤堂高虎(板島城主)も加わっていた。遠征軍は近江までは急行し、関東に入ってからは故意に行程を緩め、江戸では二〇日間も滞在した。果たして三成は挙兵するかどうか、周到な家康のことである。挙兵せずとも五大老の一人を懲らしめておくことはそれで意味があると考えたであろう。七月二四日、遠征軍が下野国小山(栃木県小山市)に達したとき、家康は漸く石田三成の挙兵の報に接した。
 これを予期して東下した家康は、伏見城を守る鳥居元忠からの確かな報告を得て小山で軍議を開いた結果、会津攻めは東北・関東の大名に任せ、西上して三成と対決することを決めた。諸大名の妻子は大坂にあってその生命は三成の手に握られているため、諸将の去就は家康の最も案ずる所であったが、家康は情勢をありのままに伝え、家康に就くも三成に就くも自由意思にまかせると発言した。席上、福島正則が「秀頼公の身上を保証されるなら、身命を捨てて味方しよう」(老人雑話)と発言したため、他の諸将もこれに賛同した。信州上田城主真田昌幸・幸村父子が三成に応じて去ったに過ぎなかった。つづいて作戦が練られたとき、遠州掛川城主の山内一豊か「東海道を攻め上るに当たって、掛川城を家康公に進上しよう」と発言し、東海道筋の諸将たちはみなこれに倣った。これで家康は労せずして東海道筋を配下とすることが出来、諸将も兵を分けて城を守る必要がなくなった。
 家康は次子秀康を宇都宮に留めて上杉景勝に備えさせ、三子秀忠には中山道を西上させ、自らは諸将を率いて東海道を進撃するに決した。

 三成の挙兵

 石田三成は旧友の越前敦賀の城主大谷吉継が、家康の会津征伐軍に加わるべく、七月二日に美濃国垂井に着くと、これを佐和山城に迎えて家康打倒の計画を打ち明けて協力を請うた。天下の形勢に明るい吉継は、思い止まらせようと切に諫めたが、三成の意志はきわめて固く、友情から行動を共にするに決した。三成では地位・閲歴・声望に欠けるので、安国寺恵瓊を介して奉行衆と結びつきのかたい毛利輝元を盟主と決めた。そして七月一七日に「内府ちがいの条々」(家康が秀吉との誓詞に背いた罪状)一三か条を増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行の名で諸大名に告げ、太閤の恩を忘れぬ人々は秀頼に忠節を尽くすべしとした。
 こうして大坂に集まった大名は島津義弘・小早川秀秋・長宗我部盛親・小西行長らの西国大名で、家康に従って東下している諸大名の妻子を大坂に抑えている強味があると考えられていた。しかし城内に収容しようとした細川忠興の妻(ガラシア夫人)はこれを拒み、邸に火を放って自殺したため、加藤嘉明の妻らも捕えられることがなくて済んだ。
 また、藤堂高虎の弟高清を伊予で捕えようとしたのも失敗して、ただ伊達政宗の長子秀宗を捕えて、宇喜多秀家邸に置いたのみであった(三上参次『江戸時代史』)。
 七月一九日に大坂方の諸将は四万の大軍で伏見城に至って開城を要求したが、守将鳥居元忠が拒否したため包囲攻撃した。元忠以下二、〇〇〇足らずの兵は奮戦して守り、一三日間持ちこたえて八月一日終に陥落した。しかし西軍には戦意のない大名も少なくなかった。島津義弘も小早川秀秋もはじめ伏見城守備に加わろうとしたが、鳥居元忠が、疑って入れなかったため、却って攻撃側にまわったのであった。

 安国寺恵瓊と吉川広家

 毛利氏内部でも文吏派と武将派が対立した。安国寺恵瓊は石田方と親しいのに対し、吉川広家は黒田長政や福島正則らの武将派と親しかった。広家は吉川元春の子、小早川隆景なきあとは毛利一家の大黒柱的な存在であった。家康の会津征伐に従軍する積もりで七月五日に居城出雲国富田を立ち、同一三日播磨国明石まで来た時、恵瓊からの急使に会い、毛利輝元の命令だから豊臣氏のため三成側に加わるようにと言われた。広家はこれには反対である。毛利氏は家康と戦う理由がない。とても勝ち目のない奉行衆と組んで毛利家を潰してはならないと考えた。
 しかし、本家の輝元は軽々に恵瓊の呼び出しに応じ、七月一五日に広島を船出し、一七日に大坂城に入った。広家は恵瓊の策に一歩おくれたのである。止むなく西軍側についたが、親しい東軍の黒田長政を通じて、西軍の盟主は輝元の本心ではないこと、毛利軍の行動を抑えて戦争には参加させぬことを誓う書状を家康に送り、戦後の輝元の無罪と毛利領国の保障の約束を取り付けた。こうして西軍の総大将でありながら毛利輝元は戦場に出ず、分家の吉川広家が毛利軍の采配を握って東軍に内応し、同じ分家の小早川秀秋は戦争最中に裏切りによって東軍に味方した。関ヶ原の戦いに参加した兵力は東軍七万四、〇〇〇、西軍八万二、〇〇〇といわれるが、東軍の人心一和し家康の威令が良く行われたのに比べ、西軍はこの毛利一家に見るように統制がとれていなかった。