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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 慶長の役

 再征

 秀吉はただちに諸将に再征の用意をさせた。文禄五年は一〇月二七日に改元して慶長元年(一五九六)となり、明くる慶長二年正月一三日に加藤清正を先鋒として渡海させ、小西行長も軍功をたてることによって罪を償おうとし、これに続いた。各将とも六月下旬までにそれぞれの配備についた。
 水軍は熊川城を根拠として藤堂高虎(伊予国大津)、加藤嘉明(伊予国松前)、脇坂安治(淡路国洲本)、来島通総(伊予国来島)、菅達長(淡路国岩屋)らの軍で新しい部隊を編成した。
 朝鮮の南方諸軍を指揮したのは都元帥・権慓で、日本軍の渡海を阻止しようとして、水軍の李舜臣の根拠地閑山島に来て舜臣に進撃を命じた。しかし舜臣は日本車にはかりごとのあることを恐れてこれに従わず、また反対党である元均も舜臣を嫉んで中央に訴えたので、舜臣は職を免ぜられて京城の獄に下った。これこそ日本軍にとっての幸運で、『近世日本国民史』は清正と行長とが計って李舜臣を退けたとする説をとっている。

 漆川梁の海戦

 こうして元均が三道水軍を指揮することになり、漆川梁の海戦が起こった。慶長二年正月二一日のことである。
 元均は水陸併進論を提案したが、これは権慓の容れるところとならなかった。日本軍に対しては朝鮮水軍のみが勝利し、陸軍は頼むに足らないと見ていたためである。止むなく元均は七月五日、根拠地閑山島から全艦隊を率いて出動した。そして八日、絶影島付近で日本水軍に会い、艦隊は散り散りとなり四〇〇余の兵を失うという損害を被り、退いて巨済の漆川梁に至った。
 漆川梁は巨済島(日本では唐島という)と漆川島との間のせまい海峡で、避難の適地であった。元均はここで離散した艦隊を立て直し、また兵士の休養をさせた。
 ここに元均の艦隊の集結しているのを知った日本水軍は、釜山浦から出動し、七月一〇日に安骨浦(熊川湾)に集合した。藤堂・脇坂・小西・島津豊久らの船団で、彼等はここで軍議をこらした。ここから漆川梁は二〇㌖に満たない。七月一五日を期して、月明に乗じて水陸両方面から襲撃することにきめた。
 高虎と安治は使を加藤嘉明に送って共に巨済島の敵を撃つ手筈を整えた。まだ嘉明軍の到らぬ前に高虎と安治は軍を発した。

 嘉明の武勇

 嘉明はややおくれて来て、大いに奮慨して後を追った。まず高虎・安治らは巨済島沖に着き、敵船に迫った。安治は戦死する兵の多い中に敵船一六隻を奪った。藤堂方も一族の藤堂新七郎が一隻を捕え、また佐伯惟定らは大船を奪おうとして船をつけて登り、敵将を斬り、船底にかくれていた兵をことごとく斬った。
 嘉明が来て見ると、戦はたけなわである。大船が武器を整えて待つのを見ると、跳躍して船に登り、数人を斬った。敵が嘉明をねらい討ちしようとするを、甥の権七郎が追い討ちし、主従奮戦して遂に大船を奪った。嘉明はまた別の船に乗り移ろうとして、つまずいて海に落ちたが、ひるまず、舳を抱えて跳び、苦戦してまた一船を奪った。時に、敵の矢が嘉明の股に当たり、流血甚しかったが屈することもなく戦った(秀吉譜)。
 たまたま竹島から応援に馳せつけた鍋島勝茂は、この嘉明の奮戦振りを見て、

 私は幼くして太閤殿下に従い吉野の桜を見たが、満山白雪爛漫として目を奪うばかりであった。まさに天下の壮観と思った。のち、閑山の役で嘉明の船いくさをまのあたり見て、吉野満山の桜の壮観も遠く及ばぬ程のものと思った。

と感嘆して、のちのちまで人に語ったという(鍋島家記)。
 勝茂も敵艦の岸辺にあるのを見て、進んでこれを撃ち、また家臣の成富茂安を遣して藤堂高虎を援助させた。茂安は奮戦して敵の首七〇〇余を取った(九州記)。
 この戦いに日本軍は敵船二百余隻を捕獲、焼かれ沈んだもの数知れず、敵の死傷者は無慮数千といった大勝利であった。

嘉明と高虎戦功を争う

 戦後に諸将は会合して戦功を論じ合った。嘉明と高虎は互いに功を争って、激論の末、刃傷に及ぼうとしたが諸将はこれを制止し、和解させた。軍監の松浦鎮信は「藤堂の将士は夜間、衆に先んじて敵の見張りの船を奪い、また大船を獲捕してその将を斬った。軍功最も大である」と断を下し、これを秀吉に申し送り、諸将に賞状が与えられた(藤堂家記)。このことがあって嘉明と高虎は以後永く和解することがなかった。
 また大河内秀元の「朝鮮記」には次のように加藤嘉明の武勇を物語る記事がある。

  日本の諸将、竹島の向かい海上三十六丁を隔て安骨浦に乗渡り、蜂須賀阿波守(家政)の本船に各集りて評議す。阿波守言けるは、そもそもあの山の如くなる数万艘の大船に、日本わずかの小勢にて乗合せ戦わんこと成りがたし、しょせん此処の舟いくさは差止めて陸路にて国中を攻め侵すこと然るべし、とありしに、軍監太田飛騨守(一吉)言れけるは、眼前の敵をさし置きて目にも見えぬ陸地の敵を討たんとは、我が分別にては心得がたし、おのおのいかが、とありければ加藤左馬介(嘉明)進み出で、仰の如くこの大船そのまま捨て置くに於ては釜山海表椎木島(絶影島)に乗出し、日本より渡海の兵糧船を取るべし、さあらば味方の軍上上下飢に労れなん、と。諸将黙然としてもの言う者一人もなかりければ、左馬介嘉明、飛騨守に向いて、某、少し乗出し敵船の様体うかがい見候わんと言いければ、飛騨守諸大将の敵大船に辟易し進まざるを見て、左馬介に目くばせし、もっとも也、乗出して巡見せられ候え、と答う。左馬介、御奉行の下知を受け、悦びて我が関舟に乗移り、静に碇をぬかせて押し出すところに、毛利壱岐守(吉成)言けるは、またぞろ左馬介、軽率の働せんとするや、おのおの相談も未だ極らざるに、味方くずしの抜がけは強引なり、と言いければ、左馬介カラカラとうち笑い、いかに壱州、あれほどの山の如き大船に、某が五枚帆の小舟にていかで軽率のなるべきや、御奉行太田殿のお使いとして巡見に出るなり、と言い捨て、二丁余り乗出でける

とある。嘉明につづいて島津又七郎(忠豊)が毛利吉成の制止も聴かず乗り出したので、嘉明は勢いを得て自らの舟の櫓の上に鳥毛輪貫の馬印を差し上げて味方を招いた。太田飛騨守も自らの小鷹丸で乗り出して「左馬介、又七郎を討たすな、続け兵船!」と大声で下知したので、我劣らじと味方の兵船はいずれも碇綱を打ち切り打ち切り、敵の大船を目ざして乗りつけた。しかし敵の大船には日本の舟では二間柄の槍をかぎしても届かず、乗り込むことが出来ない。軍兵共は敵船に小筒をうち込み、火矢を射込んだ。これが敵船の中に取り散らした火薬に火をつけ、雷のように響き渡って船中を焼き立て、二重三重に敷き渡した渡り板が軍兵諸共に海中に刎ね落ち、船底にいた軍兵・水夫も悉く焼死し、焼けぬ者も海中に飛び込んで死んだ。午前一一時ころから午後三時までの四時間ばかりの船いくさで、数万の大敵、山のような大船、いかなる謀を以てしても討ち勝ち難いところであったのに、勝つことが出来た。こうして残る敵船も四散し、日本軍は大勝利を得た。
 これは日本側の記録であるが、柳成龍の「懲毖録」にはこの戦について次のようにある。

 夜半倭船来リテ之ヲ襲フ、軍大ニ潰ユ、元均走リテ海辺ニ至リ舟ヲ棄テテ岸ニ登リ走ラント欲ス、而カモ体肥エ鈍ナリ、松樹ノ下ニ坐ス、左右皆散ズ、或ハ言フ賊ノ害スル所トナルト、或ハ言フ走リ免カルト、終ニ其実ヲ得ズ、李億(ネへんに其)ハ船上ヨリ水ニ投ズ、裴楔ハ是ヨリ先キ私ニ領スル所ノ船ト約シ、戒厳シテ変ヲ待ツ、賊ノ来リ犯シテ港ヲ奪フヲ見ルヤ先ヅ走ル、故ニ其軍独リ全シ、楔還ッテ閑山島ニ至リ火ヲ縦ッテ廬舎糧穀軍器ヲ焚キ、余民ノ留マッテ島中ニ在ル者ヲ徒シ、賊ヲ避ケテ去ラシム

また李舜臣の日記にも「十六日暁、舟師大敗ス、統制使元均、全羅右水使李億(・ネへんに其)、忠清水崔湖及諸将多数害セラルト、痛哭ニ勝エズ」とあり、ともによく日本側の記録に符合し、日本水軍の大勝利と元均の戦死の状をも伝えている。
 漆川梁海戦の大勝利を報じた注進状は、それより二四日を経て八月九日に大坂城の秀吉に届き、秀吉は非常に喜んで早速諸将にあてて感状を発送した。なお敵艦の中で島津又七郎が捕獲した一隻は焼却せずに大坂に送り、秀吉に見せた。これについて秀吉が又七郎に与えた感状には次のように書かれている。

  このたび唐島表で番船百六十余艘を伐り捕ったとき、自ら三番船に乗り移り、敵兵残らず切り捨てたとのこと、他に比類のない手柄である。特にその船を焼かずに日本へ送りつけた配慮は喜ばしい。いずれ帰国のとき褒美を与えよう。なお増田長盛、石田三成、長束正家、前田玄以からも伝えさせよう。
    八月九日                                   御朱印
                                       島津又七郎とのへ(征韓録)

 秀吉はこの戦果に乗じて積極的進撃を命令したが、これはまた現地の諸将の望むところでもあった。諸将は漆川梁の海戦が終わると、早速翌日竹島に会合して作戦を議した。

 南原城の攻撃

 まず日本軍が攻撃目標としたのは、全羅道の南原城であった。ここは明の将帥楊元が三、〇〇〇の兵を率いて守り、朝鮮の将兵も立て籠っていた。これは陸軍の作戦ではあるが、主要な都城なので攻略も容易でないと見て、舟戦の疲労を回復させたのち、八月一〇日を期して全水軍も参加した。
 一二日から諸軍はしだいに城際に迫って攻撃した。水軍の藤堂軍は南からの攻撃軍に加わり、脇坂軍は西、加藤軍は北、島津又七郎らは東からの軍の中にいた。
 進撃はまず西南隅から開始せられた。藤堂軍の藤堂作兵衛方から、しきりに火矢を射かけたのが櫓を燃え上がらせ、これを機会に全軍突撃を開始し、折からの月明を利して白兵戦が演じられた。楊元は数名の兵をつれて命からがら囲みを脱し、約二時の後、全くこの城を占領し終わった。北方の全州にいた遊撃将軍の陳愚衷は三、〇〇〇の兵を持ちながら日本軍を恐れ、来援しようともしなかった。城兵は算を乱して遁走し、生き残ったのは一〇〇余名で、三、〇〇〇人が悉く殺されてしまったという。

 鳴渡洋の海戦

 閑山島で元均が敗死したあと、李舜臣は三道水軍統制使に返り咲いた。日本水軍に勝つことの出来る将軍は李舜臣の外にないことが判ったのである。
 日本軍がはじめて李舜臣の水軍に逢ったのは八月二八日に莞島の西、於蘭浦であった。日本水軍の前衛であったろうか。わずか八隻だったので舜臣ので一二隻とは決戦の気力もなく、戦を交えずに退いた。
 鳴洋渡は珍島と半島部との間の海峡である。潮流はげしく、阿波の鳴門に比較されるような舟の難所であるという。
 日本水軍は九月六日、停泊していた於蘭浦から珍島の北に沿って西海に出ようとした。舜臣は一二隻の軍船で一五日にこの日本水軍を迎え撃った。日本水軍ははじめ潮流に乗り、三〇〇余艘で舜臣の船を囲んだが、中途にして逆潮に転じ、これを利した舜臣は一二隻を縦横に馳駆しつつ八方に砲弾を発射し、死闘数刻の末、ついに安骨浦の馬多時を射殺したため、日本軍は潰走した。
 李舜臣の「陣中日記」によると、海に浮かんだ馬多時の死屍を船上に引き揚げて寸断している。船中に投降した日本人の俊沙という者がいて馬多時に相違いないことを証言している。

 降倭俊沙ハ、乃チ安骨ノ賊陣ヨリ投降シ来ル者ナリ、我ガ船上ニ在リテ俯視シテ曰ク、画文紅錦ノ衣ヲ着スル者ハ乃チ安骨陣ノ賊将馬多時ナリト、吾レ金石孫ヲシテ鉤シテ船頭ニ上ラシメバ則チ俊沙、踴躍シテ曰ク、是レ馬多時ナリト、故ニ即チ寸斬セシム、賊気大ニ挫ク、諸船一時ニ鼓噪シ斉シク進ミ、各地玄字ヲ放チ矢ヲ射ルコト雨ノ如シ、声河岳ヲ震ハシム、賊船三十隻ヲ撞破ス、賊船退去シ更ニ我師ニ近カズ、此レ実ニ天幸ナリ、水勢極メテ険ニ勢亦孤危ナリ、陣ヲ唐笥島ニ移ス(陣中日記)

 ここに安骨浦の馬多時とあるのは来島出雲守通総のこととされている。『寛政重修諸家譜』に、

 九月十六日、水営浦において通総、番船をとらむとして討死す、年三十六、

とある。この戦で大将格で戦死したのは村上水軍の将来島通総一人であった。日本軍は勇将通総の戦死にあい、にわかに士気を失ったものと見える。
 「壬辰戦乱史」には馬多時を来島通総とし、「陣中日記」のこの文を次のように記している。当時、旗艦には安骨浦の日本陣から投降した俊沙という者が乗っていたが、彼は日本軍船を見下して「彼処の紋入りの緋色の甲冑を着た者が、安骨浦陣の主将来島通総という者である」と叫んだ。李舜臣は金石孫に命じて、鎖鉤を投げて搦め取らせ船上に引っ張りあげた。俊沙は「間違いなく来島通総である」と確認したので、その首を刎ねて帆柱の上に梟し、高らかに勝利のどよめきをあげた。日本軍は忿懣やるかたなく一斉に挑みかかった。李舜臣は勝に乗じて前進し、将士らも地字・玄字銃筒と火箭をうって敵船を焼き討ちした。延焼する日本軍船では火の手が火薬に燃えうつり爆発して、その轟音が天海に轟きわたり、火炎は海を覆った。焼かれ死ぬ者、海にとびこんで死ぬ者、血まみれになって右往左往する者など、あたかも生き地獄のような凄惨な状況の中を、引き続き敵船三十隻を撃破すると、これを最後に日本水軍列は一斉に退き始めた。

 南原城攻略後の陸軍

 慶尚道から京城方面に進んだ右軍の毛利秀元・加藤清正・吉川広家・黒田長政・鍋島直茂らは八月一六日に南原城の東北に当たる慶尚道の黄石山城を攻略して全羅道北部の全州に迫った。また南原城を攻略しか宇喜多秀家・小西行長・藤堂高虎・加藤嘉明らの左軍は長駆して同じく全州に合流し、忠清道に入って京城に突入する機会を待った。朝鮮王は遼東に難を避けようと計画するに至り、明の援軍も来り合流して日本軍の北進を妨げた。
 日本軍の北進は、さきの講和条件で要求したように南三道を割譲させるため、忠清道以南の占領を確実にしようとしたものであった。朝鮮側では日本軍を糧食と宿舎で苦しめようとし、野の作物と家屋を取り払う、いわゆる「清野の策」を講じた。そのため日本軍には糧食が欠乏し、奥地への進軍が不可能になったばかりでなく、忠清道や全羅道に留まることさえも不安となって来た。さらに李舜臣の再起によって日本の制海権も動揺し、慶尚道沿岸に引き上げざるを得なくなった。

 わが軍の退却

 よって加藤清正らの軍は忠州から尚州に南下し、軍咸などの東路を通り、永川・慶州を経て蔚山へ下り、一〇月下旬には西生浦へ帰着した。また左軍の毛利秀元らは竹山・鎭川・清州に下り、報恩・金山から星州・昌寧・密陽を経て釜山に帰った。黒田長政らは清州に下って東の咸昌から大邱・密陽と南下して梁山に帰った。こうして日本軍は慶尚道の海岸地帯まで引き上げたが、これは秀吉の指令が深追いせず南海を堅固に防備しながら時期を待で、というものであったともいかれる。
 これを見た明軍はこの時とばかり日本軍を粉砕しようとして大兵を京城に結集した。一一月のことで、明・鮮合わせて一〇万と称し、陸軍は三路より、水軍と呼応して南下して来た。

 蔚山の籠城

 蔚山には加藤清正・太田一吉らが地形を見立て新城を工築中で、浅野幸長・安国寺恵瓊らがおり、一二月二二日にほぼ落成した。ところがその日の未明に楊鎬や麻貴らの大軍が襲って来た。彼等はまず加藤清正の軍を討って日本軍の左臀を断とうとしたのである。清正は六里(約二四キロ)ほど南の西生浦に新城を作ろうとして帰っていたが、急を聞いて馳せつけ、囲を破って入城し、幸長を助けて籠城した。しかしまだ塀も出来上かっていない。堀に水もない。飲料水も糧食も十分整っていない。城兵二、〇〇〇は二〇倍に余る敵軍に囲まれた。敵は城に兵糧の乏しいことを知っていて、気ながに清正を捕える日を待った。城兵は食糧がなくなると牛馬を殺し、夜に入るとひそかに城外に出て寄手の死骸から焼き米を拾って飢えを凌いだ。それも乏しくなると紙を噛み、壁土を煮て食う。雨水に衣類を浸してその汁を吸うという状態である。さすがに剛気な清正もこれには弱った。この耐乏生活が一〇日もつづいてようやく救援軍が到着した。城兵を元気づけ、後方から明兵を撃ちまくる。明兵も腹背の日本兵にこらえかねて最後の総攻撃を加えたが城は落ちず、一万三、〇〇〇の味方の屍体を捨てて囲を解いて潰走した。慶長三年(一五九八)正月四日のことであった。
 日本諸将の中でもこの苦戦に懲りて遠く離れた東の蔚山城と、西の順天城を破棄して、中央部に兵力を結集しようという意見が出たが、これには加藤清正と加藤嘉明が強硬に反対し、また伺いを立てた秀吉もこれを許さなかった。それで引き続き加藤清正が蔚山城を守り、西の順天城には小西行長が駐屯し、その中間の泗川城には島津義弘がいて、周辺を威圧していた。明軍はこの三城に向かって全力を注ぐことになった。
 麻貴は再び東路の将として蔚山城を遠巻きにしたが、前の戦いに懲りて軽々しく戦いを挑んで来ない。中路には李如梅の率いる軍が泗川の島津勢と対陣した。西路には劉綖が向かい、小西行長の順天城を目標とした。また陳璘が水軍を率いて西海を南下し、李舜臣の船隊と合流した。

 秀吉の死

 この南鮮の決戦というべきものは慶長三年八、九月のころになって戦機が熟して来たが、日本の伏見城では秀吉の病が篤くなっていた。朝鮮における出征将士のことを気にかけ、死期が迫ると幼少の秀頼のことのみを気にしながら、後事を徳川家康や前田利家らの五大老に託し、「なごりおしく候」と書き残し、ついに八月一八日六三歳で死去した。出征将士には喪を秘し、機をとらえて和議を調え、日本の体面をそこなわぬように徹兵することが伝えられた。この後の朝鮮におげる戦いは、すべて秀吉の死後のことである。

 順天城の戦い

 順天の城は、もとの順天より二里半(約一〇㌖)も南に宇喜多秀家配下の中国勢と四国勢が新造したもので、慶長二年一二月から小西行長がいた。劉綖の軍は八月にこの城に迫ったが、一挙に戦いを決する自信はなく、行長を城中から誘い出そうとはかり、「然るべき場所で会見して和を講じたい」と申し送って来た。平和論者の行長は望むところと、九月一九日に松浦鎮信以下の将士を連れて城を出たが、一㌖くらい行った所で銃声が聞こえた。これは敵の伏兵が山林中にひそんでいるのを狩に出かけた城中の兵士が発見して遭遇戦になったのだという。行長は無事に城に帰ったが危ういことであった。このとき敵味方ともに、かなりの被害があり、和議は成立せず二か月余りに及んだ。やがて劉綖は水軍の陳璘としめし合わせて順天城を襲ったが、城中から銃丸が雨のように発射され、近づくことが出来なかった。一〇月二日には水軍が押し寄せ、行長の陣の屋根を撃ち抜いたが、積極的には攻めてこない。やがて泗川の明軍の敗報を聞いて劉綖は退却した。

 泗川の戦い

 泗川は深い湾入の奥にあって、島津義弘が新城を造営し、慶長二年(一五九七)一二月二七日から明軍の来襲に備え、糧食を十分に貯えていた。近隣に多くの支城を持っていたが、明の大軍を城下に集めて一挙に勝利を収めようと考え、支城の兵を順次に引き揚げさせ、同三年九月二八日から全兵を泗川に籠らせていた。明軍は勢いに乗じ城を囲み、一〇月一日から攻防戦が始まった。主将董一元の指揮で、歩兵は大手から、騎兵は左右から迫って、巳の刻(午前一〇時)に堀際まで攻め寄せた。義弘は逸る諸将を制し、十分に引き寄せておいて一度に弓矢と鉄砲を浴びせかけた。敵の陣形が乱れ、浮き足立った所へ火薬に火をつけたので、黒煙が天に沖し、敵兵は恐れて逃げ出した。すかさず島津忠長を先頭に城兵がどっと繰り出して敵を追う。義弘・忠恒父子も陣頭に立ち、敵の首を刎ねた。
 時に横合いから敵が丘をかけ下りて先陣に迫った。これには味方もたじろいたが、新納・横山らの諸勢がその背後を襲ったので明兵は完敗し、島津勢の挙げた首は三万五、〇〇〇という。大将董一元は足も地につかず、星州に敗走した。日本軍の空前の大勝であった。
 一〇月一三日に和議が講ぜられ、日本軍としては既に帰国の命令が届いていたので、人質を受けて島津義弘は和議を成立させた。順天の小西行長に対しても二五日に人質が送られ、義弘・行長はじめ南海の宗義智、固城の立花宗茂らも一斉に退陣することにし、巨済島で勢揃いし、一一月一五日に釜山に集合し、内地に帰国する手筈になっていた(征韓録)。

 露梁津の海戦

 小西行長は一一月一〇日に順天を出発し、南下したが、間もなく敵の水軍に行く手を阻まれた。諸将中にはこれを突破して友軍に合流しようという者もあったが、行長はこれを斥けて再び順天にひき返し、明将陳璘に使を送り、違約を非難した。しかし既に秀吉の死を知った陳璘は容易に応ぜず、しかし進撃に出ることもしなかった。
 行長の船が妨げられたことを知った島津・宗らは船艦五〇〇隻を率いて、夜潮に乗じ露梁津を経て順天を援助することになった。
 この報を得て陳璘・李舜臣は一七日の夜、露梁津に向かった。日本水軍に最後の決戦をいどむためである。この海峡で遭遇戦が行われた。敵ははじめ火器の使用を誤り、混乱に陥った。我が軍はすかさず敵艦にのぼり、鄧子龍らの将を討ち取った。
 敵は陳璘と李舜臣が分かれて二隊となって、我が船艦を左右から挾撃した。
 この乱戦の中で、陣頭指揮を執っていた舜臣の胸に日本軍の放った弾丸が当たり、背中に貫通した。部下がかけ寄って抱えて幔幕の中に入れた。舜臣は「戦いはいまやたけなわ、私の死んだことをいま、みんなに知らせてはならぬ」と止めて、息を引きとったという(懲毖録)。
 こうして乱戦数刻にわたり、互いに死傷があったが、戦いは一八日の夕刻に終わった。この戦いの間に小西行長の船は麗水洋に出て、巨済島に着くことが出来た。この一戦を最後として、日本水軍を悩ませた名将李舜臣も戦死し、また出征の諸将も順次凱旋し、前後七年の外征は終わった。
 「壬辰戦乱史」の著者李(・さんずいに冏)錫氏は大著の巻末に、香吉の不法侵略・好戦的出兵も彼の生きた戦国時代に常勝無敗を誇った者としてやむを得ぬ道行きで、朝鮮が被った戦乱と試練の中から中興再造を達成したことを天祐なるかなと感じ、明日の祖国を富強にするため五点を考究する。
 一、少数精鋭主義の当否。兵力の多寡は必ずしも勝敗の根本的要素でない。今後の戦争では士卒は巨大な戦闘機械の一部品であり各人の活躍如何が全軍の勝敗につながる。徹底的に質の高揚に務めるべきである。
 二、地域防御の問題。この戦いで朝鮮軍の地域固守を高く評価する。城を敵に献じた例は一つもない、大義に殉ずる壮烈な愛国心を仰ぐ。
 三、作戦に関して。朝鮮軍は山岳作戦と海戦にすぐれ河川作戦と邑城作戦に劣る。海戦における朝鮮軍の指導はすぐれたが陸上からの援軍は皆無に等しかった。
 四、軍の指導権確立の問題。文治一辺倒と極端な相互牽制があった。大臣上司の顔色を窺い、創意工夫の作戦用兵に欠けた。その点、海の彼方にあった秀吉は止むを得ぬ失敗に対して寛大な度量を見せ、激励と慰労をして再起奮発の機会を与えていた、とする。
 五、戦争間の再認識に関して。秀吉は何人の意見も容れず独断で好戦暴師を出撃させ王道に挑戦し、因巣応報、没後一七年目に豊臣氏は大坂城に滅んだ。好戦と忘戦は共に国と民族を亡ぼす毒素である。武力は戦争のための部分的手段にすぎず、武力以外の外交的折衝が必要。いかなる場合も大義名分が立ち正義人道を共にせざるを得ぬ事実を知るべきである。この戦後は朝・明両国にとり、大義名分の立つ聖戦であったゆえ、遂に天佑神助を得て讐敵を撃退し得た、と結んでいる。

図1-11 南原城戦闘要図

図1-11 南原城戦闘要図