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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

二 領主の交替

 東予五郡の福島正則

 天正一五年(一五八七)六月に小早川隆景が筑前国に転封されると、その跡は東予で一一万石余を福島正則に、中予・南予で約一五万石が戸田勝隆に与えられた。
 正則は尾張国の生まれで、幼時から秀吉に仕え、二三歳の天正一一年四月、賤ヶ嶽の合戦では七本槍の一人として功名をあげ、近江・河内のうちで五、〇〇〇石を与えられた。同一三年三月には、紀州雑賀の陣に加わって功があり、従五位下左衛門大夫と称した。天正一五年九州征伐の功により、伊予国で宇摩・新居・周敷(布)・桑村・越智の五郡一一万三、二〇〇石を受領した(資近上一-36)。
 正則は、はじめ道後湯築城に入城した。これは旧領主河野氏が安芸国竹原に移った跡を確かめる要があったことと、秀吉の蔵入地九万石が中予にあって、その代官を命じられていたため管理する必要のあったこと(予章記)、と思われる。間もなく彼は領国のうち越智郡国分山城に移った。この城はもと村上元吉の居城であったが、没落して廃城となっていたのを修築して居城としたものと思われる。文禄四年(一五九五)一〇月(七月とも)に尾張国清洲に二四万石を得て移るまで、約九年間ここを居城とした。
 天正一五年九月八日付、秀吉から正則に宛てた書状(資近上一-37)によると、所領が戸田勝隆と接しているので、互いに協力し合い、治政に当たっては独断を避けるようにと強調しているのは、『予章記』に記すように福島の代官所が九万石、戸田のそれが一〇万石となっており、この秀吉の蔵入地が恐らく松山平野中心に存在して互いに隣接していたことを指すのであろう。
 また右の書状では与えた所領が九州・四国の要地にあるため特に心を配り、居城は勿論、領内にある城の普請に気を付け、知行に相応する家臣を召し抱えること、法度を固く守らせ、民政に留意することを強調している。
 正則は入国早々、秀吉の趣旨に添って領内の検地を実施したものと見え、新居郡長安村(現西条市)の検地帳に「長安村本帳 天正十五年八月八日 左衛門大輔正則花押」と明記され、現地の旧庄屋家に残っている。百姓名に○○門尉・三郎太輔・五郎太夫・三郎右衛門などが見えるのは、帰農した国侍などが多かったことを示すものであろう。帳尻を見ると村高は、田方二四町四反四畝一三歩・畠方一二町四反八畝三歩、田畠分米惣計三六五石二斗六升六合となっている。
 しかし、現在検地帳は、長安村一村のみに残り、領内の他郡村のものは見当からないが、『西条誌』によれば西寒川村の条に「当村天正十九卯歳、福島左衛門太夫殿検地也と云」と見えているから、東予の検地は彼が行ったものと見て良いであろう。
 正則の民政の一端を知るものとして、由緒ある家系の国侍の子孫を優遇して田地を与えている。例えば武田富若丸(信吉)には「先祖幷臣下の菩提、懈怠なく相弔の条、神妙の至」として朝倉山田で六町を与えており(朝倉武田文書)、また国安村の越智源右衛門に対しては「其元儀、先祖由緒承候」として田地六町と、国安村の宰領を命じている。近世庄屋の源をなすものであろう(資近上一-38)。
 また天正一八年には、伊勢神宮に「上様御祈禱のため」として周布郡北条村で知行一〇〇石を寄進し(神宮文書)、天正二〇年には越智郡鴨部村の光林寺の住持に「居屋敷および田二段」を寄進している(資近上一-40)。また高野山上蔵院に対して「所領各郡郷村民が檀徒たるに相違ない」として宿坊証文を出している(金剛三昧院文書)。このように神仏を敬い、社寺の保護をしている。
 また天正一七年には桑村郡河原津に浦方掟を公布して代官指導の下に一年に二回、大坂に商船を遣わすことなどを許し、正則の出す船であっても、一〇〇石一艘につき舟賃四分宛を遣わすなど、七か条の条目を示している。

 宇和喜多の領主戸田勝隆

 『宇和旧記』に「天正十五年秋より文禄三年まで八か年、戸田三郎四郎、後に民部少輔と号す、伊予半国の守護として入部」とあり、また「戸田民部少輔 天正十五年 宇和喜多十六万石領之」とある。しかし石高については定説がない。生国は美濃とも、また尾張ともいわれている。隆景の筑前転出のあとを受けて東予の福島正則とともに伊予に入部した。別に蔵入地代官を命じられていたようで、大津城(現大洲)を主城としていた。
 秀吉の四国征伐では三好秀次の配下にいて阿波を攻略したが、九州征伐では前田利長ら五万騎の中に加わり、大隅方面を攻略した(甫庵太閤記)。
 天正一五年、浅野長吉(長政)の伊予検地に当たって、これを受け入れたのは戸田勝隆であった。二神島(現温泉郡中島町)で村人たちに触れ書を出し、上使への食事の用意無用、馬の飼料は百姓が用意し、一疋につき一日糠五升、藁なら五わ、草なら二荷とせよ、薪の類も人数に応じて用意せよ、礼物は一切不要、酒肴も出してはならぬ、丈量の誤りで不足する時は代官・給人に申し出て稲の三分の一は百姓が取れ、離散百姓・命令に背く百姓は長百姓らで取り締まれ、などの条々を命じている(資近上一―32)。
 戸田勝隆の所領は喜多郡に続く浮穴郡にも及んでいたとみえ、浮穴郡久万山に次のような記録が残っている。

 一、天正十五年戸田民部少輔之領、大津亀ヶ城居城
 一、天正十五年丁亥、浅野弾正少弼長政竿入、七ヶ年後戸田民部少輔改竿之有候を荒検地と言ふ、
 一、戸田殿御領地に相成候節、九人衆と申す御預人之有、右知行左之通り、五千石安見左近 三千石真部五郎兵衛 二千石戸田五郎右衛門 二千石戸田太郎右衛門 二千石戸田又右衛門 千石滝山太郎左衛門 千石佐藤伝右衛門 千石田島兵助 千石山中織部〆 一万八千石 内六千石北浮穴郡にて渡る 内六千石桑村郡にて渡る 内六千石小田分(浮穴郡)にて渡る              (「古今見聞録」曽根八千代蔵)

 秀吉が異常な決意で全国に検地を強行したことは、天正一八年八月一二日の秀吉の浅野長政あての朱印状でよく知られている(『大日本古文書』「浅野家文書」五九)。検地の趣意を国人・百姓らに合点のゆくように、よくよく申し聞かせ、それでもなお納得しない場合は、城主であれば城に追い入れ、一人も残さずなで斬りにせよ、百姓以下は一郷も二郷も悉くなで斬りにせよ、たとえ無人の地となってもよい、というもので、戸田勝隆が知行地内で検地を強行したのは、全く秀吉の意志をそのままに実施したものであった。
 中予に河野氏がいたように、宇和郡の黒瀬城には西園寺公広がいた。黒瀬城の開城後は領内九島浦(現宇和島市本九島)に隠棲していたが、勝隆はこれを最も恐れ、大津に呼んで謀殺している(資近上一-45)。
 勝隆は小領主たちに対しては下城を迫り、名主層に対しては「指出」の提出を命じ、これを基準に徴税を断行しようとした。しかし時期は冬も半ばを過ぎ、納税に備える物もなく逼迫し、ついに年貢納入の厳しさに堪えかね、宇和地方の広範囲にわたって土豪の一揆が起こり、城代を置く黒瀬・丸串の城を二、〇〇〇余人が取り囲み、激しく攻撃した。勝隆もこれには手を焼いたが、土居清良たちを利用して、ようやくこの一揆を鎮圧し、多数の主謀者を捕え極刑に処した。

 天正十六戊子二月十二日、政信(勝隆)板島丸串の城へ入られて、翌日より多くの人質共を牢より出され、苗字あざなを正し、その帳を以て謀叛人の吟味あるかと思へば左はなくて、いにしへより弓矢をつよく取、名ある者の分、片端より捕へ繩をかけ置き、三間より板島立間辺、津島までの通路十里ほどの間に磔に掛けらる。その数七百八拾弐ヶ所、其外断罪の者数を知らず、去歳以来、村浦にて死する者、彼是二千余人、其後は国中もおひおひ鎮まりにけり   (清良記巻三〇)

 このような大弾圧を加えた彼の性質は、粗暴残酷で神社仏閣も顧みることなく、その多くが荒廃したといわれる。その悪逆さの故に、彼は文禄三年(一五九四)に狂死したと『清良記』は筆誅を加えている。
 しかし、検地に当たって「一郷も二郷もなで斬り」と不退転の決意で臨んだ秀吉の意志を体する戦国武将の戸田勝隆である。任国で検地を断行し、苛責なく徴税を行う、これに対して土豪勢力の根強い反抗に逢うことは覚悟の上であったに違いない。勝隆としても、これを最後の見せしめにと、ことさら残酷に対処したと思われる。