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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 石鐵・神山県政と愛媛県

石鍼県の発足

 明治四年一一月一五日、宇和島県とともに松山県が成立し、同年末就任した参事本山茂任と権参事桜井熊一らは新県の施策を検討した。県名の改称もその一つで、旧藩名の松山では旧習は除き難い、人民の耳目を一新したい、旧今治・西条・小松県から反対の陳情があるという理由で政府に申請し、翌年二月九日石鍼県と改称することが許可された。開庁は三月二日で新県の幹部が各地から着任した。このとき同県の官員は四二人であった。うち、本山参事以下高知県人九人、旧松山県官吏一二人、旧今治県官吏六人を中心とし、他も静岡・豊岡・長野・東京など二一県一五人に及んだ。著名人では小林信近・内藤鳴雪・半井梧菴らがいた。
 明治五年三月の布告によって旧四県の制札・標木が取り除かれ、封建の余弊を除き官民一致して文明の域に達するべき新県の基本方針が発表された(久門日記)。まず庄屋制が改正され大庄屋を大里正、改庄屋を中里正、庄屋を小里正、町年寄を市長と改称したが、五月一〇日これを廃して区制施行により戸長・小区長を設置した(『愛媛県史近代上』)。戸長の職務は旧里正の仕事を引き継いで毎月戸口や牛馬数を調査すること、日誌の記帳や正雑税調査、布告の通達、災害処理、無印の者の止宿取り締まり、風俗矯正などであり、公事の時は必ずコンテル(コールテンか)ズボンを着用する定めであった。戸長場へは小区長が一人ずつ交替で詰め、小区長場へは小使いが一人ずつ付いていた。
 同年四月四日、県都松山が西に偏しているため西条に支庁を置いたが九月八日これを廃し、一〇月二日に県域中央の今治へ県庁移転伺いを提出した。移転理由には同地が旧国府の地、海運第一の地であることなどをあげている。一七日には大蔵省から許可があって翌月から移転を準備し、明治六年一月一七日に今治庁舎での事務が開始された。なお前年の五月一五日には県域の変更があった(『愛媛県史近代上』参照)。明治五年一二月、同県の概要は一二郡九七市街五六一か村、戸数九万六、一七五戸、人口四二万三〇三人であった。

石鍼県の開化策

 明治五年四月、県は民費で大区毎に一人ずつ取り締まりを置かせて治安に当たったが、六月からは梶棒を持つ邏卒を配置した。戸籍を糺し、脱籍者や無産の者を取り締まり、四国遍路に名を借る乞食非人を復籍させ、無頼の徒や流言を言う者は邏卒に召し捕らせた。止宿取り締まりも厳しく、府県発行の印鑑の無い者を泊めてはならなかった。交通政策では同年三月に松山・川之江・西条・今治など県下六か所に郵便所を開設し、切手売捌人を置き、九月に川之江・三島・西条・今治・三津・久万など二七か所に陸運会社を設置した。当時は道路を公衆の物と考えない者が多く、清掃や並木の保護を度々布告したが、八月には街路取締令一六か条により細かく指示した。例えば提灯は軒下に吊るすこと、川に塵芥を捨てるな、路上に材木を置くな、寺院の路標等を取力除き橋の修理に用いよ、などである。
 文明開化の実を上げるための基本方針は、明治五年七月の「民俗習俗の醜悪を改むる告諭」一五か条、八月の「説諭大意」、翌年一月の「年頭告諭」二四か条などで示されたが、公議世論の尊重の政府の方針によって同月「石鐵県公議所」を設けた。これは会日の一五日に、意見のある者は誰でも出頭または書面で建議してよく、二月一五日の会議では民費削減の法、学校設立をすすめる法などが議題となった。また県内所々へ目安箱も設置した。石鍼県が悪習として禁じたものは裸体での往来、立小便、物乞い、芝居興行、婦人の表口での肩脱、門松や雛・幟、河豚の売買、小児の圧殺や棄児、喫煙や若年者の飲酒、大師講・月待講、五節供、頼母子や富くじ、夜中の無灯火通行、碁・将棋などであった。

石鍼県政

 士族の郷居と授産のため明治五年三月、県は官有林六三九町余を開墾目的に払い下げた。同年四月には旧松山県有の玉繁丸・大寿丸ら大船六艘を多却武五郎(旧今治藩士)らに売却、九月には旧今治県有のうち蒸気船小雀丸を売却し、海運業を振興させようとした。同年五月から一〇月にかげては一代卒の世襲士族編入願、廃卒の復旧願、士卒の貸付金や下付米の願いが相次ぎ、それらはすべて大蔵省へ申請し裁断を受けるため、事務は多忙を極めた。
 政府は税制の統一のため俵の枡目の一定、俵拵えの強化を指示する「俵制新規則」を明治五年八月に公布した。しかし県下農民は費用が高くなる、年貢取立ての強化としてこれに反対意見が強く、不穏の動きもあって本年分の徴米が困難の恐れがあり、治安も保証できぬ状勢であった。一〇月八日、各区長からも緩和方の申し入れがあり、県吏は上京して本山参事に事態を報告した。参事は一一月二七日県内戸長を非常召集し、政府も官も近代化へ努力している中で、農民のみが旧慣を守ろうとする不心得を諭し、厳正な実施を命じた。
 明治五年四月一九日、松山に松山学校を設置し皇学・洋典・数学・医学・筆学の五科を置いた。同月西条・今治・小松にも県学校が開設されたが、八月二日の「学制頒布」により廃止された。学制では六~一三歳の子弟をすべて届出、小区毎に小学校一校ずつを設立するものとした。しかし費用を要することでもあり、子供を外国へ売るなどの流言もあって余り進まず、一〇月二日管内三中学区(松山・西条・今治)二一二小学区に対し一二月末で三六校の開設をみたのみであった(『愛媛県史近代上』二八七~二九一頁参照)。明治六年二月、人智を開き、旧染の汚浴に安んじないための学事奨励の告諭、管内の孝行者・貞実な者の賞揚が、同県最後の布告となった。明治六年二月二〇日、石鍼県は廃県となり、三月二三日県務を愛媛県参事江木康直に交収した。

神山県の発足

 明治四年一一月一五日、松山県成立時に南予四県も合して宇和島県が成立した。県参事には平岡準四郎、続いて井関盛良が任命されたが着任せぬまま免官となり名古屋県人の間嶋冬道が就任した。しかし県名が旧藩名のままでは民心の掌握に不都合なため石鐵県に倣って明治五年六月二三日神山県と改名した。改称の理由は五月の上申書によると管内の中央矢野にある名山出石山を矢野の神山と称したことによる。県令は権令から昇格した間嶋であったがヒ月に免官となり、権参事であった山口県人の江木康直が就任した。県官員四〇人中山口県出身が八人、旧宇和島県官が一六人、愛知県人三人、他に佐賀・宮城・新潟・東京などの出身者もいた。
 神山県発足当初の課題は県境の決定、石鐵県との転轄、篠山・沖ノ島・鵜来島の高知県との帰属問題などがあった。明治五年五月の大小区制は人口・戸数よりも地理地勢を重視し、四郡四〇市街四四〇か村のうち小村は合併して七〇小区とした。区長・戸長には殆んど旧庄屋が任命され、租税徴収や政令の布達、戸籍事務や風俗取り締まりに当たった。同年末現在の戸数八万五五五戸、人口は三四万二、三五七人であった。

神山県政

 開化策については石鐵県とほぼ同様である。流言防止と布告の徹底のため戸籍番号順に一〇戸ずつの組合を作らせた。明治五年六月には乞食遍路の取り締まり、闘牛・堕胎・売女渡世を禁止し、九月には千人会・大弓などの名称による無尽・賭博を禁じ、若者宿での男女混宿を禁じた。伝馬・飛脚は廃され三月に大洲・内ノ子・八幡浜など管内八か所に郵便所を設け、九月には郡中・中山・大洲など一五か所に陸運会社を設立した。管内外の施行については士卒戸主は三日以上、同家族と平民の三〇日以上は県へ届出を要した。
 明治五年二月には田畑永代売買の禁が解かれ、地券渡方規則が公布された。地租改正の前段階として土地の売買・譲渡時には地券の交付を受けることになり、七月には県から全私有地に対し地券交付を布達した。しかし年貢の増加や耕地没収への不安から反別調査はなかなか進展しなかった。同月「網株並魚荷規則」により網代の専有権は引き揚げられて順番に使用することになり、魚類の出荷を自由とした。また新谷・五十崎・寺村の楮役所が保有する大量の楮・紙、大洲町蔵の櫨実・蝋・襖紙などを入札により処分し、これら旧国産品の他所売りを自由とした。
 教育面では県の統廃合時に一時学校閉鎖も行われたが、神山県立庁後は校則を改正して諸学校の興隆を図った。既に旧宇和島県では明治四年一二月から新制の学校設立を準備していたが、明治五年六月八日宇和島学校を設立した。ついで吉田・大洲・八幡浜学校を設立し、七月二七日大属の肝付兼弘を学務専任とし、郡民にも就学と協力を要請した。同年八月の学制頒布により同県の教育政策も大きく進展した。

愛媛県の成立

 廃藩置県によって成立した丸亀県を含む伊予の九県は、明治四年一一月に東中予の五県が統合されて松山県、南予の四県が宇和島県となった。両県は後に石鐵・神山県と改称したが、政府の府県の統合政策により明治六年二月二〇日、合併して愛媛県が成立した。県庁は太政官布告により松山に置かれ、県民へは三月一日付の県布達により通告された。そして、初代愛媛県参事には旧神山県参事の江木康直が任命され、権参事大久保親彦や七等出仕西園寺公成らとともに三月二二日松山に赴任し、翌日開庁された。
 新発足の県政は県治体制の確立、財政再建とともに篠山・沖ノ島の境界論争の解決など県域の確立、大小区制の改定、学制の施行による学校建設と就学指導、地租改正や徴兵事務、家禄の改正や産業の育成など山積する難問に対処した。

表8-45 石鐵県出納勘定目録

表8-45 石鐵県出納勘定目録