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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 高知藩兵の進駐と支配

松山藩の恭順

 藩主松平定昭は鳥羽伏見の戦の際に、人心の鎮撫方に尽力しながらも慶喜に従って下坂した旨を恐縮していること、戦端には一兵卒も参加しなかったこと、上京し自訴すべきところを叡慮の程を深く恐れ入り一先帰邑すること、朝廷に対して全く異心のない旨等を上表して、慶応四年一月ナ十日高浜に帰着した。堺では、慶喜を追って江戸に向かい、徳川と運命を共にしようと主張する藩士もいたという。しかしすでに会津・桑名等七五藩主の官位は剥奪され、一月一〇日には高松・松山・大垣・姫路四藩が、慶喜の反逆に味方して官軍に敵対し大逆無道として追討令が出されていた。
 中四国方面の征討総督には参与の四条隆歌が命じられ、一月一一日高知藩に高松・松山と川之江その他の幕領追討令が発せられた。ついで長州藩・福山藩にも松山出兵、伊予国内では宇和島・大洲・新谷の三藩へ、土佐に応援または協力しての出兵が命じられた。二〇日松山藩は定昭と士民の名で嘆願書を認めた。慶喜の将軍職の辞退や大坂開城の様子は朝廷に対して恭順が明山であること、親族として徳川と行動を共にした点を弁明し、朝敵の名の取り消しを訴えた。しかし嘆願書を持って二二日出帆した使者は大坂以北へ入り込むことが許されず空しく帰藩した(『松山叢談』)。

 高知藩は征討車に先立ち、一九日に問罪使として大目付小笠原唯八・御仕置役金子平十郎を命じた。二人は二三日松山に到着し、勅命によって兵卒を差し向け、伏罪するかそれとも異議に及ばれ候や、速やかに返答されたい、と申し入れた。藩主松平定昭は二四日惣出仕を命じ、藩士に決意を伝えた上で、王帥に敵対するとはなくどのような命にでも服すこと、臣下まで全く異論のないことを誓い、朝廷の取りなしを懇願する旨の返書を提出した。また領内の村々へも二一日官軍への恭順を誓わせ穏便にすごす旨を布告し、翌日鳴物停止や旅人止宿禁止などを布告した(「湯山村公用書」)。
 また謹慎の意を明らかにするため一月二五日藩庁を明教館に移し、定昭は前藩主勝成と共に城を出て菩提所の常信寺に入った。当日は全市中が門戸を閉ざし重苦しい雰囲気であったが、松山開城の申触付小伝わると市中大騒動となり、町奉行以下諸役人が説得にっとめたが、なかなか鎮まらなかった。堀之内の重臣らも藩主にならって残らず家屋敷を明渡し、藩庁の記録類も城内で焼却をした(『愛媛県編年史に9)。
 しかし松山藩の内部では恭順か防戦かの両説が藩士の帰国以来激しく論争され、常信寺の中でも続けられたという。二六日夜半、藤野正啓の案で崎門派の学者三上新左衛門是庵を召して善後策を諮問した際、新左衛門は一五互石を返上し王命尊奉の意をみせるほか道なしと説き、ようやく一決したという(『媛県編年史』9)。定昭・勝成は「赤心報国」と合筆して恭順の意を示し、二七日重ねて定昭と藩士の名で朝廷へ赦免の嘆願書を提出した。また今治藩を通じても弁事役所・土州・長州へ謝罪書を提出した。

土佐藩兵の進駐

 土佐の松山征討軍は先陣深尾刑部、二陣深尾左馬之助ら八小隊と砲隊・胡蝶隊ら七三〇人が致道館で兵列を整え、一月二一日まず先陣が出発した。二七日松山城外立花口に着陣し、高松から来た本山只一郎から錦旗を受け取り、御旗を先頭に松山城へ進軍した。搦手門では大砲四門を発射し、家老水野主殿・鈴木七郎兵衛は麻の裃で刑部らを迎え、恭順書を差出した。
 同日は雨で市中も比較的平穏であった。土州兵は隊列を組んで城内に入り、左馬之助から「朝命により参った、隣国の義気の毒に存じ候」、と挨拶があり、二七日夕方から城地・兵庫を収め、各所に封印して松山城の接収を二八日の早朝に完了した。左馬之助か鈴木七郎兵衛に渡した覚書によると城地・土地人民・城内の銃や弾丸を受取り、旧幕府や松山藩の制札は取除くこと、恭順の常信寺へは番兵を出す、朝廷への嘆願書は受け取る、諸法度は従来通りとし、農工商は平日の通りの生業従事を布告している。恭順が明瞭であるため兵士は城中には留まらず、市中要所に「土州預り地」の制札を掲げて滞陣した。征討軍の行動は極めて迅速でまた紳士的であったという。二八日暮には征討総督四条隆謌も、京都にあった今田光四郎以下一八五名の高知藩兵と共に松山に入り、土州勢の総兵は九一五人となった(『愛媛県編年史』9)。
 同日の午後、杉孫七郎の率いる長州兵が三〇隻に分乗し、風早島を通って三津浜に到着した。整武隊三中隊・歩兵二中隊と砲隊合わせて約五〇〇人の兵力で、停泊中の松山艦船一隻を接収し、上陸して門田屋を本陣とし「長州預り分」の制札を掲げた。高知藩は市中各戸に土州下陣の紙札を貼り、長州勢を拒否せんとしたが、整武隊は一時城下に入り大法寺を本陣とし、法泉寺・安楽寺など五か寺に陣した(「木村日記」)。二月一日杉孫七郎、堅田大和らが城内外を見分し、常信寺で勝成父子の謹慎を確認した。この日も定昭と藩士一同の名で長州勢宛に、朝廷へ取成し依頼の嘆願署を提出した。なお風早郡安居島には土州・長州二本の預かり札が建てられたが、両藩の話合いで風早・野間二郡の島方分は全て長州預かりと決した。野間郡来島村へも「当分長州領」の制札と長州出張役所からの告諭が発せられた(『菊間町誌』)。
 福山藩は一月二五日に長州兵応援軍として出兵の命をうけ、二八日阿部主計頭を隊長として輛津を出帆した。しかし激しい風波のため各所に碇泊し、三津浜に着いたのは二月七日であった。翌八日、長州兵全軍と共に城中を検分し、勝成父子の謹慎を見届けて三津に帰陣した。二月一九日松山の取り締まりは高知一藩に命じられ、福山藩は二月末までに、長州勢も三月三日には全軍が引き揚げた。征討軍の駐屯中は土州より領内各村へ兵糧米・蒲団などの調達命令があり、二月六日には温泉郡湯山村へも薪炭・野菜の出荷を催促している(「湯山村公用書」)。

高知藩の支配

 土佐の松山征討軍は、出発前から厳しい軍律を指示されており、事実二月五日には兵士四人が軍法違反により処刑され、北堀端に三日間梟し首となった。入城と共に松山領分への諸法度は従前のままとし、安心して生業に励むべき旨が各村に布告された。旧来の制札は一月二七日庄屋宅へ集められ、「松山領一円当分土州領」巾一尺長三尺の制札が建てられた。二九日は土州大監察の名で此度の動揺に乗じて窃盗や狼籍をする者は切り捨てること、公事訴訟は土州役所へ申し立てることを布告した(板札で巾二尺長さ二尺二寸)。翌二月九日には役人へのまいないの禁、博突・邪教の処分など更に細かい一一か条を掲げて治安の維持を図った。
 松山藩側も藩士や領民に対し、藩主も謹慎中であるから流言に惑わされて動揺せぬよう、又官軍に対し子供でも不敬不作法のことがないよう指示した(「松山藩布告留」)。土州兵入城前後は松山銀札不通用の風説により、金一両が三五〇匁と下落したが、町役人らの説得により二七日には二〇〇匁と回復した。領内でも二月に温泉郡の庄屋百姓らが勝成父子の赦免取成しを、閏四月八日には諸郡の大庄屋らも免罪を高知藩へ嘆願した。温泉郡各村の惣代らも両藩主の武運長久と帰城を祈って氏神に日参、また参籠した。野間郡浜村では雛飾りや五月幟を遠慮し、各村でも農兵に志願する者が多かったという。
 土佐側でも二月一〇日から郡奉行はじめ役付きの面々が各郡村々を順回し、野間郡浜村では浜手見張番所の撤去を命じた。各村には三月一五日村高・船数の調査報告、四月九日に神社・寺院の明細書を提出させている(菊間浜村文書)。四月から五月にかけては村々よりの願書は土佐郡府掛役所へ提出すること、役人の回村の節には一日一人について米一升五合を提供すること、各村への道筋や通行費等を記帳して提出することなどを命じた(「湯山村公用書」)。

松山藩の赦免

 松山藩から朝廷への嘆願はその後も続けられた。また四月一二日には家臣から高知藩の添書を付して、定昭の家族を江戸から国元へ帰すよう嘆願して許され、夫人と定詰の藩士が五月二日に蒸気船で江戸を発ち、七日三津浜に帰着した。閏四月一五日(布告留では二五日)勝成から土州総督を通じて、寛大な処置を願う嘆願書を提出した(『松山叢談』)。
 こうした恭順の実と度々の嘆願は漸く新政府も認める所となり、五月一三日に寛大の仁恵による処分が定まり、上州総督より二二日に示達され、即日各村へも布告された。処分は一五万石の本領は下賜されるが藩主は松平獣成の再勤として定昭は蟄居、また家老菅但馬、鈴木七右衛門、松下小源太以下重臣にも閉門・隠居というものであった。しかも同時に東北出兵の代わりに一五万両の軍資金の貢納が命じられた。勝成父子は早速寛大な処置を謝し、忠勤を励む旨の請書を提出した。二五日(『塩屋記録』は二六日)、勝成は城下町人の歓声の中を常信寺から帰城し、定昭は東野の吟松庵に入った。土州先勢は四月一七日に来着した山内下総軍と交代して二九日に帰城していたが、勝成の藩主復帰によって同藩の退去が命じられ、預かり諸事を引き継いで五月二八日には全軍が引揚げ、四か月に亘った高知藩の松山軍政が終了した。
 しかし松山藩は一五万両の調達に苦慮した。長州出兵や高知藩兵駐屯の費用などで藩財政・領民ともに窮乏し、家中も既に久しく人数扶持であった。京坂の銀主への借入金も嵩んでいたが、滞納は朝命に背くことであり、八方手を尽くして六月八日取り敢えず五万両を在京の老臣から納入し、一〇万両は藩主に内密でしばらくの猶予を嘆願した。結局は大部分を郷町に頼る他なく六月二五日以降諸郡代官や富商・村役人らを集め三年賦年一割の利で借入れを申し入れ、また村毎の負担額を決定した。皆納は八月二三日であった。
 勝成は天機伺いの上京を五月二九日に願って許され、六月二六日出船し七月五日に入京した。翌日弁事役所の命で旧姓久松に復し一二日に参内した。六月二五日付で軍務官から、堺警衛のため三〇〇人の出兵命令があり七月三日到着したが、すぐに出兵免除の報があった。しかし七月一七日には山陵行幸の御先警衛、三〇日には住吉表厳重警衛のため一大隊の出兵を命じられた。九月一〇日隊長長沼吉兵衛以下徒士・足軽各二小隊ら六〇一人が国元を出船し一五日に住吉に到着した(『松山叢談』)。
 藩は領民の慰撫にもつとめ、六月一六日領分百姓へ困難中よく堪えて謹慎したと米一万俵を下付した(三輪田日記)。また一〇月七日、詰所へ庄屋以下長百姓らを集め、村内の治安や上納金て世話になったと代官から庄屋ヘ一○○疋と扇子、住職や神職には酒が贈られた。一二月初旬にも回村して老人に金品を贈り、二三日代官から庄屋・郷筒・郷夫・船大工・船持などへも酒肴を下付した(波方大河内家文書)。明治二年三月六日、久松定昭も国務には関与せぬという条件付きで塾居を免じられた。

川之江進駐

 伊予の幕領のうち宇摩・新居郡二三か村は、享保六年(一七二一)閏七月に直轄から松山藩預かりとなり、川之江村に支配所が設置された。越智・桑村郡一九か村も明和二年(一七六五)二月から同藩預かりとなり、桜井外に出張所が置かれた。支配所には初め代官以下一二名が常駐したが、順次規模を縮小し文化頃からは代官は松山在住となり、手付・手代各二名が松山藩の指示を受けて支配した。非常の際には松山へ急使の早馬の乗継が用意されており、藩から取り締まりの人数が繰り出した。なお別子銅山は幕府の所有であるが、住友家が稼行していた。
 幕末の幕領ではこうした支配の弱体もあってか、万延元年(一八六〇)の川之江騒動など一揆が多発した。しかし対外緊張の高まる文久ごろからは村毎に費用人員を負担して海防強化につとめ、長州へも出兵した。慶応二年(一八六六)六月、西洋銃隊を組織して領内の治安に当たり、三年八月には新軍隊三小隊を編成した(川之江村大庄屋役用記)。同地は交通の要地で情報も早く、経済力もあって政情の変化に機敏に対応したといえる。
 松山から鳥羽伏見の敗戦の急報をうけた川之江陣屋では、陣屋詰役人伊藤忠右衛門、杉山保兵衛らが一月一一日庄屋を集めて銃隊一同に足止めさせ、松山からの次の指示を待った。しかし高知藩では、家老の深尾丹波、大軍監小南五郎右衛門ら、大軍監兼大隊司令乾(板垣)退助、半大隊司令片岡健吉らの率いる迅衝隊八小隊六〇〇人(本陣日記は一、二〇〇人)を一月一三日出発させ、北山越えで一六日川之江に着陣した。兵員は郷士・徒士・庄屋・地下浪人らの混成隊で、多くは勤王派に共鳴する意気盛んな兵士であった(「明治戊辰東征記略」)。
 兵士は伊賀袴に陣羽織という異様な服装で、朝命と錦旗を待って滞陣し、数十名ずつで銃や抜身の槍を持って町中を回り、川之江の人々は緊張した。一八日は出火騒ぎがあって一層動揺した。但しこの迅衝隊は松山・川之江征討の朝命による軍ではなく、慶喜追討を予測して東征軍に参加しようとする兵員であった(「復古記」)。しかし京より帰路の藩士によって追討令の下付を知り、一七日高松征討について軍議を行い、一八日には予讃幕領地統治の藩令をうけた海援隊の長岡謙吉・八木彦三郎らの軍も到着した。
 陣屋では松山からの指示よりも先に土州兵が進駐して混乱したが、戦端や陣屋焼払いの噂に恐れ二〇日に明げ渡して退去した。土州勢は各所に制札を建てて、主力は一八日夕方に高松追討のため出発した。一九日ころまでの村ぱ在方の縁者を頼って逃げる女子供、近村へ家財と共に立退く者もあって「釜中の魚の如し」と混乱ぶりを伝えるが、陣屋に入った土州兵の軍政下に次第に落ち着きを取り戻した。慶応四年一月、奉行命による制札では、幕領が当分土州預かりであること、村民には危害を加えぬので騒がぬこと、混乱に乗じて乱妨や盗みを働く者があれば申し出ること、としている(土居町上野河端家所蔵制札)。

軍政下の川之江

 高松へ進軍した土佐本隊に続き、後続兵も次々と入り込み、一月二六日には奉行山田駿馬・原伝平、代官川田金平・竹村丑之助、差配方河田元右衛門ら三名、郷回方三名、下方四名らの軍政部隊も陣屋に到着した(川之江村大庄屋役用記)。役所名としては当時川之江陣屋のほかに土州鎮撫所、御陣屋なども使用している。陣屋役人は宇摩・新居両郡の大庄屋と庄屋を集め、旧来の慣習による支配を布告すると共に村々の民情を糺し、土州支配即ち新政府に対して帰順、二心なしの連判誓約書を提出させた。二九日には別子銅山接収の目的で新居浜の口屋、角野の立川分店と米蔵に封印し、藩士三名も銅山検分のため登山した。三月高知藩は同山の稼行を願ったが、新政府は四月に住友側の願いを採用したため実現しなかった。
 二月初旬には桑村・越智郡にも入村し、各所に土州兵預かりの制札を建て、貢米倉庫には封印をした。また二月一日、陣屋の命によって庄屋二名が検地帳、年貢割付帳など七種の重要書類を松山城下へ請取りに行き、八日に帰村した(「星川喜一郎御用日記」)。四月には乱後の処分のため各村に格式者の名簿提出を命じ、郡方役人・村役人・格式者・準格式者などに分類して資格を確認すると共に賞罰を厳しく行った。例えば川之江村大年寄の高津喜久太郎や新宮村預庄屋猪川佶右衛門は役儀を取り上げられ、討幕派の志士黒瀬一郎介(肥後藩士)を匿った罪で謹慎中の三好滝治ら五名は許され、滝治は大庄屋格、長野巌は大年寄役が与えられた(川之江村大庄屋役用記)。五月、各所に盗賊などが多いため、夜間や山間の巡回中に怪しい者を発見した際には合図の発砲を許した。また村政の緩みは治安の緩みと宇摩・新居郡庄屋に厳重の村内取り締まりを命じ、順達文書をもっと早く回すよう注意した(「預所布告控」)。
 賠償金的性格をもつ冥加金や駐屯に必要な物品の提供も命じられ、川之江村分だけでも四月に蒲団二九枚、蚊帳一〇枚、征二〇枚、閏四月に有力町家四二人が二二両一歩を上納した。しかし土州役所は一方では生活困窮者に下賜金、八八歳以上の老人に二人扶持を与えるなど、救済活動も開始している(川之江村大庄屋役用記)。

川之江民政局の設置

 軍事的支配によって人心が落着くと、土州政府は川之江の経済発展や生活安定のための民生策を展開した。陣屋は慶応四年七月ごろに川之江政庁と改められた。土州の政策の転換の背景には、古くから土佐街道を通じての両者の産業・文化上の交流から来る信頼関係がある。この期の治政は廃藩までの僅かな期間ではあったが、明治以降の宇摩地方発展の大きな布石となった。政庁は藩治職制により川之江出張所となり増員が行われた。総管の少参事以下権大属兼幹事一人、少属兼従事主簿三人、権少属兼少従事少主簿六~七人、刑法吏六~七人、捕区吏五~六人の二〇人余である(「幕領紀」)。出張所は明治三年三月に川之江民政局、七月八日には新官制によって川之江民政局となり、参事中村観一郎が着任した。当時は民政・会計・兵・刑法・商法の五局をもつ独立小藩並の機構を備えていた(『伊予川之江村の研究』)。
 しかし川之江付近の状況は、慶応四年閏四月に陣屋の諮問に答えた長野巌によると、在村で商業が活発となったため川之江は年々さびれ、廃屋もあり、遊民や博突打ちがあふれ罪を犯す者も多いとあり、木綿や紙漉業を興せば遊民の六割は減少するであろうと結んでいる(長野家文書)。川之江政庁は対処すべき要件を以下のようにまとめた(「長野祐律手記」)。

 (1) 川之江代官地は沃田が乏しく、痩地多く、逼迫困窮を極め貢納を納められぬ者も多い。土地の開発と植林の要あり。
 (2) 住友による別子銅山の経営は苦しく、至急に救済が必要である。もし稼行停止となれば、数千人が生活の道を失う。
 (3) 公私領の境界の入り組みが甚だしく争論が絶えない。多くの訴訟費を要し、民治の障害となるため、速やかに確定の要あり。
 (4) 地方開発のため、産業交通の発展のためには、一日も早く川之江港の浚渫修築が必要である。
 (5) 満濃池は堤防破壊後久しく放置しており同池水掛かりの村々は用水不足に苦しんでいる。他藩とも接し、改修には巨費がいるが、急務中の急務である。
 (6) 土佐から藩兵を川之江まで送るのは不経済である。管内より民兵を取り立てて、訓練して鎮撫に充てるのが得策である。
 (7) 土佐藩外地の統治のため、諸経費が余分の出費である。領内材木の公売と跡地の植林、開拓、塩田創設で公租の増加を図る。

 多難な時期にこれら諸項目について何らかの対応が行われ、住民も協力をした。後年所管替の際に役人の引留運動が起こり、領民が高知藩治下を熱望したのも頷げるものがある。

民政局の治政

 遊民対策と民衆教化については慶応四年七月一八日、幕領四郡村々へ老幼ともに学業に励むべき旨を布告した。書や読書を勧め吉祥院で月四回の講義会を行ったが、翌年八月には書学寮を設け、入学者以外の者も自由に聴講させた。慶応四年八月には人口調査を行って身許や住所・宗旨を糺したが、遊民を追放せず説諭を加えた。その後も脱走者・浮浪者・無産者の調査と取り締まりがなされ、農業出精と博突禁止令を度々布告した。明治三年四月、棄子の悪風を諭し、以後は父母ともに処罰の旨を告諭した(預所布告留)。
 明治元年一二月、村役人の経歴を重ねて糺し、翌年一一月旧来の立札との取替えを確認しながら新しいものと交換した。また村々の境界を確認し、他領と接する所へは同年一二月九日桧材の境木(高さ七尺五寸巾六寸五分角)を建てた。明治三年三月二六日、宇摩・新居郡の預地を東・中・西の三組から東組(川之江・山田井など一五か村)、西組(天満・角野など一四か村)の二組支配に改編した。また同一村内の同名者はどちらかを変更させた。
 明治二年三月「普請定法」を布告し、治水に関しての村毎の出役は百石に付き五〇人までは無扶持、それ以上については一人一日七合五勺の支給と定めた。棒・篭・鍬など道具類は各自の持参である。各村から用水池・水路など多年の放置や近年の災害で破損し、早急に修理を要する箇所を届けさせ、復旧費として米八八八石九斗余(代金八、八八九両余)の下賜を一二月民部省へ願っている(「預所布告留」)。讃岐の満濃池は安政元年(一八五四)に決潰したが、水掛かりが高松ほか三藩にまたがり、修覆に巨費を要するため放置されていた。民政局は政府へ出資を要請し、各藩の分担金決定の仲立ちとなり、明治二年起工して翌年七月三日に竣工した。また山田井の早苗出池の大改修にも尽力した。明治三年の凶作では七月二九日、領民の長期の救済法を考えて大蔵省に一万五、〇〇〇両の下賜を願うなど思い切った策も展開した(「預所布告留」)。
 農兵取立については明治元年九月、従来の操練に加えて教育を重視し、毎月六日間ずつを講義と算術稽古の日(うち四日間の午後は訓練)とし、文武両面からまず資質の向上を図った。開拓では明治四年七月に越智桑村両郡塩浜開拓願書、桑村郡新田願書を、図面と見積書を添えて民部省へ提出している(「高知藩の川之江民政局」)。
 商工業政策も出色であった。西条札が不融通となったため慶応四年三月田中屋長治・猪川平七らが川之江村札の発行を願うとすぐこれを許した。七月に四郡の郡方役人一二人が銭札仕成用掛となって準備し、九月には一〇・五・一匁札、五・三・二分札の六種一二八万枚(銀で二、八七〇貫金で四万一、〇〇〇両分)が刷り上がった。一一月星川喜一郎ら一二軒の銀札両替御用掛を指定して金融組織を整備し、同月七日諸産物の売買を自由とした。米麦や芋などの主食は津留めが原則であったが、民政局を通じての販売の道も開けていた。この川之江札は高知藩を背景とした勤王派の札で、隣藩からも歓迎されて産物の買入れに好都合であり、川之江の商業や海運は急速に活発となった。同年一〇年、細民の保護のため米屋の不法を取り締まっている(「高知藩川之江代官所について」)。
 慶応四年九月には「綿会所」の営業が始まり繰綿、篠巻の集荷出荷の便と共に資金融通の道が開け、周辺の綿作と綿業を著しく刺激した。同会所は明治三年三月に「産物会所」と改称して取扱商品を拡大したため、川之江の商工業の中核となった。川之江の川口湊は慶応二年の災害で波止が崩れ、土砂に埋もれたままであった。同四年四月修築費の捻出など貸下金返却のため富興行を願った。戊辰の動乱中の七月までに高知藩より四〇〇両、船持の出資一〇〇両、富の利益など計六八五両を用意した修築は、浜方の細民の救済にも役立つ出色の大事業であった(前掲書)。