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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

四 大洲藩と「いろは丸」

いろは丸の購入と運航

 大洲藩では、武田敬孝・森井千代之進・井上将策らの建白を入れ、慶応二年(一八六六)七月、新式銃器購入のため国島紹徳を長崎に派遣した。国島紹徳は、心極流・正木流・荻野流の砲術の達人として藩内に知られた人物であった。しかし、かねてから蒸気船の必要を感じていた国島は、長崎到着後、藩の許可なく、銃器にかえて蒸気船を購入することを計画した。国島はあらかじめ二、三の同志と相談ずみであったと伝えられるが、この計画変更についての詳細は不明である。しかし、この国島の行為は、藩内守旧派の者を中心に激しい非難を招いたことは事実である。国島は、同年一二月、長崎において謎の自殺をとげるが、その後になっても、国島の同調者と考えられる人々への斬奸状が現れている(「豊川渉日記抜抄」・村上家文書)。
 計画を変更した国島は、薩摩藩士五代才助の斡旋により、オランダ人ボードインから鉄製蒸気船一艘を購入した。価格は三万両とも四万二、五〇〇両とも伝えられる。「いろは丸」と名付けられたこの船の規格は全長三〇間、幅三間、深さ二間、帆柱三本、約四五〇トン、六五馬力であった(「豊川渉日記抜抄」・「大洲藩史料」)。いろは丸は、土佐藩の坂本龍馬を隊長とする海援隊の隊員及び国島・井上が乗り組んで、同年九月に長浜に回航された。この回航に際しては、いろは丸が藩の許可のもとに購入されたものでなかったため、薩摩藩の船として島津家の紋所をかかげて航海した(「豊川渉日記抜抄」)。
 いろは丸は、長浜に数日間碇泊の後長崎に向かって出航し、同年一一月の長浜帰港時には、藩主加藤家の紋所を掲げて大洲藩所有船として入港しており、無断購入の件について、藩当局からの一応の了解が得られたものと思われる。藩では、翌一二月に、いろは丸は城下町人対馬屋定兵衛が購入した船で、藩士が乗り組んで航海訓練及び交易にあたる旨の届けを幕府に提出した(「豊川渉日記抜抄」・「大洲藩史料」)。
 一一月一〇日、船将以下の乗組員が藩より正式に任命され、いろは丸は再び長崎に向かった。乗組員のうち、運用方及び機関方計三名は、依然として海援隊からの応援に頼っていた。積荷は晒蝋・木附子(黒色染料)・松板で、長浜を一一月一九日午前四時出港、下関海峡を経て、二二日午前八時の長崎入港であった。帰り便の積荷は石炭その他であった。翌慶応三年に入っても、いろは丸は長崎との間を往復、その後、突堤衝突による破損修理を兼ねて兵庫に向かい、四月一日長浜に帰港というように、その活動はきわめて活発であった(「豊川渉日記抜抄」)。

海援隊への貸出し

 いろは丸は、慶応三年四月、四度目の長崎への航海に出発し、八日に入港した。当時、土佐藩では、長崎から大坂へ小銃・弾薬を輸送する必要が生じ、かねてからのよしみによって、後藤象二郎がいろは丸貸与を求めてきた。そのため同船は、大坂への一航海一五日間、貸与料五〇〇両の約束で土佐藩に貸し出されることとなった(「豊川渉日記抜抄」)。
 いろは丸には、大洲藩士にかわって坂本龍馬以下海援隊員が乗り組み、四月一九日、長崎を出港した。海援隊の事業としては最初の航海であった。しかし、下関海峡から瀬戸内海に入り順調な航海を続げていた同船は、二三日午後一〇時、讃岐箱の岬沖(輛ノ津沖合)で和歌山藩所有の明光丸(八八七トン、一五〇馬力、鉄船)と衝突し、沈没してしまった(「豊川渉日記抜抄」)。
 衝突責任をめぐっての交渉は、輛ノ浦において坂本龍馬と明光丸船長高柳楠之助との間で行われたが、決着がつかなかった。そのため、交渉の舞台は長崎における土佐藩と和歌山藩との交渉に移され、土佐藩からは後藤象二郎、和歌山藩からは茂田一次郎が出席した。交渉は難行したが、長州藩木戸孝允らの助力もあって、明光丸側の非が認められた。その結果、和歌山藩は、薩摩藩五代才助仲介のもとに、賠償金八万三、〇〇〇両の支払いを約したが、その後の再交渉によって七万両で両藩の妥協が成立した(「土佐守内海援隊長才谷梅太郎紀伊蒸気船明光丸応接書」)。
 大洲藩は、いろは丸貸出しに際し、事故の時は蒸気船又は現金の中大洲藩の望む方法によって賠償する約束を結んでいたといわれる。しかし、土佐藩から示された賠償内容は、いろは丸原価の九割を年賦償還するとのものであった(「豊川渉日記抜抄」)。