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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

二 幕末の政局と伊予諸藩の動き

松山藩と蛤御門の変

 開国に伴う政情の混乱の中で、尊王攘夷運動は、文久のころから全国的な広がりをみるようになった。文久二年(一八六二)一〇月には、尊攘派の公卿三条実美と姉小路公知が勅使として江戸に派遣され、幕府に攘夷の督促及び京都守護の親兵設置を命じた。このような情勢に対処するために将軍家茂が翌文久三年三月上洛すると、尊攘派が実権を握っていた朝廷は幕府に対して攘夷の決行を迫り、家茂はついに五月一〇日を期して攘夷を実行に移すことを約すに至った。この将軍上洛に際して、前年帰国して国元にあった藩主勝成は、大津までの出迎え及び京都での随従を命じられ、三月上洛、五月まで京都に滞在した。この間、三月、幕府より一〇万石以上の大名に対し、一万石につき一名の割合で皇居守護のための人数差出しを命じられ、松山藩も「忠勇強幹の士」を選んで派遣することとなった(『松山叢談』)。また記録によると、同年八月、嫡子定昭は、朝廷より東下を命じられ、攘夷督促の朝旨を将軍に伝達したとされるが、この間の詳細は明らかでない(「維新史料綱要」)。
 その後、京都の政情は八月一八日の政変と呼ばれる薩摩、会津両藩を中心とするクーデターにより一変し、尊攘派にかわって再び公武合体派が実権を掌握するに至った。そのような状勢の中で、将軍家茂が再度上洛し、松山藩ぱ、一二月、将軍宿舎二条城二条口の警固を命じられた。藩主勝成も随従のため上洛し、将軍のお供として参内、天皇に拝謁した。翌元治元年(一八六四)五月、二条口警固を免ぜられ、四月から六月まで、禁裏守衛総督徳川慶喜の指揮の下で京都の警備にあたった。その間、五月から六月にかけて、御所九門外巡邏、続いて伏見の警備も命じられた。藩主勝成は六月二八日に京都を出立して帰国の予定であったが、二二日になって急にこれが延引となり、引き続き滞在することとなった(『松山叢談』)。その理由は不明であるが、おそらく、後に述べる蛤御門の変に関連して、京都における情勢の変化が関係していたのであろう。
 先に八月一八日の政変で京都を追われた長州藩尊攘派は、武力による京都奪回を目指し、元治元年六月、挙藩出兵を決定、京都に兵を進めて敗北を喫した。これが蛤御門の変(禁門の変)である。長州軍は益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老に率いられて東上し、先発の福原は六月二四日には伏見に着陣した。そのため、幕府側では諸藩を動員して警備体制を整えたが、松山藩は三条紙屋川辺の固めを命じられて人数を配置した。七月一九日未明より本格的な戦闘が始まり、長州藩の一隊は蛤御門、堺町御門の方面から御所に迫った。後続部隊は伏見、山崎から嵯峨に集まり京都を包囲する体制をとった。その間、松山藩では、七月一六日、奥平弾正に率いられた藩兵が国元より到着、引続き紙屋川辺の警備にあたっていたが、二〇日に至って嵯峨天龍寺方面、さらに山崎への出兵を命じられ、二一日に大宮通妙蓮寺に陣をおいた。一九日の戦闘で高倉通の藩屋敷が焼失していたため、藩主勝成はそのまま妙蓮寺に滞陣し、二四日、同所を出立して、大坂より海路帰国の途についた(『松山叢談』)。

今治藩の動き

 今治藩では、文久二年一一月、義兄である勝道隠居のあとをうけて、一〇代藩主定法が就封した。この文久二年以後の政局は、八月一八日の政変から蛤御門の変へ、さらに第一次・第二次長州征討へと、幕末の政局が複雑に流動し、小藩今治藩にとっては多事多難の時期であったといえる。
 定法は、文久三年八月、宗藩松山との連絡及び情報収集のため、家老鈴木永弼を松山に派遣した。また、八月~九月、家老久松長世及び城所主税を京都に派遣し、朝廷との交渉、情報収集の任に当たらせた(『今治拾遺』・「城所家譜」)。九月には藩主自ら上洛し、京都守護松平容保、京都所司代松平定敬、老中酒井忠績ら幕府側重臣と会談した。その間、皇居に参内、天皇に拝謁するとともに、皇居警備の任に当たった。定法は、九月末には江戸に向かったが、京都出発に際して、「鎖港の実現に尽力すべし」との勅語を賜った。江戸における行動の詳細は不明であるが、将軍家茂上洛中の留守居を命じられ、しばらく滞在したようである(『今治拾遺』)。

大洲・新谷藩と滞京召命の内勅

 大洲・新谷両藩は、宗家・分家の関係から常に連絡を保ちつつ、幕末の多難な政局に対処した。大洲藩は、文久二年に情報収集のため中村俊治を上京させ、六月に入ってさらに山本尚徳・武田敬孝を周旋方として京都に派遣した(武田敬孝「駅窓雑集」)。新谷藩では、やや遅れて八月に香渡晋を派遣し、後に水口端治が加えられた(香渡晋「上京記事」)。彼らは、互いに連絡をとり合いながら、当時京都で活動中の長州・薩摩・土佐その他諸藩士と往来し、公武合体から尊王攘夷へと動いてゆく政局の行方について情報収集に努めた。
 大洲藩の山本・中村・武田らは、より積極的な政局への対応を目指して、藩主加藤泰祉に対する滞京召命の内勅を得るべく、大原重徳や徳大寺公純ら尊攘派公家を通して運動を進めた。徳大寺家は加藤家にとって親戚関係にあった。その結果、文久二年一二月二三日、参勤のための道中にあった泰祉に、出府の途次上京し、しばらくの間滞在することを命じる勅書が下された。続いて二七日、京都異変の際には人数を派遣し、警備に当たることも命じられた(「力石本加藤家譜」)。これらの内勅を受けて、大洲藩では直ちに藩士京都動員の立案に当たった。この計画は武田敬孝によって作成され、騎馬武者七騎・陸戦砲術士三名・小頭以下足軽二五名、その外下人を含めて総勢六〇名、陸戦砲三挺の動員となっていた(「大洲藩史料」)。なお、この動員に伴って国元の備えが手薄になることへの配慮から、農兵取り立てが行われたことは先述の通りである。
 文久三年四月、幕府は、一〇万石以上の大名に対し一万石につき一名の割で藩士を差し出し、御親兵として皇居の警備にあたることを命じた。新谷藩では、一万石の石高であるにもかかわらず、香渡晋を中心に御親兵貢進の願書を提出し、御親兵統率の任にあった三条実美より、二名の貢進が許可された(「加藤泰令履歴書」)。また、香渡・水口らは、大洲藩と同様、新谷藩主泰令に対しても、滞京召命の内勅を得ようとして、高松保寧を通して三条実美への働きかけを進めた。その結果、文久三年六月、当時在府中の藩主泰令に、帰国の途中上京すべきことが命じられた(「加藤泰令履歴書」)。
 文久三年六月、大洲藩領長浜にフランス船が来航した。この知らせは、直ちに京都留守居に報じられ、留守居役より朝廷及び在府中の藩主泰祉に届けられた。幕府が五月一〇日を期して攘夷の実行を命じた直後の出来事であり、衝撃をうけた朝廷は、泰祉に対し、在府期間終了後直ちに帰国して海防に当たること、帰国の途次上京することを命じた(「泰祉公御履歴調概略」)。
 大洲藩主泰祉、新谷藩主泰令は、滞京の内勅に従って上京し、八月一七日、そろって参内し天皇に拝謁した(「力石本加藤家譜」・「新谷加藤家伝記」)。その翌日、京都から長州藩を中心とする尊攘派勢力を一掃する八月一八日の政変が発生した。政変勃発に当たって、在京中の他の諸藩同様、大洲・新谷両藩主とも参内を命じられ、以後、宮中及び諸門の警備に当たった。大洲藩の動員した兵力は、藩士五九名・足軽五七名を含め二〇八名、大筒三挺であった。八月二五日に至り、市中も一応平穏となったため宮中、諸門の警備も緩められ、諸藩の兵員もそれぞれ引き上げた。大洲藩では、その後、九月一〇日、堀川頭寺辺りの市中警備を命じられた。このような情勢の中で、泰令は九月五日に、泰祉は九月一六日に、それぞれ警衛のための人数を残して京都を出発して、帰国の途についた(「泰祉公御滞京日記」・「旧新谷藩国事並時勢二関スル事蹟」)。大洲・新谷両藩主ともに、政変後の混乱が一応収まった段階で早々に帰国してしまったことは、従来この両藩が長州藩など尊攘派に組する立場にあったためと考えられ、代わって、京都警備のための公武合体派諸侯の入京が多くみられるようになった。文久三年八月、朝廷より長州藩及び七卿の取り扱いについて諮問があり、大洲・新谷・小松藩など七名の藩主が、長州藩の攘夷実行における功績を考慮して寛大な処置をとることを答申している。このことは、これら諸藩の政治的な立場をよく示すものである。
 京都よりの帰国の後、泰祉は一〇月、家臣の総登城を命じ、勤王の志を述べるとともに、家臣一同の精忠奮起を促した(「大洲藩史料」)。また、翌元治元年五月には家臣一統に直書を示し、一藩か一致団結して行動することの必要性を説いた(「力石本加藤家譜」)。反面このことは、在国のままで過ごしてきた多くの藩士の中に、泰祉側近の山本・武田らによって主導される尊攘派としての藩の方向に不安を抱く者も存在していたことを伺わせる。
 元治元年七月の蛤御門の変に際し、大洲藩では、京都よりの情報を得て急ぎ藩兵を派遣して、讃岐国多度津まで至った。しかし、京都における戦闘が長州藩の敗北をもって収拾されたためもあり、藩兵は帰城した(「玉井家譜」)。新谷藩でも、家老徳田民部が藩兵を率いて安芸国御手洗港まで出動したが、この地で敗れて帰国途中の長州藩兵に会い、上洛に至らず帰国した(「加藤泰令履歴書」)。

西条・小松藩の動向と沢宣嘉

 東予の宇摩郡幕領及び西条藩・小松藩では、近藤篤山・南海らの思想的影響もあって尊王の気風は強く、田岡俊三郎・黒河通軌・尾埼山人・妻木恰らが藩の立場を越えて交渉していた。しかし藩としての立場は全く異なっていた。
 西条藩は、御三家紀州徳川家の分家に当たり、藩政の上にも宗家和歌山藩の影響が大きかった。幕末における藩論も、大勢として宗藩にならって佐幕の方針であった。しかし、国元には、千種善右衛門、三浦五助(安)、妻木唯右衛門ら攘夷を唱える者があり、彼らは、文久二年(一八八六)、定府である藩主及び藩士の帰国、領国の海防強化、京都警備のための出兵を要求する建白書を藩主に提出した。この建白は、江戸詰老臣たちの反対をうけ、江戸藩邸と国元との時勢に対する意見の相異が表面化した(「三浦五助書簡」・「軍艦簿」)。
 西条藩では、文久二年一一月、一〇代藩主頼英が就封した。頼英は、翌文久三年、将軍家茂に従って上洛、参内したが、同年三月、三浦らの強い要求を入れて国元へ入った。頼英は、入国後、新居・宇摩郡の領内海岸を巡視し、新居郡垣生海岸で砲術訓練を実施した(「黒島神社御用留帳」・「黒島神社記し。しかし、三浦らのかねてからの念願であった藩主の定府をやめることについては、当然のことながら、西条松平家は特別の家柄であることを理由として認められなかった(「諸御用留帳」)。また頼英は、在国中の八月二九日、朝廷より沙汰等を受け、攘夷に努力することを命じられた。
 小松藩では、嘉永五年(一八五二)から高島流の大砲を鋳造し、翌年から足軽に砲術や鉄砲稽古を命じ、安政四年(一八五七)からは、西条藩小川八兵衛の指導を受げて大砲の改良試射を実施していた。同藩は、外様大名という立場もあって、藩論の大勢は尊王攘夷に統一されていた。文久二年、京都の情勢探索のため派遣された田岡俊三郎は、後に脱藩して七卿の一人沢宣嘉に従った。彼は、藤本鉄石、松本奎堂ら他藩士との接触を深めるとともに、先に京都に派遣されていた藩主同族の一柳健之助とも連絡を保った。藩主頼紹は一柳健之助や田岡らの勧めによって、文久三年一月、家老喜多川久徴とともに藩兵五〇名を沢宣嘉のもとに送り、同年五月には自ら入京、御所猿ヶ辻辺りの警備を命じられた。また、沢宣嘉を通して三条実美に面接、参内して天皇に拝謁した。その後、京都の情勢が、尊攘派、公武合体派の間で緊張の度を加える中で、藩士池原利三郎の勧めにより、八月一八日の政変が勃発する以前に京都を離れたようである。
 八月一八日の政変により、京都を追われ長州に落ちていった尊攘派公卿七名中の沢宣嘉には、先に述べた如く、田岡俊三郎が従っていた。後に沢宣嘉は長州を脱出し、文久三年(一八六三)一〇月、元福岡藩士平野国臣らに擁されて、但馬国生野に討幕の兵を挙げた。しかし、姫路藩・出石藩の出兵によりこの挙兵は失敗し、沢宣嘉は田岡らの先導によって、生野から備前・讃岐丸亀へ渡り、伊予国宇摩郡蕪崎村の医師で田岡の義兄にあたる三木俊三宅に匿われることとなった。沢宣嘉の伊予滞在は、潜伏先を新居郡垣生村の医師三木左三(三木俊三義兄)や宇摩郡北野村の尾埼山人宅に移しながら、翌元治元年六月、長州に去るまで続いた。三木左三、尾埼山人はともに、以前から尊王運動に参画し、入京時に沢宣嘉とも面識のある人物であった。また、尾埼山人は、この年の九月に、長州滞在中の三条実美・東久世通禧・沢宣嘉の連名で従来通りの助力を要請する書簡を受け取っていた。
 田岡俊三郎は、再び出国し讃岐・備前方面に潜行していたが、沢宣嘉の長州移動とともにこれに合流した。彼はその後、元治元年七月の蛤御門の変に際して長州藩兵とともに出陣し、戦死した。